正午を回り、伊織は同期の友人たちと合流して食堂で昼食を取った。彼らは伊織のアカウントをフォローしているので例の写真は既に目にしていたようだったが、あらためて見てもらうためにプリントした写真をテーブルに置いた。
その場に居合わせたのは〈ダンス〉〈フットサル〉〈ドラム〉の三人だった。伊織が心のうちでそう呼んでいるだけで、彼らにもそれぞれ立派な名前があるのだが、しかしここは〈ダンス〉〈フットサル〉〈ドラム〉で通すとしよう。
三人とも気の良い男だ。顔は良くないが。
「荒れてたなあ、コメント欄」と〈ダンス〉が笑いながら言った。「なんですぐに消さなかったの?」
「いや、こういうのはすぐに消す方がまずい」と〈ドラム〉が真剣な声で言った。「消すのが早いほど、『よっぽど見られたくないものだったんだな』って思われるだろう。ちょっと時間を置いて、何食わぬ顔で消した方がいい。言い訳もするべきじゃない。伊織の判断は正しいよ」
「で、この子はなんなの? 伊織の彼女?」と〈フットサル〉が写真の女を指差して訊いた。
「知らない。名前も知らない。声も知らない。自撮りに偶然写り込んでたんだ」
〈ドラム〉が身を乗り出して写真を覗き込んだ。「なあ、これって自宅で撮った写真だよな?」
「そうだよ」
「その写真に誰かが偶然写り込むなんてあり得るか?」
「僕がいないあいだに部屋に忍び込んでたんだろう」
「ストーカーってやつか?」
「空き巣じゃなさそうだったから、まあストーカーだろうな」
三人が嫌悪の呻きを漏らした。
安心してくれ、と伊織は思う。お前たち三人はストーカーとは無縁だろうから。
「いや、でも可愛いストーカーでよかったじゃん」と〈ダンス〉が気を取り直したように言った。
「よくねえだろ。ストーカーはストーカーだ」と〈ドラム〉が異を唱えた。
「まあそれは一旦置いといてさ。写真はぼやけちゃってるけど、すごく綺麗な子っぽくない? 輪郭だけでも美人のオーラがすごいっていうか」
「ぼやけた写真ほどそう見えるもんだよ」〈フットサル〉がそう言って眼鏡を押し上げた。「俺さ、裸眼だとみんな美人に見えてくるんだ。粗が見えないから。それと一緒だろう」
「幸せじゃん。ずっとそのままでいたら?」と〈ダンス〉が茶化した。「で、ベッドに連れ込んだところで真実に気づくってわけ」
「実際それ一回やったんだよ。高校のとき」
そう言うと、〈フットサル〉は高校時代の過ちを勝手に語り始めた。伊織と〈ドラム〉はその話をもう五度は聞かされていたが、〈ダンス〉は初めて聞くようだったのでそのまま語らせておいた。
おざなりな相槌を打ちながら、伊織は先ほどの会話を振り返った──〈ダンス〉の言う通り、写真の女の像はぼやけているが、確かに美しさを期待させる何かがある。しかしそれに対する〈フットサル〉の意見も正しい。曇り鏡は七難を隠す。不鮮明な画像を見せられたとき、人は想像しうる中でもっとも整ったかたちを想像してしまう。歪んだかたちを想像するより、そちらの方が想像力を使わなくて済むからだ。
〈フットサル〉の失敗談風の武勇伝が終わったあとで、伊織は独り言のように言った。「僕も、もう少し目が悪い方が幸せだったのかもしれないな」
「いいことなんて何もないぞ」と〈フットサル〉がすかさず言った。「俺、そのうち視力矯正手術受けるつもりだし」
〈ダンス〉が大袈裟に顔を歪めた。「それってレーザーで目を削るやつだろ? 怖くて無理」
「いや、それ以外にもあるんだよ」
「伊織が言ってるのは視力のことじゃないだろう」と〈ドラム〉が言った。こういうとき、彼はほかの二人よりもいくらか察しが良い。「美的センスとか、審美眼とか、そういうもののことじゃないか?」
伊織はうなずいた。「たまにいるだろう。女ならもう誰でもいい、って感じのやつ。ある意味、羨ましいと思わないか?」
「それって──」
〈ダンス〉がそれに該当する共通の知人の名を挙げ、一同が笑い声を上げた。
「実際、本人は幸せそうだよな」と〈フットサル〉が言った。「俺も馬鹿舌でなんでも美味しく感じるけど、特に不都合とか感じたことないし、そっちの方が得なのかも」
「でもさ、その手のハードルって、下げようと思ったからといって簡単に下げられるものじゃないよな」と〈ドラム〉が少し考えてから言った。「俺、海の方の育ちだから、子供の頃からうまい海鮮を毎日のように食えてたんだけどさ。おかげでこっちで食う魚がまずくてしかたないんだよ。でも、『じゃあ今日からは味覚のハードルを落とすか』っていきなり切り替えられるかって言えば、まあ難しいよな。毎日まずいもんを食い続けて、少しずつハードルを下げていくしかない」
