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 翌朝は暑さで目を覚ました。ひどく寝汗をかいていたので、アパートを出る前にシャワーを浴びた。浴室を出て髪を拭き、姿見に全身を映す。七月三日の片平伊織も変わらず美しかった。これではストーカーに遭うのもしかたない。

 アパートを出て駅まで歩き、五分後にやってきた電車に乗り込んだ。数人の乗客がそれとなく伊織に目をやり、半数はすぐに視線を逸らし、残りの半数は見惚れるように伊織の顔をしげしげと眺めた。

 注目を集めてしまうのはいつものことだ。悪い気はしない。もっと遠慮せずに眺めればいいのに、とさえ思う。美しいものに惹かれるのは恥ずべきことではない。

 大学に着くと、伊織は早速聞き込みを始めた。知人に女の写真を見せてまわり、この人物に見覚えはないかと尋ねた。

 三十人ほどを当たってみたが、皆首を横に振るばかりだった。

「立場上いろんな学生と顔を合わせてるけど、この子とは会ったことがないね」

 竹内ゆかりは写真を伊織に返しながらそう言った。

「顔がぼやけてるから断言はできないけど、こういう綺麗な骨格をしてる子って、私の知人だと三人もいない。そしてこの子はそのいずれでもない」

「そうか。お前が知らないなら望み薄だな」

 ゆかりはこの大学でもっとも広い人脈の持ち主だ。学祭の実行委員、ボランティアサークル、講義のアシスタントなど幅広い活動に携わっている。

 そのモチベーションを「男漁り」と言い切る彼女の潔さが、伊織は気に入っている。

 顔はまったく好みではないが。

「私だって学生全員を把握してるわけじゃないよ」ゆかりは謙遜し、もう一度写真に視線を落とした。「それで、伊織さまは、次はこの子を狙ってるの?」

「さあね」と伊織は言った。

 伊織さま、というのはゆかりが伊織の女誑しを茶化すときに使う呼称だ。本気で敬愛しているわけではない。人脈が広いということは、それだけ人の悪事も耳に入りやすいということだ。伊織が女の敵であることを彼女は心得ている。

「この前の彼女とはもう別れたの? ええと、比伊さんだっけ?」

「それは前の前の彼女」

「芙佳ちゃん……は、前の前の前か」

「井上美衣子」

「そう、美衣子さん。別れたの?」

「いや。まだつきあってるよ。そろそろ潮時な気もするけど」

「あれ? でも伊織さま、前に美容クリニックのスタッフさんとつきあい始めたって……」

「依田薫。そっちもまだつきあってる」

「うわあ」

「しかたないだろう。引く手数多なのに、僕は一人しかいないんだから。同時進行でつきあうしかない」

 

 実は先週からもう一人別の女ともつきあい始めたのだが、それには触れずにおいた。

「どっちも裏切ることになるんだから、本末転倒な気もするけれど」

「一度に一人って考え方が前時代的なんだよ。僕は先進的なんだ」

「先進的ねえ。伊織さま、そういうことばっかりしてると、いつかまた刺されるよ」

 ゆかりはそう言って伊織の左手の甲を指差した。

 薬指の付け根から手首にかけて伸びる赤い線は、周囲の皮膚よりも窪んでわずかにひきつれている。大型の刃物を連想させる痛々しい古傷だ。

「これは別に、女の子に刺されたわけじゃないんだ」と伊織は左手の傷をなぞりながら言った。

 伊織は女の前では息をするように嘘をつくが、これは嘘ではなかった。その傷は男女のいざこざによって生じたものではない。

 伊織が大勢から恨まれていることは確かだ。恋人を次から次へと乗り換えている上に、彼の恋愛はマルチタスク──つまり浮気が基本形態だ。

 僕とつきあいたい女は星の数ほどいるのに、一度に一人ずつでは効率が悪すぎる。それが伊織の言い分だ。

 体がいくつあっても足りない。

 体を分裂させられればいいのに、と時々思う。

 実際、内面においてはそれに近いことをやっていた。伊織には浮気の適性、二重生活の適性があった。恋人それぞれを混同することなく、複数の盤面を並行して器用に進めることができた。人格を分裂させるみたいに。

