総真が聞き返し、玲がうなずく。
「最初の借りは十一年前」
ずいぶん昔のことを、雨音の響くガレージの中で玲は語り始める。
「おれのこと、おまえたちもそれなりに聞いているだろ。母親が亡くなったのは、おれがまだ小学三年生のとき。父親は二年後に再婚したんだけど、新しい暮らしにはどうしても馴染めなかった。それで中二になってから、じいちゃんたちの家に来た。亡くなった母親の家ならなんとかなると思ったんだ。じいちゃんもばあちゃんも優しかったよ。家だって居心地悪くない。なのにやっぱり馴染めなくて、内心すごく焦った。他に行くところなんかないからさ。困っていたらとなりにやかましい一家が引っ越してきた。おっさんみたいな小学生と、小猿みたいな小さな子がいて、叱られたり言い返したり笑ったり怒ったりの声が筒抜けだ。おれは無視してそっぽを向いたよ。関係ない、どうでもいいで、すませようとした。でもじいちゃんの友だちが犬を置いていって」
花子だ。
「またしても興味のないふりをしていたのに、となりの小猿みたいな子が『わあ犬だ』ってぐいぐい入ってくる。犬はたちまちなつき、じいちゃんばあちゃんは嬉しそうだ。おれは通りすがりにチラ見するくらいだったけど、小猿の子はおれを散歩に誘う。仕方なく付き合うと、家の中で花子が寄って来るようになった。相手をしてやると喜ぶ。それを見てじいちゃんたちも笑顔になる。さらに言うと、家の周りのお店や公園にも詳しくなった。たまに挨拶する人もできて、気がついたら家に馴染めないと焦ることもなくなっていた。そういうわけで、圭には恩義を感じているんだ」
思いもよらない玲の気持ちを聞いて驚くやら戸惑うやら。圭斗はたどたどしく返した。
「それ、おれじゃなく、花子のおかげってことだよね」
散歩そのものは金子さんのおじさんやおばさんがしていたので、自分はおまけみたいなものだ。
「花子との仲を取り持ってもらった。今回のマルも、レンタル番犬の話を聞いてじいちゃんたちにぴったりだと勧めたのに、見学に行く日に仕事でドタキャンしてしまった。せっかくの機会を台無しにしたと思っていたら、圭が付き合ってくれたんだよな。あとから聞いて、うまく行くような気がした。ほんとうにその通りになった。マルと写ってるじいちゃんばあちゃんの写真、久しぶりに見る溌剌とした笑顔だった。また借りを作ったと思った」
言われてみれば、見る角度によってそうなるのかもしれない。でも。
「おれは自分のことしか考えてないよ。犬を見てみたかったし、訓練センターは面白かった。紹介されたマルはすごくかっこよくて、こんな犬がとなりにいてくれたらどんなにいいかとわくわくした。金子さんに何かしてあげるんじゃなく、勝手にマルをかまって、自分が楽しんでいるだけだ」
「そうやって素直に自分を出して、素直に飛び込める。圭は変わってないなあ」
玲はわざとらしく肩をすくめて小首をひねった。同意を求めるように視線を動かす先には総真がいる。いつのまにか重々しく腕を組んでいた。仁王立ちで、まるで試合に臨む柔道選手だ。その強豪選手然とした男が「おれなんか」と口を開く。
「子どもの頃からさんざん、かわいげがないとか、怒ってるみたいとか、言われまくってきた。幼稚園の同級生にもその親たちにも、小学校でも親戚にも近所のおじさんおばさんにも。ああ、金子さんたちはちがったか。でもだいたいがそうなんだ。しゃべるのが苦手でうまく返せないだけなのに、ふてぶてしくて生意気とも言われた。たしかに子どもの頃からおっさんぽかったかもしれないけど」
玲が「ごめんごめん」と軽く言う。
「そういうおれに比べ、弟は誰とでも打ち解けて、いろんな人からたちまちかわいがられる。ずるいと思っていたよ」
総真の言葉に圭斗は驚く。兄が自分を快く思っていないことは薄々気付いていた。嫌みを言われたり睨まれたりした記憶もそこそこあるにはある。でも年を重ねるにつれ、ふたりの間に距離ができ、生々しい言葉の応酬や小競り合いから遠ざかっていた。久しぶりに聞く一方的な非難に、ムッとするやら口惜しいやら。感情を逆撫でされた。
だいたい兄の方が人もうらやむ才能に恵まれている。
「かわいげがないくらいいいじゃないか。自分は医学部にストレートで入るくらい頭がいいのに。どう考えたってそっちの方がいい。もしかして、やっぱりおれの方が優れてるって自慢?」
「おまえが羨ましかったという話だ。花子だっておまえになついていたし」
