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 翌日と翌々日は庭に出て植木や花に水をやったくらいで、ほぼ家の中で過ごした。食べ物なら冷蔵庫の中にいろいろある。ぼんやりしていたかといえばそうでもなく、電話はかかってくるし宅配便は届く。お悔やみの電話や品物がほとんどだ。

 三日目の昼間に太一がやってきて書類に判子を頼まれた。克雅の死去に伴う各種の手続きは太一が担ってくれるので助かるが、芳子本人が出向いた方が手っ取り早い事案もあって、その日程の相談などもあった。太一は用件を済ませるとコーヒーの一杯も飲まずに帰ってしまう。ランスにもかまわないのでよっぽど忙しいのだろう。通常の仕事に加えて父関連の手続きともなれば無理からぬ話だ。

 太一に話し相手を望まずとも、ランスがいればちょっとした会話に事欠かない。散歩や運動のためにしょっちゅう訪れる人がいる。ランスは久住家の飼い犬ではあるが、ほんとうの意味での持ち主は別にいて、「スマイルペットサービス・マキタ」という、ペット全般を扱う会社が保有している。久住家はそこから借り受ける形になっている。つまりレンタル番犬だ。

 ただ借りているだけではなく、マキタのスタッフが日々の散歩やトレーニングを担い、トリミングや検診といった外出も頼める。なんならフードも用意してくれる。もちろん犬に関する相談に随時乗ってくれる。そういったサービス全般を含めてのレンタルなので料金はそこそこかかる。

 あなたのおうちでもいかがと、芳子に持ちかけたのは大学時代の友人だ。所属していた学部のOB会に出席したところ、息子がやっているペット関連の会社で、新しいサービスを始めるという。うまく行くかどうか親としても心配だから、一軒家に住む友だちを見つけるとつい声をかけてしまう、そう言って彼女は肩をすくめた。今から五年近く前になる。

 芳子たちはたびたび旅行に出かけていたのでペットを飼うなど考えたこともなく、その場では曖昧な返事しかできなかった。でも帰宅後に思い出してちょっと面白いかもと思った。克雅に言うと「へえ、犬か」とまんざらでもない。克雅はその頃、身体のあちこちに不調が見つかり遠出が難しくなっていた。父よりも早くに海外旅行はリタイアを迫られている。犬を飼うという想定外の話に好奇心がくすぐられたらしい。

 直接会社に連絡して説明を聞いた後、夫婦で多摩川沿いにある訓練センターに足を運んだ。見学しているうちに、遠くに思えた犬という生き物が少しずつ身近に感じられるようになった。なにしろふたりとも犬を飼った経験がない。小さな犬でもふれ合うのにおっかなびっくりなのに、番犬ならば訓練の行き届いた大型犬がいいらしい。

 やっていけるかしらと思案する芳子とは裏腹に、克雅は飼うなら番犬と張り切って、先方が引き合わせてくれたのは、もうすぐ四歳になる雄のドーベルマンだった。

 黒光りする肢体は立派で凄みがあり、ただ者ではないオーラを惜しげもなく放っている。克雅は素晴らしくかっこいいと褒め称えつつ、へっぴり腰もいいとこ。トレーナーの指導の下、スキンシップを図ろうとしても悲鳴を上げたり後ずさったりとやかましい。

 これは無理かと内心思っていると、初対面の翌日か、翌々日か、やけに真剣な面持ちであの犬にしたいと言い出した。すぐに決めなくてももっと他の犬を見てもいい。ドーベルマン以外にもシェパードもいる。何頭か面談して一番相性が良さそうな犬を選べばいい。そう最初の説明で言われていた。

 なのに克雅はあの犬、ランスがいいと、七十代にしてはつぶらな瞳で訴えた。

「よっちゃん、運命ってあるじゃないか。もう他の犬は考えられない。ランスに来てほしい」

 王様のお越しを願う家来のようで、魅了されたと言えば聞こえはいいが、どちらがご主人なのかわからない。そんなので大丈夫だろうか。一抹の不安はあったもののこちらの気持ちを伝えると、マキタの人たちはとても喜んでくれた。ありがとうございます、嬉しいですと、熱のこもった声が返ってくる。

 新規事業の難しさを芳子にしても思わずにいられなかった。今までにないサービスを考案し、準備して運用にこぎ着けても、定着や継続する例はおそらくとても少ない。レンタル番犬の場合も見学者はぼちぼち現れているようだが、契約を考えている人はどれだけいるか。利用している人がまだと聞けば二の足を踏むのが人情だ。うまくいっている安全安心な試みだと、納得してからでないと次のステップには進めない。