 とはいえ、浮気というのは最終的にはばれるものだ。飽きた女と手っ取り早く別れるために、伊織の方からその事実を明かすこともある。円満に別れられることはほとんどなく、大抵は禍根を残すことになる。

 別れた恋人たちだけではない。伊織にあしらわれた女たち、伊織に女を奪われた男たち、その周辺人物。恨みを買っている相手を挙げ始めたらきりがない。なんの接点もないのに、美形というだけで目の敵にしてくるものもいる。

 だがどれだけ伊織を憎んでいようと、直接的な危害を加えようとしてくるものはまずいない。将来を棒に振ってまで復讐に身を捧げようとするような人間なんて、そうそういるものではない。悪い噂を流そうとしたり、無言電話をかけてきたり、SNSに中傷コメントを書き込んできたり、せいぜいその程度だ。

 怨恨で刺されたことは、今のところ一度もない。

 手の甲の傷は肉親によってつけられたものだ。

 そしてその肉親は、もうこの世にいない。

 伊織は写真を鞄にしまい、それから何かを探し求めるように視線を巡らせた。午前十一時のラウンジに、学生の姿はほとんどなかった。

 彼が通っているのは地方の公立大学だ。学費の安さと敷地の広さだけが取り柄で、学生数はそれほど多くはない。学部によっては定員割れを起こしていると聞く。

 ゆかりのように交友関係の広い人間でも見覚えがないというなら、おそらく写真の女はこの大学の関係者ではないのだろう。

 伊織が礼を言ってその場を去ろうとすると、ゆかりが引き止めた。

「どうせだったら、これ書いていけば?」

 彼女は手元にあった細長い色紙を指差し、さらにその指を伊織の背後に向けた。

 振り返ると、ラウンジの片隅に置かれた竹の鉢植えが目に入った。枝先にはゆかりの手元にあるのと同じような色紙が所狭しと吊り下げられている。

 今日は七月三日。週末は新暦の七夕だ。

「うちのサークルで設置したの。さっき出したばかりだから、まだ短冊も余ってるよ」

 伊織は笹竹に歩み寄り、そこに飾られた色とりどりの短冊を眺めた。卒論、留年、就活、恋人、金、いかにも大学生らしい願い事が黒い油性ペンで書き散らされている。

 竹は間近で見ると人工の偽物だった。フェイクグリーン、と呼ぶのだったか。

「ゆかりはなんて書いた?」プラスチックの葉の手触りを確かめながら伊織は訊いた。

「理想の相手と出会えますように、って。どうせ伊織さまも同じでしょう?」

「いや。似てるけど、ちょっと違う」

 伊織は脇のテーブルから青い短冊を一枚取り、その容姿に見合う端正な字で願い事を書き込んだ。

『運命の相手と出会えますように』

 隣で覗き込んでいたゆかりが、「何が違うの?」と尋ねた。

「理想のさらにその上を行ってほしいんだ」

「立派な志だね」とゆかりは言った。「そうして伊織さまは、パートナーを定められないまま一生を終えるのでした」

 冗談になってないんだよな、と伊織は思った。そうなる可能性はゼロではない。

 志が高すぎるのも問題だ。

「ねえ、さっきの写真の子だけどさ」

 短冊を吊し終えたところで、ゆかりが思い出したように言った。

「会ったことがないのは確かなんだけど、どこかで見たことがある気がするんだよね」

「というと?」

「別に有名人ってわけじゃないと思うんだけど、そういう人たちと同じ記憶の引き出しに入ってるっていうのかな。一生関わることはないのによく知ってる顔というか。とにかく何かが引っかかる顔なんだ」

「謎かけみたいだ」

「どこで見たんだろう? ううん、もやもやするな」

 ゆかりはその後五分ばかり考え込んでいたが、結局その答えが出ることはなかった。

「思い出せたら連絡するよ。伊織さまに貸しをつくるチャンスだからね」

 伊織は無言でうなずき、ラウンジをあとにした。

 

