坂の途中から見える三宅島は、どんよりとした重い色の雲の下にあった。まだ雨こそ降っていないが、予報によれば今夜から本降りになるということだった。
伊豆・小笠原諸島に属する御蔵島は、東京都心から約二〇〇キロメートル南の海上にある断崖絶壁の島で、最寄りの三宅島とは一八キロメートルの距離にある。
平地は極端に少なく人口は三〇〇人ほど。住居は、北部に位置する御蔵島港の周辺に集中し、住民は肩を寄せ合うようにして暮らしている。
広瀬伸之は空を見上げ、それから自身が営む商店に入った。
この店は島内唯一の小中併設学校のすぐ近くにあり、商店といっても実質的によろず屋のような営業形態になっていることもあって、下校時間になると駄菓子を目当てに立ち寄る児童たちで賑わう。
コインゲーム機も二台あり、娯楽の少ないこの島では、広瀬が営む小さな店ですら、小学生にとってはアミューズメント施設に匹敵するのだろう。
両親が早くに亡くなったこともあって島を出ようと思ったこともあったが、この島に商店は二軒しかない。自分がいなくなれば島のみんなが困るのではないか――そんな使命感のような思いもあっていまに至る。その実、ただ単に三五年暮らし、住み慣れたこの島を出るのが怖かっただけなのかもしれない。
昼を過ぎた頃、大粒の雨が降り始めた。
数日前に発生した台風が予想された進路をやや東寄りに変え、この島に接近していた。最大風速は七〇メートルを超える猛烈なもので、さらに気圧配置の関係で非常に激しい雨をもたらすと予報されている。
ほどなくして、学校は下校時間を繰り上げ、明日は休校するとの連絡が島内放送で流れた。こんな状況で店を開けて子供たちの帰宅の足を引き止めるわけにはいかない。
広瀬は店じまいをはじめた。
日が暮れると風はますます強くなり、重い雨が周囲を満たしていた。
テレビのお天気コーナーで映し出される気象衛星ひまわりの連続写真には、とぐろを巻く台風の雲がはっきりと映っているが、御蔵島は小さすぎて見えない。
こんな時、孤島で暮らしていると漂流する小舟に乗っているような不安に襲われる。店舗の二階部分を住居としているこの建屋も随分と古い。叩きつけるような雨音が室内を満たすごとに、どこからか隙間風が入りこんでくる。
そのうち屋根が吹き飛んでしまいそうだな、と思っているとシャッターを叩く音がした。
はじめは風が揺さぶっているのかと思ったが、音は規則的でどうも様子がおかしい。広瀬は階下に降りてみた。するとあきらかに誰かがシャッターを叩いている音だとわかった。
停電や断水に備え、慌てて食料品などを買い求めに来た人かもしれない。
土間に降り、所狭しと置かれた商品棚の間を抜け、内側のガラス戸を少し開ける。それからシャッターを、腰をかがめれば入れるくらいに持ち上げた。足もとから吹き込んだ風が雨を運び、つま先を濡らす。
外を覗いてみると、そこにいたのはずぶ濡れの少年だった。
「あれ、豊くんかい? おいおい、どうした」
小学五年生の彼はすぐ近くに住んでいる顔見知りだ。というより人口が少ないこの村ではだれもが顔見知りではある。
とりあえず中に入れようとするが、彼は首を横に振る。全身が濡れていたので気づかなかったが、ようやく泣いているのがわかった。
なにかを呟いているが、木々を激しく揺さぶる風の音でよく聞き取れない。
「どうした? 大きな声で言ってごらん」
豊は今度ははっきりと言った。
「お母さんが……動かない」
「え?」
聞き返すも豊は体を震わせるだけで言葉が出ない。
「友紀ちゃん……ママの具合が悪くなったのかい?」
豊はコクリと頷いた。
豊の母親、友紀とは同級生だった。五歳上の男と結婚して豊を授かったが、夫は出稼ぎに行くと言って島を出たきり戻ってこず、数年前から母子家庭になっている。
広瀬は携帯電話を掴むと、豊とともに家に向かった。距離は五〇メートルもないが急な坂道は滝のようになっていて、あっというまにずぶ濡れになる。