「は?」
「おれだってかわいがったよ。散歩にも連れて行った。でもおまえを見るときの目の輝きや尻尾の振り方がぜんぜんちがうんだ。犬からも人一倍好かれるってずるいよ。でも、そういう片思いの花子の具合が悪くなって、日増しに弱って結局亡くなってしまった。哀しくてショックだったよ。なんにもできなかった自分がもどかしくて、凹んでいるうちに何かできる人になりたいと思い、獣医が浮かんだ」
そういう流れだったのかと初めて知る。
「でもおれ、犬にしても花子くらいしか知らない。動物が好きかどうかもわからない。そんなんでやっていけるのかと不安になって、少しは馴染みのある『人間』にシフトチェンジした。医学自体に興味はあったし」
「人間も大変だと思うけど」
「だよな。相変わらず人と接するのは苦手でしゃべれない。だから一念発起して、去年から会話について研究している大学のサークルに入ったんだ。そう、その話をしたかったんだよ。弟をやっかんでるだけってのもイマイチだから」
「サークル?」
「良好なコミュニケーションにつながる会話の役割や、言葉以外に意思疎通が図れる方法なんかを考え、毎年研究発表をしているサークルだ。おれみたいなしゃべるのが苦手な人間の意見を聞きたいと言われ、最初は斜に構えていたんだけど、参加しているうちにちょっとずつ言いたいことが言えるようになってきた。不思議だよな、コミュ力アップのカリキュラムについて口出ししているうちに、口がまわるようになったんだから」
総真はそう言ってニカッと笑った。久しぶりに見る無邪気な笑顔だ。こんなに長くしゃべる総真も初めて。
「あ、ついでに言うけど、今回帰ってきて初めて知った。家の中が静かでがらんとして、昔のにぎやかさが嘘みたいだ。父さんも母さんも家にいないのは、おれへの仕送りのためだろ。そのせいでおまえはしょっちゅうひとりなんだ」
すまなそうに言われ、あわてて手を横に振った。
「そんなのいいよ。おれもう、小学生じゃないんだから」
「顔は同じだ。小学生のときから変わってない」
失礼な物言いに、玲まで「ほんとそれ」と笑う。
「総真、会話の訓練中ならおれと飲もうよ。この雨風が収まったら今夜どう? そっちの話も聞きたいし、おれもしゃべりたい」
総真のお尻に尻尾が生えていたら、さぞかし大きく振られたことだろう。想像して圭斗が笑ったら、まるでそれを待ちかねていたようにマルグリットがすり寄ってきた。三人の間の緊張を感じ取っていたらしい。
圭斗は腰を落とし、大丈夫だよと抱き寄せて首と背中を撫でた。ありがとうともう一度、言葉をかける。命の恩人、いや恩犬だ。仁王立ちだった総真は玲から猫を渡されあたふたしている。それがおかしくてまた笑ってしまう。
玲は金子さんと連絡を取っていた。圭斗が見つかったことや猫を保護したこと、庭の木が本格的に倒れかかっていることなどを伝える。
ネットの雨雲情報を調べると大雨のピークを抜け、次の本降りまで間がありそうだ。突風も静まっている。猫を抱えている総真に傘を譲り、一番慣れている圭斗がマルグリットのリードを持つ。玲の先導で近くの公民館に向かった。
金子さんと矢野さんは無事に避難していた。特に矢野さんは涙ぐむほど猫との再会を喜んだ。避難するさい、捜したけれど見つからず案じていたらしい。自分の頑張りが報われたと圭斗は嬉しかったが、傍らのふたりから調子に乗るなと怒られそうで、微笑むだけにとどめた。
公民館は宿泊も可能だそうだ。矢野さんは雨が落ち着くまでいさせてもらい、猫は近所の猫友だちに頼むという。倒れた木のせいで自宅はほとんど崩壊してしまった。あれを見たらさぞかしショックを受けるだろう。三人は神妙な面持ちになるが、矢野さんは「なんとかなるよ」と、自分に言い聞かせるように首を上下させる。家と木の始末をするまで元気でいなきゃと、前向きな言葉を聞かせてくれた。
矢野さんを残し、金子さんを伴って、三人は公民館をあとにする。金子さんの傘は壊れていたので、貴重な一本は玲の手に。かいがいしく金子さんにさしかけ、孫と祖父は並んで歩く。それを見ながら圭斗はマルグリットとついていく。ときおり総真がリードを持ちたがるので、ちゃんとコミュニケーションを取ってからだとたしなめた。おれは孤独だ、寂しい、哀しいと、ぼやきが聞こえる。兄には案外茶目っ気があるらしい。
「変なお兄ちゃんだねえ」
