最初から読む

 

 芳子と留以子が公民館まで引き返すと、手前の公園に人だかりができていた。フェンスに沿って植えられた木があり、その中の一本の根元に、不気味な唸り声をあげる黒い塊がいた。

 ランスだ。見上げる視線の先に誰かいる。追い詰められた犯人であることは察しがついた。逃げ場を失い、とっさにフェンスによじ登って、降りるに降りられなくなったのだろう。闘争心むき出しの大型犬に威嚇され、まさに袋のネズミだ。

 ランスの傍らには神林がいる。芳子は安堵の息をついた。いつの間にか、神林に任せておけば安心と思っている。

 さっきとは別の新たなパトカーが連なってやってきて、現場に緊張感が走る。駐まったパトカーから警察官が次々に降りてきた。彼らが人混みを掻き分けると、神林はランスを両腕で抱え、興奮しきっているランスを木の根元から離そうとする。大丈夫大丈夫と声をかけ、宥めながらの作業だ。

 警察は野次馬たちも後退させ、芳子たちも後ずさった。騒ぎを聞きつけ新たにやってくる人もいて周囲はごった返す。前方から歓声やら拍手やらがあがった。犯人が無事確保されたらしい。口々にそんな情報が拡散され、みんなてんでにガッツポーズを取る。芳子も留以子も顔を見合わせ微笑んだ。

 ふと人だかりの輪がほころび、離れた場所にいたランスの姿が見えた。神林もこちらに気付いたようでランスに教える。犬の視力は弱いので芳子を確認することはできないだろう。でも目が合ったような気がした。

「ランス!」

 思わず呼びかけ手を振る。その瞬間、ランスの首がぐんと伸びた。人垣がまた動き視界が遮られてしまうのだけど、神林が両手を大きく動かし人々に向かって声を張り上げた。

「どいてください。ランスが通るので。すみません、場所を空けてください」

 騒然という言葉がふさわしいほどあたりはざわついている。警察官も多数交じっている。そんな呼びかけなどとても通じないと思ったのに、人垣がふたつに割れて真ん中に道ができた。

 道の先に黒い塊がいて「ワン!」とひと声鳴く。

 自分に向かって駆け出してくるのを見て、芳子はその場に両膝を突いた。身体に力を入れて腕を広げる。いつもリビングでやっているポーズだ。

 かわいい愛犬が身を躍らせて飛び込んできた。といっても愛犬は力の加減を忘れていない。ほんとうに体当たりしたら主がひっくり返ってしまう。

「ランス、心配したのよ。いきなり走っていってはダメでしょう」

 猛烈な勢いで甘えてくるので受け止めるので精一杯。叱るのはあと回しだ。

「よしよし、わかったわかった。頑張ったのね。悪者をやっつけたのね。えらい。みんな無事でよかった」

 あとは何を言えばいいだろう。ランス、ランス、元気に戻ってきてくれてありがとう。きっと一番言いたいのはそれだ。

 

 町内に現れた四人の男たちは器物破損、家宅侵入、傷害、窃盗といくつもの容疑をかけられ身柄を確保された。その夜は町内会長をはじめ、関わった住民たちが警察の事情聴取に応じたそうだ。

 みんなが口々に言うので、町内の飼い犬たちが犯人確保に一役買ったことは警察の知るところとなった。特に逃亡犯のひとりが木にしがみつき、ランスに吠えられていたのは警官たちも見ている。一番活躍した犬として詳しい話を警察は聞きたがったが、そのあたりは神林が引き受けてくれた。

 一件落着後、ランスを抱擁していた芳子のもとに神林がやってきて、手際よくリードを装着させてくれた。そのとき留以子が「どうします?」と芳子に耳打ちしたのだ。

「お疲れでしょう? もしなんでしたら警察とのやりとりは祐輔くんに任せては?」

 祐輔が誰なのかと一瞬思ったが、神林のことらしい。ねえ、という留以子の目配せに彼はうなずく。

「ランスのだいたいの動きはわかっているので僕の方が適役かも。出過ぎたことでしたら遠慮せずに言ってください」

「出過ぎたなんてとんでもない。最初にランスを捜してとお願いしたのは私よ」

「だったらぼくが話しておきましょうか」

 申し出を聞くやいなや緊張がほどけたのか身体がふらついた。留以子と支え合っていると、警官たちがやってきて氏名や住所を尋ねられた。ランスの飼い主であることも伝えたが、事件当時、行動を共にしていたのは神林だと言うと、話は彼から聞くことになった。ランスも拘束を免れ、芳子たちと共にパトカーに乗って自宅まで送り届けられた。

 

