六月の下旬、威力を増した梅雨前線に低気圧が襲いかかった。ニュースでは朝から大雨への備えやら交通情報が繰り返され、テレビ画面には天気図が映し出されている。午前中は雨が降ったりやんだりのようだが、午後には線状降水帯が発生する恐れもあるという。
土曜日だったので学校は休みだ。マルグリットの散歩も朝夕と中止になり、いよいよ圭斗は家にこもるだけ。のんびり過ごしていると外が騒がしくなり、玄関ドアの開く気配がした。あわてて出て行くと雨に濡れた総真がいた。金沢からの予期せぬ帰宅だ。
「どしたの。何かあった?」
「なんもないよ。ただ研修の日程がずれてポカンと休みができてさ。車で東京に帰るって奴がいたから乗せてもらった。適当に降ろしてもらうつもりでいたら、急に雨脚が強くなって」
結局、家まで送ってもらったそうだ。車から降りて玄関までの間にも濡れたらしい。タオルを出してやるとそれで頭や肩を拭きながらリビングに入る。
「母さんは?」
「大雨だと心配な施設があるみたいで出て行った。泊まりになるかもしれないって」
「へえ」
「総ちゃんが帰ってきたってLINEしようか。そしたら帰ってくるかもよ」
「月曜日までいるからいいよ。ってか、おまえは明日までひとり?」
「うん。でも母さん、夜勤の日もあるし、泊まりの出張もあるし、神戸に行くときもあるし。よくあることだよ」
紙袋を手渡されたので何かと思ったらます寿司だ。途中のドライブインで買ったという。以前、北陸のお土産ならます寿司がいいと母が訴え、それを覚えていたらしい。
「賞味期限からすると明日でもいいのか。食べたら怒られそうだね。取っておく?」
圭斗の言葉に総真は眉根を寄せる。
「いいけど。今日の飯はどうするんだ?」
「冷蔵庫に作り置きや冷凍食品があるからなんとでもなるよ。おれいつもひとりで適当に食べてる。総ちゃんも今日は出かける予定はない?」
ふたりの視線が自然と窓に向けられた。雨は小降りになっていたが空模様からしてただの小康状態だろう。ゲリラ豪雨がいつ来てもおかしくない。
「予定は何もない。置いてある本やCDで見たいのがあってさ。それと……」
スマホを差し出されてのぞき込むとマルグリットの写真だ。家族のグループLINEがあり、圭斗と母でとなりの金子家に来た犬の写真を載せていた。
「総ちゃんも見てみたいんだ。今日は大雨だから明日だね。すっごくかっこいいシェパードだよ。期待して」
いかつい外見の総真とマルグリットなら、けっこうお似合いかもしれない。映える写真が撮れそうだ。圭斗が思い浮かべている間にも総真は二階に行ってしまった。
それきり顔も合わせず気ままに過ごし、昼食はレトルトのカレーを提案した。総真を二階から呼び寄せ、買い置きの中から好きなのを選んでもらう。客ではないのだから面倒など見なくてもいいのだけれど、総真は食堂付きの寮に住んでいるので自炊経験がなく、圭斗の方が自宅キッチンに慣れている。
「用意するから麦茶とかスプーンとかは出してよ」
声をかけると、「コップどこ」とか「スプーンどこ」とか、いちいち聞いてくる。何も知らないのかと内心あきれたが、母がフルタイムで働き出すまで自分もそうだったかもしれない。
食事のあと、雨脚が強くなったのでテレビのニュースをつけながら、落ち着かない思いで隣家を気にした。どうかしたのかと総真に問われ、雨漏りの話をする。ふつうの雨なら何事もないが、横殴りの豪雨に見舞われるとどこからか雫が垂れてくるそうだ。ポタポタ垂れてくるのがマルグリットのケージの上だったりしたら一大事。
様子が知りたくて電話するとおばさんが出た。雨漏りはなんとかなっているが、この雨の中、おじさんが出て行ってしまったと困惑の声で言う。おじさんの友だちの家で、庭先の木がいつの間にか屋根に向かって傾き、台風でもきたら倒れるのではと心配している人がいるそうだ。台風でなくとも今日の大雨は危ないかもしれない。そう言って金子さんは見に行ったらしい。
「あなたの方が危ないと私も止めたのよ。でも小降りのときがあったもんだから、見てくるだけだって。友だちにかけた電話が通じないとぼやいていたくせに、今はうちの人の電話がつながらないの。ポケットに入れてると気づかないのかしら」