 これまで何人の女とつきあってきたか、伊織本人も正確な数はわからない。わからなくてよいのだと思う。そんな数を割り出したところでなんの得にもならない。交際人数や経験人数を勲章のようにひけらかす男もいるが、自分の場合はそれも必要ない。そういうのは自分の本質的価値を心のどこかで疑っている男のすることだ。

 ゆかりを始め、伊織を知る人間は皆、彼を女好きだと認識している。次々と恋人を乗り換えているのだからそう思われるのも無理はない。

 だが伊織に言わせれば、それは大きな誤解だ。彼にとって女性とつきあうことは、ある種の苦行ですらある。

 時々、恋愛というよりは慈善行為をしているような気分になる。

 彼の価値基準からすれば、この世の人間の九十九・九パーセントは見るに耐えない醜悪な顔の持ち主だ。これまでつきあってきた女たちも、もちろん九十九・九パーセント側だった。〇・一パーセント側に出会えないから妥協していただけだ。

 では体のみを目当てにつきあっていたのかというと、それも違う。醜く見えるのは顔だけではない。

 本音を言えば、一人で鏡を眺めている方がよほど幸せになれた。

 昔の恋人に、こんな指摘を受けたことがある。

「最初はね、アクセサリー感覚なのかと思ったの」

 七つ上の女だった。旅行代理店に勤め、タールのきつい紙煙草を日に一箱吸っていた。彼女について思い出せるのはそれくらいだ。どんな顔をしていたのかも忘れてしまった。

「もしくは性欲の解消のためだけに女の子を必要としてるんだと思ってた。でも、どちらも違うみたいだね。伊織くんはアクセサリーを欲していない。一人でいるときの自分が一番魅力的だって思ってる。性欲もほとんどない。私を抱いているときも、本心では少しでも早くその時間が終わることを願ってる。私だけじゃないよね。誰が相手でもそう。たぶん伊織くんは、本気で女の子を求めたことが一度もないんじゃないかな?」

 別れる直前に聞かされた言葉だ。

 長い捨て台詞のようなものだったのだろう。

「それでも伊織くんは恋人を次から次へと取り替える。まるで、疚しい行動によってそれ以上に疾しい秘密を隠蔽しようとしているみたいに。ねえ伊織くん。君はひょっとして、自分が女を愛せない人間であることをうっすら自覚していて、けれどもそれを誰にも知られたくないから、恋多き男のふりをしているんじゃないのかな?」

「惜しいけど、不正解だ」と伊織は言った。「愛せる女になかなか出会えないだけだよ」

 女を愛せないわけではない。愛せる女がいないだけだ。両者には大きな違いがある。

 本当に自分に相応しい相手が見つかったなら、その時点で女漁りは終わりを告げるだろう。しかしその相手が本当に自分に相応しいかどうかは、ある程度深い関係になってみなければわからない。だから数をこなすしかないのだ。

 

 第一印象を信じてはいけない。第二印象も、第三印象もまだ早い。抱きあうその瞬間までわからないこともある。あなたの運命の相手は、きっと運命なんてまるで感じさせずにあなたのそばにいる。

 

 伊織の母親は、幼い彼によくそう言って聞かせた。彼女が伊織の父親にとって運命の相手だったかどうかはさておき、その教えにはどこか逆説的な、抗いがたい魅力があった。

 運命の相手は、運命なんて感じさせない。

 一見凡庸な女も、抱きあってみればそのうち愛おしく見えてくるのかもしれない。そう信じて様々な女に手を出してきた。顔も体も性格も、あらゆるタイプの女を満遍なく網羅したつもりだ。

 でも母親の言うような相手には一向に出会えなかった。どの女も例外なく、知れば知るほど嫌な面ばかりが目についた。第一印象で欠点と感じた部分は、時間が経つにつれてより大きな欠点と化した。

 そういうわけで、伊織はいまだに本気で人を好きになったことがない。本気で欲情したこともない。自分の中にそのための器官が備わっているのはわかるのに、それを作動させる燃料が見つからない。

 最近ではこう思っている──もしかしたら、母は間違っていたのかもしれない。

 第一印象が駄目なら、それはもう駄目なのかもしれない。

 要するに、顔がすべてということだ。

 

『かがみよかがみ』は全4回で連日公開予定