翌早朝も私は父と漁に出た。
頭痛がひどく、波の上下で頭がぐらぐらした。深酒をしたつもりもないのに、二日酔いをしてしまったようだ。結局、昨夜の飲み会で私はほとんど誰とも言葉を交わすことなく、一次会で退散していた。人々は私がいなくなったことにも気づいていなかっただろう。奥歯を噛んで胃のむかつきを堪えた。
父の合図で船を停め、船尾に向かう。出航した時に真っ暗だった空は少しだけ闇が薄くなっている。ちらりと小さな星影も見えた。海は相変わらず黒く波打っている。その下に自分の投げた網が沈んでいるのを想像した。本日二回目の網の引き上げだ。
父の操作で引き上げられる黒い塊を私は見守った。たくさん魚がかかったようで、最初の時より膨らみが大きい。私は船縁からそれを抱きとめた。
重たい。
私ははっとした。魚とは違う、奇妙に重い手応え。
瞬時に頭痛が遠のく。網に独特の重力がかかっているようで、腕がぶるぶると震えた。それを腰に力を入れて抑え、破れそうな胸で一気に引き上げる。どすん、と船尾に下ろした。
「多そうじゃないか」
近づいてくる父は異変にまったく気づいていなかった。私が制止する間もなく網を広げ、
「うわっ」とのけぞった。
私の予期した通り、その中には跳ねるヒラメやエビに交じって、びっしょり濡れた人体が俯せになっていた。排水溝に髪の毛が絡みつくように全身に海藻が巻きつき、ぴくりとも動かない。明らかに死んでいる。
「こりゃあ……自殺か」
父がためいきをつく。男性らしき死体の衣服が船乗りのものではないことから、そう判断したらしい。
「また懸想岩か」
「年の瀬は自殺が増えるって」
応じる自分の声がどこか別のところから聞こえてくる気がした。腕にはまだ死体を引き上げた時の生々しい感覚が残り、心臓が激しく波打っている。
「それにしても、何でわざわざうちがその仏さんを……ついてねえ。今日はもう帰るしかないな」
父が鼻を擦ってぼやく。私は網の前にしゃがんだ。赤い藻の張りついた死体の肩に手をかける。
「おい、何してる」
私の動きに気づいた父が声を上げた。
「触っちゃいけねえ」
もちろん、普段は私もそんなことはしない。だが、予感があって、私は確かめずにはいられなかった。
昨夜の光景が脳裏に浮かぶ。俺の家に泊まればいい、と学級委員の男に腕を引かれ、二次会に連れていかれたあの青年。すでに居酒屋でかなりの量の酒を飲んでいたはずだが、その顔は最後まで青白かった。二次会、もしくは三次会の後、青年は懸想岩から飛び降りたのではないか。
私は手に力を入れ、死体を一気に仰向けにした。濡れた雑巾を床に落としたような音がして、薄く開いた目と自分の目が合う。
力が抜けた。
違う。
目の前に現れたのは、見知らぬ髭面だった。あの青年とは別人だ。
「やめろって」
父が死体を網で覆った。
「陸に戻るぞ」
父に促され、私はようやく立ち上がった。のろのろと操舵席に戻って、小型船を大きくUターンさせる。舳先が海を白く切り裂いて進み始めた。
舵を握りながら、私の胸にはまだあの青年の顔がちらついていた。引き上げた死体は彼ではなかったのに、どうにも気になった。昨夜初めて会っただけだが、青年の顔つきは尋常ではない感じがした。何か苦しみを抱え、追い詰められているのではないか。そうだとすれば、昨日でなくとも、今後、懸想岩から飛び降りる可能性がある。
思わず目を強く閉じた。
*
私が懸想岩からの身投げをひどく気にするのは、「彼女」の記憶があるからだ。
彼女は高校時代の同級生だった。
黒髪のポニーテールを揺らしてころころと笑う明るい女性だった。学校の休み時間に、友人達との他愛ない会話で上げられるその笑い声は、真水のように澄んでいた。入学早々に私は彼女に惹かれたが、とても声をかける勇気などなかった。ただ、教室の片隅で黙って彼女を意識していた。