「木の傾いている家ですか」
圭斗には心当たりがあった。友だちにマルグリットを見せたいと金子さんが言うので、散歩がてら行ったことがある。十五分ほど歩いた先にある、とても年季の入った一軒家だ。屋根越しに大きな木が繁っていたのを覚えている。小さな庭に生えているそうで、太い幹と建物の間には隙間があるらしいが、伸びた枝が屋根にかぶさり、大きな図体でもたれかかっているようにも見えた。突風に煽られ今以上に傾いたら、家ごと潰しかねない。
「万が一に備えて、避難した方がいいですよね」
「うちの人もそう言ってねえ。でもどちらもおじいさんだから大丈夫かしら。さっき玲からも電話があったの。大雨のニュースを見て心配してくれたみたい」
「玲ちゃん、今どこですか」
「ああ、どこかしら。聞きそびれたわ」
仕事が忙しいのかマルグリットが来てから一度も帰ってきていない。孫が頼りにならないのなら孫代理の出番かもしれない。
「おれ、その家の場所がわかるので今から行ってみます」
「いいのよ、危ないわ」
「すぐそこですよ」
ふたりを見つけたら家まで連れてくると約束して電話を切った。大急ぎで身支度を調える。渓流釣りが趣味である父が買った雨合羽もあるし、長靴の入り口を封じられる専用のズボンもある。準備していると状況を察した総真が「大丈夫かよ」と聞いてきた。
「途中で出くわすんじゃないかな。そうでなかったら、家まで行くだけ行って、誰もいなかったら帰ってくるよ」
友だちの家の近所にも避難できるところがあるかもしれない。平屋の古い家から離れていれば安心だ。
装備を調え玄関から出ると思ったより風雨は強くなかった。傘もなんとか差せそうだ。一番丈夫そうなものを選び、両手で軸を支えて歩き出す。道行く人や車は少ないが、金子さんと行き違いにならないよう注意深く進まなくてはならない。
徒歩で十五分ほどの距離のはずだが、次第に雨が激しくなり歩きづらい上にときどき道をまちがえる。たどり着くまで三十分もかかってしまった。袋小路の奥にある一軒家だ。手前は使われていないとおぼしき倉庫、裏は駐車場、向かいは灰色の塀が続いていて中に何が建っているのかはわからない。突き当たりは小さなアパートでほとんど朽ち果てている。住んでいる人はいないだろう。
圭斗の住む町はそこそこ整った住宅街で似たような眺めが広がっているけれど、ところどころに古びた建物や家屋が混在している。知り合いでもいなければ気付きもしない、ひっそりとした佇まいだ。
思いがけない二度目の訪問で、ようやく表札を確認する。そうそう矢野さんだった。金子さんと同年代で、黒縁眼鏡をかけた小柄なおじいさんだった。チャイムを押したが反応はない。玄関ドアを何度かノックし、「矢野さん」と声も張り上げたが応じる気配はない。誰もいないのだろう。すでに避難したあとにちがいない。
そう解釈して踵を返すと、不意に何か聞こえた。叩いたりこすったりするような、あるいは鳴き声のようなかすかな物音だ。再びチャイムやノックを試みたが返事がない。意を決し、傘をたたんで外壁伝いに庭へまわった。
家屋の裏にあたる狭い場所だ。出るなり圭斗は息を呑んだ。大木が派手に傾いている。矢野さん宅にのしかかり、屋根の一部をおそらく突き破っている。木造の古屋はすでに歪んでいた。いつからこうなったのだろう。ほんとうなら警察や消防署がかけつけるべき災害では。でも駐車場や廃屋に囲まれた場所なので、家の住人以外に誰が気付けるだろう。大雨の中ならよけいに。
呆然と立ち尽くしたのち、圭斗は我に返って物音がしたことを思い出した。木が倒れ込んでいるのは雨戸をしまう戸袋のあたりで、そこはすっかりひしゃげていた。庭に面した掃き出し窓は形を留めているものの、一枚だけレールから外れて庭にずり落ちている。
割れたガラスもあるのでそれを避けながら圭斗は家に近づいた。窓の外れた開口部から、おっかなびっくり中をのぞき込む。
「誰かいますか。いるなら返事をしてください」
矢野さんはひとり暮らしと聞いている。逃げ遅れた人がいるとしたら矢野さん、もしくは様子を見に来た金子さん?