「友紀ちゃん、上がるよーっ!」
平屋の玄関で靴を飛ばすようにして上がり、廊下に濡れた足跡がつくことも厭わずに進み、息を呑んだ。友紀が体をくの字に曲げ、ダイニングテーブルの下で横たわっていた。
「友紀ちゃん、聞こえる? 友紀ちゃん!」
しかし反応はない。口元に耳を当ててみるが呼吸がなかった。
広瀬は二つ折りの携帯電話を開き、十字キーの下を連打して診療所の番号を表示させる。スピーカーモードで架電しながら、人工呼吸を試みた。
『はい、もしもし?』
都心の病院から派遣され、一〇年ほど島に住んでいる六〇代の医師が出た。
「先生! 友紀さんが呼吸停止です!」
この島では同じ苗字が多いため、ファーストネームで呼び合うことが多い。医師もすぐにわかったようだ。
『広瀬商店の下のか!』
「そうです! どうすればいいですか!」
『すぐに行くから胸骨圧迫を続けろ。友紀さんはもともと心臓が弱いんだ』
彼女の名前を呼びかける声が大きく、切迫していたからかもしれない。豊は部屋の隅で呆然とした表情で涙をこぼしていた。
医師が来るまでの五分間がやけに長く感じ、体中、汗がびっしょりだった。
到着した医師は手際よく機器を接続する。
「AEDだ。心室細動を確認する」
話には聞いていたが、それを見るのははじめてだった。
〝離れてください――〟
AEDからアナウンスが流れ、風が窓を叩く音と、AEDが発する電子音だけが響く空間で、ピンと空気が張りつめる。
「よし」
医師が安堵の声で言った。見ると友紀の目が開いている。焦点は合っていないが、懸命に事態を把握しようとしているようだ。
「友紀ちゃん? わかる?」
「ママーッ!」
豊が近づく。
何度か咳き込み、体を起こそうとする友紀を医師が止める。しかし顔色を見ると血流が再開しているのがわかって、広瀬は長いため息をつき、思わず尻もちをついた。
「広瀬……くん?」
「ああ。豊が雨の中、駆けつけて知らせてくれたんだ。偉かったな、豊」
豊は安心したのかしゃくり上げるだけで言葉が出ないようだ。その頭をくしゃくしゃと撫でてやる。
医師が友紀をのぞき込みながら、脈やら血中酸素濃度などチェックを行う。
「いまのところ症状は落ち着いたみたいだけど、今日は診療所に泊まってくださいね」
「いえ、でも、豊が……」
「いまは大丈夫に思えても、かならず原因があります。心臓になにか問題があるかもしれません。場合によっては本土の病院で診てもらわないといけないくらい重要なことなんです」
広瀬は豊に向き直ると、意識して明るい声で言う。
「今日はおじさんのところにくるかい? 特別にお菓子食べ放題だぞー?」
豊から困惑の表情を向けられた友紀は広瀬に眉尻を下げる。
「広瀬くん、ごめんね」
「なに言ってるんだよ。しばらく天気は荒れるし、診療所の方が安心だよ。明日、豊と見舞いに行くから」
何度も頭を下げる友紀を医師の車に乗せて見送ると、豊にはパジャマと歯ブラシだけを持たせて自宅に戻った。
豊とは毎日のように会っているが、やはり他人の家は緊張するようだ。しばらく無口ではあったが、店の駄菓子を好きに選んでいいと言うと笑みを見せた。
これまで学校帰りに立ち寄ることがあっても、友人らの買い物を離れて見守るだけだった。決して余裕のある暮らしではないのだろう。引け目を感じているのかと思うと切なかったが、いまは子供らしい笑顔を垣間見ることができて、広瀬も嬉しかった。
***
夕方のニュース番組は、週末にかけて接近する台風について多くの時間を割いていた。
関東・東海に上陸後、列島を縦断するコースを進み、各地で大荒れになると予想されていた。
栗本は業務の合間に缶コーヒーを買い、テレビに、航空や鉄道各社の計画運休に翻弄される旅行者や、備えをする街の様子が流れているのを見てしばらく足を止めた。それから窓の外に目をやる。
