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「うちだけなら二の足を踏みそうだけど、圭くんがいると思うとやれる気がしてきたよ」

 帰りの車の中で金子さんはそう言った。気恥ずかしさもあって圭斗が肩をすぼめると、金子さんは急いで付け足す。

「圭くんを一から十まであてにしてるわけじゃないよ。圭くんも高三だもんな。卒業後の進路次第では家から離れるかもしれない。そうなったらなったで、あの犬がいてくれた方が心強いか」

「おれはどこにも行きませんよ。家から通える専門学校に行くか仕事を見つけるか、ひょっとしたら何もしないか」

「大学は?」

 問われて圭斗の眉根が寄る。

「親からは勉強したいことがあって、それが学べる学部にに入るために、ちゃんと頑張れなきゃダメと言われています。だから受験はないんです」

 金子さんは何も言わなかった。返す言葉が浮かばなかったのだろう。戸田にも聞こえたはずだが黙ってハンドルを握っている。車内の沈黙をやり過ごし、圭斗は窓の外を眺めた。

 横断歩道、信号、クリーニング店、美容院、スーパーマーケット。

 なんの面白味もない風景につまらない日常が詰まっている。流されて時間は過ぎていく。ゴールデンウイークのあとは雨がしょぼしょぼ降る梅雨になり、夏休みが来て秋になり、手袋だマフラーだと思っているうちにも雪が降ったり降らなかったりして、年が明ければもう卒業だ。

 やりたいことがなく、なりたいものもない毎日を、たぶん自分は持て余している。でもそこに思いもよらない異分子が、水面に落ちる木の葉のように舞い込んできたとしたら。 車窓から見えているものの輪郭がやけにはっきりする。ガードレールがあって街路樹があって小学校があって。そこを歩く人の足下に目が行く。犬を連れてやしないかと。

 マルグリット。あの犬が今の日常に入ってきたら、自分の毎日も変わるだろうか。

 

 圭斗はそのあともう一回、見学に付き合い、金子夫婦ふたりでの交流が順次進められ、正式にマルグリットのトライアルが決まった。迎えるに当たり金子宅は大型のケージを置くべく、不用品が処分され、庭の植木も整理された。話を聞いた圭斗の母は休日返上で手伝い、もちろん圭斗もこき使われた。

 準備万端整えられ初めての見学からひと月半、ついにマルグリットがやってきた。今か今かと待ちわびていたのは圭斗だけではないだろう。でもその圭斗すら車から降りて玄関に向かうマルグリットの姿を見て眉をひそめずにいられなかった。

 築五十年を超える木造二階建て住宅に、厳しい面差しのシェパードがまったく合っていない。事件現場に現れた警察犬のようだ。くんくん嗅ぎまわり、今にも遺留品の捜索を始めそう。緊張感や不穏な空気が漂い、やたら重々しい。リードを握るトレーナーはさしずめ鑑識か。

 落ち着かない気持ちで見守っていると、犬が初日にいたのはほんの二時間ほどだった。マルグリットは家にあがった後、開け放たれた窓から庭に降りて、植え込みの向こうに立っている圭斗に気付いて尻尾を揺らす。訓練センター以外で会ったのは初めてなのに、誰なのか瞬時に理解するところはさすがだ。

 翌々日にまたやってきて滞在時間が延びていく。トレーナーが席を外すようになり、初めての宿泊があり、それが二泊三泊と増えていき日常になっていく。

 金子夫妻だけでなく、圭斗も母も犬のいる生活になかなか慣れずそわそわしてしまうが、当のマルグリットは超然としていた。おばさんによれば、窓辺にラグマットを敷いてもらうと、お気に入りの場所として自由にうたた寝をするし熟睡もするそうだ。おじさんやおばさんを捜して家の中を歩きまわり、風呂掃除をしげしげとのぞき込み、台所仕事を飽きずに見守る。その一方、郵便配達や宅配便が来たときの動きは俊敏で、あまりの威勢の良さにおばさんは何度も吹き出したという。圭斗や母が訪問すると、尻尾を振って待ち構えているのですぐわかるらしい。