圭斗が話しかけるとマルグリットが「わん」と応じた。賢い犬だ。かわいげもある。愛さずにいられない。かつての花子のように。
翌朝、総真と玲は村石家のリビングでだらしなく眠りこけていた。
酒の臭いの充満した空気を入れ換えるべく、二階から起きてきた圭斗は窓を開けて回る。昨夜は夕飯を祖父母とすませた玲が、酒やつまみをぶら下げて九時過ぎにやってきた。
圭斗もコーラで参戦し、十二時までは起きていた。玲の語るアメリカでの学生ライフに引き込まれ、最新のAI事情では驚いたり笑ったり、すぐには理解できなかったり。総真の北陸体験談も面白かった。医学部の内情も興味深い。ときどき思い出話になって、懐かしい過去が語り合えるのも三人ならではだ。
話題が尽きないのは良いことだろうが翌朝の起床は七時半、きつく申し渡して圭斗は自室に引き揚げた。ベッドに入るやいなや眠ってしまい、二時過ぎに階下から笑い声が聞こえたのをぼんやり覚えている。
そして約束の時間、声をかけ身体を小突いたがどちらも生返事だ。玲はソファーの上、総真はラグマットの上。庭に面した窓を開け放つと大雨はすっかり止み、空は白と灰色の濃淡で埋め尽くされている。庭木も土もたっぷり水分を含み、湿った空気が部屋の中に入ってくる。冷える心配はなさそう。このあと日が差せばきっと暑くなる。汗をかいたら起きればいいし、母も帰ってくるだろう。
ふたりのことは見捨てて圭斗は顔を洗い身支度を調えた。表に出て自転車の用意をしていると、マキタのスタッフである原田の車がやってきた。手を振っていつものように挨拶。車は隣家の前で止まり、今日は助手席が空いてるよと、降りてきた原田から言われた。自転車を戻していると金子さんが出てくる。圭斗の顔を見るなり「玲は?」と尋ねる。
「まだ寝てます。起きそうもなくて。総ちゃんも」
やれやれという仕草で金子さんは肩をすくめた。予想の範囲内と言いたげだ。玲も総真もマルグリットの散歩についていくと張り切っていたけれど、ほんとうにそう思うなら夜更かしは控えるべき。そもそも圭斗にばかり犬がなつくというのは勝手な解釈で、散歩ひとつとっても頻度がちがう。ふたりは花子のときも週に一回すればいい方だったが、圭斗には日課となり、風邪を引いて熱を出しているときも行こうとして母に怒られた。
親密度が異なるのは当然の結果だと思う。花子はある意味公平だった。
「昨日の雨はすごかったよねえ。このあたりも降ったんだろ」
原田の運転する車はいつもの公園に向かって出発する。後部座席にはマルグリットの他にもう一匹、レンタル番犬が乗っていた。
昨日の雨について話を振られたら、あの件を言わずにいられない。圭斗は金子さんの友人宅で危うく遭難しかけ、マルグリットに助けられた話をした。案の定、原田は興奮気味に聞いてくれる。犬が褒められる話、活躍する話は大好きだ。
「さすがだな。マルは機転が利いて人命救助の才能がある」
「ですよね」
「でも無謀はよくないぞ。危険な場所に安易に首を突っ込むな」
面白がるだけではなく釘を刺すことを忘れない点、原田もさすがだ。
「反省してます」
「たっぷりしてもらうとして、そういや夏休みって、圭はどうするの?」
いつの頃からかスタッフには「圭」と呼ばれている。
「バイトですかねえ。だらだらしてるだけじゃもったいないし」
「うちの訓練センターなんかどう? おれ、口くらい利いてあげてもいいよ」
「バイト、雇っているんですか」
「表向きは募集してない。でも、専門学校に通ってる子やトレーナー志望なんかが入ってくる。掃除や使いっ走りみたいな雑用の雑用だから、無理することはないけどね」
「専門学校?」
ブリーダーやトレーナーなど、ペットにまつわる実技や知識を学ぶ学校があるそうだ。話を聞いて、なぜ今まで思いつかなかったのだろうと不思議になる。
「バイトの話、ちょっと興味あります」
「そう? よく考えてその気になったら声をかけてよ」
話しているうちにも目的の公園に到着する。後部座席に乗っているもう一匹の犬にはさっき挨拶をしているので「おはよう」以外の言葉をかける。
「急がなくていいよ、リク。今日も元気だね」
八十代のおばあさん宅にレンタルされている雄のシェパード、リクヴェルだ。いかつい外見に似合わず、人なつこくて甘えん坊なところがとてもかわいい。