耳をすましていると弱々しい鳴き声が「にゃん」と聞こえた。猫だ。金子さんと訪ねたさい、矢野さんが三毛猫を抱っこしていたことを思い出す。名前はたしか。
「ミースケ、おい、ミースケか」
にゃあにゃあと返ってくる。どこにいるのだろう。
「出といで、ミースケ。早く逃げなきゃ。おいで!」
声を張り上げるが猫は出て来ない。圭斗は上半身を室内に入れて目を凝らした。時間は午後の二時過ぎ。けれど分厚い雲に覆われて昼間なのに外は暗い。電気がついていない室内は真っ暗だ。
しばらくして目が慣れ、ようやく中の様子がわかってくる。茶の間とおぼしき和室は水浸しの惨状を呈していた。天井の一部が崩落し、そこから多量の雨が吹き込んでいるのだ。
猫は座椅子と本棚の間にうずくまっているらしい。こっちに来いと何度言っても動かない。恐がっているのか、身動きが取れないのか、怪我でもしてるのか。
圭斗は泣きたい思いで身体に力を入れた。距離にしてほんの数メートル。さっと行ってさっと救出すればなんてことない話だ。でも倒れ込んだ木の重みに家はいつまで耐えられるのか。たった今、押しつぶされても不思議はない。
「どうしよう」
迷う。恐い。危ない。けれどすぐそこだ。
あと数十秒。保ってくれ。
圭斗は長靴を履いたまま片足を持ち上げ、ガラス戸の向こう、狭い廊下に足を置いた。土足で申し訳ないが畳は水と濡れた座布団などでぐちゃぐちゃだ。腰を屈め頭を低くして部屋を横切る。座椅子のまわりに本が散らばっていた。これが邪魔して動けなかったらしい。押しのけて猫を抱き上げる。あとは引き返すだけ。身を翻し、一歩、二歩。そのとき何かに足を取られた。猫を抱えたままバランスを崩す。すんでのところで座卓に助けられ、派手な転倒は免れたものの畳を強く何度も踏みつけてしまった。
それがいけなかったのか、不気味に家が軋んだ。上から土塊のようなものが降ってきて思わずしゃがみ込む。壁や柱がみしみしと揺れ、バキッという大きな音がして四角い木材が落ちてきた。
今だ、とっさに片腕で頭を庇い、身体に猫を抱え込む。悲鳴と共に固まる。どれくらいそうしていただろう。嵐が過ぎ去ったかのように、ふっと静かになった。軋みや揺れがおさまり雨漏りだけが続いている。
このすきに逃げよう、と思うのだけれど、落ちてきた木材に下半身が挟まって動けない。どんなに力を入れてもびくともしない。ならば助けをとスマホに手を伸ばすが、木材が邪魔をしてポケットから取り出せない。
そんなバカなと気が遠くなった。こんなところでまさか命の危機に陥るとは。倒れかかっている木の幹を思い出すと血の気が引いた。家の崩壊も恐ろしいが、大木の下敷きになったらひとたまりもない。
どうしよう。どうすればいいのだろう。誰か助けて。
「おーい、誰か気が付いて。おーい」
死んじゃうよ。
「金子さん! でなけりゃ矢野さーん」
圭斗が声を張り上げたり身体をよじったりしていると、遠くで犬の鳴き声が聞こえた。くぐもった声だが、たしかにワンワンと。
「まさか」
頭が混乱して聞こえるはずもない声や音を作り出しているのか。
でもまたワンワンと耳に届く。
「マル!」
脳裏に朝晩の散歩シーンがよぎった。元気いっぱいに躍動する雄のシェパード、灰色と黒の短い毛並み、とんがった耳、圭斗を見上げるまっすぐな眼差し、ふざけてじゃれつくときの身体の重さ、肉球の感触。ありありと思い出され胸がいっぱいになる。
「マル。おれはここだよ。おーい!」
気持ちを声に乗せて外へと飛ばす。もう一度会いたい。もう一度抱きしめたい。
おれを見つけて。
声をふりしぼっていると複数の足音が近づいてきた。
