おかあさん、という呼びかけに芳子はハッとした。ソファーに座り込んで、いつの間にかうとうとしていたらしい。

 声をかけてきたのは長男の結婚相手である菜々美だ。こちらの様子をうかがうような眼差しに、いたわりがこもっている。初めて会ったのは彼女が四十歳をいくつか過ぎた頃。清潔感のある明るい顔立ちで年齢よりも若く見えた。今もくすみやくたびれはほとんど感じられず、ふんわりしたミディアムボブの髪型がよく似合っている。けれどもうすぐ還暦と聞いた。還暦と言えば六十歳。

 えーっと、仰け反った日のことを思い出して、ようやく手足に力が入った。ソファーに沈み込んでいた身体が起き上がる。自分の年齢を棚に上げ、まわりの人のそれにいちいち驚いてしまう。時の経過とはなんて早いものか。

「お疲れでしたらこのままお休みになりますか。それもいいと思いますよ。簡単にお着替えだけして」

「ううん。そうもいかないわ。顔も洗わなきゃいけないし」

「お風呂の用意、できましたけど」

「ああ、昨日のお湯を抜くところからやってくれたのよね。助かった、ありがとう。入りますとも。よっこらしょ」

 立ち上がるときの掛け声が口をつく。ひと昔前なら意識して避けていたのに、この頃では気がつくともう声が出ている。弾みをつけるのにちょうどいい言葉で、先人たちに脱帽するしかない。

 菜々美がかいがいしく手を差し伸べるのでこれにも甘えてしまい、いかがなものかと反省する。久住芳子、七十五歳。まだまだ老いさらばえるには早い。けれど、ここしばらくの怒濤の日々を思えば疲労は致し方ない。

 四日前の夜遅く、夫の克雅が息を引き取った。友人に誘われ書画展に出かけ、帰宅したのはまだ明るい時間だった。十月下旬とあって日は短くなっていたけれど、十六時を回っていなかっただろう。着替えもせずにソファーに座り込んでいるのでおかしいと思ったら、胸が痛いと言う。

 芳子は慌てて、かかりつけ医に行くべきか、まずは電話でも、そんな話を本人相手にしているとみるみるうちに容体が悪くなり、救急車を呼んで病院に搬送。日付が変わる前に亡くなった。八十歳。死因は急性心不全だった。

 心臓に持病があったのでどことなく覚悟はしていたものの、いざとなると気持ちの整理がつかない。

 医師の説明にうなずくのがやっとだったが、いつまでもぼんやりはしていられなかった。克雅は親から引き継いだ会計事務所の代表取締役を長く務めていた。やたら顔が広く付き合いも多い。葬儀会社と相談し、通夜や告別式の日程を決め、関係各位に連絡と、段取りが目白押しだ。克雅の跡を継いだ長男、太一が率先して動き、親戚関係は京都住まいの次男、光樹が引き受けてくれた。ふたりの息子がいたので助かったが、喪主を務めた芳子に気の休まる暇はなかった。

 今日は告別式のあと、火葬場で荼毘に付し、最近の慣例で初七日の法要もすませた。その後、太一の計らいで芳子は先に帰らせてもらった。息子ふたりが最後まで残って参列者を見送る。葬儀場からは菜々美の運転する車で調布の自宅にたどり着いた。

 時間をかけて湯船につかり、風呂上がりはルームウエアに着替え、濡れた髪をざっと乾かしてからリビングに戻る。菜々美に風呂の礼をもう一度言い、自宅に帰るようすすめた。長男夫婦は車で二十分ほどのマンションに住んでいる。

「お義母さんがお休みになるまで、もう少しご一緒しようと思っていますけれど。お手伝いすることはありませんか」

「ないない。あとは寝るだけよ。留守番電話を聞くのもやめとく。明日にするわ」

 心配されたり気を遣われたりはありがたくもあるが、ひとりの方がくつろげる。それは菜々美もわかっているのだろう。何かあったら連絡をと言い添えて、帰り支度をしてくれた。

 車が出ていくところまで見送り、玄関に入って鍵を閉めた。今日から、正しくは四日前から広い家にひとりきりだ。でもほんとうの意味でのひとりぼっちではない。今も足下には黒くて温かな大型犬がまとわりついている。

 今年八歳になる雄のドーベルマン、ランスだ。

 一緒にリビングに戻り、芳子はコルクの床に両膝を突き、腕を大きく広げて黒い塊を抱き寄せた。くんくんという甘えた鳴き声を聞きながら、太い首に鼻を押しつけ匂いを嗅ぐ。身も心もほぐれ溶けてなくなるような解放感を味わう。