 翌日の昼過ぎ、チャイムが鳴ったので誰かと思ったら留以子だった。

 玄関ドアを開けると挨拶もそこそこに折りたたんだスカーフを差し出される。

「これ、もしかして久住さんのじゃないかと思って」

「私のよ。昨日、リードと一緒に持って出たの。すっかり忘れてた」

 なくしたことにさえ気付いていなかった。

「うちの人が公民館の近くで見つけたの。どこも汚れてないから、落としたばかりだろうって。よかったわ、大当たり」

 芳子は礼を言って、もしよかったらとお茶に誘った。留以子は快く応じてくれたのでリビングのソファーに座ってもらい、お気に入りの茶葉で紅茶をいれた。ランスも留以子を見てご機嫌だったがしばらくすると寝てしまう。午前中警察が来たので気疲れしたのだろう。警察の用事は神林の話の確認や、ランスそのものの確認など。

「昨日はほんとうにお世話になりました。津山さんがいなかったらどうなっていたかと思うと気が遠くなる。お礼にうかがわなきゃと思っていたの」

「私の方こそ、久住さんがいなきゃおろおろするだけで終わっていたわ。ほんとうにすごい捕物帖だったわね」

 捕物帖と言われ、芳子は相好を崩す。

「ぴったりの言葉ね」

 のどかに笑いながら香りの良い紅茶をいただく。窃盗犯に襲われた親子は擦り傷や打ち身程度で入院の必要もなかったそうだ。飼い犬のルーシーも動物病院で手当を受け、命に別状はないらしい。そんな話をしたのち、津山が「私ね」と視線を窓の向こうに向けた。

「お宅のお隣に田代さんがいた頃、奥さんの由喜さんから頼まれていたの」

 芳子が唯一、町内の中で心を許していた人だ。

「久住さんの奥さんはいい人だから、何かあったら力になってあげてねって。でも今までお話をする機会もなくて何もできなかったわ」

「由喜さんがそんなことを。ぜんぜん知らなかった」

「久住さんの、正確に言うと旦那さんの方ね、町内の誰かにすごく嫌なことを言われたんでしょう? 久住さんの奥さんはそれを知って憤慨し、町内の人とは距離を置くようになった。どんな内容なのか知らないけどきっと言った方が悪いのよと、由喜さん、おかんむりだった」

 隣家の奥さん、由喜の顔を思い出し、芳子は口元をほころばせた。じっさいは朝晩の挨拶やちょっとした時候の話題など、あたりさわりのない会話がほとんどで、喜怒哀楽を目の当たりにしたことはなかったかもしれない。でも自分のことで顔を曇らせてくれたなら、それだけで素直に頬がゆるむ。

「夫が何を言われたかなんですけどね」

 誰かに聞いてほしくて、そんな気持ちに初めてなって、芳子は口を開いた。

「ご存じかもしれませんが私と夫とは再婚同士なんです。私には子どもがいませんでした。でも夫には息子がふたりいて、再婚した頃にはどちらも成人していました。特に問題もなく過ごしていたんですけれど、次男の結婚相手が京都の旅館の一人娘だったんですよ。向こうの家は、旅館も苗字も継いでくれる男でなければ困るの一点張り。相手のお嬢さんも家を出ることはどうしてもできないと。その点次男は、おれは次男だからかまわないよねと気楽なもの。でも夫は反対しました。婿にやるために育てたんじゃない。光樹は久住の家の子だと。絶対に許さないと。本気で激高する夫を見るのは、そのときがたぶん初めてでした」

 留以子は何度かうなずいてから言う。

「結局は旦那さん、お許しになったんでしょう? 次男さん、今京都ですものね。お孫さんがお土産に持ってきた餡入り生八つ橋、公民館でお裾分けをもらいました」

「最終的にはですけれど、私、けっこう熱弁をふるっちゃったんです。娘がいたら嫁に行くのを反対しなかっただろうに、息子の婿入りはなんでダメなんだ、女はよくて男は悪いってのはおかしい、古い、男尊女卑。だいたいあの子の一生に、あなたはなんの責任も持てないってことを自覚すべき、とかなんとか」

 思わず天井を仰ぐ。リビングは吹き抜けなので天窓の遠いこと。

「夫はしぶしぶ折れたものの、長いことむくれていました。でもそのとき、長男がまだ独身だったんですよ。夫の中には、次男は遠くにやってしまったけれど、長男が結婚してそばにいて孫の顔を見せてくれるならいいか、という思いがあったようです」

 しかし長男はいつになっても結婚の「け」の字もなく、サッカー観戦が好きでワールドカップのために長期休暇を費やすばかりだった。ようやく「これは」という人に巡り会い、結婚を言い出したのは三十八歳のとき。

 克雅は反対した。相手が五歳年上、四十三歳の女性だったから。そんな年では子どもはできないんじゃないかと。

「私はまたガツンと言ってやりました。女をなんだと思ってる。子どもうんぬんを言ったら一生ふたりから恨まれる、絶縁を覚悟しろとかなんとか。夫は授かるかもしれないね、医療は進歩しているか、などと言ってこれまたしぶしぶ容認しました」