曇天の薄暗い空に、着陸を待つ飛行機の前照灯が点々と繋がっている。このあと天候が悪化する前に降りたいと、どことなく焦っているように見えた。
世界でも有数の発着数を誇る羽田空港の片隅に、白い機体に青色のラインが引かれた固定翼機と回転翼機が翼を休めている。もし浜松町からモノレールで空港に向かうならば、空港手前の左手にこの格納庫内を見ることができる。
海上保安庁第三管区羽田航空基地。
栗本がここに配属されたのは去年のことだった。
ヘリコプターのコパイ(副操縦士)として全国の航空基地や巡視船での勤務を経て、三二歳を迎える年に機長資格を取得し、羽田航空基地に異動した。
「よっ、彼女できたか」
そう揶揄うのはベテラン整備士の富所智也だ。
「飛び回っていますからね、なかなか出会いなんてありませんよ」
「身内で探せよ。保安官同士はお互い理解しているから楽だぞ。ま、変な別れ方したら全職員を敵に回すけどな」
富所は豪快に笑い、それからテレビ画面を見やった。
「なんだよ、やっぱり来るのかよ、台風。孫の運動会だったのになあ」
よほど残念だったのか、冗談交じりの悪態が続く。
「おまえらパイロットはいいよな。天気が悪けりゃ仕事は休みだもんな」
もちろん、飛べないからといって休日になるわけではない。報告書などの書類仕事や、試験準備などやるべきことは多い。
「こうなったらさ、明日、夜勤明けに蒲田に行こうぜ。朝から飲めるいい店できたんだ」
「ですから、台風なんですって」
栗本は呆れながら返す。
「それに救助要請っていうのは、こういう悪天候の時にこそよくあるでしょ」
「縁起でもねえことを言うなよ。なあ、富さん」
その声に振り返ると、基地長の志村がコーヒーカップを片手に立っていた。身体は細いが背筋は武士のようにピンと伸びている。五三歳の志村は、かつては海上保安庁で名パイロットとして名を馳せた人物でもある。管理職となったいまはもう飛ぶことはないが、空への情熱は失われていないのか、整備中の機体の操縦席にこっそり座り、少年のような表情を浮かべていることがよくある。
その志村が言う。
「心配だな。実家」
栗本は御蔵島の出身だった。こういうときの島の厳しさを知っているだけに、ゆっくりと頷いた。
「でもまあ、みんなそれを分かってて、自然災害とも折り合いを付けながら島で暮らしていますから。慣れっこですよ」
富所が伸びをする。
「いいところなんだろうな」
「なんにもないですよ。野生のイルカが見られるくらい」
「俺は酒さえあればいい」
「居酒屋は一軒しかありませんけど」
「ハシゴができないのは寂しいなあ。でも飲める場所さえあれば天国だ」
と笑いながら去っていった。
海難事故などが発生していざ飛ぶとなれば、富所も一緒に搭乗することになる。
整備士は飛行中の機体の状態を監視する任の他に、ホイストと呼ばれる吊り上げ・吊り下げ装置の操作と機体誘導も担当する。
パイロットは救難士を要救助者のもとに安全に下ろすため、適切な位置でヘリをホバリングさせる必要があるが、時としてパイロットは降下位置を目視できないことがある。そのときにホイストマンがパイロットの目となり、阿吽の呼吸で機体を誘導する。『ちょい前』が一メートルなのか、一〇センチなのか。それぞれがそれぞれの感覚を共有し、七トンの機体をセンチ単位でコントロールするのだ。
それだけに、栗本にとって大ベテランの富所は親でも兄でも親友でもあるような感覚を抱いている。だから軽口も言い合えるのだった。
志村はなお心配そうな顔で天気予報を見ながら訊いた。
「御蔵島といえば、あの災害はいつだったかな。土石流があっただろ」
「ああ、もう二〇年――」
一旦はおおよそで答えたが、頭の中で暗算する。
「二二年前ですね。あれが教訓になっているから、島はいまも落ち着いているんじゃないですかね?」
栗本は笑ってみせる。
