揺れる視界の先は真っ暗で、何も見えない。

 だが、絶えず響く静かな波音が、この海の広さを感じさせる。広い海には広い世界が続いている。

 その中に、自分を見つめてくれる者はいないだろうか、と夢想する。

 私はよき伴侶を得たいと思っている。寄り添い、生涯をともに歩めるような。

「そろそろ引き上げるか」

 船尾から父の声がした。舵を取っていた私は小型船を停止させ、そちらに移動した。濡れた長靴で足下の生け簀をぐるりと迂回する。

 父は船尾で網を投げた黒い海を睨んでいた。私の足音を聞いて、ネットローラーの横に立つ。網の引き上げはほとんど自動でできるようになっている。父が操作レバーを引くと、ずるずると海中から網が巻き上げられていった。黒い網は魚介や海藻を含んで大きく膨らんでいる。獲物を丸呑みした大蛇のようだ。私は船の上から身を乗り出した。最後に漁獲を船に載せるには人の手が必要だった。それは身長が一八〇センチ近くある私の仕事だ。網の底の部分を抱え込むようにして引き寄せる。ずしりと冷たい手応え。が、軽くも感じられた。

「だめか……」

 父に倣い漁に出始めて五年。ひとり息子が工場を辞めて戻ってきた、うちを継いでくれるんだ、と父が近所に触れ回ることにも飽きた頃には、私も家業に慣れていた。今では根っからの漁師を自負しており、網の手応えで漁獲の見当がついた。

「少なめだなあ」

 網を開き、かかった魚介類を選別していると、後ろから覗き込んだ父が嘆息した。漁獲量が少ない上に、カレイやエビが思ったよりも小ぶりだ。

「まあ、まだ一回目だし」

「そうだな」

 まだチャンスはある、と私と父は頷き合う。

 家業の小型底曳き網漁は早朝に漁場に出る。網を投げ入れ、小一時間ほど船を低速で走らせた後、網を引き上げて漁獲し、また別の漁場へ向かう。これを一日に四、五回繰り返す。

 父と手分けして漁獲を生け簀に入れると、私は再び操舵席に戻った。走らせ始めてまもなく、正面から小型船の灯りが見えた。同業者だ。皆、同じ街の知り合いなので私は速度を落とす。

「おおい、もう帰るのか」

 父が船縁から声をかけると、小型船をひとりで操舵する老人が手を上げた。灯りの下に、飴色に日焼けした皺の多い顔が浮かんでいる。

「えらく早いじゃないか」

 船のエンジン音に負けないように父が声を張った。漁はまだ始まったばかりなのに、老人の小型船はもう陸へ向かっていたからだ。

 すると、老人は大きく首を横に振ってみせた。

「引き上げちまったんだよう」

 その言葉に、私はぞくりと鳥肌が立った。

 父も察したようだ。

「引き上げたって」と言い澱む。

「仏さんだよ」

 思わず、老人の船尾に置かれた黒い網に目をやった。波で上下に揺れながら、こんもりと盛り上がっている。

 直接見えるわけではないが、

「見るんじゃねえ」

 私の視線に気づいた老人に窘められた。私は俯く。

「今日の漁はやめだ。今からおかに帰って漁協に知らせなきゃいけねえ」

「たまらねえな」

 父が呻く。

「こう何度も仏さんに遭遇するのは。この前も見つかったんじゃなかったか」

「ああ、先週だ。あれは確か、やっさんが引き上げたんだ」

 胸がどんよりと曇る。このあたりの漁場では網に人間の死体がかかることがある。

「自殺だろうなあ」

「やっぱり懸想岩け そう いわか」

 私達三人は誰からともなく背後を振り返った。しかし、思い浮かべた尖った影はそこには見えず、夜明け前の重たい闇が広がっているばかりだった。

 

 早々に陸へと引き返す老人と別れた後、朝日が昇るまでに計四回、網を投げては引いた。合わせるとまずまずの漁獲量だったが、私の心は塞いだままだった。

 それから帰港して、仕分けした漁獲を市場に出荷すれば、一日の仕事は終わりだった。市場の食堂で遅い朝食を済ませ、私は父と帰宅した。

 仕事が終わると、私は自室でスマートフォンのゲームをして過ごすことが多かった。漁は力仕事で疲れるし、人付き合いが得意な方でもない。

 しかし、今日は少し休憩した後にベッドから身を起こした。父のお下がりの車を海岸沿いに走らせる。しばらくすると断崖が見えてきた。ごつごつとした岩肌が、灰色の海に向かって飛び出すように群生している。その中でも特に大きく、海面に突出した岩があった。鷲鼻のような形をしたそれは、地元の人々の間で懸想岩と呼ばれていた。

