その翌日、各種手続きのため銀行や区役所に行かねばならず、その帰りに昼食を付き合うからと太一が車でやってきた。ランスも一緒にと言うときょとんとした顔もつかの間、「無理」と却下する。
「だってひとりで置いておくのが心配なのよ。狙っている人がいるんだから」
助手席に収まるやいなや芳子は昨日の顛末を話した。車が走り出して自宅が遠ざかると不安が募り、首をひねって見てしまう。リビングに敷いたお気に入りのラグマットの上で、寝そべっているであろう黒い大きな塊と離れがたい。
「大げさだよ。誰も狙ってないよ。ちょっと聞いただけでしょ」
「散歩をさせてほしいと懇願したり、手放す気かと迫ったり、尋常じゃなかったの」
「ランスがみんなに好かれているならめでたいことだ。あのね、留守宅に忍び込んだら家宅侵入罪で、犬を連れ去ったら窃盗罪だ。犯罪者になるのがわかっててやる人なんていないって」
「魔が差すってあるでしょ。入ってきたら、いくらランスがプロの番犬でも、相手に懐いてるんだもん。ほいほいついていっちゃうわ」
あの四人に向かって振られていた尻尾を思い出すと、鼻息が荒くなって鼻の穴が膨らむ。
「そんな心配するより、少しはご近所と仲良くした方がいいよ。ランスだって四六時中いるわけじゃない。トレーニングの日もあるんでしょ。いるときだって何が起きるかわからない。母さんももう……」
年なんだからと言いかけて太一は口ごもる。助手席からのきつい視線に気付いたのだろう。
「ご近所の件よりも目下の問題は京都じゃない? あれどうする? 何か返事した?」
「ううん、まだ」
話題を変えられたのは不本意だけど、そちらも気になるので頭を切り替えた。
「返事はしてない。みっちゃん、どういうつもりかしら。もっとしっかりしてくれないとこっちが困るわ」
「だよね。まさか丸投げはしないだろうけど、それだけはやめてほしい。親父の件だけでおれもう手いっぱいだよ」
京都の問題とは、そもそも次男の光樹の結婚相手にまつわる厄介な話だ。光樹は京都の老舗旅館の一人娘と大学時代に知り合い、口を開けばのろけ話が出てくるほど夢中になり、向こうも同じ気持ちだと舞い上がり、婿入りして旅館の若旦那に収まった。
慣れない商売を一から覚え、よそ者ゆえの苦労は並大抵ではなかっただろうが、幸いにもふたりの娘に恵まれ元気にやっている。それは良いのだけれど、このたびの克雅の訃報にあたり、九十歳になる義理の父親がお悔やみを述べに来たいという。物言いがいちいち大げさで遠回りな上にせっかちで気まぐれという人だ。足腰が弱って杖が手放せないのでまわりはもちろん止めたし、芳子たちも「お気持ちだけで」と遠慮しているのに聞く耳を持たない。
銀行や区役所での待ち時間にもこの話題は尽きず、光樹にも電話をかけてみたが、葬儀で上京したのが精一杯と言う。旅館は秋の繁忙期を迎え猫の手も借りたいほど忙しい。かといって無下にもできないのがご隠居の義父で、目を離すとひとりで行きかねない。孫娘たちが「行くときは私も一緒に」「もうちょっと待っててね」と引き延ばしている。
義理の母は十数年前に亡くなり、そのとき克雅と芳子が弔問に訪れたので不義理はできないと思っているらしい。せっかくなのでしばらく滞在したいようなことを言っているのでみんな戦々恐々だ。どこに行くにしてもお供の者がいる。
太一と食事の店に行くと菜々美も間もなく現れ、久しぶりに美味しい和食をいただいた。京都の件は菜々美も協力すると言ってくれたが、栄養士として病院で働いているのでそうそう無理は言えない。今日も昼休みを長く取り、付き合ってくれたのだ。
ひとりで帰れると言ったが太一が家まで送ってくれたので、玄関先で下ろしてもらった。近所の人たちの待ち伏せがないことにホッとする。玄関を開ければランスが迎えてくれて胸がいっぱいになる。疲れを忘れる一瞬ではあるが、部屋着に着替えてソファーでくつろぐと知らないうちにうとうとしていた。
小一時間で起き上がり、メールを書いたり自分用のシチューを作ったりしていると、夕方の散歩にとマキタのスタッフがやってきた。ランスを送り出して家にひとりになると急に心細くなる。昨今は空き巣ではなく、人がいても押し入る窃盗団がいる。戸締まりをちゃんとしていても窓ガラスを割って侵入するらしい。