「圭、いるのか。いたら返事しろ!」
「何か言え。物音たてろ。なんでもいいから」
野太い声が二種類。
「家の中だよ。動けないんだ。助けて」
掃き出し窓の向こうに人影が見えた。懐中電灯の光を向けてくる。動かせる左手を懸命に振った。
「おまえ、なんでそんなところに」
「無事か。怪我してないか?」
兄の総真と金子さんの孫である玲だ。
そこからは兄たちが慎重に室内を検分し、木材を少しずつ浮かせ、圭斗を引きずり出してくれた。擦り傷や打ち身くらいで圭斗に大きな怪我はなかった。抱えていた猫も恐がっているだけらしい。
家のそばにいては危ないので、話をする間も惜しんで玄関にまわる。隣の倉庫には空っぽのガレージが併設されていた。そこに駆け込んで雨風を避ける。ようやく絶体絶命の危機から逃れることができて、圭斗は息をつくと同時に跪いた。
ビニール製の合羽をまとっていても、ところどころずれたりはだけたりしてマルグリットはびしょ濡れだった。ごめんねと詫びたい気持ちや、自分を捜し出してくれた感謝の念が交錯し夢中でハグする。どんなに礼を言っても足りない。マルグリットの息づかいやぬくもりが圭斗の強ばりを少しずつ解きほぐす。生気が蘇り、やっと生きた心地がした。
「総ちゃんも玲ちゃんもありがとう。死ぬかと思った」
立ち上がって神妙な面持ちで言うと、総真に「バカッ」と一喝された。
「なんでそうバカなんだ。危ない状況ってのがどうしてわからない。おまえみたいに考えなしで動いたら命がいくつあっても足りやしない!」
「うん」
「大怪我を負ったら、あっという間に死んじまうんだからな!」
「うん」
「おれたちの来るのがあとちょっとでも遅れてみろ。どうなっていたかわからない。おまえ、父さんや母さんに会えなくなっていたんだぞ」
総真の怒鳴り声が湿り気を帯びてすすり上げる洟までまじるので、圭斗もうなだれた。
横から玲が「圭もわかっているよな」と助け船を出してくれた。玲は忙しい日々を送っているようだがこの週末は休みだったらしい。自宅で掃除洗濯に励むつもりが大雨のニュースを見て、にわかに祖父母宅が心配になった。雨漏りの話は聞いている。屋根の不具合も気になる。買物がてら家を出て、途中で電話を入れると、祖父はこの雨の中を友人宅に向かったという。
玲は大慌てで祖父母宅へと急いだ。家に着いてみれば、たった今祖父から連絡があり、友だちと一緒に公民館に身を寄せていると祖母から聞かされた。
ホッとしたのもつかの間、隣家の総真が飛び込んできて事態は一変する。圭斗が出て行ったきり戻らない。電話もつながらず、まさに安否不明の状態。
捜しに行こうとすぐに話はまとまった。圭斗が向かったとされる矢野宅の住所を祖母から聞き、出してもらった雨合羽を着込む。玲が準備している横でマルグリットがそわそわし始めた。挨拶程度のやりとりしかしていないのに、行きたがっているのは玲にもわかった。圭くんを捜すならきっとマルが役に立つ、そう後押ししたのは祖母だ。
マルグリットにも雨具を着せていると、装備を調えた総真がやってきた。ふたりと一匹は連れだって家を出て、足早に住宅街を進み矢野宅にたどり着く。チャイムを押したが反応はない。留守らしい。
どうしたものかと思っていると、マルグリットが吠えだした。家の裏手に行きたがるので、彼を先頭についていくと小さな庭に出た。
大木が大きく傾き、家を潰しかけていた。
「総真の気持ちはすごくわかるけど、圭も反省してるよな。今日はおれの代わりにここまで来てくれたわけだし。おれに免じて勘弁してやってくれ。おれほんと、圭には借りが増えるばかりだ」
「借り?」
(つづく)