毒親を持つ人たちが直面する介護問題 子どもが少しでも楽になるには

 

 母と縁を切って、数年が経つ。私の母親はいわゆる「毒親」で、私は虐待サバイバーだ。これまで母親から様々な肉体的、精神的暴力を受けてきた。そんな私はここ数年、「親を捨てるということ」をテーマに執筆を行っている。
 それにはのっぴきならない理由がある。私は40歳を目前に控えているが、私の同世代や少し上の世代はまさに親の介護問題に直面している。
 親に苦しめられた子どもたちが直面するのは、親が高齢になり、病気になって死ぬまでのラストランだ。たとえ親が毒親でも、血縁者というだけで行政から連絡がきて、その最期を否応なしに引き受けさせられる子供の姿を、私はまざまざと見せつけられてきた。そして私自身、自分を虐待してきた親の面倒をみたくないという思いを抱えているうちの一人だ。
 最新刊『家族遺棄社会』(角川新書)では、親を捨てたい子どもたちに注目し、親と関わりたくない、介護をしたくない──そんな子供たちの苦悩、そして声なき声を拾いあつめた。
 そして、親たちの最期を引き受ける「家族代行ビジネス」などにスポットを当て、子どもたちが少しでも楽になる方法はないのかと、精力的に取材を重ねている。
 その内容については、追々この連載でも取り上げていこうと思う。
 どうすれば親から逃げられるのか、拒絶できるのか、それがこれまでの私の切実な関心事で、その物理的な解決策を探ることが何よりも不可欠だったのだ。
 そんな私がなぜ再び母と向き合ってみようと思ったのかというと、臨床心理士の信田さよ子さんのオンラインセミナーにひょんなことから参加する機会を得て、「母親研究」という言葉を知ったことによる。
 信田さんはご著書、『増補新版 ザ・ママの研究』(新曜社)のあとがきで、こう書かれている。
「なんとか押し潰されず、母から距離を取るためには、娘たちがつながらなくてはならない。つながるとは、まず『自分だけではない』と知ることだ。そして、『母親研究』することだ。
 研究は母親を対象化することであり、ドローンのように斜め上から俯瞰することである。
 この視点、この位置を獲得することで、これからの長い人生を、少しだけ母から解放されて生きていけるはずだ」
 しかし、「母親」の歴史と向き合うのは気が進まなかった。母は忘れたい存在だったし、それは何よりも、自らの傷を抉り出すような、とてつもなく「痛そう」という予感があったからだ。しかし前掲書を読み進めるうちに、母親を対象化することは、決して自分を苦しめるわけではなく、むしろ自由にすることなのかもしれないと思うようになった。信田さんの言葉に力を得て、改めて私なりに母を研究してみようと、重い腰を上げたのだった。
 私なりの「母親研究」の始まりだ。

 

虐待サバイバーの「母親研究」  母はいつも私を愛してと泣いていた

 

 うすぼんやりと、だが時折くっきりと思い出すのは、母とのドライブだ。母は週末が来ると、よく車を走らせて祖父母が住む母の実家に帰っていた。私はその助手席に座って移り変わる風景を眺めるのが好きだった。
 母の実家は、山の中の過疎地域にあった。新興住宅地にある私の家から、車で一時間ほどだろうか。いくつもの山を越えて、急すぎる無数のカーブを曲がり、急峻な川が流れる橋を渡ると、祖父母の家が見えてくる。
 祖父母の家は田舎にありがちな、だだっ広い畳敷きの屋敷で、居間には仏壇が二つ並んでいる。まずは仏壇に手を合わせてから、どこまでも部屋や廊下が続いていそうな空間を端から端までドタドタと走り回って遊ぶのが恒例だった。その光景はセピア色の残像となって、今もくっきりと脳裏に浮かび上がる。
 祖母はいつもかぼちゃの煮っころがしと、きなこをたっぷりとまぶしたぼたもちを作って、優しく私たちを受け入れてくれた。冬はこたつに入りながら、親戚一同が会しておせちを食べる。そんなありきたりな田舎の家庭の原風景が広がっていた。

 

 

