闇の中に白濁した息が流れていく。

 歯が鳴るのを抑えようと、私は小さく足踏みした。ダウンを二枚重ねて着てきたが、それでも寒い。

 自然に下がっていく瞼を押し上げて、岩陰から顔を出した。強く冷たい潮風が吹きつけてきて、痛いと感じるほどだ。それに耐えながら、海の方を見つめる。昨日あたりからかなり夜目が利くようになり、数メートル先の懸想岩の輪郭がとらえられた。白い泡を吐いてさざめく海に向かって、堂々と胸を張るように突き出ている。人気のないことを確認して、私はまた首を岩陰に引っ込めた。

 夜の懸想岩を見張り始めて三日になる。

 漁から戻り、仮眠をとってから夜な夜な車で出かけていく私を両親は不審に思っているだろう。しかし、私が翌早朝の漁には必ず出るので、何も言わないことにしたようだ。ありがたい。問われて説明しても、私の考えは理解されないだろう。

 きっとあの青年はここに現れる。

 それを私は待っていた。

 客観的な根拠はない。私の思い込みかもしれない。

 頭ではわかっているが、懸想岩に立つ青年の姿を想像すると、とても放っておけなかった。いつになるかわからないので、毎日、一晩中、見張りを続けている。

 私は星のない空を見上げた。風の唸りと波の音以外は、何の動きもない世界だった。見張りを始めてからここで人を見かけたことは一度もない。岩陰でずっと身を潜めていると、自分がひとりきりで生きている気がして、何だか不安になってくる。懸想岩から身投げする人は皆こうした気持ちなのかもしれない。

 孤独感を紛らわせるために、また岩陰から顔を出した。

 闇夜の中にぽつんと白いものが浮かんだ。誰かが懸想岩に向かって歩いてきたのだ。目を凝らしてその顔を確かめた私は息をのんだ。

 あの青年だった。

 海の泡のように白く血の気のない顔で、ゆっくりと懸想岩を上っていく。その姿を見て、自分の考えは間違っていない、と思った。

 私は青年に声をかけようとした。彼は大きな岩の半ばで立ち止まった。そろそろと蹲る。岩に溶け込んだように、そのまま動かなくなった。何かを祈っているようにも、誰かを待っているようにも見えた。

 しばらく観察を続けたが、青年が懸想岩から飛び降りる気配はない。

 もしかして。

 私の背中に汗が滲んだ。

 出会った時から、私は彼に違和感を覚えていた。この街が好きで来ていると言っていたが、その暗い雰囲気から自殺志願者ではないかと疑っていた。懸想岩を訪れるものの、毎回そこから飛び降りる勇気が出ず、引き返して街をうろうろしているのではないかと。

 しかし、途中から私の考えは変わっていた。

 よそ者の青年が無理に懸想岩を死に場所に定めるだろうか。

 自ら死のうとまで思い詰めるのはよほどのことだ。第一にその実現ばかりを考えてしまうに違いない。懸想岩の高さが怖くて飛び降りる勇気が出ないのなら、さっさと別の自殺場所や方法を考えて実行に移すのではないだろうか。なぜ青年はここに通うのか。

 今までに二回、彼に会った。初めは飲み会で、翌朝に私は漁で死体を引き上げた。次は喫茶店で、その朝にも海で死体が上がったという。いずれも懸想岩からの投身とおぼしきものだった。これは偶然だろうか。

 最近、懸想岩からの投身自殺が多すぎる。

 私の知る限りでも、月に何度か、時には二週続けて漁師が海で死体を引き上げている。そのすべてが当然のように自殺と見られている。

 しかし、借金の返済を苦にして、という自殺の動機はあまり成り立たない。父によると、借金の返済期限が一律で年末だったのはかなり昔の話らしい。時期的に特有の動機がないとすると、ここ一、二ヶ月で自殺者が集中しているのは不自然だった。