離島での暮らしは厳しい。ひとたび海が荒れれば何日も物資が来ないこともあるし、電気や水道などのライフラインも脆弱だ。
栗本が島にいたのは中学を卒業するまでだったから、島を出て一八年が経っている。最後に帰ったのは母親の葬儀で三年前のことだが、それでも村は変わっていないだろうなと思う。
「出動が里帰りってことにならなければいいけどな」
「基地長こそ縁起でもないことを言わないでくださいよ」
そのときだった。天井のスピーカーがガサッとノイズを立てた。
『ヘリによる急患搬送の依頼あり、出発準備願う。特殊救難隊員同乗』
栗本は、すまん、と顔をしかめて見せる志村に肩をすくめてみせると、廊下を早足で進んで司令室に飛び込む。すると運用指令センターと連絡を取り合っている基地当直者が受話器を耳に当て、マイクを手で塞ぎながら栗本に捲し立てる。
「1815、東京都から航空機による急患搬送の依頼あり! 患者は心不全の診断を受け、高度医療機関での緊急治療が必要であるとのこと。東京都からは、御蔵島から羽田まで当庁航空機での搬送依頼。詳細については分かり次第連絡する!」
栗本は頷き、隣室の基地オペレーションに向かい最新の天気図を確認する。そこにローテーションで一緒に飛ぶことになっているコパイが駆け込んできた。まだ若い彼は悪天候時のフライトに緊張しているようだった。
「どこです?」
「御蔵島だ」
「みくら……遠いですね。しかも台風が」
天気図の等圧線を指でなぞりながら、栗本の表情も険しくなる。
「時間との戦いになるな。とりあえず、いまある初動情報だけで出る。あとは飛びながら追加情報を受け、対策を決めよう」
その場で飛行計画を提出する。この段階で詳細は書けないが、おおよそのルートと、風向き、距離、飛行高度、そして燃料搭載量から現地での活動時間は最大二〇分と見積もった。
出動用の機体は格納庫ではなく、すぐに飛び立てるよう一〇〇メートルほど離れた駐機場で待機させてある。そこに向かって走っていると頬に大粒の雨が当たった。
台風の中心は小笠原を通過し御蔵島の南の海上を北進している。午後七時頃には暴風域に入ると思われ、そうなると救助はできない。
海上保安庁所有のヘリで最大のスーパーピューマ225『いぬわし』が、「はやく飛ぶぞ」と急かしているように見えて、自然と足が速くなる。
先に到着して準備を進めていた富所が言う。
「ほらみろ、お前がへんなことを言うからだ」
「俺じゃないっす、基地長ですよ。あのひとは嵐を呼ぶ男ですね」
口ほどに顔は冗談めかしていない。指令の内容がシビアなものであることを理解していたからだ。
「御蔵島まで二〇〇キロ、しかも台風が接近中だ。荒れるぞ」
「風雨がピークになる前に要救助者を収容します」
栗本はコパイとプリフライトチェックをはじめた。
飛行前点検とも呼ばれるもので、どんなに整備し尽くされた機体であっても最終的な確認はパイロット自身が行うことになっている。各センサー類に異物が入りこんでいないか。燃料、オイルレベル、胴体外板の変形の有無、リベットの欠損、アンテナの変形・破損……その項目は多岐にわたる。気は急くが、ひとつひとつ丹念に確認していった。
搭乗クルーも集合し、つぎつぎに機体に乗り込んでいく。今回は総勢七名だ。
機長とコパイ、後席には整備士二名と通信士一名。そして、羽田航空基地に隣接する特殊救難隊から二名だ。
特殊救難隊は三八名で構成され、約一万四〇〇〇人いる海上保安官の中でたったの〇・二パーセントしかいない海難救助の精鋭たちである。二〇二五年に創設から五〇年を迎えるが、一人も殉職者を出していないことを誇りにしている。
栗本は操縦席によじ登ると、コパイに声をかけ、エンジン始動のプロセスにはいる。
「はい、いきましょう」
どんなに緊急事態であっても、焦りを声に出さないように心がけている。それがクルーに伝われば、普段は見逃すはずのないなにかを見逃してしまうかもしれないからだ。