 しかしそんなのどかな時間が、時たま一変することがあった。それは真っ青に晴れ渡った空が、気が付くと不穏な雲に覆われ、雷雨が叩きつけてくるような感じだった。
 私はその出来事を、子供心に「あれ」と名づけた。「今日は『あれ』が起こりませんように」と祈るようになった。何事もなく楽しく祖父母の家を後にできる日もあった。
 しかしそんな私の願いも空しく、何の前触れもなく「あれ」は起こる。「あれ」が起こると、私は、おろおろするしかないのだった。
「あれ」は、いつも突然起きた。きっかけは、祖父母が誰か母の兄弟のことを何気なく褒めたときだったように思う。それまで普通だった母が、いきなり祖父母に逆上し、目をひん剥いて、ありったけの感情を祖父母にぶつけるのだ。
「なんで〇〇ばっかり褒めるの! 私を愛してくれなかったの!」
 母は毎回そのようなことを言うと、泣きじゃくって祖父母を責め立てた。一度「あれ」が始まると、こたつの上のみかん越しに、私はその行く末を息をひそめて見つめるしかない。
 母と祖父母の間に挟まれて、私はいつも心が引き裂かれそうになった。「あれ」が始まると、二者の怒号は徐々にヒートアップする。そうなると、子どもの私はただ悲しくて怖くて、見守るしかない。私は目じりにいつも涙が浮かべながら、怯えていた。
 母に対する祖父母の答えはいつも決まっていたように思う。
「そんなことを子どもに言われる筋合いはない。兄弟みんなに平等に接していたつもりだ」
 私はその答えが母を納得させるものではないことを薄々わかっていた。予想通り、母はさらに祖父母とやり合い、最後は「うわぁぁぁぁ」と喚きたて泣きじゃくるのだ。
「久美子! もう帰るよ!」
 母はそう言うと、私の小さな手を引っ張って車に駆け込んだ。車内に戻った母は、ハンドルに顔をうずめ、いつもしばらく動かなかった。
 「あれ」の起こった帰り道は、私にとって行きと打って変わって恐怖でしかなかった。命を落とすんじゃないかと思うほどの、荒々しい母の運転。私はただただそのハンドルさばきに怯え、身を縮こまらせていた。

 

虐待をくりかえす母親が固執した「平等」 その理由は母自身の傷

 

「母の研究」の上で欠かせない、母の生い立ちに目を向けてみる。
 母は団塊の世代で、第一次ベビーブーム世代でもある。母は、五人兄妹の三女として生まれた。母によると、長女と末っ子は、上と下だから可愛がられた。真ん中は生徒会長を務めるほどに勉強ができた。跡継ぎの長男は男というだけで、大切にされた。しかし四番目の母は、親にとって影が薄かった。いずれにしても、母は透明な存在として、ずっと両親に放置されてきたのだという。
 しかし、私が知る祖父母は、温厚でとても優しい人だ。だからこそ、あんなに優しい祖父母が母を傷つけていたなんて、当時は想像すらできなかった。
 記憶の断片として焼き付いているのは、「あれ」のときの母の表情だ。母の顔は大粒の涙によってファンデーションが剥がれ落ち、ブルーのアイカラーと真っ赤な口紅が混じり合って、どす黒い色に変わっている。私は、カッと瞳孔の見開いた眼と母の変わり果てたグロテスクな顔が恐ろしくて仕方なかった。
