肩を震わせておじさんに懺悔する青年の後ろ姿を、私は口を開けて眺めた。

 赤い浴衣でこの崖から散った初恋の人。

 彼女について、およそ五年間にわたって自分が思い違いをしていたことを知った。

 あの祭りの夜、彼女は不機嫌だった。

 それを私は彼女が自殺を考えるような屈託を抱え込んでいたからだと思っていた。それなのに私は自分の話ばかりして、彼女の気持ちを少しも晴らせなかった。退屈な私にうんざりした彼女は急に帰る気になったのだと。

 だが、初めから私と彼女の気持ちは完全に行き違っていたのだろう。

 当時、彼女は県外の進学先での寸借詐欺が露見し、逃げるように帰郷していた。それによって身を守ることはできたかもしれないが、同時に金蔓を失ってしまった。状況を打開すべく、彼女は地元で新たな品定めを始めていたのではないか。一度贅沢を覚えてしまうと、こつこつ働く気にはなれないという。

 ちょうどその頃、何も知らない私が彼女を祭りに誘った。彼女がそれを受けたのは、私を異性として意識したからではない。口のかたそうな、というか、友人がいないのでトラブルになっても容易に噂が広がらないであろう相手だと思ったのだ。

 二人で参道を辿りながら私は自分の話ばかりしてしまったが、あれも思えば彼女の誘導だった。彼女は経済状況を知るために私の来歴や暮らしを聞きたがったのだ。そして、私がしがない自営の漁師の跡継ぎでしかないことがわかると、興味をなくした。大金を引き出せそうになかったからだ。機嫌を取る必要がなくなったので、彼女は私の前で笑顔を消した。無駄な時を使ったと思っただろう。

 さらに、本殿に向かっている途中、青年から彼女に連絡が入った。うまく騙して撒いたと思っていた男のひとりがこの街までやってきたというのだ。

 私が懸命に話しかけても、彼女は上の空でスマートフォンばかり見ていた。あの時はちょうど青年とやりとりをしていたのではないか。会いたいという青年の要請を無視すれば、周囲で派手に聞き込みをされるかもしれない。地元で噂になるのは困る。そうなる前に、さっさと話をつけてしまおうと彼女は考えた。もちろん支払いには応じず、言い繕って追い払うのだ。彼女は何の役にも立たない私を置いて、青年との待ち合わせ場所へ向かった。懸想岩のある断崖を指定したのは、祭りの夜でもそこが最も人目につかないと思ったからだろう。

 そして、私はその次の朝に、彼女の死体を掬い上げた。

 今、黒い海を見下ろす懸想岩の上で、青年は跪いて慟哭している。

 おじさんが青年に何か声をかけた。慰めの言葉を受けたのか、青年がよろよろと立ち上がる。

 近い。

 ふと私は違和感を覚えた。

 懸想岩に立つ青年とおじさんとの距離が妙に近い。

 おじさんに肉薄する青年は俯き、その表情はよくわからない。

 彼はどこまで本当のことを言っているのだろうか。

 遠く足の下で砕ける波の音を聞きながら思った。

 彼女に騙されたのは事実かもしれない。それで彼女を断崖に追い詰めたことも。

 だが、その先は本人の証言通りなのだろうか。

 青年に明確な殺意はなかったか。実は事故を装って、憎い彼女を断崖から突き落としたということはないか。

 そうだった場合、青年は愛していた人を手にかけた時、何を感じたのだろう。想定していた怒りや哀しみを乗り越えてくる、別の強い感情に揺さぶられたのではないか。

 楽しい、という感情に。

 彼は殺人の快楽に目覚めてしまったのではないか。人間を崖から突き落とすのがおもしろくなったのだ。

 目覚めたからといって、頻繁に犯罪を行うわけにはいかない。しかし、最近になってその熱が再燃したのではないだろうか。そうでなければ最近、懸想岩からの投身自殺が異様に多い理由の説明がつかない。

 連続殺人犯にとって、ここは絶好の狩り場なのだ。今この瞬間も。

 そこまで私が考えたのと、懸想岩の影が動いたのは同時だった。

 彼はいきなり相手を崖の先へ突き飛ばした。

 黒い塊が海に落ちていく。

 あっと私は思わず声を上げた。

「……」

 私の声に、ゆっくりとおじさんはふりかえった。

 青年を突き落としたばかりの両手はまだ中空に浮いていた。

「おまえか」

 私を認めたおじさんは気が抜けたようにその場に腰を下ろした。

 私は岩陰から出て、懸想岩に足をかけた。青年の二の舞にならないよう、そろそろとおじさんに近づいていく。

「どうして」

 それ以外に言葉が出なかった。おじさんは私が生まれる前から懸想岩を見回り、自殺防止に努めていたのではなかったか。それがなぜ、罪を悔いる丸腰の青年の命を奪ったのか。

 おじさんは私と目を合わせなかった。真っ暗な空を見上げ、

「どうせ救えないんだよ」

 ぽつりとつぶやいた。その姿は、やはり凶悪な殺人者には見えなかった。

 どうして、と私はひとりごとのように繰り返した。

 すると、

「目の前でここから飛び降りられたことはあるか」

 おじさんは言った。

「それも、命を大切にしろ、死ぬな、とさんざんに説得した後にだ。もちろん、わしの言葉で思い直したやつもいる。だが、その数日後、そいつも死体になって海に浮いていたと聞かされたことはあるか」