ふと二階で物音がしたようでぞっとした。それきり何も聞こえないので気のせいだろうが、「もしも」「万が一」と考え不安になってしまう。ランスがいれば人間よりもずっと敏感なのでどんな気配も察知する。いつも通りリラックスしているのを見れば安心できるのだ。いてくれるだけでどんなに心強いかと改めて思う。
ランスが帰ってきて、まったく警戒心を見せない様子に胸をなで下ろす。寝るときも二階の寝室で一緒なので安心だ。ランスの食事のあと、自分はシチューと冷凍してあったピザですませる。食後はテレビをつけながら郵便物の仕分けをしたり、香典返しのリストを作り始めたり。
時計を見ると夜の九時を過ぎていた。そろそろ風呂に入ろうか。そう思って書類を片付けていると、ラグマットでくつろいでいたランスの身体が動いた。首をもたげ、何かに引っ張られるように立ち上がる。
「どうかしたの?」
芳子の問いかけに応えず、リビングの掃き出し窓に向かう。シャッターを下ろしているので何も見えないはずだ。なのにランスはじっと窓の外を見つめ、やがて落ち着かない様子で部屋の中をうろうろし始めた。
夜の時間に届く宅配便もある。もしくは訪ねてくる人もいるのだろうか。九時ならばまだ深夜という時間ではない。ひょっとして回覧板? 警察の見回り?
考えを巡らせていると、ランスは廊下に出て玄関に向かう。芳子は追いかけた。ランスは玄関近くにあったリードを鼻先でつついている。
「これがどうかしたの? こんな時間にお散歩ってわけではないでしょう?」
芳子がリードを手に持つと、ランスは玄関の三和土に降りてドアに前足をかけた。外に出たいというポーズだ。
「誰か、散歩の誘いに来たのかしら」
例の四人が頭にちらついた。
「ダメよ。町内のお散歩は中止。連れていきたがる人にはきっぱり断りを入れたんだから」
首を横に振って禁止を言い聞かせても、ランスは珍しく従順な態度を取らなかった。あきらめずに低く鳴き、ドアを開けるようにせがむ。しまいには狭い三和土をぐるぐる回って鳴き声も強くなる。
外で呼んでいる人がいるのかもしれない。そっちに抗議した方が早いか。
「ランス、ちょっと待ってて」
リビングまで家の鍵を取りに行き、外は寒いだろうからとコートハンガーからスカーフを抜き取り、三和土にあった靴を履く。玄関ドアを少し開けると、夜の空気は想像以上に冷えていた。スカーフではなく羽織り物にすべきか。そんなことを考えた芳子の足下を、ランスがすり抜けた。
あわてて追いかける。植え込みの間に黒い後ろ足だけが見えた。敷地の外に出てしまう。呼び止める暇もなかった。芳子は門扉から道路に出て左右を見回したが、ランスの姿はどこにもない。どちらに向かって走り出したのか、それさえわからない。
どうしよう。訓練された利口な犬だ。人に危害を加えることは絶対ない。見かけよりも気が優しくて忠実で献身的。いくらそう言ったところで、世間には通じない。大型犬のドーベルマンは鋭い牙も爪も持っている。いきなり出くわした人はびっくりして悲鳴のひとつもあげるだろう。もっともっと騒ぐかもしれない。早く捕まえてリードに繋がなくては。
でも今どこに? どうして急にいなくなったのだろう。
おろおろと立ち尽くしていると駆け寄ってくる人がいた。
「久住さん、どうかしましたか」
神林だ。ああよかったと声が出る。
「ランスが飛び出してしまったの。リードも付けずに。早く捜さなきゃ」
「ランスが? いつですか」
「たった今よ」
リードを見せながら訴える。
「リビングにいたら急にそわそわして表に出たがって。それで私、リードを付ける前に少しドアを開けてしまったの。そしたらその隙間から……」
「落ち着いてください。わかりました。すぐ捜しに行きます。でもランスだけじゃないんです。犬の様子がおかしい。うちのパックも急に鳴き出して外に出たがって。聞こえませんか。ほら、あちこちから」
言われて耳を澄ますと、ワンワンきゃんきゃんと犬の鳴き声が断続的に聞こえてくる。近くからも遠くからも。西からも東からも。神林の言うパックは自分の飼っている犬の名前だろう。小型のテリアと聞いたような気がする。リモートワークが主になって、通勤時間が減った分、自分の時間が増えたからとランスの散歩を手伝い始めた。自分の犬もいるのによっぽど好きなんだねえと克雅は言っていた。