 しかしそんなことがあったかと思えば、しばらく経つと、母はまるで全てを忘れたかのように、再び車を実家に走らせた。そして祖母たちは、いつもと変わらない優しい笑顔で、かぼちゃの煮物とぼたもちを準備して、私たちを出迎えてくれるのだった。
 どこかちぐはぐな母と祖父母たち。母と祖父母の間には、子どもにはわからない闇がある。しかしそれがなんであるか理解するには、私はあまりにも幼過ぎた。
 母はかつては中学校の国語教師だった。そして、大学時代に知り合った同じく教師の父と結婚して専業主婦になり、長女である私が生まれた。私が生まれた時から父と母は常に喧嘩をしていて、諍いが絶えなかったように思う。
「あんたがいなければ仕事ができた。今からだって、あんたを川に流すことだってできるんだからね」
 母はそう言って、私を脅した。思えば、母が生きたのは専業主婦が当たり前の時代だ。結婚によって仕事を諦め、夫に絶望した母は、私を自分の身代わりのように仕立てようとしていたのだと思う。
 私は三歳からピアノを習わせられ、一音でも外すと棒で激しく叩かれた。少しでも母の気に食わないことをすると、首を絞められ、毛布でぐるぐる巻きにされて、「お仕置き」をされた。これは明らかな虐待である。
 しかしそんな言葉すら知らない私は、懸命に母が喜ぶことにまい進した。母が言うままに作文を書き、コンクールで大賞を取り、賞状を手にして、いつだって学校から喜び勇んで母のもとに駆けていった。「お母さん、賞を取れたよ。私の大好きなお母さん!」母が望むように生きていきたい、それが私の喜びでもあった。私は母に認めてもらうことが何よりも嬉しかった。
 そんな生活が終わりを告げるとは、夢にも思わなかった。私に弟ができた途端、手のひらを返したかのように、母は弟を溺愛するようになったのだ。
 私がどんなに学校で頑張っても、褒められることはパタリとなくなった。
 実は、同世代の子育てをしている友人から、「男の子はかわいいけど、女の子は可愛くないんだよね」という言葉を聞くことがある。私はそれを聞くと、いつも胸がキューっと締めつけられる。そうやって、兄弟に差をつける行為は、子供にとって残酷な死の宣告に等しい言葉だ。
 そんな母だったが、ふと私に優しさを見せる瞬間があった。嬉しそうに、二人分の通帳と印鑑を自慢げによく見せるのだった。
「ねぇ、久美子。これは〇〇(弟)と、久美子の通帳。二つに同じ金額ずつ、分けてあるから。こうやってお母さんは二人分、お金をちゃんと貯めているからね。お母さんは、おじいちゃんたちから、平等に服も買ってもらえなかった。だから私はあんたたちを平等に育ててるの。お母さんとお父さんが死んだら、遺産も家も全部半分こだよ」
 母は子育てにおいて強迫的なほどに「平等」にこだわっていた。私はお菓子もおもちゃも弟と平等に買ってもらえた。母は自らの幼少期の辛い経験を通じて、私たち兄弟に平等にお金や物を与えることはできた。しかし肝心の「愛」を平等に与えることは、できなかったのではなかったかと感じる。それは、母が親から受けた「傷」のせいかもしれない。それと同じ傷を、母は私にもくっきりと刻み込んだのだ。
 そんないびつな母との関係は、私の人生に多大な影響をもたらした。こうやって振り返ってみると、私の抱える「生きづらさ」の源泉は、母との関係にあったように思う。