 訥々と彼は語った。

 自分は三十年以上、懸想岩を見回っている。そこを訪れる自殺志願者を止めるためだが、報われたことはほとんどない。自分が心尽くしの言葉をかけても、死を決めた者の意志は総じてかたく、次々とその場か別の場所で実行していった。

 それで、最近になってついに気づいてしまった。

「わしに人は救えない」

 おじさんの目は昔からこれほど小さかっただろうか。

「わしは三十年以上、無駄働きをしてきたんだ」

 痛いほどにわかったが、見回りは長年の習慣なので、やめるわけにはいかない。どうしても気になって、勝手に足が断崖に向かってしまう。しかし、そこでいかにも訳のありそうな人間を見かけても、どうせ救えないのだ、と言う。

「こっちが何を言っても、向こうの心は変わらない。結局はこの岩から飛んで終わりにするんだ。それで向こうはいいだろうよ。死んだら全部忘れて楽になれる。でも、こっちの気持ちも考えてくれよ。毎回、必死になって説得して、限界まで神経をすり減らしたところで、自殺する姿を見せられるんだ。たまらねえよ。わしはもう疲れた。疲れ果てた」

 おじさんの口から洩らされる白い息が、ちぎれた魂のように夜風に流れていく。

「それで、何ていうか、その手間を省けないかって思ったんだ。どうせ説得できないなら、くたくたになる前に終わらせたいんだよ」

 おじさんは自殺志願者がその結末に行き着くまでの過程を省略し始めた。見回り中に人を見かけるたびに、そいつをさっさと崖から突き落としてしまうのだ。

「おい、どうした、って一声だけかけてから、すぐに背中を押しちまうんだ。救おうとしなければ、救えなかったと悩むこともない。さっきの若い兄ちゃんをすぐに押せなかったのは、声をかけるなり地面に膝をついたからだ。それで一気に話し始めるもんだから、聞いているしかなかった」

 私はちょっと懸想岩の向こうへ目をやった。青年は空と海が混じり合った闇の中に消えてしまった。

「聞いた初めは、すぐに押さなくてよかったと思ったよ。あの兄ちゃんは自殺しようとしてここに来たんじゃなかったんだから。でも、だんだん、よけいに空しくなってきてな。死ぬ気のない人間でさえ、わしには救えそうにないと思ったから」

 弱々しい、哀しい声だった。

「わしはずっと、生きることに絶望した人間を救おうとしてきた。あの兄ちゃんはまだ死のうとするほど思い詰めてはいなかった。だが、わしにはかける言葉が見つからなかった。何を言っても救えそうにないことがわかったからだ。三十年の経験でこれだけはわかるんだ。あの兄ちゃんは秘密を抱えて苦しみ続けていた。でも、警察や婚約者に自白したところで罪悪感は生涯消えないだろう。過去を忘れられる人間もいるが、兄ちゃんはそういうタイプじゃない。救えそうにないってことは死にたいやつと同じだから、最後にはこの手で押したよ」

 ハンチングの頭を俯けて、自分の掌を眺めながら吐露するおじさんを前に、私は絶句していた。

 子どもの頃から知っていた同じ町内のおじさん。近所で顔を合わせるたびに気さくに声をかけ、お菓子をくれた。こんなことをしている人だったとは、想像もしなかった。

 衝撃のあまり何の反応も示せずに突っ立っていると、

「おまえに見られてよかったよ」

 おじさんはちらと目を上げて私を見た。

「見られた以上、もうこんなことは続けられない。ちょうどよかった。わしはもう、誰も救えない自分が嫌になった」

 いつもの見回りの続きのように、ゆらりと懸想岩の先端へ足を踏み出す。さらにその先、何もない空間へ。

 いけない。

 私は足下の岩を蹴った。断崖から身を投げようとするおじさんに向かってめいっぱい両手を伸ばした。掴んだ。おじさんのハンチングがくるくると海へ落ちていくのを横目に、渾身の力で懸想岩の先から引き戻す。何とか間に合ったが、バランスを崩した。煙草くさい塊が倒れかかってきたのを私は支えきれず、二人して岩の上に転がる。