 自殺ではなく、殺人だったとしたら。

 懸想岩に死に場所を求めてきた人間が、必ずそこから飛び降りるとは限らない。死ぬのは怖い。いざとなると思い直す場合も多いだろう。

 懸想岩の先端で悩む彼らを、たとえば、手あたり次第に突き落とす人間がいたとしたら、そこからの死者数は増える。

 彼らの死因は自殺として処理されるだろう。もともと自殺を考えて懸想岩にやってきた人間なのだ。死ぬのを諦めた直後に他人に殺されたとは誰も思わない。

 目撃者さえいなければ、犯人は完全犯罪を行うことができる。しかも繰り返して。

 懸想岩で蹲る青年を私は見つめた。

 彼が犯人なのではないか。

 指先が震えた。自分の妄想かもしれないと思っていた。だが、実際に青年は懸想岩に現れた。闇に紛れるように、じっとその場にしゃがみ込んでいる。ここで獲物を待ちかまえているのではないか。そうして、彼に気づかずやってきた自殺志願者を背後から海へと突き落とそうとしているのではないか。何が目的でそうするかは想像がつかないが。

 と、私の背後で岩肌が白く光った。

 同時に、ざっざっと迷いのない足音が聞こえた。

 誰か来た。

 私は身をかたくした。

 それは思った以上に速い動きで岩陰に潜む私の横を通り過ぎた。あちこちの岩肌を丸い光で照らしながら懸想岩に近づいていく。私には気づかず、青年にまっすぐ向かっているようだ。そのハンチングを被った後頭部を見て、私はあっと思った。

 同じ町内のおじさんだ。

 懐中電灯を持って、いつもの見回りに来たのだ。懸想岩で身投げしようとする人間を見つけては引き止め、生きるよう説得するために。日中ばかりでなく、夜間も見回っているとは知らなかった。ひとりでも多くの人間を救おうとしているのだろう。

 しかし今、懸想岩にいるのは思い悩む自殺志願者ではない。

 そこに現れる者を手あたり次第に海に葬るシリアルキラーだ。

 そんなことは露ほども想像していないのだろう。私が岩陰から身を乗り出した時には、おじさんはすでに懸想岩の青年の真後ろまで来ていた。足音に気づいた青年がぱっと立ち上がってふりかえる。

「おい」

 足下に懐中電灯を置き、いかにもいつも通りといった調子で、おじさんは声をかけた。

「どうした」

 青年の顔が歪んだ。

 私は緊張に拳を握りしめたが、

「すみません」

 突然、青年は甲高い声を上げた。頽れるように地面に膝をつく。

「すみません、すみません」

 連呼しながら繰り返し低頭する。

「どうしてもできないんです。どうしたらいいのかわからないんです」

 私はあっけにとられた。青年は冷酷無情の殺人鬼ではなかったのか。声をかけられただけで何を謝っているのか。

 急に土下座されたおじさんも驚いたはずだったが、場慣れしているだけあって落ち着いていた。その態度に安心したのか、青年はようやく顔を上げた。開かれた口から真っ暗な口腔が見えた。

「……」

 私は耳を疑った。海風に乗って、私の初恋の人の名前が聞こえてきたからだ。

「僕が彼女を死なせたんです」

 その場に座り込んだまま、青年は語った。

 

 私の初恋の女性は高校卒業後、県外の大学に進学した。

 当時、彼女と同じ大学に通っていたのが青年だった。

 青年と彼女は一年時の終わりに学内のサークルで知り合い、まもなく交際するようになった。

「僕の通っていた大学は私立だったこともあって、女子学生は皆、いかにもいいところのお嬢さんって感じでした。品はいいけど、学費と生活費のためにバイトをいくつも掛け持ちする俺をちょっと見下しているところがありました。でも、その中で彼女だけは違った。大学生で自活しようとしているのは偉いって言ってくれました。デートでもファミレスにしか入れなかったけど、おいしいって喜んでくれて」

 私には青年に笑いかける彼女の顔が目に浮かぶ気がした。彼女はいつも快活だった。

「本当に優しい子でした。だから、僕は疑いもしなかった」

 いつも笑顔だった彼女が深刻な表情で青年に相談を持ちかけてきたのは、その年の末だった。

 聞くと、母親が倒れたという。入院して手術することになったが、医療保険に入っていなかったので大金が必要になった。しかし、相続の関係で春まで家にまとまった金額が入ってこないため、今からアルバイトを始めてみようと思う。自分は働いたことがないので、まずどうやって応募すればいいのかわからないので教えてほしい、と。