 昔、この街がまだ村だった頃、ある娘が若者に恋をした。そこで人目につかない岩場に呼び出し、思いを伝えたが、すでに若者は別の女性と婚約をしていた。失恋した娘は嘆き悲しみ、切り立った岩の先端から身を投げた。以来、その岩は懸想岩と呼ばれるようになったという。

 神社の赤い鳥居を通り過ぎ、断崖へ続く道の前で私は車を駐めた。過疎化の進む街ではどこに駐車してもまず咎められることはない。ダウンジャケットを羽織って岩場に降り立つ。途端に強風にはたかれ、急いで前身頃を合わせた。

 うっすら明るい曇り空の下、乾いた岩の上を歩いて突端へ向かう。そこから見下ろせる海は、毎朝漁で接しているところとはずいぶん印象が違っている。動きが感じられずべたりとして、コンクリートの床のように見える。あそこへ向かって飛び降りたらどうなるのか。想像すると足が竦んだ。

 その謂われが影響しているのか、懸想岩は地域で投身自殺の名所として知られていた。飛び降りると確実に死ねると言われていることから、他県からやってくる者もいるという。

 かつてこの場所から失われた面影が脳裏に浮かんだ。

 大きな岩をひとつ乗り越えると、その懸想岩にまさに人が立っていたのでぎょっとした。まさか、と思ったが、すぐに知っている人間であることに気づく。

「おじさん」と声をかけると、しみの浮いた老人の顔がこちらを向いた。

「ああ、おまえか」

 私も懸想岩の上に立った。並ぶと、年中同じハンチングを被ったおじさんの頭は私の胸元にくる。

「見回り、ご苦労さま」と言った。

 私と同じ町内に住むひとり暮らしの老人だった。私が子どもの頃は、顔を合わせるたびにちょっとしたお菓子をくれた。学校で友達ができず放課後も孤立していた私は、それがとてもうれしかった。甘いお菓子を口に含んでいる間は口下手な自分を責めずに済んだ。

 昔から面倒見のよかったおじさんは週に何度か、自主的に懸想岩を見回っている。ここを訪れる人間は自殺志願者が多い。彼らを見つけては声をかけ、生きるよう説得するという活動をもう三十年以上前から行っているという。過去にはその声かけのおかげで自殺を思いとどまった者もいると聞く。

 海風に吹かれるおじさんの顔色は冴えなかった。

「まただめだったな」

 すでに今朝、海で死体が見つかったことを彼は知っていた。

「昨日、ここに来た時は誰も見かけなかったんだけどな。もしかして、おまえが引き上げたのか」

 いや、と私は頭を振り、発見者の老人の名前を告げる。

「そうか。また漁師に迷惑をかけちまったな」

「おじさんのせいじゃないよ」

 懸想岩からの投身による自殺者は年間で十数人に上るらしい。この高さから飛び降りた人間はまず助からず、絶命した体は海を漂流することになる。それを、このあたりを漁場とする地元の漁師が引き上げるということがままあった。魚を捕ろうとした網に偶然かかるのだ。誰かが行方不明になったという話も聞かなかったことから、今朝の死体も自殺によるものと思われた。

「先週はやっさんが見つけたって聞いたし」

 おじさんはまだ申し訳なさそうに言う。自殺防止に取り組む中で自殺者が出たからといって、彼が負い目に感じる必要はないのだが。

「だから、おじさんのせいじゃないよ。でも最近、多いね」

 ふと思いついて言った。二週続けて死体が引き上げられたというのは珍しい。

「年末が近づいているからな」

 低い声でおじさんが応えた。

「借金の返済期限が今年いっぱいっていうやつが追い詰められるんだ。金に苦しめられる人間は多い。苦しんで苦しんである地点を過ぎると、もう死ぬことしか考えられなくなるんだろうな。ここで見つけて声をかけても、なかなか届かない」

 私が生まれる前から見回りを続けている者の経験則だろう。

 おじさんは海の方へ向き直って、ひとりごとのようにつぶやいた。

「人って救えないもんだな」

 私は黙っていた。ただ、彼と同じように平たい海を眺めた。

 昔、そこに散った「彼女」のことを思い出しながら。

 

 

 新しいシャツに着替え、二階の自室から階段を降りた。

 居間にいる母に今日の夕飯はいらないと告げて家を出る。

 子どもの頃のように胸が弾んでいた。車を使わずに外出するのが新鮮だ。飲み会に出かけるのは何ヶ月ぶりだろう。

 口下手な私は友人がほとんどいない。ひとりだけ親しくしている小中学校時代の同級生がいるが、彼は高校卒業と同時に県外へ出てしまった。その彼が帰省して仲間と飲み会をするというので私を誘ってくれたのだ。

 友人に会えるのもうれしかったが、その飲み会には女性も参加すると聞いて、私は淡い期待を抱いた。漁師として働く今の生活では、異性と接する機会はほぼない。今夜、未来の伴侶に出会えるかもしれない。

