午後の授業がなかったので、圭斗は十二時過ぎに高校を出て、通学路にあるラーメン店でお昼を食べて帰宅した。
部活のバドミントン部は一ヶ月前に行われた四月の交流戦のあと、実質的に引退状態だ。部活の友だちやクラスの仲のいい連中は、受験勉強に本腰を入れる者もいれば、進路に迷い選択授業を変えたいとごねる者もいるし、入れる専門学校ならどこでもいいとバイトに明け暮れる者もいる。
圭斗はその三つからはみ出し、寄り道もせずおとなしく帰宅している。家にはどうせ誰もいない。好き勝手なことがいくらでもできる。たとえばゲームとか。課金しなくてもそこそこ楽しめるゲームがいくつかあるので、頭を空っぽにしているうちに日が暮れて、腹が空いたら冷蔵庫のものを適当に食べる。引き続きゲームをしたり、友だちから借りている漫画を読んだり、YouTubeを見たり。
暇つぶしには事欠かないけれど、高三の五月にこれでいいのかとはちょっと思う。せめてバイトでもしようか。使える小遣いがあったら服や靴を買い足したい。美容院にも行きたい。カットしてカラーリングしてパーマかけて。
「バイトかあ」
つぶやきながら住宅街の角を曲がると、珍しく路地に車が駐まっていた。
圭斗の家のとなり、金子宅の前だ。八十歳前後の老夫婦が暮らしている。お客さんかと思うも、金子家を訪ねてくるのはだいたい近所の人で、みんな徒歩か自転車だ。ときおり駐まっている車があるけれど、それは遠目にもわかるくらいの高級車で、今見えているのはありふれたワンボックスカー。どちらかというと業務車っぽい。
少し胸がざわついた。不用品の買い取りや、リフォームなどの見積もりと称して老人宅を狙う人がいると、つい先日も母親から聞かされたばかりだ。
圭斗の家は手前にあるので、車をちらちら見ながら鍵の用意をしていると呼びかけられた。
「圭くん」
となりの庭からひょいと金子さんのおじさんが顔を覗かせる。
「よかった。そろそろ帰ってくる頃かと待っていたんだよ」
「おれを? 何かあったんですか」
良からぬ予感的中かと身構えたが、金子さんは片手を鷹揚に振りつつ、植え込みの際までやってきた。となりとの境目には低木が細々とあるだけなのでやりとりは難なくできる。
「これから犬を見に行くことになってね。圭くん、一緒に行かないかい?」
「犬?」
想像の斜め上を行く言葉だ。
「そこの車でわざわざ迎えに来てくれたんだが、あいにくおじさんひとりになっちゃって。うちのはほら、まだ足を引きずってるし」
金子さんのおばさんはゴミ捨ての途中で転んで足首を痛めたそうだ。これも母親から聞かされたご近所情報。
「犬を見に行くって、おじさん、飼うんですか?」
「まだ決めてない。今日は見学だけ」
となりの玄関が開いて、そこからおばさんが顔を出した。圭斗を見るなり「行って行って」と車を指し、お願いのポーズまで取る。
「おれならぜんぜんいいですよ。犬、好きだし。見られるなら嬉しい」
「おお、よかった。そう言ってもらえると助かるよ」
誰かに何か頼まれたり喜んでもらったりすると、単純に気持ちが上がる。にやけそうになる顔を引き締め、圭斗は自宅の鍵をポケットにしまった。路地に出てワンボックスカーに向かう。おじさんからは「そのままでいいのかい」と言われたけれど、中身の少ない鞄を肩に掛けているだけだ。制服も私服もさして変わらない。わざわざ着替えるまでもないだろう。
車のそばには若い女性がひとりいた。歩み寄る圭斗に向かって「こんにちは」と微笑む。
「スマイルペットサービス・マキタのスタッフで、戸田怜香と申します」
ペット。サービス。スタッフ。「ふーん」と思いながら頭をちょっと動かす。
「金子さんちのとなりに住んでる村石圭斗です」
「先ほどお話を伺いました。金子さんと親しくされているんですね」
やりとりしているところに当の金子さんがやってきて後部座席に乗り込む。圭斗はそのとなりに座らせてもらった。