「痛……」

 私は呻いた。一方、おじさんは痛みも感じない様子で、なおも懸想岩の先へ這っていこうとする。手を伸ばしたが、届かない。その背中に向かって、私は、

「救えているよ」

 生まれて初めて、心の底から叫んだ。

「おじさんは俺を救っている」

 ようやくおじさんは動きを止め、頭をのろのろとこちらに向けた。風で薄い頭髪が海藻のように揺らめいている。

 口下手な私は、言葉の選出に悩んだ。どう言って伝えればいいのだろう。おじさんは大切な人だ。

「……俺は漁師だ」

 乱れた呼吸を整えながら、私はゆっくりと言葉を紡ぎ出した。

「俺が船から投げた網に、ここから落ちた死体がかかることがあるのは知っているだろ。網を手繰って死体を引き上げた時、俺がどんな気持ちになるかわかる?」

 訝しげな顔をしているおじさんに、私は伝えた。

「幸せなんだよ。とても。とても」

 自分の頬が緩むのがわかった。想像しただけでも、ぞくぞくする。

 出あいは五年前だった。

 あの祭りの夜、私は懸想岩から落ちた初恋の人を救えなかった。

 代わりに翌早朝、漁網で彼女の死体を掬った。

 そして、その手応えの虜になった。

 膨らんだ網を抱き抱えるように引き寄せた時から、漁獲との違いを感じた。人体には独特の重みがあった。薄皮にどろりとした液体を限界まで詰め込んだような、密度が高く繊細な重みだ。それを全身で持ち上げ、船尾に下ろす。血が沸き立つような高揚と達成感があった。網の中身が彼女であったことはどうでもよかった。ただただ死体の重みに惹かれた。

 彼女を引き上げて以来、私は人の死体を掬いたいと願うようになった。あの重みを再び腕に味わいたい。そのために家業を継いで漁師として生きていくことを決めた。毎朝休まず漁に出て、期待に胸を躍らせながら網を引いた。

 しかし、手ずから死体を引き上げる機会はなかなか巡ってこなかった。いくら漁場に自殺の名所があるとはいえ、そう海に死体が浮かぶものではない。浮かんだとしても、ほかの漁船の網にかかってしまう。思う成果が得られないままに五年が経ち、私は内心苦悩していた。

 そんな時、街に青年が現れた。

 私が青年を気にしていたのは、連続殺人犯だと思い込んでいた彼に伝えたいことがあったからだ。

 彼の登場と前後して、海には短い間隔で死体が浮かぶようになった。私も彼女以来、五年ぶりに死体を引き上げることができた。

 青年が懸想岩から人を突き落として殺しているに違いない。では、彼と懇意になれば、いつ犯行に及ぶか教えてもらえるのではないか。私はそう考えた。教えてくれれば、私が漁船で死体を見つけて掬える確率が上がる。

 一方で、私も青年に利をもたらすことができる。情報を提供してくれた見返りとして、私は死体に残された他殺の証拠を隠滅することができる。何しろ私は死体の第一発見者なのだ。しかも自前の船の上なのだから、何をしても目撃されるおそれはない。私の協力によって、青年も次の仕事がやりやすくなるだろう。

 懸想岩を見張っていたのは、青年が殺人に手を染める瞬間をとらえて、このように勧誘するためだった。

 しかし、実際は青年は連続殺人犯ではなかった。

 ついさっき、涙を流して過ちを悔いていた白い顔が浮かんだ。彼は誰も殺していなかったばかりか、反対に被害者となってしまった。

 犯人は同じ町内のおじさんだった。今、私の告白を前にして、まるで善人のように目を見開いて硬直している人だった。

 だが、何も問題はない。

「ありがとう」

 心を込めて、私は言った。

「今までおじさんのおかげだと知らなかったんだ」

 対象は違えど、懸想岩から海に死体を浮かべてくれる人間は存在していた。むしろ、昔から知っている同じ町内のおじさんの方がよそ者の青年よりも気が楽だ。

 私はついに見つけたのだ。

 磯くさい風が吹きすさぶ懸想岩の上で、体の芯がじんわりと温かくなる。この場所の謂われを思い出す。

 昔、村の娘が若者に叶わぬ恋をした。

 岩場で思いを告げたが、彼はすでに別の女性と婚約していた。悲観した娘は岩場から身を投げた。若者を道連れにして。

 私は娘の気持ちがわからないでもなかった。ひとりが寂しかったのだろう。

 孤独はつらい。自分をわかっていてくれる人間がいてほしい。私もそう思っている。

 しかし、望みに叶う相手を見つけるのは難しい。特に私の場合は特殊だった。人を掬いたいというこの気持ちを理解してくれる相手などいるのだろうか。疑いつつも、私はずっと探し続けていた。

 そして、ついに理想の伴侶を見つけたのだ。

「これからも俺の心を救ってよ」

 私は温かな心で、おじさんに向かって手を差し出した。

 足下では海が何もかも抱き抱えて波打ち続けていた。

 

 

(つづく)