 その次のステップとは、訓練センターで特定の犬と信頼関係を築くカリキュラム。これを経たのち、利用者宅に連れてくる。家の中に入れ、最初は短時間、慣れるにつれ時間を延ばす。一泊を過ごし、連泊を試し、すっかり慣れてから正式の契約になる。

 もしかしたらランスは初めてのトライアルケースであり、正式契約第一号なのかもしれない。

 

「相変わらずランスは寂しがっているの。うちの人を未だに捜すんだもの。いきなり振り向いてじっと宙を見つめていると、もしかしたらそこにうちの人の霊がいるのかしらと思ってしまうわ」

 朝の散歩を終えて二人組のスタッフがランスを送り届けてくれたので、受け取りがてら話すと、若い方の女性スタッフが応じてくれた。

「ありありとその場面が想像できます。ほんとうに寂しいですよね。もちろんご家族様はスタッフの何倍もですけれど。私たちもご主人とずっと親しくやりとりさせていただいたので、なかなか受け入れられません」

「そうよね、毎日やりとりしていたものね」

 ランスを飼い始めて四年半になる。その間毎日、マキタのスタッフとは顔を合わせている。顔ぶれはときどき替わっているが、みんな礼儀正しく元気ではきはきしている。

「しばらくランスも不安定かもしれません。困りごとや相談したいことがあったら、いつでも連絡ください」

「ありがとう。そう言ってもらえると楽になるわ。今もこんなふうなちょっとした会話で気持ちが慰められているの」

「私たちもです。時間が必要ですね」

 女性のスタッフはマキタの社員と聞いた。もうひとりは芳子と同年代の男性で、こちらはアルバイトだそうだ。克雅と仲が良かった。

 ふたりはそれこそ仕事中なので、長話は遠慮してランスと共に車を見送った。格子になった門扉を開けてアプローチに入ろうとして、ふと振り返ると斜め向かいの家に人影があった。神林という近所に住む青年だ。ほっそりとした長身で、年頃は三十代後半。リュックを背負っているのでどこかに出かけるところだろうが、わざわざ足を止めてこちらを見ている。

 目が合ってしまったので芳子はほんの少し頭を動かして会釈した。ランスを追い立てるようにして門の内側に入り、玄関までのアプローチも急ぎ足で進む。玄関ドアを開けながらちらりと目をやると、駆け寄ってくる彼が見えた。あわててドアの間から滑り込み、もちろんランスも入れて鍵を閉める。

 なぜこちらを見て寄ってきたのだろう。話したいことは、少なくとも芳子にはない。以前、町内の人には著しく不快な思いを味わわされていた。それ以来、自分は関わり合いを避けてきたし、今後もそのつもりだ。胸がざわついて、マキタのスタッフと話して和んだ気持ちが台無しだ。

 苛立ちを飲み込み芳子は家の片付けに集中した。一段落したところで、久しぶりに表に出てみようかと簡単に身支度を整える。カレンダーを見れば用事はいろいろ入っていた。舞台俳優を囲んでのランチ会や、友人が主催するティーサロン、室内管弦楽団のミニコンサート、フランスワインを楽しむディナー、ボランティア団体の親睦会、文豪の生家を訪ねる散策会。

 どれも喪中を理由に断った。笑顔で臨むような集まりにはしばらく出づらい。唯一外せないのは母校である女子校のバザーに関する件だ。自分の用意した不要品だけでなく、人から預かったものもあるので早めに届けたい。

 ランスには留守番を言い聞かせ、芳子は車を運転して世話役をしている元クラスメイトの家に向かった。三十分ほど走らせた先にある年季の入った一軒家だ。事前に連絡していたので、車を横付けする間にも出てきてくれた。紙袋をいくつか渡して失礼するつもりだったが、コーヒーの一杯でもと言われてお邪魔する。ここしばらくの労をねぎらってもらい、しみじみしたり、女子校時代の話に思わず声をあげて笑ったり。

 お昼も誘われたがまた今度と約束して友だちの家をあとにする。スーパーに寄って、その中にあるカフェでランチを取り、食料品を買い込んで帰路につく。これからは食事を用意しても一人分だ。そんなことを考えながら住宅街の角を曲がり、芳子は目を見張った。