行き先は「マキタ・トレーニングセンター」という施設だそうだ。多摩川沿いにあると言われても圭斗にはピンと来なかった。これまで何ひとつ縁もゆかりもなかった場所だからだろう。出発して十五分ほど経った頃、道路脇に設置された看板を教えられ、そこからひとつ目の信号を左折すると駐車場はすぐ。
三十台は優に駐められるような広い駐車場だった。戸田に案内され、車を降りて隣接する施設に移動する。三階建ての建物の向こうには屋外グラウンドもあるそうだ。自動ドアを開けて中に入ると受付があり、戸田が書類を書いて首から提げるケースをもらった。赤いストラップで「guest」とだけ書いてある。それを首にかけて二階に上がる。
二階はカフェラウンジになっていた。明るいベージュを基調とした広いスペースで、ところどころに観葉植物やポップなイラストがあしらわれている。絵柄はかわいい犬たち。犬種はいろいろありそうだ。
テーブルや椅子が数多く配置され、フードコートのように飲食もできるらしい。圭斗たちが訪れたときも数組の利用者がいて、奥のカウンターから飲み物を受け取っていた。フードコートとのちがいは空いていて静かな点と、ほとんどの人が犬を連れている点。犬がいない人は、トレーニングのために預けているのだろうと戸田に教えられた。
「トレーニングってしつけの?」
「そうですね。あとはコンテストに出るための訓練や、怪我や病気からのリハビリなど、いろんなカリキュラムが用意されているんですよ」
二階にはテラス席もあり、カフェを抜けてそこに出ると圭斗の口から歓声がもれた。
「すごい。犬がいっぱい」
整備されたグラウンドが一望の下だ。小型犬が元気いっぱいに走り回っているエリアもあれば、中型犬がフリスビーに興じている場所もある。中央では大型犬が飛んだり跳ねたりして、訓練中だろうか。トレーナーらしき人が指示を飛ばしている。
「目がキラキラしていますよ。犬がお好きなんですね」
戸田に言われ、圭斗は照れ笑いと共にうなずいた。
「でも、飼ったことはないんです。親が犬アレルギーでうちでは無理と言われて。かまうことができたのは金子さんちにいた花子だけ」
同意を求めるように顔を向けると、金子さんは懐かしそうに目を細めた。
「圭くんが一番かわいがってくれたね。花子もよくなついていた」
「金子さんと花子が優しかったからですよ。おれ、ほんとうに子どもだったから、散歩もお世話も手伝う以上に邪魔してたかも」
戸田も知っているらしく、犬の種類を口にする。
「キャバリアでしたっけ」
久しぶりに聞く言葉だった。当時のことを思い出し、圭斗の胸にほろ苦さが甦る。
金子さんの友だちが病気になり、転居を余儀なくされ、犬が飼えなくなるという事情があったらしい。圭斗が今の家に引っ越して間もなくの頃、今から十一年前だ。半ば強引に押しつけられる形で犬が転がり込み、金子さんは明らかに持て余していた。でも圭斗にとっては願ってもないサプライズに他ならない。
そのとき花子は十歳を超える老犬だったものの、柔らかな毛並みはふわふわで真っ白。目のまわりと垂れた大きな耳は明るい茶色だ。つぶらな瞳は愛らしく、性格は穏やかで人なつこい。何かと騒がしい子どもにも鷹揚なところなど、夢中にならないほうがおかしい。キャバリアという犬種はそのとき初めて知った。体重五キロほどの中型犬だった。
「よかったら、施設内を見学しますか。キャバリアがいるかどうかはわかりませんけど」
戸田の申し出に、金子さんが「行っておいでよ」と微笑んだ。金子さんこそ見学に来たのではと思ったが、自分はテラスやカフェで待っていると言う。施設の雰囲気がわかればいいらしい。
金子さんに背中を押され、戸田の案内でテラスをあとにする。一階の室内トレーニング場では、トレーナーがつきっきりで小型犬や中型犬に歩行訓練をしていた。リードを持った人間に合わせて歩き、止まるという基本動作だが、難なくこなせる犬もいれば嫌がったり、走り出したりする犬もいる。わんわんきゃんきゃんと、あちこちから鳴き声が聞こえてくるのでにぎやかだ。