「こんなふうに犬が鳴くなんてよくあることなの?」
「いいえ。初めてです。とにかく町内をぐるっと回ってきます。久住さん、もう夜です。しっかり戸締まりをして家にいてください。ランスは大丈夫ですから」
神林はそう言って芳子を促し、門扉に向かうのを見届けてから身を翻した。角を曲がって後ろ姿はすぐに見えなくなる。言われたとおり家で待とうとも思ったが、犬の鳴き声はまだ続いている。ランスの飼い主は自分だ。家の中でじっと待つだけでいいのだろうか。いや、もっとしっかりしなくては。
自分を鼓舞して外灯を頼りに、暗い路地を恐る恐る歩く。ふたつ先のブロックまで来たとき、「久住さん」と声をかけられた。誰かと思ったら留以子だ。
上着を羽織ってスニーカーを履いている。家がどこなのかは知らないが、走ってきたのか息が弾んでいた。
「久住さんが見えたのでびっくりしました」
「津山さんこそこんな時間に」
「犬がやけに鳴いていると会長さんから電話があったんです。うちの人、防災委員をやっているので、気になるからと出ていってしまいました。それはいいんですけど、ほら」
上着のポケットから何か取り出す。スマホだ。
「うっかり者なんですよ。やれやれと思っているうちにも電話やらメッセージやらが届くでしょ。渡した方がいいと思って」
芳子の方も自分の状況も話した。ランスのこと、神林についさっき会ったこと。
「だったら一緒に公民館に行きませんか。会長さんのお宅がその近くなので、何かわかるかもしれません」
留以子の提案にうなずいて歩き出す。途中でまた別の男性に出くわした。白っぽい中型犬を連れている。留以子とは顔見知りらしく「何かあったの?」「わからない」と言葉を交わすが、その間も犬は興奮してリードを引っ張る。
「このあたりに不審者が入り込んだのかもな。気付いた犬が吠えて、そこからどんどん伝染して騒ぎになっているような。もしそうなら物騒だよ。特に女の人は安全なところにいなきゃ」
「そうね。公民館か、会長さんちに行ってみる。うちの人を見かけたら、私に会ったと言ってくれる? うちの人が忘れたスマホを持っているのよ」
「ああ、なるほどね。わかった。顔を見たら伝えとく」
男性が犬と共に西の方角に駆け出して、それを横目に住宅街の一角に設けられた公園に近づく。ベンチや砂場、小さなすべり台があるくらいの小さな公園だ。夜はそれこそ暗がりに沈んで物騒だが、すぐとなりに公民館が建っている。あともう少しという思いで留以子と歩いていると、公民館の入り口付近に人々が集まっている。公民館の灯りも煌々とついていた。
そこにいるのは若いのから年寄りまでさまざまな年齢の男性たちだ。十数人はいるだろう。さかんにあっちだこっちだと身振り手振りで言い合い、表情も声音も厳しい。物々しい雰囲気に近寄れずにいると大きな声があがった。
「四丁目の奥! 前にほら、富永さんだっけ、大きな家があったでしょ。今はもう誰も住んでないけどさ。あのさらに奥の家。このあたりの犬が押しかけて大変なことになっている」
その声を合図にして男性たちがかけ出した。中には「警察警察」と叫ぶ人もいて、若い人が立ち止まり、スマホを操作している。警察に通報するらしい。それくらい大事になっているのかと身がすくむ。
「津山さん、今の人たちの中に旦那さんは……」
「いません。会長さんも」
「四丁目の奥って言ってましたね」
「富永さんちは知ってます。ちょっと先ですけど」
留以子が人差し指で示す方角に、ふたりは歩き始める。今度はけっこう足早に。手を取り合ってどんどん急ぎ足に。
途中で声をかけてくる人がいて、ふたり三人と合流してくる。その間も犬の鳴き声は聞こえているので余計に気持ちが急く。ただならぬ現実に寒いだの転びそうだの言ってられない。
やがて草ぼうぼうの空き地が見えてきて、その向こうに大きな一軒家が建っていた。大きな家は道路に面し、そこと空き地との間におそらく細い路地が延びている。奥まった場所にもう一軒、二階建ての家があった。これが問題の家なのか。路地にも家のまわりにも複数人が結集し、「おーい」と中に向かって声をかけている。犬も吠えている。
