「居酒屋ぜんや」「江戸彩り見立て帖」シリーズなど、人情味あふれる時代小説の名手・坂井希久子氏は、『妻の終活』『セクシャル・ルールズ』など現代人が直面する苦悩と希望を紡ぐ現代小説も見逃せない。新作『華ざかりの三重奏テルツエツト』は、令和時代を生きる60歳の女性をテーマに描いた還暦小説だ。定年退職を迎えた独身の可南子、育児と介護に明け暮れた専業主婦の芳美、夫と死別して息子家族と同居中の香織、熟年離婚の危機が迫る桜井など、様々な60歳がこれからの生き方を模索する。お金、健康、孤独など先の心配が尽きぬ中でも、今この瞬間を生きる希望の詰まった本作を描いた坂井氏に、作品にこめた思いをうかがった。

撮影=大泉美佳

 

定年後の喪失感は相当なもの。だからこそ希望を見つけられるお話を書きたかった

 

──『華ざかりの三重奏』は、60歳を迎えた3人の女性の人生が交差する還暦小説。「私って、いくつまで生きるんだろう」という台詞が作中でも出てきますが、坂井さんはどのような思いで「60歳」という年齢の人々を本作で描かれましたか?

 

坂井希久子(以下=坂井):本作を執筆したそもそものきっかけは、担当編集者と次回作の相談をしていたときに、「同窓会もの」と「定年を間近に控えた女性の不安」というキーワードが出てきたんですね。じゃあその2つをくっつけてしまおうということで。しかもちょうど男女雇用機会均等法が施行されたばかりのころに社会に出た女性たちが、定年を迎えるころじゃありませんか。だったらなおさら、小説の題材になりそうだなと思いました。当時は育休制度もありませんから、子供を諦めて仕事一筋に生きてきた方もいるでしょう。そういう女性にとって定年後の喪失感は、相当なものではないかと。だからこそなにか、希望を見つけられるお話を書きたいと思いました。実は私も、自分がいくつまで生きるのか分からないのが不安ですので。

 

──主人公の可南子はキャリアウーマンで、同僚の女性が結婚や出産を機に退職していく中、独身で定年まで働き続けますが、60歳を間近にして「これから一人でどう生きたらいいのか?」と焦りだします。仕事に注力してきた人ほど定年後に居場所がないと感じる「仕事ロス」に陥ってしまうことがありそうですが、定年というライフステージの大きな変化をどのように受けとめていったらいいのでしょうか。

 

坂井:先程の質問の答えとちょっと被ってしまいそうですが。定年を迎えるといってもその後は雇用延長や、再雇用、再就職など、選択肢は様々だと思います。今の60代はとても若々しいし能力もありますから、現役時代とは比べ物にならないくらいのお給料で働かされるのは不満かもしれません。実際に経済的にも辛いでしょう。そのあたりもう少し改善されないものかとは思いますが、責任のある立場から離れて少しずつ人生を軟着陸させてゆく期間を持てるのは、いいことかもしれません。その間に、職場以外の人の繋がりを作っておくといいのではないでしょうか。仕事は決して、人生のすべてではないのですから。その点、趣味や推し活のために仕事をしているという方は頼もしいですね。

 

──可南子に「一緒に暮らさない?」と誘った芳美は、専業主婦で子育てと介護に奔走し、今では家族の旅立った家で一人暮らしをしています。中学時代に友人だった可南子と芳美はそれぞれ違う人生を歩み一時期距離ができますが、60歳で再び出会い「いい年して馬鹿みたい」「違うわよ。やっと馬鹿ができる歳になったのよ、私たち」と笑い合う場面にとても希望を感じました。

 

坂井:女性は特にライフステージの選択肢が男性よりも多いので、友人関係がそれに左右されてしまいます。子供のいる専業主婦と会社勤めの未婚の女性では自由になる時間が違いますから、ついライフステージの似ている人とつき合いがちになってしまうし、話も合わない。実際に私(既婚、子供なし)もつき合いの古い友人からママ友に関する相談をされ、アドバイスをしたら、「でもね、子供がいると違うのよ」と謎のマウントを取られたことがあります。それ以来、彼女の子育てが落ち着くまでは2人きりで会うのは控えようと決めました。

 だけど仕事をリタイアした可南子と、主婦業を終えた芳美ならば、また「生の」自分たちとしてつき合えるのではないか。ママ友についての愚痴につき合わされることも、仕事の悩みを一方的に語られることもなく、今、目の前にあることで笑い合える。純粋に好きなものについて語り合える。前述の友人ともそうなれたらいいなという、私の願望も入っていますね(笑)。

 

──60歳になっても、可南子は母親から「子供も孫もいないんじゃ、将来みじめなことになるんだから!」と言われ、いまだ結婚を勧められることにうんざりしています。芳美は遠方住まいの子供とぎくしゃくした思いをかかえていたり、逆に息子家族と密な空間で同居して息苦しさを感じる60歳・香織が登場したり。それぞれの60歳の視点から見た親子関係を描いてみていかがでしたか。

 

坂井:この3人の場合は親子関係がぎくしゃくしていると言っても、べつに破綻しているわけではない。ただ価値観が合わなかったり、自由がほしかったり、遠慮があったりで、一緒にいると息苦しくなってしまう。親子といっても人と人。合わないものは合わないですよね。関係を良好に保つために必要な距離は、相手によって変わります。親子といえどお互いに自立が適ううちは、その距離を保っていればいいのではないでしょうか。

 

(後編)──に続きます。

 

【あらすじ】
「定年を迎えた後って、みんな何をして過ごしてるの?」
キャリアウーマンだった可南子は、もうすぐ60歳。独身で子供はおらず、やりがいだった仕事も定年退職が迫っている。将来に気が滅入る中、地元で開かれた同窓会で中学時代に親しかった芳美と再会した。長きにわたる子育てと介護を経て、いまや未亡人だという芳美から「一緒に暮らさないか」と誘われて……。それぞれ悩みを抱える60歳たちは、還暦を機に噴出した「人生の問題」にどう向き合うのか。
お金、健康、孤独……先の心配尽きぬとも今を楽しみ尽くす令和の還暦小説!

 

坂井希久子(さかい・きくこ)プロフィール
1977年、和歌山県生まれ。2008年「虫のいどころ」でオール讀物新人賞を受賞しデビュー。17年『ほかほか蕗ご飯 居酒屋ぜんや』で髙田郁賞、歴史時代作家クラブ賞新人賞を受賞。主な著書に「居酒屋ぜんや」シリーズ、『若旦那のひざまくら』『妻の終活』『たそがれ大食堂』『市松師匠幕末ろまん 黒髪』『セクシャル・ルールズ』などがある。