いかにも大切に育てられたお嬢さんといったふうの彼女だったが、三年に進級した時、彼女の父親が蒸発したという噂が流れた。漁師だった彼はギャンブルで借金を重ねて、妻子を残して逃げてしまった。借金を返すために、彼女の母親は働きに出るようになったという。田舎の濃密な人間関係の噂の精度は高いので、事実と思われた。
それでも、毎朝登校する彼女の表情に変わりはなかった。休み時間は友人達と楽しそうに笑っていた。受験勉強もちゃんと続けていた。その姿にいっそう私は思いを募らせた。が、結局、私は在学中に一度も彼女と言葉を交わすことはなかった。
高校卒業後、彼女は県外の大学へ進学し、街でその姿を見かけることはなくなった。
彼女が夏休み前に帰省しているという噂を聞いたのはその二年後、私達が二十歳の時だった。
久々に彼女の名前を耳にした瞬間、私の中で初恋が再燃した。会いたい、と強く思った。高校を卒業してより異性と接する機会がなくなったということもあるが、今まで私が心を惹かれた女性は彼女をおいてほかになかった。
彼女の連絡先はわかっていた。ラインで高校の同窓生のグループに入っていたので、そこから彼女のアカウントを類推できたのだ。私は高校三年間しまい込んでいた勇気を引っ張り出して、彼女にメッセージを送った。帰省したと聞いている、よれけば来週の祭りに一緒にいかないか、という内容だ。街では毎年、六月の末に神社で小さな祭りが行われていた。我ながら中学生みたいな誘い方だと思ったが、経験が浅いのでほかに方法が思いつかなかった。
メッセージを送った直後から、もう取り消したいような気持ちになった。無視されることも覚悟していたが、思いのほかすぐに返信がきた。連絡をくれてありがとう、ぜひ一緒に祭りに行きたい、という文面を、私は繰り返し読んだ。紛れもなく彼女からのものだった。あの人に会える。それも二人で。私はじっとしていられなくなり、狭い自室で立ったり座ったりした。
約束の日がきた。夕方、私は父のお下がりの車で彼女を迎えにいった。赤い浴衣姿で道路脇に立つ女性の姿を見つけた瞬間、思いきりブレーキを踏んでいた。ポニーテールの黒髪から茶髪のショートカットになった彼女はいっそう美しくなっていた。しかも、私の誘いに浴衣を着てくれた。まるで恋人のように。自分の考えに、かっと顔が熱くなった。
運転席から私が合図すると、彼女は助手席にするりと乗り込んできた。甘い香りがした。今日は誘ってくれてありがとう、と彼女は言った。初めて近くで見た彼女は睫毛が驚くほど長く、私は思わず目を逸らした。前だけ見て、車を発進させる。
祭りの神社は懸想岩のある断崖の手前に位置し、車なら数分の距離だった。今日はさすがに人出が多く、神社の周辺にも車が多く駐められている。私も適当なところに駐車した。二人で車から降り、赤い鳥居に向かって歩き出した。
誘ったものの、何を話せばいいかわからないと思っていたが、彼女の方から私の近況を尋ねてくれた。そこで並んで歩きながら、私はぽつぽつと語った。高校卒業後、一度家を出て県外の工場に就職したこと。しかし、そこでの仕事に何のやりがいも見出せず、意地悪な先輩達から執拗な嫌がらせを受けたために、この春に退職したこと。
夕闇に浮かび上がる鳥居をくぐる。参道に屋台が並んでいた。そこから流れるいろいろな食べ物のにおいを感じながら、私は続けた。退職して実家に戻り、今は父親の漁業を手伝っていること。しかし、小型船での漁獲では生活は厳しく、跡を継ぐかは決めかねていること。
彼女の相槌がほとんどなくなっていることに気づいたのは、参道の半ばまできた時だった。
気恥ずかしくて前ばかり見ていた私はふと隣を見て、ひやりとした。
彼女は眉を寄せ、不機嫌そうな顔つきになっていた。この街から出て新鮮な大学生活を送っている彼女にとって、私の話は退屈だったのだろう。私はそれに気づかず、調子に乗ってずっとしゃべっていたのだ。
