ハロプロでもAKBグループでもない「第三極」が頭角を現していき、“アイドル戦国時代”の様相を見せた2010年代。芸能界の力学から離れ、ステージの魅力だけで“天下”がとれると、誰もが夢想した幸せで過酷な時代を生きて、現在はグループアイドルを卒業した女性たちにあの頃と今を聞く。ブームを走り切った元・グループアイドルと、彼女たちに伴走したフリーライターの証言。あの時、彼ら彼女たちは何を夢見たのか。

 アイドルカルチャーほかポピュラー文化を中心にライティング・批評を手がける香月孝史さんのレビューで『私がグループアイドルだった時 僕の取材ノート2010-2020』の読みどころをご紹介します。

 

前編はこちら

 

かつてアイドルコンサートを数多く開催した中野サンプラザ。
閉館前の貴重な楽屋写真がカバーとなっている

 

■『私がグループアイドルだった時 僕の取材ノート2010-2020』大貫真之介  /香月孝史[評]

 

「他者の視点が介在したうえで精製された言葉」の価値を綴る一節は「語り」のテキストをめぐる分析であり、一人のメディア従事者の矜持あるいは祈りのようでもある。

 

 あらためて確認すれば、大貫真之介『私がグループアイドルだった時 僕の取材ノート2010-2020』は、2010年代にグループアイドルのメンバーとして生きた人々の「あの時とそれから」が語られたインタビュー集だ。「文春オンライン」に数年をかけて不定期連載されたそのインタビュー群は、著者による概説的なイントロが章ごとに付され一冊にまとめられたことで、グループアイドルシーンの諸側面を記録し、位置づけるための貴重な資料となった。

 ただしまた、本書のうち大貫自身の視点で綴られるパートからは、アイドルが語った言葉を伝える送り手側の葛藤や試行錯誤、時代状況への対峙のあり方も垣間見える。その意味で、本書は「アイドル」を生きた実践者たちばかりでなく、その周辺メディアの性質を捉え返すものでもある。

「序章」冒頭には、記事を成立させるためにアイドルから前向きな言葉を引き出そうとする大貫と、それに対して「信頼しているから“いいこと”が言えない」と苦笑して返答するアイドルのやりとりが記される。アイドルとマスメディアをとりまく環境について語る前段に設けられた最初のエピソードだが、これはまた、そもそもインタビュー記事が性質上、アイドルの自発的な言葉をそのまま伝えるものではありえないという事実の率直な開示でもある。

 多くの場合、インタビュー記事は、他者から問いを投げかけられたアイドルがその場で思考し口頭で言語化したものが素材となり、他者の手でひとまとまりの文章として整理・再構成され、編集やチェックのプロセスを経つつレイアウトされ、ひとつのコンテンツとなる。わざわざ問われる機会がなければ、アイドル本人が能動的に口にする必然さえなかったかもしれないその内容は、コンテンツとして整えられたうえで、おそらく一言一句、留保なく「本人の言葉」としてファンに受け止められる。だからこそ、記事をまとめる書き手はアイドル当人の意図を間違えないよう、腐心しながら文章化する必要がある。大貫がインタビュイーから得た「信頼」も、おそらくそうした誠実な実践の継続ゆえだろう。

 実際、大貫はインタビューが否応なく帯びるこの性質に自覚的である。本書書き下ろしとして収録された斉藤優里(元乃木坂46)インタビューパートのイントロには、アイドル本人によるSNSや動画配信といった、フィルターの少ない発信が豊富に行なわれる時勢にあって、それでもなお「他者の視点が介在したうえで精製された言葉」の価値を綴る一節がある。それは「語り」のテキストをめぐる分析であり、一人のメディア従事者の矜持あるいは祈りのようでもある。

「他者の視点」によって精製された言葉はまた、アイドルが描いた軌跡を縁取り、「物語」として提供するはたらきをもつ。昨今のアイドル文化に親しむ者であれば、その「物語」化がはらむ功罪にも無自覚ではいられない。斉藤と同じく本書書き下ろしで収録された今泉佑唯(元欅坂46)インタビューの導入に記されるのは、欅坂46に対する社会の熱狂を前にして、みだりにそれを煽る描き方をすれば当人たちに精神的負荷をかけるのではないかとスタンスに苦慮していた、当時の大貫の姿である。

 インタビュアー/ライターの訊き方やまとめ方の内には、その書き手の倫理観やイデオロギー、目の前の事象がもつあやうさに対する自覚の有無といった要素が間違いなく宿り、ともすれば現実のアイドル自身にまで作用していく。大貫が時にためらい混じりに記述する言葉の背後にはきっと、そうした怖れもにじんでいる。

 これらインタビュアーの真摯な言葉とともに、2010年代のアイドルシーンを生きた人々の語りがいきいきと現在形で示される。だからこそ、本書はアイドルというメディア的存在の表現や主体のありようについて、単純ならざる視点をもたらしてくれるはずだ。