「お嬢さん育ちの彼女には無理だと思いました。少なくとも、今すぐにそれだけの金額を稼げるはずがないし、変なところに引っかかっても困る。それで、僕が融通することにしたんです」

 青年は彼女に自身がアルバイトで貯めた蓄えを貸すことにした。次年度の学費の納入期限にはまだ間があったので、それまでに返してくれればいいと伝えると、彼女はまた笑顔になった。

「けれどそれ以来、彼女とほとんど連絡が取れなくなったんです」

 しばらくは帰省し、母親の看病で忙しいのだろうと思っていた。しかし、年が明けて年度末になり、長い春休みを経て新年度が近づいても連絡がこないと、さすがにおかしいと感じ始めた。彼女のひとり暮らし先は知らないし、学内を捜してもいない。そのうちに学費の納入期限が迫り、やむなく青年は消費者金融に借り入れをして支払った。彼の生活はいっそう苦しくなった。

「来る日も来る日もバイトで、つらくてたまりませんでした。そんな時に、学校で彼女の噂を聞いたんです。彼女が複数の男子学生を騙して逃げたと」

 彼女は青年だけでなく、複数の男子学生に同じような口実で借金をし、返さずにいたらしい。

「僕も彼女に騙されていたんです」

 岩陰で、私は言葉を失っていた。

 私の記憶の中で、初恋の人は朝日のようにきらきらと笑っている。その彼女が男性達から寸借詐欺を繰り返していた。

 だが、青年が嘘を言っていないことはわかった。

 私は彼女の家庭を知っている。彼女の母親が病気をしたという話は聞いたことがない。遺産をあてにできるような親戚もいなかったはずだ。彼女が青年を欺いていたことは明白だった。

 高校時代に父親が蒸発したことで、彼女の家庭は経済的に困窮していた。母親が懸命に働き、彼女は何とか県外への大学進学を果たした。

 しかし、大学生活にかかる費用は彼女が見積もったほど甘くなかったのではないか。学費のほかにも生活費がかかる。着飾ったり交際したりする費用はほしいが、これ以上、母親に仕送りを求められる状況ではなかったのだろう。

 一方で、周囲の学生達は華やかな生活を謳歌している。その中で地道にアルバイトに励むことにも耐えられなかった彼女は、男性から巻き上げた金品でやりくりするという方法を選んだのではないか。

 青年が騙されたと気づいた頃には、すでに彼女は休学して学内から姿を消していた。噂が広がったので、ほとぼりが冷めるまで身を隠そうという魂胆だったのだろう。しかし、青年にすればそれで諦められる話ではなかった。

「僕以外の学生はお坊っちゃん達ですから、彼女に騙されてものんびりしたものでした。傷心はしても、金銭的に困ることはなかった。けれども僕は違った。彼女から貸した金を今すぐ取り返さなければ、借金の利子がどんどんかさんでいくんです」

 青年は必死で彼女を捜し回った。その結果、休学した彼女が帰郷していることを突き止めた。青年はさっそくそこへ向かった。

 そうして五年前、彼は電車を乗り継いで初めてこの街へやってきた。

 さすがに彼女の実家の住所までは特定できなかったため、街の商業施設などを巡って彼女を捜した。夕方になっても見つからなかったので、最後の手段として、彼女に連絡を入れた。今、街に来ている、会って話したいとメッセージを送ったのだ。

 今までは何度連絡しても無視されていたが、その時は数分で返信がきた。青年の要請に応じるという内容だった。

 青年との話し合いの場として彼女が指定したのが、懸想岩のある断崖だった。

「久しぶりに彼女を見た時点で、もう頭に血が上りました。派手な赤い浴衣姿だったんです。僕の気も知らないで、その晩、街で行われていた祭りを楽しんでいたんだ。またほかの男を騙そうとしていたのかもしれない」