私は慌てて話題を変え、いろいろと彼女に話しかけた。だが、手遅れだった。一応、返事はしてくれるが、上の空といった様子だった。すっかり私に失望したのか、こちらを見ようともせず、時おりスマートフォンの画面を覗いていた。
そうして、もうすぐ本殿というところで急に足を止めた。
「ごめん、帰る」と彼女は言った。
私は胃を捥がれるような気がした。
「どうして」
「帰りたいの。送ってくれなくていいから」
「待って」
私は唾を飛ばして懸命に謝り、言い訳し、引き留めようとした。しかし、
「あなたのせいじゃないよ」
彼女はこう言いながらも、さっと踵を返した。みるみる遠ざかっていく赤い浴衣の後ろ姿を、私は呆然と見送った。通過駅のホームで新幹線が目の前を走り去っていったような心地だった。思い続けていた彼女にようやくわずかに近づけた気がしたのに、その人はまた一瞬で去っていった。宵になってますます増えていく地元の参拝者に紛れて、もう彼女の赤い袖さえ見えなくなっている。
お囃子の響く参道を私はひとり、とぼとぼと引き返した。
翌朝、私はいつも通り漁に出た。
「疲れているなら今日は行かなくていいぞ」
何をどこまで察したのか、出かける前に父がこう言ってくれた。しかし、私は首を横に振り、船に乗り込んだ。自室で昨夜のことを思い出してめそめそしているよりは、体を動かしている方が楽だった。まだ暗いうちに出航するので、沖から赤い鳥居が見えることもない。たゆたう海に力いっぱい網を投げ、しばらく船を走らせた後に引き上げる。
その時、私は初めて漁獲以外の手応えを得たのだった。
すぐにそれと気づいたわけではなかった。ただ、妙に重いなと思った。不思議な動悸がした。それでも抱えた網を手放さず、ぐっと持ち上げた。船尾で網を開く。
心臓が壊れるかと思った。
赤い浴衣が見えた。昨夜、別れたばかりの彼女が、網の中で眠るように目を閉じていた。
私は自ら投げた網で彼女の死体を引き上げたのだ。
震える私の代わりに父が船を操舵して帰港した。死体の第一発見者であると同時に、彼女の関係者でもあった私は警察の聴取を受けた。彼女の死亡時にスマートフォンは海で失われたため、生前に彼女が誰と連絡を取っていたかはわからなくなっていた。ただ、私が彼女と一緒に祭りに出かけていたところを複数人が目撃していた。そこで警察に当時のことを聴かれた。
私の疑いはまもなく晴れた。警察は明言しなかったが、どうやら彼女は懸想岩から自ら身を投げたと調べがついたらしかった。浴衣姿で発見されたことから、あの神社で私と別れた後、断崖へ向かったのだろう。和服の女性の足では大変だったはずだが、歩けない距離ではなかった。
自殺だったと知って、私は自身の勘違いに気づいた。
あの参道で彼女が不機嫌な顔をしていたのは、単に私のつまらない話が原因ではなかったのではないか。前から深い屈託を抱えていたのではないか。
私と祭りに行った直後にいきなり死ぬ気になったとは思えない。大学が休みに入る前から帰省していたのもわけがあったのだろう。噂では、父親の失踪以来、彼女の家庭は常に困窮していたそうだ。
思えば、待ち合わせの場所で出会った時から、彼女には陰があった気がする。私に優しくほほえんでいたが、あの高校の頃の快活な笑いではなかった。恋人どころか友人ですらなかった私の誘いに応じたのは、近しい人間にはかえって話せない苦しみを打ち明けたかったからではないか。
それに私は気づかず、自分の話ばかりをして、彼女から何ひとつ聞き出そうとはしなかった。緊張していたから、あまりにあれこれと質問を重ねて相手を詮索するのも憚られたから、という言い訳は免罪符にならない。
事実として、私は彼女を救済できなかった。死体になった彼女を引き上げた感触は、とても忘れられなかった。
彼女の事件を機に、家業を継ぐか悩んでいた私は、漁師としてこの海で生きていくことを決めた。強い思いを密かにかためて。
