2021年11月に急逝した笹本稜平の大人気警察シリーズ「越境捜査」の最終刊がこのたび文庫化された。警視庁と神奈川県警の刑事コンビがときには脱法行為を覚悟で巨悪に迫る迫真の警察小説として人気を博し、二度にわたりドラマ化されるなど、著者の代表作になった。そのシリーズの文庫解説を第一作からすべて担ってきた文芸評論家の細谷正充氏による「最後の解説」をお届けする。
■『流転 越境捜査』笹本稜平 /細谷正充 [評]
笹本稜平の警察小説「越境捜査」シリーズの第九弾『流転-越境捜査-』の解説を書く時が、ついに来てしまった。文庫で愛読している人ならご存じだろうが、第一弾の『越境捜査』から、シリーズすべての解説を、私が担当している。かなり早い段階で、シリーズの解説は全部私に任せると担当編集者からいわれ、大喜びした記憶がある。笹本稜平の警察小説の代表作であるシリーズの、すべての文庫に私の解説が付くのだ。笹本作品を愛読する一人として、こんなに嬉しいことはない。
だが今、この解説を書きながら、喜びと一緒に悲しみを感じている。周知の事実だが作者は、2021年11月に急性心筋梗塞により死去。訃報が公表されたのは翌22年1月14日のことであり、突然の別れに、驚き悲しむ人が続出した。その悲しみが冷めやらぬ、2022年4月に双葉社から刊行されたのが、「越境捜査」シリーズの最終巻となってしまった本書なのである。個人的に、「小説推理」2020年11月号から翌21年11月号にかけて連載された本作をチラチラ眺めながら、単行本で読むのを楽しみにしていた。まさかこんなに複雑な気持ちで読むことになるとは思わなかった。とはいえこちらの感情は、物語の面白さとは関係ない。本書もシリーズの魅力を堪能できる、充実の警察小説になっているのだ。
神奈川県警の小悪党刑事・宮野裕之は、川崎競馬場でオケラになった帰り道、国際指名手配されている木津芳樹を見かけた。木津は、12年前に都下の奥多摩で起きた富豪一家惨殺事件の教唆犯である。ちなみに殺されたのは、ITベンチャー企業の経営者で、新興市場への株式上場で巨額の創業者利益を得ていた沼田健三と、その妻子だ。事件が起きた直後、沼田の口座から20億円を上回る資金がオフショアの匿名口座に振り込まれているが、これもメガバンクの行員だった木津の仕業らしい。殺人の実行犯の中国人二人はすぐに捕まったが、彼は逃亡を続けて今に至っている。
木津に大金の匂いを感じた宮野は、旧知の警視庁捜査一課特命捜査対策室特命捜査二係の鷺沼友哉に連絡。鷺沼と宮野。鷺沼の上司の三好章と同僚の井上拓海。井上の恋人で所轄刑事の山中彩香。元やくざで現在はイタリアン・レストランのオーナーの福富。この六人は、独自に事件を追うタスクフォースを結成し、今まで幾つもの事件に立ち向かってきた。宮野の狙いは、今回もタスクフォースとして動き、経済的制裁と称する金儲けをすることである。宮野の抜群に美味しい料理に胃袋を掴まれている鷺沼は、いつものように、しぶしぶ自分の部屋に彼を居候させるのだった。
井上と共に捜査を始めた鷺沼は、偽名を使っている木津を本人と確認し、捕まえようとする。木津が暮らすマンスリーマンションの経営会社の総務部長・中村和俊にも、怪しいところがあることが分かった。だが、木津が飛び降り自殺を図り、意識不明になってしまう。それでも事件の真相を求める鷺沼たちの前に、底知れない闇が待ち構えているのだった。
宮野が木津に気づく発端から、ストーリーはテンポよく進む。とはいえ鷺沼たちの捜査は堅実だ。まず木津が本人かどうかを確認しようとするのだが、非常に手間取る。木津の偽パスポートの件を、外務省に問い合わせるも、木で鼻をくくったような対応をされるのは、いかにもありそうなことだ。インターネットの発達により、格段に時間を短縮できる部分もあれば、個人情報が保護されるようになり、手間がかかるようになった部分もある。そのような現代の刑事の活動を、作者は克明に描き出すのだ。