 夜風の吹きつける岩場で、青年は彼女に返金を要求した。彼女はごまかし笑いをしながら、のらりくらりと言い逃れようとするばかりだった。その態度に、何より謝罪の言葉がいっさいないことに青年は激昂した。

 二人が話し合っていたのは懸想岩の上ではなく、そこから少し離れた岩陰だった。しかし、知らず知らずのうちに青年は彼女を断崖の方に追い詰めていた。もはや借金の返済云々ではなく、彼女自体が許せなくなっていた。青年は激しい口調で思いつく限りの言葉を使って彼女を責め立てた。

 彼女は初めは聞き流そうとしたようだが、「貧乏面してお嬢さんぶりやがって」という青年の一言に血相を変えた。

 すっと顔から偽りの笑みを消し、

 ――男のくせにケチくさいんだよ。

 小さく吐き捨てるように言った。

「それを聞いた瞬間、頭が真っ白になって。ふざけるなと叫んで、彼女に掴みかかろうとしました」

 青年は両手を振り上げて彼女に向かっていったが。

「寸前で我に返りました。今まで人に暴力なんて振るったことがなかったから、体の芯がとっさにブレーキをかけたんだと思います。僕は踏みとどまった。でも」

 青年の目に映ったのは、ひらりと舞い上がった赤い浴衣だった。それは、一瞬で視界から消えた。

「驚いて岩の先から見下ろしたけれど、真っ暗で何も見えなかった。声も聞こえなかった。でも、何が起こったかはわかりました」

 足場の悪い断崖で、彼女は足を踏み外して転落したのだ。

 普段は穏やかな青年の剣幕に、彼女は驚き、逃れようとしたのだろう。慣れない和服姿だったことも災いしたのかもしれない。

 大変なことになったと青年は青くなった。

「すぐに助けを呼ぶべきでした。でも、僕は怖くなってその場から逃げた」

 断崖から駅まで駆け通し、電車に乗って帰宅した。

 数日は怯えて暮らしたが、警察が青年のもとを訪ねてくることはなかった。ネットで調べると、懸想岩で二十歳の女性の遺体が見つかり、警察は自殺と見ているという小さな記事を見つけた。彼女の死に青年の関与を疑う者はいなかった。懸想岩という土地柄に助けられたのだ。

 青年はそのまま事実を隠し通すことにした。彼女の死は自殺ではなかったが、別に自分が手にかけたわけではないのだと言い聞かせた。自分に罪はない。彼女が断崖から転落した時に通報する義務はあったかもしれないが、そうしてもどのみち助からなかっただろう。悪い夢を見たと思って忘れるべきだった。

 青年は日常に戻ってアルバイトに明け暮れ、何とか借金を精算した。無事に大学を卒業して就職した頃には、彼女の面影に心を乱されることはほとんどなくなった。

 ところが、最近になってまた気になり始めた。

「会社で知り合った人と今度結婚することになったんです。そうしたら、自分はあのことを妻にも一生隠したまま暮らしていくことになる」

 心の底に押し込めていた罪悪感が再び頭をもたげ、青年は苦しんだ。結婚前に婚約者と警察に打ち明けなければならないと思った。そうしなければ、自分はまっとうな人生を歩めない。しかし、自白による影響を想像すると、身が竦んだ。どうしても口にできない。

 そこで、青年は再びこの街にやってきた。二ヶ月ほど前のことだ。

 彼女の事故現場の断崖を訪れ、当時を思い出すことによって自白の勇気を奮い起こそうとしたのだ。

 彼女の落ちた海がもっともよく見える懸想岩の上に立ち、そこで絶命した彼女の恐怖を想像した。冥福を祈った。

 しかし、それでもまだ決心がつかなかった。

 青年は二度、三度と仕事の休みごとに街を訪れて懸想岩に立った。地元の喫茶店にも入って、ここで育った彼女のことを思った。帰り道は警察署の前を通るようにした。

 自白するまで繰り返すしかなかったのだ。そうしなければ結婚の待つ未来へ進めない。

 そこまで思い詰めてもまだ勇気が出ず、今夜も青年はまた懸想岩に立ったのだった。

 

 

(つづく)