2023年度の中学入試に向けた大手進学塾の模試や、難関中学の入試問題として数多く採用されたのが、朝比奈あすかさんの『ななみの海』。試験問題として出会った子どもや保護者がいま改めて手に取り、作品は版を重ねている。『君たちは今が世界すべて』や『翼の翼』でも、子どもたちの関係性や、子どもを取りまく社会を深く掘り下げ、注目を浴びている朝比奈あすかさん。児童養護施設で暮らす女子高生の姿を通し、本作で朝比奈さんが伝えたかったこととは?

 

 

『ななみの海』の主人公は、児童養護施設で暮らす女子高校生「ななみ」だ。進学校に通い、ダンス部に所属している。将来医師になりたいという夢を持ち、成績も良好。優等生の彼氏もいる。
 こんな主人公像を知れば、なんとなく嬉しい気持ちになるのではないか。児童養護施設にいる子も頑張っているんだ、青春しているんだ、と。その嬉しさは安堵に似ているかもしれない。
 だが、もし良かったら、ページをめくってほしい。
 きらきらと眩しい青春を送っているかのように見える彼女の心の中に積み重なってゆく絶望を知ってもらいたい。
「家の子」(保護者とともに家庭で暮らしている子)である学校の友達との朗らかなおしゃべりの裏に隠している多くの秘密。「医学部受験は学校の勉強だけだと厳しい。予備校に通ったほうがいいよ」と、親切なアドバイスをしてくれる彼氏に、大学の学費を準備するためのアルバイトに明け暮れている実情を話せない。施設の中の、風呂の順番や手伝いといった細かいルール、歳下の子たちが起こす騒ぎや盗難。様々なストレスにさらされ、我慢を強いられるななみは、K-popグループの推しの写真を机に貼り、なんとか自分の心を奮い立たせて参考書をめくるが、いつも眠い。
 そんなななみにのしかかる最大の不安は、大学進学と同時に施設を出て自立をしなければいけないことだ。社会的擁護を受ける子どもたちの中には、後ろだてがないまま社会に出なければいけない子たちがいる。
 前もってその生活費や学費を準備しておこうと高校生になった時からアルバイトを続けているななみだが、勉強時間が取れず、成績は下がってゆく。同じ学校の同級生たちの多くが、保護者の援助のもと予備校に通い、希望する模試を受け、英語の資格試験を受けているように見える中、ななみは将来への不安に押しつぶされそうになってゆく。目的があり、努力をしたいからこそ、心の安定を保てなくなる。
 幼くしてあまりにも多くのことを背負わされている子どもの現実を、わたしは描きたかった。なぜなら、『ななみの海』のための取材をするまで、18歳の子にのしかかるこの大きな負担を、わたしはずっと知らなかったから。
 信じられないことに、ほんの少し前まで、保護施設や里親の元で育つ子どもたちに、高校卒業とともに自立を求められる「18歳の壁」が突きつけられていた。
 取材した職員の方から話を伺ったとき、この子たちが施設にいられるのは原則18歳まで、と聞いて、「きつすぎる!」と思った。自分の子どもがななみと同年代だったこともあり、18歳という年齢の幼さが、より痛々しく感じられたのだ。
 大人の皆さんには、自分が18歳だった時のことを思い出してもらいたい。たとえば、本当に困った時に、どこに助けを求めればいいのか、そもそも助けを求めてもいいのか、ひとりでは分からなかったのではないか? 理不尽な目に遭った時に、それが理不尽なのかどうかさえ、判別がつかず、のみこんでしまうこともあったのではないか。わたしは、自分の子どもや、子どもの友達、かつて大学で講師を引き受けていた時に接した大学生たちを見ていてそう思う。大人と同じ見た目で、受け答えがしっかりしているようでも、彼等の社会的な経験値はあまりにも低い。当然だ。言動と心にちぐはぐしたところがあった。かつてのわたしも、そうだった。
 ここでひとつ伝えておきたいのは、施設からの独立が、親元から離れてひとり暮らしするのとは全く違う点である。つまり、何かがあった時に帰れる場所があるか、ないか。
 もちろん、卒業生がいつでも遊びに来られるようなあたたかい場所を作ろうとしている施設職員は多くいる。わたしが取材した施設の方々は、卒業していった子どもたちのことをとても気にかけていた。同時に、18歳になった彼らが、もう自分はここにいられる人間ではないと思いこんでいることも知っていた。彼らは職員たちから、離れてゆく。離れなければならないと思っている。遠慮もあるし、プライドもある。何より、「そうあらねばならない」という思い込みがある。
 アフターケア相談所「ゆずりは」を主宰されている高橋亜美さんとお話しさせていただいた時、高橋さんは「自立」という言葉が嫌いだと言っていた。その言葉は子どもたちにプレッシャーを与える。「自立したんだから自分は頑張らなきゃだめだ」と考えて、これぐらいのことで助けてって言っちゃだめだと思い込むのだという。
 しかし、たとえば風邪をひいたり、怪我をしたりしたら、勉強にも仕事にも、大きな穴をあけてしまうだろう。小さなきっかけが、取り返しのつかないものになるかもしれない。せっかく入った学校をやめてゆく子、せっかく就けた仕事をやめる子、無言でゆくえをくらます子、たくさんいると聞いた。犯罪に走る子もいるそうだ。取材を通じ、こんな酷な現実がありながら、全く知らずに生きていたことを、わたしは恥ずかしく思った。
 昨年6月に改正児童福祉法が成立し、この「18歳の壁」がようやく崩された。社会的擁護を受ける子どもの施設にいられる年齢の制限が撤廃されることになったのだ。この報道がされた時、編集者と私は連絡を取り合って喜んだが、実際には施設のスペースや職員の数などの関係で退所を余儀なくされる若者が少なくないという話を聞き、まだ課題は多いと思っている。
 小説の中に、ななみの後輩が塾で「税金泥棒」と呼ばれたというシーンが出てくる。これは、実際に施設の取材をして聞いた実話をもとにした。子どもが子どもに「税金泥棒」という言葉を投げた事実は、今の社会を映し出しているように、わたしは感じた。大人たちの短絡的なものの考え方や、差別につながる偏見をネットなどを通じて声高に言える状態が、こういう言葉を世に蔓延はびこらせてしまう。
 高い学歴の持ち主や、高収入の人たちは、たしかに努力をしたのだろうし、それは本当に尊いことだ。しかし、その努力をすること自体がひどく難しい環境にあっても同じことができたのかは分からないという想像力を持つことも必要ではないかと思う。努力できる環境と、努力する力を持ち合わせたことを、幸運だったと思って社会に還元したいという人が増えることで、世の中に蔓延る弱者をたたこうとするムードを薄れさせることができる。
 この小説は多くの塾の模試や学校の入試などに使っていただいたと聞いた。問題文として出会った若い人たちに、ななみをとりまく世界を知ってもらえたことを嬉しく思う。わたしにとってななみは、本当に大切な主人公だ。わたしはななみの絶望を伝えたかったが、同時に、ななみが自分の生き方を見つけて歩き出す姿も描きたかった。

 

【あらすじ】
 児童養護施設で暮らす高校生のななみ。
「馬鹿にされちゃアいけない」と小学生の頃から祖母に言われ続けた言葉を胸に、医学部進学を目指して受験勉強に励む日々を送っている。
 進学費用のための懸命なアルバイト、ダンス部仲間との最後の文化祭、初めての彼氏……など、高校生活を色濃く過ごすなか、高三の夏、ななみが自分の意思で選びとった道とは――。
 新たな世界へと踏み出す少女の心許なさを掬いとりながら、前途を温かく照らす感動長編。