「そういえば、刑務所に長くいると、大抵の女は美人に見えるようになるって聞いたことあるな」と〈ダンス〉が言った。「伊織も一回やってみれば?」
「遠慮しとく」伊織は首を振った。
仮に十年間服役しようと僕の場合は無意味だろう。刑務所にだって鏡はあるはずで、そこに映るのが世界で一番美しい男の姿であることに変わりはないのだから。
アルバイト先の居酒屋でも、伊織は同僚に聞き込みを行った。仕事の手が空いたときに顔見知りの客に写真を見せ、心当たりがないか尋ねた。だがやはり彼女を知るものは一人もいなかった。
写真の女が身近な人間だという予想は外れていたのかもしれない。そうなると、いくら地道な聞き込みをしたところで徒労に終わる可能性が高い。
しかし、と伊織は思う。よくよく考えてみれば、こちらから探すまでもないのではないか? 写真の女はアパートに不法侵入してくるほどに情熱的なストーカーだ。ひょっとしたら、今だって物陰から僕を盗み見ているかもしれない。僕が留守のあいだにまたアパートに忍び込んでいるかもしれない。
だとすれば、こちらから追うのではなく、網を張って待ち構えればいい話だ。
それからは、周囲に神経を張り巡らせ、注意深く毎日を過ごすようになった。夜道を歩いているときに不意にふりむいたり、角を曲がってからすぐに引き返したり、いつもは帰らない時間帯に帰宅したりして、ストーカー女の虚を衝こうとした。だが彼女らしき影を目にすることは一度もなかった。
ただ、誰かに見られているという感覚は常にうっすらとあった。自意識過剰や被害妄想の類ではない。幼い頃から周囲の注目の的だった伊織は、他人の視線については一家言持っている。本当に視線そのものを感じるわけではないが、こちらに注目していることを悟られまいとしている人間の不自然な挙動が生む空間のちょっとした違和感、とでもいうべきものを感じ取ることはできるのだ。
数日に一度、深夜に無言電話がかかってきた。公衆電話からの着信だった。お前は写真の女なのかと問い詰めようとしても、電話に出た途端に通話が切れてしまうのでどうしようもなかった。
次第に、一人でいるときは常に写真の女のことを考えるようになった。
これではどちらがストーカーかわからない。
その夏は不思議なくらいに雨が降らなかった。梅雨は知らぬ間に訪れて、知らぬ間に去っていった。蚊も飛ばず、蝉も鳴かず、何もかもが生命の潤いを欠き、洗濯物だけが嬉しそうに風にはためいていた。
謎の女が写真に写り込んだ日から半月が過ぎた。その頃には伊織も彼女を捕まえることを諦め始めていた。無言電話も収まり、誰かに見られているという感覚もいつしか消えていた。
彼女は不法侵入一回限りで満足してしまったのかもしれない。もしくはあのあとに冷静になって我が身を恥じ、これ以上伊織に近づかないことに決めたのかもしれない。
夏休みが近かった。いつまでもストーカー女などにこだわっていられない。そろそろ切り替えるべき時期だ。やるべきことはいくらでもある。
そのようにして、伊織はあっさり写真の女を忘れた。
実はとっくに彼女の正体に辿り着いていたとも知らずに。
探し物とはそういうものだ。一度確認してそこにはないと決めつけた場所に堂々と潜んでいるものなのだ。
彼女の正体を看破したのは磯田という男だった。学部は異なるが、高校時代のクラスメイトなので割に親しい間柄だ。ゆかりや友人たちに聞き込みをした日に、伊織は彼にも写真を見せていた。
その日、磯田は大学のジムでワークアウトに励んでいた。ジム内に男しかいないのをよいことにシャツを脱ぎ捨て、鍛え上げた筋肉を見せびらかすように懸垂をしていた。実際、見せびらかすに値する肉体の持ち主ではあった──首から上を除けば。
磯田は伊織が現れたことにはすぐに気づいたようだったが、所定の回数をこなすまでは懸垂台から降りようとしなかった。伊織はしばらくその様子を眺め、それに飽きると壁の鏡の方に視線を転じた。
伊織も体を動かすのは嫌いではない。世の中の人間はもっと運動して体を絞るべきだと思うし、ボディビルダーのように過剰な筋肉を搭載した肉体もそれはそれで美しいと思う。磯田のように恵まれない顔立ちの男も、体を鍛えるだけでだいぶ印象が改善される。
だが自分の肉体に関して言えば、トレーニングの必要はないように感じた。この体にこれ以上何もつけ足すべきではないし、取り除くべきでもない。せっかくの中性的なバランスが崩れてしまう。