そこをあとにして屋外に出る。戸田は大型犬が躍動しているエリアに連れて行ってくれた。障害物競走のようにトンネルやシーソー、ハードルなどが置かれている場所で、ホイッスルと共に犬が一匹ずつ飛び出していく。飼い主がそれに伴走し、障害物に誘導してトンネルをくぐったり、ハードルを飛び越えたりして、順番にクリアしていく。
戸田から聞いたところによれば、こういった障害物競走のコンテストが開かれているそうだ。出場に向けての練習でもあり、飼い主との絆を深めて一緒に楽しむ時間にもなっているという。
最後は三階のペットホテルを見学させてもらい、二階のカフェに戻る。ペットホテルのフロアには美容サロンもあり、犬に関わるひととおりのサービスが完備されている。動物病院は敷地内の別棟にあり、手術や入院にも対応できるらしい。
カフェで金子さんと合流し、興奮冷めやらぬまま、圭斗は金子さんと共に戸田の運転する車で帰路についた。
夕飯を食べ終わり適当にテレビをつけていると母親が帰宅した。村石家は四人家族だが、父親は神戸に単身赴任中。三つ年上の兄は金沢の大学に進学したので寮住まいだ。家にいるのは圭斗と母だけ。その母も介護施設でパートとして働き始め、二年前から正社員になった。夜勤もあるし出張もある。家にいる時間が一番長いのは圭斗で、ひとりの休日もひとりの夜もひとりの食事もだいぶ慣れた。
母は夕食を作りながら、あるいは食べながら、仕事の話や帰りがけに寄ったスーパーの様子など切れ間なくしゃべる。いつもだったら適当なところで二階にあがってしまうのだが、今日は途中で口を挟んだ。金子さんに頼まれて一緒に犬を見に行ったと。
「何それ。初耳よ。金子さん、犬を飼うの?」
「さあどうかな。今日は施設を見ただけ。具体的な話はなかったんじゃないかな」
「譲渡会があるのかしら。ほら、飼い主が手放した犬と、それを飼いたい人とを引き合わせる場所があるって、ネットで見た」
「施設にいたのは飼い犬ばかりだったよ。もしかしたらときどき、保護犬の斡旋会をやってるのかもしれないけど」
母は「犬ねえ」と考え込む顔になる。
「かわいいワンちゃんでもいれば金子さんち和むわね。玲くんはしばらく帰りそうもないし」
金子さんには娘さんがひとりいたそうだ。でも二十年近く前に病気で亡くなった。娘さんには子どもがひとりいて、それが母の言う玲くん。圭斗より十歳年上なので今は二十八歳になる。お母さんが亡くなってからお父さんが再婚したのだけれど、新しい家庭に馴染めなかったらしく、お母さんの実家である金子さんの家で暮らすようになった。そのあたりの事情は大人たちの会話から察したものもあれば、母から聞き出したものもある。
十一年前、村石家が今の家に引っ越してきたとき、玲は金子家にやってきてまだ数ヶ月だったのだと後々知った。金子さん夫婦からすると、娘の忘れ形見を引き取ったすぐあとに村石家が引っ越してきて、その数ヶ月後に犬を押しつけられるという、めまぐるしい一年だった。
「金子さんたちけっこうなお年だけど、犬は飼えるのかしら。でももしそうなったら圭斗が散歩でもなんでも手伝ってあげればいいわね。そういうの嫌いじゃないでしょ」
「まあね」
「犬の世話だけはちゃんとやってたもんね。お母さん、あのとき圭斗をずいぶん見直した」
「相手が花子だったからだよ」
その花子は圭斗が四年生のときに死んでしまった。十五歳になっていたので寿命だったらしい。喪失感は大きく、未だに悲しくて寂しくてやりきれない。
またあの別れを味わうのかと思うと犬には関わりたくない。そう思うのに、訓練センターでははしゃいでしまった。小型犬にも中型犬にも大型犬にもときめいて、できることなら一緒に駆け回ってみたかった。手を伸ばして頭や背中を撫でてみたかった。
翌日、金子さんから再び見学を誘われ断れるはずもない。むしろ待ってましたと前のめりになる。午後に授業の入っている日もあり「さぼってもいいんですけど」と言うと、金子さんはダメだよと首を横に振り、土曜日の午前中をセッティングしてくれた。