 マルグリットが金子家の一員になると朝晩の散歩も始まった。一般的な飼い犬は朝だと七時前後の散歩が多いようだが、マルグリットの場合はスタッフが八時半頃に車でやってきて広い公園に連れて行く。そのさい、近くにいるレンタル番犬も同乗して、公園ではさらに他のグループと合流する。夜の散歩は五時から六時までが定番だ。

「おれも散歩についてっちゃダメですか」

 マルグリットが来て二週間が経つ頃、圭斗は思い切って顔なじみのスタッフに聞いてみた。原田という年配の男性で、父親よりも年上で、金子さんよりも若そうだ。

 花子のときは散歩にも行ったし、金子家の室内や庭先で遊ばせることもあった。でもマルグリットは身体が大きいので庭で運動したりや遊んだりするのは難しい。生け垣からのぞき見ているだけではストーカーのようだ。

「かまわないよ。一応、本部にも届け出ておく。でも車がなあ」

 車の後部座席は背もたれを倒して犬を乗せている。

「おれなら自転車でついて行きます」

 目的地である公園まで大した距離ではない。着いた先で一緒に過ごせれば十分だ。なんて物好きなとあきれられるかと思ったが、原田は日に焼けた顔をほころばせ、「体力勝負だよ」と。

「現役高校生に言う台詞じゃないか。でも大型犬の散歩はきついからね。何か運動はしてた?」

「四月までバド部でした。そのあと引退しちゃったんで身体はなまっているかも」

「だったらちょうどいいよ。一緒に動こう」

 原田はパートタイマーで、主に朝晩の散歩や訓練センターのサポート役をしているそうだ。もともと犬好きで、家でも二匹飼っているがそちらは小型犬なので奥さんに任せているという。現役時代はサラリーマンで定年後に今の仕事に就いた。まったくちがう職種なので新鮮なのはもちろん、学ぶべきことが多くて頭も疲れると笑う。

 このあたりを担当しているスタッフは原田を含め五人いて、そのうち三人が二台の車に分かれて犬たちを連れてくる。マルグリットを含めて大型犬が五匹だ。一匹ずつ動きや癖が異なるのはもちろん、じゃれ合って怪我をさせてはいけないし、他の散歩犬が絡んできたときの離し方にもノウハウがいる。歩き方の変化などから痛めている箇所にいち早く気付いたりもする。目配りは常に必要で、ただリードを握っていればいいものではない。

 レンタル番犬だけでなく、ときには一般ユーザーから散歩を請け負う業務もあるそうで、その場合も規定料金を受け取る。

 犬種によって、個体によって、適切な運動量が異なるという話は考えさせられた。少なければ身体がなまって肉体的にも精神的にも支障をきたすし、多ければ怪我につながる。適切がいかに重要なのかは圭斗にもわかるが、相手は一匹ずつすべて異なる生き物だ。見極めるのは常に難しい。

 つまり優秀なトレーナーとは、犬との信頼関係が築けて指導が巧みというだけでなく、細やかな部分まで犬の個性を見分けられて、ちょっとした変化を見逃さず、心身について総合的な判断がくだせる人を指すようだ。

 犬の散歩そのものは、大型犬が五匹も揃って壮観だ。半端ない迫力だが、公園にはウォーキングやジョギングなどで訪れている人もいるので恐がらせないよう、人気の乏しいところを選んで歩く。すれちがう人にはにこやかに会釈する。そして原田の言ったとおり内容はなかなか過酷だった。起伏に富んだ広い公園で駆け上ったり、駆け下りたり。何度もやってると息が上がる。最初はギブアップして先に行ってもらったほどだ。三回目くらいからついていけるようになり、五回、六回と続けるうちに清々しい汗がかけるようになった。

 原田たちもローテーションを組んで連日は避けている。無理は禁物と言われ、圭斗も同行するのは土日の朝や平日の夕方にした。レンタルではなく飼い犬の場合は、平日を軽めにして週末にドッグランで運動させるなど、やり方はいろいろあるらしい。

 散歩ひとつとっても知らないことばかりで興味は尽きず、エネルギー源もあるので身体はきつくても続けられる。マルグリットだ。

 シェパード特有の大きな三角形の耳も、長いマズルもずらりと並ぶ牙も、勇猛で力強く風格さえ感じさせるのに、思いの外、人なつこくて甘えん坊で気が優しい。散歩を通じて距離が縮まり、ちょっとした呼びかけにも応じてくれるし、手招きすると嬉しそうに駆け寄ってくる。自分に向けられる眼差しに混じりけのない好意が感じられ、たまらなく心が満たされる。思い切り動くことも、大きな声を出すことも気持ちいい。