 結果的に長男夫婦に子どもはできなかった。

「でもですよ、夫はしつこい人ではありませんし陽気な質です。子どもや孫にこだわらず、自分たちで楽しまなきゃと気持ちを切り替えてくれました。夫婦で旅行に出かけたり家を建て替えたりとわいわい過ごしたんですよ。ただ体調崩してからはちょっと元気がなくて、どうしたもんかなと思っていたところ、近所の人に言われたと」

 今日の話の核心だ。留以子も「なんて?」と身を乗り出す。

「お宅は立派な息子がふたりもいるのに、孫が近くにいなくて寂しいね。孫の成長ぶりが見られないなんて、気の毒以外の何ものでもないと」

 留以子がたちまち頭を抱え込む。

「そんな、ろくでもないことを言う人がいたなんて」

「でしょう。あきれて、『はあ?』と変な声が出ましたよ。腹が立って憤慨したわけですけれど、夫は静かにあきらめ顔になるだけです。肩を落としてぼんやり庭を眺める横顔の影の薄いこと。それを見ているうちに私、思ったんです。もしも自分があの子たちの実の母親だったら、夫と一緒に婿入りなんて許さない、年上の嫁なんてお断りと、反対したのかもしれないって」

「久住さん」

 留以子が驚く顔になるので芳子はやんわり制する。

「理屈じゃないことってあるでしょう? 何が正しくて何が間違っているのか、わかっていても、我が子だから割り切れない、きれい事で片付けられないって、あるんじゃないですか。あのとき、そばにいるのが亡くなった奥さんだったら、一緒に憤慨し、一緒にジタバタし、なんとかかんとか互いになだめ合って、子どもの幸せのためだよと、自分なりの着地点を見つけられたのかもしれない。私のやり方は正論をふりかざし、ねじ伏せただけなんです。そう思ったらすごくやりきれなくて」

 目と鼻の奥がツンと痛くなる。泣くつもりなどなかったので自分に驚く。ティッシュを取って、目尻と鼻を押さえた。

「ごめんなさい、昔のことなのに。ああでも、近所の人の言葉を未だに恨んで根に持っているので現在進行形かしら」

「私、久住さんのことをもっともっと強くて、何事にも動じない人に思っていました」

「あら、私もよ。自分のことをそう思ってた。だからびっくりしたし、自分の弱さや欠点を思い知らされたようで口惜しかった」

「でも旦那さん、近所づきあいをするようになるでしょう?」

「そうなの。自分だけぐいぐいと。あるとき私が、こういうことを言われたでしょと蒸し返したら、誰にでも言われたくないことってあるんだね、自分は息子がふたりいたから気がつかなかったけど、女の子ばかりと嫌みを言われた人もいるらしい、とかなんとか感慨深い顔になって」

 ふいに留以子が顔つきを変える。

「待って。私、わかったかもしれない」

「何を?」

「ろくでもないこと言った人よ」

「えっ、そうなの? 誰よ、誰!」

「ここにも一緒に来た、後藤田さんよ」

 あの男かと芳子は昨日のランスのように唸り声をあげそうになる。

「よくもノコノコと。と、怒りたいとこだけど、夫が親しく付き合ってた人でもあるんですよね。いったいどうなってるの」

「たぶん、孫についてろくでもないこと言った人と、女の子ばかりと嫌みを言われた人は同一人物よ。後藤田さん、娘さんが三人いるんだけど、自分の母親から跡取りがいないとずいぶん責められていたの。後藤田さんの奥さんに対してもそうだから嫁姑の仲がそりゃもう悪くて。板挟みにもなってたし、本人にもコンプレックスがあったのかしらね。息子がふたりいる久住さんのことが羨ましかったのかもしれない。私、後藤田さんの奥さんからそれっぽい話を聞いたことがある。うちの人が『人を傷つけることを言った』と、珍しく反省してるって。もう五、六年前よ。久住さんのことだったんじゃないかしら」

 話を聞いていて芳子も思い出した。

「孫うんぬんの人からは謝られたと聞いた気がする。でも私、ちょっと謝られたくらいで水に流すのかとまた怒ってしまったの。つくづく怒りっぽいわね」

 留以子は鷹揚に首を横に振る。

「言われた方は忘れないものよ。後藤田さん、不用意な失言が未だによくあるし。この前もランスを手放すんじゃないかと勘ぐって、失礼なことを口走っていたでしょ」

「レンタル番犬サービスを知って夫に話したのは私よ。便宜上、世帯主が契約を結んだけど」

「知ってる。旦那さん、ちゃんとそう言ってたもの。みんなも聞いていたのにころっと忘れてるのよ」

 留以子の言葉に胸のつかえが取れる。ランスと久住家の縁を取り持ったのは自分だと、密かに自負していたのだ。

「それにランスの一番のご主人は久住さんよね。久住さんの命じることに最も重きを置いている。犬は可愛がるだけじゃダメと聞いたことがある。主の言いつけに従える犬であることが、結局は犬自身を守ることにもなるから、とても重要なんだって」