と、にわかに怒声が交錯し、「逃げた!」という声があがった。あたりにどよめきが走る。
逃げた先は空き地らしい。ただでさえ暗いのに、背の高い草が生い茂っている。芳子も目を凝らしたがよく見えない。一旦紛れてしまえば、まわりには用水路や家々の裏庭やら駐車場やらがあって、逃げおおせるのは難しくないだろう。
けれど人間をまくことはできても犬はちがう。低くこもった鳴き声が何種類も聞こえ、逃亡者のものと思われる悲鳴があがった。やめろ、近づくなとジタバタする姿が草の間に見える。人間も追いついて、犬と共に取り囲む。相手が凶器を持っていたらと心配したが、「確保!」という声がいくつも飛び交いホッとした。
それもつかの間、「ランス!」と呼びかける声が芳子の耳に届く。
「おいランス、どこに行く!」
神林だ。背の高い彼はそのまま、芳子たちがいるのとは反対側の、駐車場らしき場所に向かって走り去る。
「津山さん、ここにランスがいたんじゃないかしら。そうよね、神林さんもいたし。でもまたどこかに行ってしまった」
「待って。むやみに動くのは危ないわ」
「そうは言っても早く捜さないと」
押し問答をしていると町内会長がやってきた。すばやく捕まえ、何があったのかを聞き出す。それによると今日の夜、町内に不審者が現れ、おそらく目星を付けていたのだろう、富永邸の奥に建つ家にガラス窓を割って侵入した。家には五十代の息子と八十代の母がいた。さらにその場には保護犬のルーシー、推定年齢十四歳という年老いたコッカースパニエル犬がいて、いつになく荒々しく吠え始めた。
台所にいた母親と、風呂上がりの息子が戸惑っていると侵入者が室内に現れ、逃げる間もなく捕らえられ縛り上げられた。ルーシーも蹴飛ばされて部屋の隅にうずくまる。その後、侵入者は家の中を物色し、金を出せとふたりに迫った。
一方、ルーシーの鳴き声は近所の犬に聞こえたのだろうと町内会長は言った。異変を察知し犬はまわりに伝え、それがどんどん広がり町内をあげての唱和になった。
「そんなことが、ほんとうにあるんですか」
芳子が言うと会長は重々しく首を縦に振った。
「私も半信半疑でした。でも犬のあとを追いかけてじっさいここにたどり着いたんですよ。なんといってもうちの町内にはランスがいますし」
「ランス?」
「久住さんの旦那さんがイベントのたびに連れてきましてね。なかなか人慣れしない犬ですが利発で分別がある。それは他の犬たちにもよくわかったようで、信頼を集めていましたよ。恥ずかしながら町内には、喧嘩売るのが仕事みたいな犬や、すぐ興奮して跳ねまわる犬、甘ったれで誰彼かまわずじゃれつく犬など、問題児ならぬ問題犬がいろいろいましてね。それがもう、ランスの威厳の前にイチコロ。喧嘩を売れる相手じゃない、ふざけて飛びつく相手じゃないと本能レベルで理解できたんでしょうね。他の飼い犬たちからも慕われ、ランスを中心に町内の犬の結束はかなりのものだったんですよ」
まったくの初耳というのではなく、思い返してみると克雅からときどき聞かされていた。でも苦手意識の強い町内の話題とあって、右から左に聞き流していた。
「それでランスは今どこに。急にいなくなってしまったんです」
「賊は四人いたようです。そのうちの二人は家の中で町内会の有志で取り押さえ、縛り上げて監視しています。もうすぐ警察が来るでしょう。つき出しますよ。被害に遭った親子は救出済みで、幸い目立った怪我は負ってないようです。残りの二人は逃げてしまい、ひとりは空き地で捕まえたものの、もうひとりはさらに逃走したらしく」
「もしかしてランスが追っていると?」
芳子の声にパトカーのサイレンが重なった。瞬きしている間にもサイレンは大きくなり何台ものパトカーが到着する。会長はその応対に行ってしまい、芳子は留以子と共に後ずさった。これからどうしよう、目と目で会話していると、公民館への道すがらに出会った男性がやってきた。
「津山さん、旦那さんにスマホのことは言ったんだけど、警察も来ちゃったからしばらく離れられないと思うよ」
「こんなときにすみません。ありがとうございます」
男性は犬を知り合いに預けてきたと言い、急いでどこかに行くらしい。
「これからどちらに?」
「ランスが犯人のひとりを見つけたって。公民館の近く」
(つづく)