 これを「犬吸い」と言うのだと孫の唯香に教えられた。変な言葉だがたしかに犬を吸っている。他のどんな妙薬も敵わない精神安定剤だ。

 短い毛並み越しに伝わる発達した筋肉も、口元からのぞく鋭い牙も、厳しく精悍な双眸も惚れ惚れするほど頼もしく、均整の取れた肢体は芸術品のように美しい。めったに人慣れしないクールな気質なのに、心を許した人には甘えるところなど、愛しさをかき立てるだけでなく芳子に万能感さえもたらす。

 ランスがいるから広い家にひとりでも恐くない。怒濤の四日間を耐えしのぐこともできた。夫の死も、乗り越えられるのではないか。

「ランス、パパはもういないのよ。ここには帰ってこない。もう会えない。寂しいね。哀しいね。パパもきっとランスに会えなくなって泣いている。でも、もうしばらくパパのところには行かないで。わたしのそばにいてね」

 哀しげな「くうん」という声が返ってくる。とても賢いランスはパパの死をちゃんと理解している。ママしかいなくなったのを知っている。パパママと、内々で呼び合っていた親子ごっこももうおしまいだ。

 

 克雅は都内で会計事務所を構える家に生まれたが、芳子の実家はリハビリ施設を備えた整形外科病院だった。中高一貫の女子校から四年制大学に進学し、卒業後は大手カメラメーカーに就職した。若い女性社員が職場の花と称される時代で、芳子もブランド物の服やバッグを身に付けハイヒールを履いて出社した。

 仕事はいわゆる事務職。男性社員の出張旅費を精算したり、ファイルや筆記具といった備品の補充をしたり、回覧板に判子を押してとなりの課にもっていったり。細々としたサポート役に過ぎなかったが、勤務時間外はビヤホールだのボウリングだのドライブだの、次々に誘いの声がかかり、断る口実を考えるのが一番の悩みという華やかなひとときを過ごした。

 そんな我が世の春を謳歌していた芳子の心を掴んだのは、祖母の友人の孫であるエリート商社マンだった。祖母に付き合ってのお茶会で出会い、テニスや乗馬といった共通の趣味で会話が弾み、別れ際の「また今度」は社交辞令ではなく、間もなく自宅に電話がかかってきた。クラシック音楽のコンサートに誘われ、とびきりのおしゃれをしていくと、彼のエスコートは待ち合わせの場所から夕食の店選びまで完璧だった。自社の男性社員にはない洗練された魅力があり、音楽の造詣が深いだけでなく、美術館巡りも古書店街の散策も楽しい。交際は順調に進んだ。

 プロポーズを受けたのは芳子が二十五歳のとき。双方の家族も良縁に恵まれたと喜び、豪華な結納にたくさんの笑顔が添えられた。ウェディングドレスも結婚指輪も当時の流行を取り入れ、何もかもうまくいっているようでいて、実は挙式の前から暗雲が立ちこめていた。

 彼にはまとわりつく女性がいたのだ。婚約を聞きつけたのか芳子の前にも現れ、別れるよう強く迫った。彼は相手の勝手な思い込みだと一蹴し、芳子としてはそれを信じるしかない。

 結婚式は予定通りに行われハネムーンのハワイは楽しんだけれど、帰ってくれば女性は新居にまで押しかけてくる。しかも、そういった女性はひとりだけではなかった。いかがわしい旅館に入っていくところをわざと写真に撮らせる人もいて、おそらく法外な口止め料を要求したにちがいない。写真はまわりまわって芳子のもとにも舞い込んだ。

 動かぬ証拠を突きつけられ、彼はたどたどしい言い訳もしたし、結婚前の火遊びだと開き直りもした。結婚後にも深夜帰宅があったので、我慢できずに実家に帰ると、相手の親や仲人が詫びたりなだめたりとごたつき、結果的に入籍からわずか一年半で離婚が成立した。

 弁護士が間に入ったので相応の慰謝料を得ることはできたものの、芳子にしても容易には癒えない傷を心に負った。実家には父と同じ整形外科医になった兄とその家族がいるので肩身が狭く、父が買ったマンションの一室に移り住み、実家の病院の事務員として働き始めた。

 日本を離れたいという気持ちが芽生えたのはいつ頃だろう。空いた時間で英会話を習い、事務員としての賃金を貯めてはロサンジェルスやニューヨークに渡った。そのあと訪れたパリが気に入って、手を付けずにいた例の慰謝料で語学留学も果たした。

 そうこうしていると父から旅行に付き合うよう頼まれた。父は当時七十代後半で、病院を長男に任せ、これからは異郷の地を大いに楽しみたいと張り切っていた。母は飛行機嫌いで、夢中なのは宝塚や歌舞伎鑑賞。そこで芳子に白羽の矢が立った。母にしてみても娘との旅行ならば何かと安心だ。