 しかし、指定された居酒屋の暖簾をくぐり、座敷に上がると、私の胸は縮こまった。

「えーっと、君は……初めましてかな?」

 友人はまだ来ておらず、こちらを見上げた知らない男女は揃って垢抜けて見えた。新品のシャツを着ているのに、私は自分だけが磯くさいような気がした。

 もちろん、彼らは場違いな私を追い返しはしなかった。名乗ると、ちゃんと空いている席に入れてくれた。促されるまま席についた後、私は一言も発せられなかった。賑やかに楽しそうに話す男女の会話にとても入っていけない。実際、誰とも目が合わなかった。

 その上、後からやってくる参加者に次々と席を譲っているうちに、気づくと一番奥の席へ追いやられていた。上座といえば聞こえはいいが、ほとんどが壁とテーブルで囲まれた僻地だ。少し後から来た唯一の友人は、はるか遠くの席で仲間と乾杯しており、私を気にする余裕はなさそうだった。私は黙ってビールを舐めているしかなかった。

 ぼんやりと眺めていると、十人ほどの男女のうち、実は半数以上と面識があったことがわかった。小中学校時代の同級生達だったのだ。皆、若くて楽しそうだった。

 いたたまれなくなり、私は席を立った。気晴らしにトイレにいくことにした。用を済ませて座敷に戻ろうとした時、

「誰、あんなやつ呼んだの」という女性の声が聞こえてきた。

 思わず私は足を止めた。そこは女子トイレの前だった。

「暗くて気持ち悪いんだけど」

 声に聞き覚えがある。飲み会の参加者の女性達が手洗い場で話しているようだった。自意識過剰かと思ったが、

「ずっと黙っているなら、来なきゃいいのに」と言っているので、やはり私のことが話題にされているのだろう。

「体ばかり大きくてさ。私、ああいうの生理的に無理」

「私も。早く帰ってほしい」

 私は足早にその場を離れた。いい年をして泣きたくなった。女性はきつい。私に優しくしてくれたのは、「彼女」だけだった。私の初恋の人。

 このまま帰ろうかと思ったが、そうするといっそう惨めな気持ちになるだろう。食い逃げされたと思われるのも心外だ。

 重い足で座敷に戻ると、

「来た来た」と言われた。一瞬、また自分のことかと思ったが、すぐに背後の人の気配に気づいた。ふりかえると、これもどこか見覚えのある男の顔があった。

「遅かったじゃないか」と皆から口々に言われて、彼は笑って手を上げた。確か、小学校の時に学級委員をしていた男だ。さらに、彼の後ろから痩せた青年の顔が覗いた。これは誰だろうと思っていると、

「知り合いを連れてきた」と元学級委員が言った。

「何か急に来ちゃってすみません」

 青年は小さく頭を下げた。その抑揚から、この土地の者ではないことがわかった。

 皆はわいわいと二人のために席を空けた。その動きに紛れて私も元の上座へ収まった。

 皆から勧められて、料理が山盛りになった取り皿を前に、青年はぼそぼそと自己紹介をした。彼は私達と同じ二十五歳で、他県で会社員をしているらしい。

 それを補足するように、学級委員の男が行きつけの喫茶店で青年と出会ったのだと語った。地元の人間しか来ないような店に、彼はたびたび現れた。珍しく思って声をかけたことから、親しくなったのだという。

「何でこんなところに何度も来てるの」

 皆は青年を取り囲み、質問責めにした。

「ここの海がきれいなので」と青年は答えた。箸を持った手は抜けるように白い。漁業に従事する人間が多い街で、いかにもよそ者らしい男の手だった。

「ずっと眺めていると、仕事の疲れが癒されるんです。それで、今では休みごとに車で通うような形になっています」

 静かな青年の声にわっと座が沸いた。地元を褒められてうれしくない人間はいない。男性達は青年と肩を組み始め、女性達も彼に向かって身を乗り出す。青年は気恥ずかしそうにほほえみ、それがまた周囲に受けている。

 しかし、ひとり私は違和感を覚えていた。

 この青年は本気でそう言っているのだろうか。

 元は貧しい漁村だった私達の街は観光地ではなく、交通の便も悪い。気まぐれで一度、訪れたとしても、何度も通うようなところではないだろう。

 青年がきれいだと証言した海も、どこでも見られるものだ。日本海側に特有の灰色の海だ。最寄りの高速道路を降りた後に山をひとつ越えてこの街まで見に来る必要があるだろうか。

 何より、青年の笑顔が私にはひどく不健康な感じに見えた。その白い顔は、本当に私達をとらえて笑っているのだろうか。ここの刺身は新鮮でおいしいと言いながら、箸も進んでいない。

 ――本当は彼は懸想岩が目的で来たのではないか。

 胸にぞわりと涌いた考えを打ち消すために、私はビールを呷った。

 

 

(つづく)