そして木津が自殺を図ってから、物語のギアが一段上がる。事件の捜査は警視庁に持っていかれるが、疑惑の増している中村の存在は、鷺沼たちが握っている。彩香と福富も加わり、いつものメンバーが勢揃い。タスクフォースとしての動きも本格的になる。だが事件は、どこまでも広がっていく。意識不明の木津が、入院先で殺される可能性。中村と沼田の出身地が同じことから浮かび上がってきた、昭和七年の殺人事件。事件の周囲で蠢く、半グレ集団の幹部や闇金の女王の存在。富豪一家殺人事件の疑問。事件の全体像は複雑であり、多くの人々の人生を狂わせた犯人の肖像は極悪だ。
そう、今までのシリーズでタスクフォースが挑んだのは“巨悪”だが、本書は“極悪”なのである。鷺沼たちのメイン・ターゲットは、一人の極悪人なのだ。ここが従来のシリーズと少し違っている点である。
さらにもうひとつ、違っている点がある。宮野が企む、経済的制裁という名の金儲けだ。シリーズの最初から、経済的制裁が悪党の上前を撥ねることになるのを嫌悪している鷺沼。上司の三好や、相棒の井上が、徐々に宮野に感化されてきたことを危惧している。それでも宮野の「鷺沼さんが追求する正義なんて絵空事でしかないんじゃないの」といわれると、心が揺れるのだ。ところが今回の経済的制裁は、今までにない、予想外の結末を迎えるのである。こうした従来のシリーズとの差異に、どのような意図があるのだろう。
あらためて確認するが、本シリーズの特色は“越境”だ。越境は、警視庁と神奈川県警の確執から生まれた、さまざまな壁を超えること。また、巨悪と戦うために、法の一線を越えてしまう鷺沼たちの姿を指していた。この越境が、本シリーズを独自の魅力を持った警察小説にしていたといっていい。
だが、シリーズとしての枠組みが強固であるがゆえに、同じようなパターンに陥りやすい。もちろん作者はベテランだ。敵の設定を変えたりして、今までマンネリを回避してきた。しかし巻を重ねたことで、窮屈になってきたのではないか。すでに設定やキャラクターは出来上がっている。ならば従来の枠組みを“越境”だして、さらなる世界を創り出した方がいいのではないか。勝手な想像であるが、本書の内容を見ると、作者がそう考えていたように思えてならない。
だからこそ、作者の死去が惜しまれるのだ。人気を獲得したシリーズの世界に安住することなく、さらに物語を進化させようとした。どれほど遠くまで行くつもりだったのだろう。今となっては、ただ想像するしかない。その事実が、たまらなく淋しいのである。
最後に少し、個人的な話を書かせてもらいたい。私が作者と会ったのは、某誌の仕事でインタビューしたときの一回だけである。効率を重視した取材方法など、興味深い話が多かった。その中で一番印象的だったのは、自己の作品について客観的に語っていたことである。ずいぶんクレバーな人だと感じたものだ。
しかし、それとは違う件で、作品に熱い想いを抱いていると思わせることがあった。本シリーズとは別の笹本作品の解説を書いたとき、編集者経由で、ちょっと文章を直してほしいといわれた(現在では解説を作者がチェックすることが少なくない)。詳細は省くが、その指摘は作家の立場を考えれば納得いくものだったので、こだわることなく直した。そしてクレバーに見えた作者の、自己の作品に対する熱い想いが伝わってきたのである。このような想いが込められていたからこそ、本シリーズ、いや、すべての笹本作品が、多くの読者を夢中にさせたのだろう。そしてこれからも夢中にさせていくことを信じている。人の命は尽きても、優れた作品の命が尽きることはないのだ。