 

 学校でもさんざん吹聴したので友だちの何人かは見に来てくれた。「賢そう」「強そう」「かっこいい」という小学生並みの反応で、じっさいに触ったのはひとりだけ。犬への関心度はまちまちなのだと、今さらのように圭斗は思い知る。自分のように大はしゃぎするのはまれなのかもしれない。

「圭くんの友だち、みんな元気でいい子たちだね」

「うるさかったですよね。すみません」

「ううん。ぜんぜんだよ」

 にぎやかな訪問ラッシュが収まり、金子さんと共に近所の公園に来ていた。六月とはいえ日差しは夏を思わせる強さなので、曇りの日の夕方にどちらからともなく声をかけ合う。おじさんひとりでマルグリットのリードを持つのは不安らしい。圭斗にとっては近所の気まぐれ散歩がほどよい気晴らしになる。

「いつ来てもらってもかまわないんだけどね。圭くんの進路はどうなってるの? ほら、友だちも聞いてたろ。大学はほんとうに受けないのかって」

 公園のベンチに金子さんと並んで座る。ここで小休止するのもいつものパターンだ。マルグリットも心得たように傍らに寝そべる。

「うちは兄ちゃんが医学部じゃないですか。本人がすごく頑張って入ったのは知ってるし。公立とはいえ学費以外にも教材とかにお金がかかるみたいで、親がしゃかりきに働いているのも見ているし。そんな中で、行きたい学部があって、受験勉強を頑張れるならいいと言われると、ハードル高いです」

 兄の総真は昔から何を考えているのよくわからず、付き合いにくい相手だった。ひょろりとした小柄な圭斗に比べ、総真は大柄でごつくて顔も恐い。黙っていても怒っているように見えるのに、笑うことはほとんどなく口数も少ない。無愛想で近寄りがたいと、親戚にも友だちにも言われてきた。

 ただその兄は勉強がよくできて、中学から本腰を入れて偏差値の高い都立高校に進み、さらに医学部に入って医者になると言い出した。両親も圭斗も驚いた。勉強は苦手で成績は中の中くらいをうろうろしている圭斗にとって雲の上のような話だ。口を挟むことさえできなかった。両親は驚いてばかりもいられず、主に金銭面での意識改革を迫られた。父は地方への辞令が下りたら早期退職して別の仕事に就くと前々から公言していたが、それを引っ込め三年前から神戸に赴任している。パート勤務だった母はフルタイムの社員になった。

 そういった家庭事情があるので、親の言う「行きたい学部があったら」も「しっかり受験勉強を頑張れるなら」も、圭斗からするとかなりの重圧だ。兄のような目標も根性も自分にはない。

 鬱屈した思いを、このさいとばかり正直に話すと、金子さんはなぜか訝しむ顔になった。

「総ちゃんと圭くんはぜんぜんちがうから、君の言うハードルってほんとうにあるのかな」

 圭斗は目を瞬いた。出来のいい兄がプレッシャーという愚痴はクラスでも部活でもぼやいていて、みんな「そりゃ半端ないよな」とうなずいてくれる。かわいそうに、気の毒にと同情の言葉が続く。でも金子さんは、まるで圭斗が的外れのことを言っているかのように首を傾げる。

 なぜだろう。誰がどう見ても立派な兄とイマイチな弟の差は歴然としているのに。総真がもっとランクの低い大学の、パッとしない学部に行ってくれていたら、自分はもっと気楽でいられたのに。

 声に出せない本音が胸の中に渦巻き、圭斗はベンチから離れてマルグリットに寄り添った。いつも通りの息づかいが聞こえてホッとする反面、慰めをほしがってばかりの自分に歯噛みする。夕暮れの公園でうずくまっている姿が今の自分そのものだ。立ち上がらなくてはならない。

 でも立ち上がってどうする? どこに向かって自分は歩いて行けばいいのだろう。

 

 

(つづく)