前回同様、約束の日時に戸田が車でやってきて、ふたりを乗せて訓練センターに向かう。今度は金子さんも施設内を見てまわった。といっても簡単な説明を聞いてうなずいたり、「ほう」と声をあげるのがせいぜい。
力が入るのは圭斗の方で、挨拶ついでに飼い主たちとしゃべり、犬種や年齢を教えてもらい、許可を得て触らせてもらった。屋外では手の空いているトレーナーが訓練の意味やノウハウを聞かせてくれ、今いる中で優れているのはどの犬か、あるいは一番高額な犬はどれなのかなど、自由に質問もさせてもらった。
途中から金子さんは二階で休憩していた。一緒にあがっていた戸田が戻ってきて、これから金子さんに犬の紹介をすると言う。
「圭斗くんも立ち会いたいんじゃないかと思って」
「今から?」
「準備ができたの」
「見たい。行きます。ただちに」
話をしてくれたトレーナーに礼を言い、あわただしく二階にあがる。カフェではなくテラスだそうだ。
金子さんの姿を見つけ駆け寄るより先に、一匹のシェパードが圭斗の目に入った。灰褐色の短い体毛におおわれた大型犬で、生気に満ちあふれ堂々としている。トレーナーがリードを掴み、まっすぐ金子さんのもとに歩み寄る。二メートルほど離れたところでピタリと止まる。
若々しい犬に比べて金子さんは痩せた猫背。顔も首も手も皺だらけだ。不釣り合いとしか思えない。
「あれが紹介する犬?」
圭斗の問いかけに、戸田は胸を張るようにして答える。
「雄のシェパードで四歳。マルグリットという名前です」
圭斗は金子さんのとなりに回り込み、耳元で尋ねた。
「シェパードを飼うんですか」
飼えるんですか、と含みを持たせたつもりだ。金子さんに世話はできるのか。散歩ひとつとっても大型犬を満足させるには相当な運動量が必要なはず。十年前の花子だって大変で、孫の玲と隣家の圭斗が手伝っていた。花子はそこそこ高齢で中型犬だったのに。
もしも戸田が無理な犬を勧めているとしたら、NOを突き付けるくらいの気概はあるつもりだ。隣人として。
「飼うというか、正しくはレンタル番犬って言うらしい。借りるんだよ」
金子さんが小声で返す。
「あの犬がうちに来て一緒に暮らし、番犬の役目を果たしてくれる。でも散歩などの世話はこちらのスタッフがしてくれるんだって」
意味がわからず視線を彷徨わせると、戸田と目が合う。彼女は首を縦に振る。
「だから世話に困るってことはないみたいだよ」
「番犬をレンタル?」
「うん。もちろん料金はかかる。毎月ざっと……」
耳打ちされて驚く。かなりの金額だ。
「それを玲が出してくれるって言うんだ。費用は出すから番犬を家に置いて、安全に暮らしてほしいって」
聞いたとたんポンと手を叩きたくなった。いきなり視界が開けるような思いだ。
玲はとても優秀で、名門私立学校から大学に進学し、二十歳でアメリカの、圭斗でも聞いたことのある大学に留学した。今はAIエンジニアとして仕事に就き、かなりの高収入らしい。あるとき、圭斗の父親が自分より稼いでいるのかもしれないと言い出し、村石家は騒然となった。二十代の若者があっという間に五十代のおじさんの給料を飛び越える、そんなサクセスストーリーが身近にあるなんて。
金子さん夫妻はそういったことを自慢する人たちではないので「かなりの高収入」の真偽はわからないし、ふたりの暮らし向きはつましい。でも玲の運転する車はいかにも高そうで、身に付けているバッグやサングラスにもセレブ感が漂っている。圭斗はしばらく顔を合わせてないが、母親は二ヶ月ほど前、玄関先で立ち話をしたと興奮していた。わざわざ挨拶に来てくれて、アメリカ土産のクッキー詰め合わせをもらったそうだ。超高級品の。
金子さんは下水管の工事や浄水器の設置で、疑わしい業者と関わってしまったらしい。工事が始まってから圭斗の母親が心配し、金子さんのおばさんに話しかけたところ、法外な料金であることがわかった。下水管についてはすでにお金を振り込んだあとで、工事もあらかた終えていたのでどうすることもできなかったが、浄水器の設置だけは止められた。高齢者相手の仕事をしている母親が、家族に対するのとはまったく異なる優しい物言いで、これからはなんでも相談してくださいと語りかけると、おばさんは目を潤ませてうなずいていた。