 家の前に誰かいる。ひとりではなく複数人だ。スピードを落として近づくと、向こうも車に気がついててんでに頭を下げた。見覚えがある。近所の人だ。今朝、顔を合わせたばかりの神林もいる。

 強ばりそうになる手足をなだめるように動かし、いつも通りにガレージに入れて車を降りた。玄関アプローチに直接入れるが、無視して家に引っ込んだらさすがに大人げない。助手席に置いたエコバッグを手に提げて彼らに近づいた。

「何かありましたでしょうか」

「お忙しいところを押しかけてすみません」

 いかにも代表という感じで高齢男性が会釈する。板垣という町内会長だ。

「このたびはまことにご愁傷様でした。急なことでご家族の皆さんはさぞやお力落としのことかと」

 芳子は目を合わせないようにして「はあ」と相槌を打つ。

「生前、久住さんにはひとかたならぬお世話になりました」

「いえ、そんな」

「なりましたよ。それはもういろいろと。ですので、ぜひともお線香の一本でもあげさせてもらえないかと、お願いに上がった次第です」

 久住家のある松屋町は新旧入り交じった雑多な住宅街だ。広い敷地を持つお屋敷がなくなり、そのあとに三階建てのひょろりとした住宅が何棟もできたかと思うと、煉瓦塀に囲まれた古い洋館があったり、しだれ桜をみごとに咲かせる平屋があったり、草ぼうぼうの空き地があったり。町内会は住宅街のブロックごとに班が構成されていて、住民が亡くなったときは班長に連絡するのが習いになっていた。後日、回覧板の「ご逝去」欄に掲載される。

 根っからお人好しの克雅は、遠出ができなくなるといつの間にか町内の雑用を引き受け、やれ敬老の日の接待だの、子ども向けのクイズラリーだの、お餅つきだのと忙しくしていた。自分は関わりたくないと思っていても、克雅に顔なじみがいる。それを知っていたので班長に訃報だけは伝えた。

 さっそく会長以下、数名の耳に入ったのだろう。

「ご葬儀はお身内の方だけとうかがったので遠慮させてもらいました。でもこのままというのも寂しくて。最後のお別れをしたいと、まあその、代表というのもおこがましいのですが、懇意にしていた私たち四人がお邪魔したわけでして」

 板垣会長と神林の他、後藤田という七十代くらいの男と、もうひとり女性がいる。誰だっただろう。芳子にとって、町内会で話をしたのはとなりに住んでいた同年代の女性くらいだ。優しく穏やかで、思慮深さも感じられる人だった。つかず離れずの付き合いが続いたが、彼女は夫のたっての希望とやらで地方都市に引っ越してしまった。もう六年前になる。

「どうでしょう、お願いできないですか」

「はあ、あの、皆さんで?」

「すみません。みんな久住さんと仲良くさせてもらっていて。もしなんでしたら、日を改めます。ご都合のいい日を言ってもらえたら……」

 改められたら茶菓の用意くらいしなくてはならない。

「いえ、なんのおもてなしもできませんが、今でよろしかったらどうぞ。主人も喜ぶと思います」

 棒読みの台詞のように素っ気なく言ったつもりだが、主人も喜ぶの一言に四人の顔がパッと明るくなった。その通りだとうなずくような仕草にムッとしたが、こらえて芳子は門を開けた。

 

 玄関ドアを開けると上がりがまちにランスが待ち受けていた。いつものことだ。芳子は「ただいま」とふだん通りに笑いかけようとしたが、それを押しのける勢いで「ランス」「ランス」と四人は騒ぐ。

「会いたかったよ」

「パパのこと、哀しかったね」

「元気そうでほっとした」

 ランスの方も尻尾を振って大喜びで四人にじゃれつく。いつまでもそれが続くので、芳子は業を煮やして「ランス」ときつめに呼びかけた。

「リビングに戻りなさい。うろうろせず、静かにじっとしているように!」

 命じられてランスは「おん」とひとつ鳴き、身を翻してすっ飛んで行った。四人が唖然とした顔をするので、「荷物が重いんですよ」とエコバッグを持ち上げた。

 それからはリビングに移動して「立派な家ですねえ」と感心する人もいれば、「前にも来たことがあるんですよ」と得意げになる人もいる。芳子の留守に克雅が入れていたのだ。

 十八年前に建て直した建坪六十いくつの我が家は、子どもたちが独立したあとだったので、ふたりの趣味や意見だけで建てた。一階は吹き抜けのある広々としたリビングと、それに続くダイニング。和室が一間。あとは水回り。二階は克雅と芳子の個室がひとつずつ、ゲストルームがひとつ。

