「捨之介っていうんだってね」
おみなにその客の名を教えてくれたのは、極楽太夫だった。
その日、客をつけなかった彼女は朝寝坊を決め込んでいたのか、昼前に御口所に姿を現した。化粧もしていない。派手な着物をまとっているわけでもない。それでも暗く湿った炊事場に、陽の光が射し込んだように感じられた。確かにお艶やお富士は綺麗になった。が、やはり格が違う。さすがに無界の里の一番太夫。おみなはこの里に来て何度目かのため息をついた。その姿には他の者にはない凜とした美しさがあった。
おみなが茶を渡すと、もう噂は耳にしていたと見えてそっと耳打ちしてきたのだ。さも大切な秘密をうち明けるように、はにかんだような軽い微笑みを口に浮かべて耳元でささやかれると、同じ女なのにおみなのほうがドギマギしてしまう。
この偉ぶらなさも、極楽の魅力だ。
関東に流れ着くまでいろいろと苦労はしてきたらしい。そのせいだろうか、無界の里を頼ってきたおみなを受け入れて、なにやかやと心配りしてくれる。「抱いて極楽惚れたら地獄」と謳われてはいるが、それは客相手のもの。身内には、頼り甲斐のある姐御肌であった。
「捨之介、ですか」
「ほんとの名前じゃないようだけどね。お艶がしつこく聞いたら、捨之介とでも呼んでくれってさ。まあ、わたしらだって、男にいちいちほんとの名前は名乗っちゃいないからね。お互い様と言えばお互い様か」
極楽がくすりと笑う。
「……いったい何を捨てるんでしょう」
「さあね。女か昔か、家か名か。人は誰だって捨てたいものはあるからね。もっとも付けた名前はその人間の真逆だってことはある。逆に捨てようとしても捨てきれないものがあるのかもしれないよ」
「じゃあ姐さんも同じですね」
「そうかい」
「地獄を見てきた極楽太夫、ってとこでしょ」
「しゃれたことを言うじゃない。そうだよ。地獄も見てきたし男もたくさん地獄に落としてきた。恐いよ関東一の大太夫は」
声を上げて笑うと、極楽はおみなが用意した膳に箸をつけた。そして、
「……この関東が地獄にならなきゃいいけどね」
ぽつりとつぶやくと、箸につまんでいた紀州梅を口に放り込み、唇をすぼめた。
「へえ、さすがは噂の極楽太夫。すっぱい顔も絵になるねえ」
とぼけた声がした。
土間から外に出る勝手口に男が立っていた。
釣り竿を右手に、魚籠を左手に下げたまま、極楽を見ている。
伸ばした髪を後ろで束ねた垂髪風の頭に、黒地小袖の着流しの裾からチラチラと赤い物が見えるのは女物の襦袢でも下につけているのか。四十を越えているようにも見えるが、まだ三十そこそことも思える。なんとも摑みどころのない男だった。
「誰だよ、てめえは」
賄い方の一人、希三次が声を荒らげた。
「ここは裏口だ。用があるなら、表に回りな」
「おお、怖い怖い。俺は捨之介ってもんだ。おとといからここに泊まらせてもらってる」
この男が捨之介か。一同が、男の顔を見つめた。
「なんだい、俺がなにかしたかい」
よほど、みんなの表情が変わったのか、捨之介は一瞬肩をすくめた。その困ったような顔に愛嬌があった。この男はどんなふうに笑うんだろう。おみなは不意にそう思い、思った自分が恥ずかしくなって目を伏せた。
「別になにもしちゃいないが、その捨之介さんが何の用です」
極楽が言った。
「ここは御口所。わたしら無界の女の食事どころ。心の化粧を落として休まるところです。里のお客にはご遠慮願ってます。表にお回りください」
「そうしたいのはやまやまだけど、表に回るほうがまずいんじゃないかと思ってね。ちょっと来てくれないか」
捨之介が声をかけた。
勝手口の前の裏庭に、ずぶぬれの男が横たわっていた。革の袖無しを着たその姿は里の者ではない。背中に大きな刀傷があった。
「釣りをしてたら上流から流れてきた。俺のほうに流れ着いてきたんでね。ほっとくわけにもいかんかと、引きずり上げてきた。ひどい傷だがまだ息はある」
捨之介が男を抱き上げた。
その顔を見て、おみなは小さく声を上げた。
「あ!」
声が届いたのか、ぐったりとしていた男が一瞬顔を上げた。おみなを見つめる。その目に、驚きとそして安堵の色が浮かんだ。
なにか言おうとした男の口から、ごぼりと血のかたまりが飛び出した。
そして再び、身体から力が抜け、それきり動かなくなった。
「宋さん、十内先生を」
無界の里の片隅に住みついた医者を呼んでこいという極楽に、かがみ込んで脈をみていた宋十郎がかぶりを振った。
「……手遅れです」
男の目を閉じ、ゆっくり地面に横たえると、捨之介は立ち上がり、下唇を嚙みしめているおみなに顔を向けた。
「……知り合いかい」
慌てておみなはかぶりを振る。
「びっくりしたのよ。ひどい傷だから」割って入るように極楽が言った。「おみな、あんたは中に戻りなさい」
怪訝そうな捨之介を後目におみなはその場を駆け去った。
裏庭を回り便所に駆け込む。
板戸を閉めると、そこで初めて嗚咽を漏らした。
――喜助だった。幼い頃から一緒に遊んだ仲の男だ。
「必ずあとを追うから」そう言って自分を逃がしてくれた。握りしめた手のぬくもりははっきりと覚えている。
声を殺して、おみなは泣き続けた。
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