あらゆるリスクを抑え込むには、普段通りに物事を進め、各自が持てる力を余すことなく発揮できる環境を用意してやらなくてはならない。
海上保安官は、それぞれが、できる範囲のことを確実に行うことが求められる。誰かが無理をして限界を超えてしまえば事故が起こる。だから機長の言動で、そうさせてしまってはならないのだ。
「フォワード・スナップ・ワイヤード、ノーマル。グランデッド・チェック」
栗本はチェック項目を読み上げながら天井部分にびっしり埋まったスイッチ類に指を伸ばす。コパイも指差しで確認し、スイッチやレバーに触れて間違いがないかを触覚でも確認していく。
エンジンを始動するまでに四〇項目ほどの確認事項があり、一五分前後かかる。しかし省略できる項目はひとつもない。
淡々とステップを進めるたびにコンソール各部のライトが灯っていき、眠っていた機体が目を覚まし始める。
富所が操縦席に顔を突っ込んでくると、ふたりのパイロットと共に計器類を確認していく。システムに異常がないか目を光らせるのも整備士の重要な役割だ。
「今日は第二からスタートだ」
スーパーピューマにはエンジンが二機搭載されているが、それぞれの運転時間が同じになるように、エンジンを始動させる際は交互にその順番を変えることになっている。
正面に立つ整備士に、左手を回して見せて第二エンジンを始動する旨を伝える。整備士は周辺に人がいないことを確認しOKのサインを出した。それを合図にエンジンスタートボタンを押し込む。
タービンが回りはじめ、低く唸る音が、オペラ歌手のように徐々に甲高くなっていき、バリトン、テノール、ソプラノ、やがてはキーンという高周波の域まで駆け上がる。
続いて燃料が噴射され今度はゴーッという太く力強い排気音が加わり、ゆっくりと五枚のメインローターが回りはじめた。
さらにエンジン始動後のチェックリストを読み上げ、第一エンジンを始動。ふたつのタービン音は共鳴し、さらに重厚なものになっていく。七トンの機体を持ち上げるローターの回転はより力強さを増していった。
離陸準備が整い、羽田管制塔に離陸許可を求める。
「タワー、ジャパンコーストガード、ジュリエットアルファ、シックス、ナイナー、ワン、アルファ、リクエストテイクオフ、トゥー、サウス」
離着陸のラッシュ時間を迎えている羽田だったが、管制塔からの離陸許可はすぐに下りた。
栗本は車のサイドブレーキのような位置にあるコレクティブピッチレバーを左手でゆっくりと引き上げ、巨体を二メートルほど浮上させた。ペダルを踏んで機首を離陸方向に向けると、その重力加速度を体で感じながら『いぬわし』を空に舞い上げた。
羽田空港の特別管制区を避けるため、いったん多摩川にそって五キロほど北上し、丸子橋で横浜方面に旋回する。遠くには江ノ島、鎌倉の海岸線、三浦半島の先端がすでに見えている。
そこでトラックが衝突したかのような突風を受け、機体が大きく揺らいだ。
目的地まで直線的に飛行できればいいが、下手に風に逆らうと燃料を消費してしまう。現地での不測の事態に対応し、要救助者を安全に搬送するためには燃料がキーになる。
なにしろここから二〇〇キロメートル先の現地まで海の上だ。本来なら伊豆七島をなぞるように飛んだ方がいざというときに不時着できるため安全ではあったが……。
栗本は気象レーダーを見やった。
島を薙ぎ払おうとするかのように、台風本体から長い腕のような雲が伸びている。この反時計回りの動きを見計らって最も効率的なコースを頭に描く。
「三宅島まで東寄りに進路をとります。ヘリポートは周囲を山に囲まれているので北側からしかアプローチできません。追い風になる前に着陸します。ヘディング・ワン・セブン・ゼロ」
パワーを搾り出しながら機体を進路に向ける。
遠くに視線を向けると、遮光カーテンを下ろしたかのような空が水平線上にあり、ところどころ閃光が走るのが見えた。
(つづく)