「ええ。飼い主には飼い主の責任があるでしょう。昨日も町内に向かって駆け出す前に、私が『待て』と指示できていれば止まってくれたかしら。犬がリードを付けずに走り回るのは人間にとって危険だし、ランスにとっても良くないことよ」

 昨日はたまたま人の役に立てたけれど、非難を浴びても致し方ない状況だった。

 神林や会長は興奮気味に警察からの感謝状の話をしていたが、それはみんなが受ければいい。もし言われてもランスは辞退するつもりだ。遠慮ではなく、ランスを守るために。

 留以子は残念がってくれたが理解もしてくれた。

「脚光を浴びて華々しいスター犬になることないわね。もうすでにこの町内ではそういう位置づけなんだから」

 謙遜気味に「そうかしら」と肩をすくめたが、顔がにやけてしまう。愛犬がまわりに好かれて喜ばない飼い主はきっといない。今は「好かれている」と素直に思える。

「私も頑なだった。痛いところを衝かれてすっかり後ろ向きになってた。後藤田さんじゃないけど反省します」

「だったらときどきは町内を散歩してよ。私もランスに会いたい」

「そうね。夫のまねをしてみるわ」

 夫も町内の人から好かれていたらしい。自分にはない資質があったのだと芳子は噛みしめる。若くして妻に先立たれ、悲しみも苦労もあっただろうが息子ふたりを立派に育て上げ、時間ができてからは海外にも国内にも旺盛に出かけ、我が強くて生意気な女性と再婚したのちも、多くの人と親交を深めた。

 出会えてよかった。自分の人生を幸福に彩ってくれた最良の伴侶だった。

 ランスのリードを持って外に出たら、きっとまた夫と歩ける。

 

「やだもう、知らなかったの? ランスは町内のボス犬で、散歩は『ランパト』って呼ばれているんだよ」

「なにそれ」

「ランスのパトロールの略でランパト」

 電話の相手は京都にいる下の孫娘、唯香だ。歯に衣着せずぽんぽんよくしゃべる子で、ひとりで新幹線に乗れるようになってからはたびたび上京してくる。ランスの散歩に付き合うのも定番だった。

 今高校三年生で、都内の大学への推薦入学が決まったばかり。春から二階の一間を貸すことになっている。克雅が生きている頃には合否判定がまだ出ていなかったが、「にぎやかというより、うるさくなるね」と言いつつ、孫娘との同居を楽しみにしていた。

 若い女の子とひとつ屋根の下に暮らすのがどんなものなのか。不安もあるけれど、克雅の笑顔を思い出すとなんでもしてあげたくなる。というか、我慢を忘れずに、だろうか。

 その唯香に、芳子は捕物帖の夜を詳しく話した。「ねえねえ聞いてよ」と言えるくらい、気の合う相手ではある。唯香は「うそ」「きゃー」「すごい」の連発だったが、そこで耳にしたのが「ランパト」なる新語だった。

「今の話、こっちのおじいちゃんにもしていい? ランスの写真を見せたら目を輝かせてた。ドーベルマンを飼っているなんて素晴らしい、だって」

「ほんとう?」

 つい疑わしい声が出てしまう。京都人の言うことはどこまで真に受けていいのか謎だらけだ。

 光樹の義父は家族の説得により、春のお彼岸まで待ってくれることになった。唯香の入学もあるので娘や孫と一緒に上京してくる。

「ご隠居さまはホテルに滞在して、二、三日で帰るのよね?」

「そのはず。お姉ちゃんが一緒に帰ってくれる話になっている。今のところはね」

 最後の一言にひやりとするも、なんとかなるだろうと気持ちを落ち着かせる。

 私には強い味方がいるから。ランスと克雅。これはずっと変わらない。

 後藤田とはぼちぼちだが、留以子とは名前で呼び合うようになり、由喜に会いに転居先を訪ねる計画を立てている。神林とは週に何度か散歩に出かけている。それぞれの愛犬と一緒に。

「ランパトねえ」

 リードを持って歩いていると初めて知ることがたくさんある。町内の犬だけでなく、猫、小鳥、庭先の花々、挨拶してくれる人、すれちがう人、子どもたち、ベビーカーの赤ちゃん。克雅から話しかけられていると感じるときもある。

 よっちゃん、見てごらん。ほら、あれはね。

 そんなとき、ランスも決まって芳子と同じ方を向き、耳を傾ける顔になっている。

 

 

 

(了)