 費用は出してもらえるし、マンションの一室はタダ同然で借りているし、仕事の面では長期休暇の取得など何かとわがままをきいてもらっている。断る選択肢はなく、父のリクエストに応じつつ自分の好みも入れて芳子がプランを練った。ホテルや航空券を手配し、電車やバスの時刻表を調べ、必要に応じてレストランの予約を入れて、父の気に入りそうなカフェやビアバーもチェックする。そうやってイタリアへ、スペインへ、はたまた北欧へ、エジプトへ。年に二回、十日ほどの珍道中を繰り広げた。

 父はいずれの旅もたいそう楽しかったらしく、いろんなところで面白おかしく吹聴した。するとあるとき熱心に耳を傾け、本気で羨ましがる人がいた。昔から付き合いのある病院の、ちょっとした記念パーティの会場に、芳子も父のお供で同席していた。

「私には息子がいるんですけど娘はいません。妻は十年以上も前に病気で亡くなりまして、老後に夫婦ふたりの旅行は叶いません。個人旅行のヨーロッパ、憧れですよ。行ってみたいです」

 四、五十代とおぼしき中年男性だった。悲哀を語ってもそれが暗くなりすぎない温厚さを漂わせ、丸顔でややぽちゃっとした体型も、下がった目尻も、しゃれっ気をまったく感じさせない髪型も、親しみやすさにつながっている。

 たたでさえお酒を飲んで上機嫌だった父は、だったら君も来ればと気楽に言った。

「二週間、いや十日間の休みくらい、その気になればなんとかなるだろう。次の旅はドイツだ。君、ライン川のほとりに建つ古城ホテルに泊まれるよ。娘はレンタカーの運転もできるし、現地の言葉もそこそここなせる。一緒に行こう」

 相手を困らせては申し訳ないので、芳子は父をたしなめようとしたが、男性は驚いた顔になったのち、「いいんですか」と父に聞き返した。傍らに立つ芳子には、あわてて「いえその」とうろたえ、「ご迷惑ですよね」と恐縮してみせる。

 父との旅行に物足りなさを感じているときだった。年寄りの気まぐれやわがままに付き合わされるだけではつまらない。同年代の話し相手がほしかったし、車の運転がある程度任せられるなら、ランチにビールが飲める。ワイナリーでワインが飲める。

 迷惑うんぬんは横に置いて、芳子はその男性に話しかけた。

「お休みを取るのは、やはり難しいのでは?」

「ドイツ旅行のご予定はいつ頃ですか」

「季候の良い五月下旬を考えています」

「今が三月なので、二ヶ月後ですね」

 言葉尻がしっかりしていて話が早い。じっさい数日後には具体的な旅程を尋ねられ、何度かのやりとりの後、参加の意思を伝えられた。それが久住克雅。のちの再婚相手だが、異性と意識することはほとんどなかった。父と一緒の道中なので隠しようもなく、芳子は最初から地を出した。短気だったり口が悪かったり強引で負けず嫌いだったり。克雅は見かけ通りに鷹揚で、父と娘の良い緩衝材になってくれた。話しやすい相手なので、綺麗な景色を見たときの感動は倍増し、失敗が笑い話に変わり、夜道の散歩もできるようになった。特訓の成果でヨーロッパの道にも慣れてくれたので、運転を彼に任せ、芳子はワイナリーで試飲を楽しむという念願も果たせた。

 イギリスの湖水地方、カッパドキアの気球体験、ドブロヴニクの城壁歩き。思い出をいくつも重ね、「よっちゃん」「かっちゃん」と気安く呼び合い、父の高齢化に伴い海外旅行の機会が減った頃、克雅から結婚の申し込みがあった。予感があったという時点で芳子の気持ちも傾いていた。なんといっても一緒にいて一番楽な相手だ。自然体でいられる。人として信用できる。それ以上に何を望むというのだろう。

 ひとり身の自分とちがい、克雅には子どもがいるので気になったが、結婚の話が出たとき息子ふたりはすでに二十歳を過ぎていた。太一は社会人、光樹は大学生。旅行の打ち合わせやらなんやらで調布の家を訪れていたので顔見知りでもあった。

「芳子さんが承知してくれるなら、うちの親父をよろしくお願いします」

 そんな台詞が言えるくらいに十分成長していた。

 年のせいか涙もろくなっていた父が、克雅との再婚を喜び、目を潤ませていたのを昨日のことのように覚えている。あれから三十年。父は八十八歳で亡くなり、克雅はそれより若く八十歳で逝ってしまった。

 設計段階からわいわい相談し、ふたりの好みで建てた家の真ん中、リビングのラグマットにぺたんと座り、芳子は傍らの犬のぬくもりからいつまでも離れられなかった。

 

 

(つづく)