玲の話によると、レンタル番犬は人手がかかるので採算ギリギリだそうだ。それに反して、貸し出しに値する優秀な犬を育成するのは容易ではない。社としては今後の見通しも楽観視できず課題は多いのだけれども、ペットサービスの総合会社として長く続けたい取り組みであり、新ジャンルも開拓していきたいと、マキタの社長は玲相手に語ったらしい。
採算だの見通しだの、昨夜は厳しい現実を突きつけられ、圭斗は少なからず気持ちが滅入った。できることなら聞きたくなかった。もっと明るく楽しくふわふわとした話だけにしてほしかった。
でも、誰かが切り拓いた現実があるからこそ、自分は今、優秀で忠実な犬たちと朝の散歩を楽しんでいる。
「なあマル」
自分にはわかっていないことがたくさんあるらしい。それに気付かないまま、わかった気になっていることも多そうだ。脳裏に金子さんの顔がちらついた。近所の公園に散歩したとき、金子さん相手に生意気な口を利いてしまった。恥ずかしさを薄めたくてマルに話しかける。
「おれがハードルのことを言ったら、金子さん、変な顔をしてたろ。そんなものがほんとうにあるのかなって」
兄の進路を引き合いに出し、両親からプレッシャーをかけられているように話したけれど、両親はちゃんと考えろと言っているだけなのかもしれない。兄のような立派な進路を選べというのではなく、自分のことをもっと真剣に考えろと。
叶えたい将来像のために試練があるとして、それは人が差し出すものではなく、自分で見つける課題なのかもしれない。総真は医者になる夢を抱いて勉強を頑張った。人付き合いが苦手というコンプレックスを解消すべくサークルに入った。玲にも似たようなことがあったのだと思う。父のもとから離れ、祖父母の家からも巣立ち、海外に留学して今は忙しく働いている。
ふたりとも誰かが与えた課題をクリアしたわけではなさそうだ。
いつもの公園の集合場所に、他の車に乗せられてきた大型犬が待ち構えていた。近隣のレンタル番犬が二台の車に分乗し、犬は計五匹、スタッフは合わせて三人が定番だ。
よそよそしさが簡単には抜けずツンとすましているのはシェパードのアンジェ。最近ようやくそばに寄ってきて、尻尾を揺らしてくれるようになった。真っ黒なドーベルマンのナンシーはシェアハウスで飼われていると聞いた。ときどき小学生の女の子が一緒にやってくる。番犬オーナーの先輩だ。
もう一匹は王者の風格を持つドーベルマンのランス。一番の年長者であり、近寄りがたいオーラに包まれているものの、意外と面倒見が良く新規加入犬に優しい。マルグリットの挨拶に大らかに応じ、じゃれついても嫌がらない。ただし、気まぐれやわがままには目を光らせ、マルグリットがよその犬にちょっかいを出すとすぐにたしなめる。圭斗のこともいち早く認めてくれた慧眼の持ち主だ。
どの犬も世話をしているスタッフ、育成したトレーナーの有能さが感じられて尊敬の念が深まる。採算の難しいビジネスに手を抜かず、続けていきたいと語っている社長についても。
なだらかな斜面の入り口まで進むと、リードの先でマルグリットが「わおん」と声をあげる。
そうだね、全力疾走で行こう。なだらかなのは最初だけで、すぐに急坂へと変わるのだけど。番犬たちは力がみなぎっている。みんな元気で色艶もいい。
走り出してすぐ、圭斗は思った。自分は将来どんな道を選ぶのだろう。その道は自分にあっているのだろうか。途中で替えたくなるだろうか。わからないけど失敗を恐れるのはやめる。昨夜、ふたりの年長者がしきりに「失敗してなんぼ」と繰り返していた。痛い目にいろいろ遭っているらしい。
そして自分なりの課題を目の前に置く。たとえば夏のアルバイト。訓練センターで働くとなったら屋外の作業が多く、たぶん身体はきついだろう。中には凶暴な犬がいるかもしれない。やたら厳しいスタッフがいないとも限らない。だからこその挑戦であり、飛び越えたいハードルだ。
あっと思う間もなくランスに追い抜かれた。よそ見をしたマルグリットのスピードが急に落ちて圭斗は転びそうになる。リクヴェル、アンジェ、ナンシーと次々に駆け抜け、たちまちびりっけつだ。
「行こう、マル!」
呼びかけて笑顔を向けると「わん」という明るい声が返ってきた。
雲間から日が出てきた。アスファルトを蹴ると向かい風が気持ちいい。緑の木々、飛び交う鳥たち、咲きほころぶ花。今ならどこまでも走って行けそう。
未知の世界に飛び込むことを選ぼう。愛犬と併走できる喜びがみなぎるのを感じながら。目指したい高みが、今の自分には見えている。
(了)