その話を玲は金子さんたちから聞いたのだろう。お礼をかねて村石家に顔を出した。そして彼なりに祖父母を案じ、なんとかしたいと思ったにちがいない。
「ほんとうは自分が戻ってくればいいんだけど、真夜中の会議や泊まり込みがあるのでかえって心配かけると玲から言われてね。そりゃそうだ。都内の便のいいところでのびのびやってほしいよ。こっちはこっちで穏やかに暮らしている。たまに顔を見せてくれるだけで十分だ。余計な気遣いはいらないと言ってるんだが。まあ、このところ物騒な事件が相次いでいるからね」
「玲くん、どこでレンタル番犬なんて知ったんだろう」
「仕事の付き合いでここの社長さんと出会い、AIとペットの話をしているうちに聞いたらしい。この前も玲が一緒にこの施設に来るはずだったんだ。でも急な出張が入り、アメリカに行ってしまってね。それで急遽、圭くんに付き合ってもらった」
話を聞いているうちに腑に落ちるものがあった。戸田がわざわざ車で送迎をしてくれるのは、金子さんがレンタル番犬のオーナーになりそうだからか。あるいは玲を知る経営者からよろしく頼むと言われているからか。もしかしたらおまけでついて来た高校生に親切なのもそのせい?
「圭くん、どう思う?」
「どうって」
「犬を飼う件だよ。今さらね。こんな大きな立派な犬がうちに来るなんてピンと来ないし。やっていけるのか不安でもあるし」
金子さんのためらいはもっともだ。予想だにしない孫からの提案に、ついていけない気持ちはよくわかる。でも。
「おれ、自分のことしか考えられなくて。自分が思っていることだけを正直に言ってもいいならば」
「いいよ、いい。なんでも言ってみて」
圭斗はさっきからずっと同じ姿勢で足を止めているシェパードに目を向けた。均整の取れた綺麗な体形だ。灰色と黒の毛並みで耳や鼻先が黒い。顔つきは鋭く眼差しは深い。性格はおそらく勇敢でまっすぐ。
「かっけーです。ほれぼれするほどかっこいい。こんな犬がそばにいたらどんなにいいか。やばい。想像するだけで泣けてくる」
照れ隠しに笑うと、戸田が目を細めてうなずいた。リードを手にしたトレーナーも破顔する。金子さんは「そうだねえ」と呟いた。
「頼もしそうな犬ではあるね。花子とぜんぜんちがう」
「だからいいんじゃないですか。見た目も大きさも何ひとつ似てなくて、鳴き声や動きもまったくちがう。新しい毎日が始まりそう」
「圭くんは仲良くなれそうかい?」
さあと首をひねると、トレーナーが声をかけてくれた。
「よかったらもう少しそばに来ませんか」
「いいんですか」
「大丈夫ですよ。マルの方も、あなたがどんな人なのか興味津々です」
名前はマルグリットだったか。愛称は「マル」。口の中で反芻する。もう大好きだ。
圭斗は近づいて腰を落とし、「こんにちは」と声をかけた。マルグリットは艶やかな双眸を圭斗に向ける。トレーナーがうなずいたのでにじり寄り、腕を伸ばして背中に触れた。温かい。見かけより硬くないけれどしっかりした短い体毛だ。
ふいに花子が脳裏をよぎった。亡くなる少し前、日に日に弱っていく姿が哀しくて恐くて、様子を見に行っても声をかけることができなかった。花子はじっと固まる圭斗に気付き、かすかに尻尾を揺らした。何か言いたげに口元を動かした。一緒に過ごした時間がみるみるうちに遠ざかり、幻のように消えてなくなる無情さを感じて、小学生だった自分は打ちひしがれたけれど、今初めて、何もなくなっていないと強く思う。
花子との出会いがあったからこそ、金子さんに誘われるまま訓練センターにやってきた。目の前にいる犬は花子が引き合わせてくれた。一緒にいたのはほんの四年間。でもちゃんと繋がっている。
「すみません。思い出すことがあって」
潤んだ目元をあわてて拳で拭った。マルグリットの喉がグルルと鳴り、いたわられているような気がする。黒い鼻面を押しつけてくる。圭斗は夢中で大きな体をハグしていた。
(つづく)