*
「またか」
漁獲を詰めたトロ箱を持ち上げた父が声を上げた。
「先週、うちが引き上げたばかりだぞ」
「知ってるよ」
顔馴染みの卸売業者がトロ箱を受け取りながら応じる。
「今度はあんさんの船の網にかかったんだって。かわいそうに最近漁に出たばかりの次男坊が見つけてよ、今は寝込んでるらしい」
「懸想岩も困ったもんだな」
父と業者の話を聞きながら、私は身をかたくしていた。また海で死体が見つかったらしい。私は最後のトロ箱を業者の男に手渡した後、話しかけた。
「死体の身元はわかったんですか」
彼はちょっと驚いた顔をした。私の声を初めて聞いたのかもしれない。私は普段、市場での会話のほとんどを父に任せていた。
「いや、若い男らしいとしか」
彼はすぐに表情を戻して、答えてくれた。私は一礼した。
死体はあの青年だろうか。市場から帰宅した後、私はじっとしていられなくなって出かけた。駅の方へ車を走らせ、古びた喫茶店の前で駐車する。飲み会で、元学級委員の男があの青年と出会ったと言っていた店だ。
入り口の濁ったガラス扉に手をかける。私が高校に通っていた頃、放課後の高校生の溜まり場になっていた喫茶店だった。ただ、私は一度も利用したことがない。一緒に行くような友人がいなかったのだ。高校時代、初恋の人が友人達と店に入っていくのをうらやましく眺めたことがあるだけだ。
店内には濃いコーヒーの香りが漂っていた。まだ昼前なので学生の姿はなく、老人のひとり客がぽつぽつカウンター席に座っている。店内を注意深く見回した私は、奥まったボックス席にあの青年を認めた。ひとりでコーヒーカップの底を覗き込んでいる。
よかった、生きている。小さく息をついた。今朝、海で上がった若い男性の死体は別人だったようだ。私はこの青年が身投げしたのではないかと心配していた。
私が近づいて挨拶すると、青年は怪訝な顔をした。私のことを覚えていないのだろう。先日の飲み会で一緒だったことを説明すると、ようやく納得した様子だったので、私はさりげなく彼の向かいの席に腰を下ろした。適当にコーヒーを注文する。
天窓から日の光が射し込み、青年を照らしていたが、やはりその顔色は病人のようだった。
「夜勤明けなんです」
私の心を読んだように青年は言ってほほえんだ。彼は県外で何の仕事をしているのだろう。夜勤のある仕事をしているとすれば、徹夜で車を運転してここに来たというのか。尋常ではない。
「どうしてこの街に?」と私は尋ねた。
「ここに来るのは不便でしょう。ほかの場所にも海はいっぱいあるのに」
「不便ですからね」
青年はまた目を細める。
「頑張って来ようと思うんです」
会話が噛み合わない。徹夜明けだからだろうか。
私は一度、周囲に目をやった。店内に客は少なく、クラシックのレコードもかかっている。奥まった席での会話を聞かれる心配はないだろう。意を決して青年の名前を呼んだ。
「はい?」
今になって初めて私の存在に気づいたように、青年が返事をする。
私は彼に顔を寄せ、
「何か悩んでいることはありませんか」
小声で尋ねた。
「俺でよかったら話を聞きます」
「……」
青年は答えなかった。口元では笑っていたが、まなざしはいっそう暗くなった気がした。
「また来ます」
私にか、それとも街全体にか、言い残して、青年は席を立った。テーブルの隅にはきちんとコーヒー代が置かれていた。
彼が店を出た後、私はすぐに立ち上がり、出入り口のガラス扉に近づいた。汚れたガラス越しに凝視すると、青年が店のそばに駐車していたシルバーのセダンに乗り込んでいた。滑らかに発進した車はウィンカーを出し、街の中心部とは反対の方向へ走り去っていった。帰り道を辿っているように見えた。徹夜明けで県外から街にやってきて、昼前には帰るのか。
ガラスが自分の呼気で曇っていく。なぜそこまでして青年はこの街に通うのか。
(つづく)