 

いじめ、引きこもり…生きづらい私が苦しみの歴史の先で繁がるのは──

 

 母の顔色ばかりみて生きてきたこともあり、私は自己肯定感が低く、常にオドオドした性格となった。まるでピエロのように、人の前でへらへらして誰にでも媚びへつらってしまう。たとえ自分の人格を貶められても、素直に怒りを表明することができない。これは今でも変わらない。
 家庭で人格のない存在として扱われることには慣れっこだった私が、学校でいじめの餌食になるまでさして時間はかからかなった。
 学校という閉鎖空間は、弱肉強食の社会だ。弱い人間はすぐに見抜かれ、格好のターゲットとなる。小学校中学年になると、私はクラス全員から無視され、少しでも誰かに近づくと「死ね」「クズ」「キモイ」と罵られるようになった。いじめは人の心をじわじわと殺す行為である。精神的、肉体的に鈍り殺しにされた私は、ついに不登校になった。そして家にひきこもるようになる。
 ちなみに、母の「愛」を一身に受けた弟は親が望む通り教員になり、順風満帆の人生を送っている。そして、大人になった今でも母は弟を溺愛し、弟は弟でクリスマスには母にバッグを送るという恋人同士のような蜜月の関係が続いている。
 しかし私はというと、弟とは真逆に挫折だらけの人生となった。私は結局、中学2年間一日も学校に行かずに、ひきこもって過ごした。そして自殺未遂を何度も繰り返した。かろうじて、県内でも底辺高と呼ばれる高校に進学し、そこではいじめは無かったものの、中学時代に遅れた勉強を取り戻せず、数学などは赤点ばかりを取っていた。
 その後は、学科試験がない大学の推薦入試で大学に進学。一人暮らしをして親から離れたことで精神は持ち直したものの、世渡りが下手で、会社員生活は長続きしなかった。なんとか書く仕事で生計を立てているが、今もこの社会に対して抱える、生きづらさは変わらない。
 それでも日々、何とか生き延びている。
 ここまで書いてきて、ふと感じたことがある。
 母親研究とは「自らの生きづらさ」を辿る作業なのかもしれないということだ。そして、生きづらさが自己責任ではないことにふと気づくと、その作業は自分自身を抱きしめることなのかもしれない、とも。
 私は思う。全ての「生きづらさ」を感じている人たちに、それは決してあなただけではない、と。それを全て自分のせいして、どうか自分自身を追い込まないで欲しい、と。
 ひきこもり時代に母に詰め寄ったときのことが時折フラッシュバックする。私にとって、ひきこもり時代は、苦しみの連続だった。近所の眼を気にして家から外に出ることができず、学校の勉強はどんどん遅れていく。社会から取り残されているという不安とプレッシャーで心が毎日押しつぶされそうになる。
 ストレスが爆発すると、私はその怒りを母にぶつけた。思えば中学生になると、私の背丈は母をゆうに越え、互角に張り合える以上の体力があった。母は、一日中家の中にいる私に怯えるようになっていたのだ。
「お母さんは私を虐待していた! そしていつも弟ばかり可愛がってた! 認めろよ!」中学生の私は大声で泣きながら、母をそう責め立てていた。
「そんなことをした記憶はない」
 私が過去の虐待を問いただすと、母は「覚えていない」という言葉を繰り返し、私からいつも逃げようとした。私は怒りのあまり、部屋中のものを手当たり次第に壊した。
 なんでこんなことをしているんだろう。一方で、そんな冷めた思いもよぎったが次々と湧いてくる怒りと悲しみが止まらない。苦しさや切なさといった感情が、「うわぁぁぁぁ」と体中から見えないマグマのように強大なエネルギーとなってあふれ出してくる。そんなことが、何度かあった。
 しかし今思うと、それは私が怯えた「あれ」と同じだったのだ。
 あの畳敷きの広い祖母の家、セピア色の記憶の断片──、そこでは、母が祖父母を激しく罵っている。私がただ目をぱちくりさせて傍観しているしかなかった世界。
 その時の私はなぜ母は高齢の祖父母を罵倒するのだろうと不思議に思っていた。だけど、今ならわかる。
 憔悴し、化粧が落ち切った真っ白な能面のような母の顔が、脳裏にふと浮かび上がる。母に詰め寄る中学生の私は、祖父母に詰め寄る母の顔とそっくりだった。
 私から罵倒され困惑する母の顔が、かつての祖父母の顔へと入れ替わる。その二つの光景は精巧な複製画のようにぴったりと重なり、ぐちゃぐちゃになってもはやどっちの出来事かわからなくなる。いつしか二つの出来事は一つに混じり合い、映画のストップモーションのように、記憶の残像として私の脳裏に焼き付けられる。
 私の「うわぁぁぁぁ」という叫びは、あの時に見た母の叫びと同じだった。
 母と私は、幼少期の苦しみを誰にも受け止めてもらえなかった。だから「あれ」が起きて、感情のマグマがあふれ出し、「うわぁぁぁぁ」と赤子のように泣き叫ぶしかなかったのだ。
 私は「母親研究」という言葉に出会い、これまで見て見ぬふりをしていた過去のトラウマを引きずり出した。しかし、それは同時に自らの癒えない傷をも抉り出すということだった。
 それでも「母親研究」をして良かったと感じている。母が幼少期に受けた傷と同じ傷を私自身も背負っていたのだと気づき、ようやくそんな自分自身をも受け入れることができたからだ。
 以上が私のいわば模範的な「母親研究報告」なのかもしれない。
 しかし、私はふと思い出してしまう。母が実家を飛び出し、車の中でハンドルに顔をうずめて泣き崩れている姿を──。いつだったか、小さい私はそっと母の肩に手を触れた気がする。その時なぜ母に触れようと思ったのか、覚えていない。だけど当時の私は母に触れずにはいられなかったのだと思う。
「お母さん、泣かないで。大丈夫だよ」
 そんな声を掛けたか、掛けていなかったか。あの時の母の肩は震えていて丸く、でも温かく、小さな私よりもずっと小さく見えた。お母さん、苦しかったよね、切なかったよね。だけど、私も辛かった。お母さんと私は、ずっと一緒だったんだから──。
 私と母は、きっと今もしっかりと絡み合っていて、もつれあって、ここにいる。母とはそうやって、現在も繁がっている気がする。だから、私が救われるだけでなく、あの時の母も救われて欲しいと願っている。
 私は母の苦しみの歴史、そして自分自身の苦しみと長い長い回り道を経てようやく向き合いつつある。今後、母と再会することはないかもしれない。しかし、母と会わなくなった今だからこそ、なぜだか、正面から膝を突き合わせているような気がするのだ。

 

(第2回へつづく)