 建て直すときに荷物の整理を敢行したので、すみずみまですっきりしている。お気に入りの家具と絵画と観葉植物と愛犬。ここに長年のパートナーがいなくなったのはつくづく哀しいが、感傷に浸っている場合ではない。四人をさっさと和室に案内する。六畳ほどの小さな部屋で、家の雰囲気から浮かないようシンプルな仏壇が設えられている。

 真新しい克雅の遺影と真っ白な骨壺が置かれたそこに、四人はひとりずつ座って線香をあげていく。手を合わせ遺影を見つめて話しかけるような頬の動き、背中を丸めての拝礼、かすかに上下する肩。それらを見ているうちに芳子のとんがった気持ちも和らいだ。

 和室からそっと離れ、キッチンで湯を沸かす。お茶の一杯も出さぬわけにはいられない。女性がやってきて「手ぶらでごめんなさい」とすまなそうに頭を下げ、津山留以子と名乗ってくれた。飾り気のない服装や髪型ながらも、シンプルなコットンシャツや紺色のズボンは若々しい。同年代か、少し下か。

「いいえ、お気遣いなく。お菓子もお花もいろいろ届いて、ひとりでは困っていたところです」

 キッチンには菓子箱が積んであり、白や薄紫色の花々をあしらったアレンジメントフラワーがそこかしこに飾られている。ものをいただいたらお返しを考えねばならず、手ぶらが助かるのはほんとうだった。

 ふと思いついて、芳子は紙袋のストックから四枚を用意した。中にお菓子をいろいろ入れていく。

「よかったら召し上がってください」

「そんな。かえって悪いわ」

「賞味期限の近いものもあるので、手伝ってもらえるとありがたいです」

 話していると男性たちがやってきた。ダイニングテーブルに座ってもらい、お茶を出して紙袋を添えた。

 彼らも恐縮したが、すすめるとお茶に手を伸ばし、ぽつぽつと思い出話も語られた。克雅は茶目っ気があって朗らかでだいたいニコニコしている。なので老若男女に好かれ、引き連れているランスと共にご近所の人気者だったそうだ。もう会えないと思うと寂しくてたまらない、会長の言葉にみんなしんみりしたところで、女性が「そろそろ」と腰を浮かせた。

 芳子もお開きのつもりで「今日はありがとうございました」と礼を言う。男性たちも立ち上がったが、そのとき一番若い神林が「あの」と切り出した。

「もしよろしかったら、これからもときどきランスの散歩をやらせてもらえませんか」

 芳子は眉をひそめた。克雅は自分の楽しみとして、日中ランスを連れて気ままに散歩していた。ここしばらく体調が優れず、神林が代わりに連れ出しているのは知っていたが、気付かぬふりでやり過ごしていた。

「せっかくですけれど、散歩でしたら朝晩ちゃんとさせていますので」

「運動量が足りているのはわかっています。でも町内のみんながランスに会いたがっていまして」

 なんだそれはと芳子は気色ばむ。人の家の犬を好きに連れ回したいということか。非常識な。

「申し訳ありませんがそういった話はちょっと。主人が承知していたとしても、私には私の考えがありますし」

 横から「奥さん」と呼ばれた。後藤田だ。

「もしかしてランスを手放す気ですか。レンタル番犬ってのは聞いています。借りていたご主人が亡くなったら、ひょっとして返してしまうんじゃないですか」

 開いた口が塞がらないとはこのことだ。でもポカンともしてられず芳子は腹に力を入れた。よけいなお世話だ、あなたには関係ないと、歯に衣着せずどやしつけてやりたかったが、留以子が割って入った。

「そういう話をいきなりしないの。もう帰りましょう。日が暮れるわよ」

 時計を見れば四時を過ぎている。すでに日が傾き、西の空が赤く染まっている。

「ほらほら、奥さんにもランスにもちゃんとご挨拶しましょ。今日はありがとうございました。お茶までご馳走していただきとても嬉しかったです」

 男子生徒を引率する女性教師の手際を見るようだ。芳子も険しい顔を引っ込め、紙袋をひとりずつに手渡した。またいつでもいらしてくださいと、社交辞令を口にしないのはせめてもの矜持だ。

 あなたたちとは付き合わない。そしてランスは渡さない。

 

 

(つづく)