それに怪我のリスクもある。万が一この顔に傷がつくようなことがあったら、いくら後悔してもし足りない。
懸垂を終えた磯田が汗を拭いながら歩いてきて、伊織の隣に腰を下ろした。そして荒い息で尋ねた。
「写真、だっけ?」
「そう。写真」
伊織は鞄から写真を取り出して彼に手渡した。
磯田はその写真を一目見るなり言った。
「これ、お前だろう?」
伊織は慌てて写真を見返した。誤ってオリジナルの方、伊織自身の写った自撮りを見せてしまったのかと思ったのだ。
だが写真には女しか写っていなかった。
「あれ、違ったか?」伊織の反応を見て、磯田は意外そうに言った。「またお前が女装して、みんなをからかってるのかと思ったんだが」
なるほど、と伊織は納得した。
要するに磯田はあのことを言っているのだ。
高校二年の秋のことだ。文化祭の馬鹿げた企画で、伊織のクラスでは男子は女装を、女子は男装をすることになった。全員分の衣装は用意できなかったので男女共に五名ずつ、適性のありそうな人物が多数決で選ばれた。伊織はその筆頭だった。
初めはただ女子の制服を着てかつらを被るだけの予定だったが、伊織の女装姿を見た奈緒という女子が「このままではもったいない」と訴えて化粧道具を取り出し、入念なメイクを伊織に施した。男性的なパーツが自然に隠れるような小道具を追加し、女性的な歩き方や座り方などを細かく指導した。
その姿でクラスメイトの前に出たときの反響はすさまじかった。女子たちが大騒ぎしたのは言うまでもないが、男子たちは伊織の女装姿を目にして混乱し、まるで伊織本人ではなくその姉や妹を相手にしているかのような他人行儀な態度を取った。
誰もが写真を撮りたがった。一部のクラスメイトは事情を知らない人間に伊織の写真を見せ、「綺麗な子だね」という言葉を引き出した上で、それが女装であることを明かすという悪趣味な遊びを行っていたようだ。
伊織としては悪い気はしなかった。自分の美貌が性別を超えて通用することを、彼らがわざわざ証明してくれたのだから。
つまり磯田は、伊織が再びそのときのような悪戯に加担したと思ったのだろう。
失礼なやつだ、と伊織は思った。僕が今あらためて女装するなら、こんなぼやけた写真でごまかしたりしない。しっかり時間をかけて完璧なものを提供してみせる。
しかしそのような内心は表に出さず、伊織は苦笑してみせた。「知らない女だよ」
「そうか。それは悪かった」と磯田は素直に謝罪した。「あのときの印象が強すぎてさ。お前に綺麗な子の写真を見せられると、つい警戒しちまうんだ」
「高校生ならまだしも、大学生になって女装なんてするはずないだろう」
「そうとも限らないぞ。何かの記事で読んだが、大人になってから本格的にそういうのにのめり込む人も多いらしい」
「僕は自分が男であることに満足してるよ」
「そうか」磯田はうなずき、少し考えてから言った。「俺は自分にそういう才能があったら、抗えないかもしれない」
「女装に憧れがあるのか?」
「憧れってほどじゃないが、綺麗な別の何かになれるって、単純に楽しそうだろう?」
伊織は磯田の筋骨隆々の体と大雑把な造りの顔を眺めた。
「才能がなくてよかったじゃないか」
「まあな」
磯田はそこでようやく小さな微笑みを見せた。無表情な男で、真顔で冗談を言うものだからどこまで本気なのかわからないときがある。
「じゃあ、この女に見覚えはないんだな?」
「ない。女のことを俺に訊くのがお門違いだ。自慢じゃないが、俺に女の知り合いはほとんどいない」
「貴重な情報の提供に感謝するよ」
伊織はベンチから立ち上がった。
「無駄足だったな」
「今のところ全員そうさ。顔の広そうな知り合いは大体当たってみたけど、全部空振りに終わった」
「じゃあ、その子はこの町の人間じゃないんだろうな」と磯田は言った。「それか、そもそも人間じゃないんだろう」
人間じゃない。
それは多分、実在しない人間という意味で言ったのだろう。人工的に生成された、写真の中にしか存在しない女。
「どうしてか知らないけど、その子、人間味を感じないんだよな。なんていうか、フィルムカメラの時代の心霊写真みたいだ」
「わかりにくい喩えだ」
「俺にもわからないよ。思いついたことを言っただけ」
磯田はそこで話を切り上げてトレーニングマシンの方へ歩いていった。
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