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 人を見かけで判断したら足をすくわれる。座右の銘といったら大げさかもしれないけれど、薬師寺杏がいつも言い聞かせていることだ。

 その自分が、思わず呆気あっけに取られてしまった。目の前の子を無意識のうちに「ジャンヌルダンを聴いているようなつまらない子」と決めつけていたのだろう。たしか小宮陽葵という名前だったはずだ。陽葵のようなどこにでもいそうな子が「愛宕山」から「落語」を連想するなんて夢にも思っていなかった。

「ええと、小宮さん……だったよね? 落語くわしいの?」

 なんとか動揺を悟られまいと思いながら、杏は問いかける。陽葵の瞳が爛々らんらんと輝いている。

「べつにくわしいってわけじゃないんだけどね。私おじいちゃん子で、そのおじいちゃんが米朝べいちようさんの落語が大好きだったから」

「これ、まさに米朝」

「ええ、いいよねぇ! 米朝の愛宕山! 春の訪れっていう感じがして、私も大好き!」

 陽葵の声がポンと跳ねた。この子ってこんな明るい子だったっけ? そう思った次の瞬間、杏は頰が熱くなるのを感じた。新学期だから「愛宕山」を聴いていると思われたのではないかと恥ずかしくなった。

 もちろん考えすぎであることはわかっている。誰もかれもが自分のように性格が悪いわけじゃない。

 イヤホンを外した千佳が「アタゴヤマって何ー?」と、怪訝けげんそうな顔で割り込んできた。不思議な朝だ。二年も同じ学校に通っていて一度も話したことのない子たちと、なぜか落語の話で盛り上がっている。

 いつものようにヘッドホンをして初台はつだい駅から電車に乗り込んだら、いきなり「薬師寺さん!」と声をかけられた。

 大音量の米朝越しにもわかる大声に振り向くと、顔だけ知っている同じ学年の子が古い友人のような顔をして立っていた。

「いや、あの……」と、言葉に詰まった杏に、千佳は何かを問いかけることを許すまいとするようにまくし立てた。

「私、C組の赤城千佳! あ、C組っていっても二年生のときで、もちろん今日からは違うクラスなんだけど、とりあえず同級生! 薬師寺さん、私のことって知っててくれてる?」

 どうしてこういう子ってわざわざ自分から傷つきにくるのだろう? 杏が「知らない」と答えれば、どうせわかりやすく動揺するくせに。その動揺を「えー、ショック。二年も同じ学校に通ってるのにー」などと猫なで声で隠そうとするくせに。

 ため息が漏れそうなのをがんばって堪こらえた。もう今日から中三だ。意地悪な自分がいまにも姿を現しそうになったが、杏は笑顔で覆い隠した。

「うん、知ってる。テニス部の子でしょ」

 いつだったかクラスメイトが千佳のことを話題にしていた。すぐにグループを移るとか、金魚のフンみたいだとか。あんたらもまぁまぁ一緒だろうと思う程度で、他に感じることはなかったけれど、なんとなく目を向けた千佳はたしかに五人ほどの輪の中でムキになったように笑っていた。これはこれで疲れるだろうなと感じたのを覚えている。

 杏に知られていたことがよほどうれしかったらしく、千佳は身体を思いきり揺すった。

「うん、地味な軟テのさらに地味な補欠部員! うわぁ、でもうれしいなぁ。薬師寺さんが知っててくれたなんて。私、休み中に三鷹みたかから住吉すみよしってとこに引っ越してさ。学校遠くなっちゃって最悪なんだよねぇ。ねぇ、薬師寺さんっていつもこの電車?」

 うかつなことを言ったら毎朝つきまとわれるのがあきらかだったので、適当に微笑ほほえんではぐらかした。

 すぐにヘッドホンを耳に戻し、空いていたシートに腰を下ろす。何が楽しいのか、千佳はニコニコしながら目の前のつり革を握り、ずっと杏を見下ろしていた。

 明大前駅で乗り換えたときも、千佳は杏についてきた。鬱陶しいとは思ったけれど、口に出そうとは思わない。

 退屈だったこの二年……、いや、小学校の頃からと考えれば八年だ。振り返れば、ずっと何かに耐えてきた気がする。でも、それもあと一年だ。稜花で過ごすのもたった一年。わざわざ波風を立てる必要はない。

 高校は他校を受験することを決めている。よほどの成績不良者でもない限り、全員エスカレーター式に高校に上がれる稜花ではめずらしいことだ。平均すれば三年に一人いるかいないかだと聞いている。

 ちょうど一年前、中二になってすぐの頃に両親にその旨を打ち明けたとき、二人は顔を真っ赤にして反対した。

 基本的に親の言うことをよく聞く子だったと思うけれど、この件だけは譲れなかった。杏にとって人生ではじめて自ら下した決断だった。

 一年生のときの国語の教師が「『決断』とは『決めて』『断つ』ことです」と言っていたのを覚えている。

「決めるのはわりとみなさん簡単にできるものです。問題は断つことの方。もともとあったものを手放すというのはね、これでなかなか難しいものですから」

 冴さえない中年の男性教師だった。授業はおそろしく退屈で、生徒の評価は芳しくなく、しかもまったく怒らない人だったから杏もほぼ寝て過ごしていた。この日の授業もマジメに聞いている子はいなかった。

 それなのに、なぜかこのとき杏は教師の話を聞いていた。肘をつき、いつもと同じようにダルいと感じながら、それでも言葉が耳に入ってきた。このとき思っていたのは軽音楽部の二つ上の先輩、同じ稜花小学校出身の冨田眞幌とみたまほろのことだった。

 先輩とはよく部室で二人になった。杏は眞幌のアンニュイな雰囲気が大好きだった。学校のことや友だちのことなどはたくさん話してくれたし、杏にはいろいろと尋ねてきた。でも、なぜか杏からの質問に対しては、眞幌は多くは答えようとしなかった。自分自身のことはほとんど語ってくれなかった。

 そんな眞幌が、底冷えする冬のある日、やはり二人きりのタイミングを見計らったように教えてくれた。

「私、実は違う高校を受験しようと思ってるんだよね。べつにこの学校に不満があるわけじゃないんだけど、ちょっといろいろしんどくて」

 何をしんどいと思うのか。まわりの人はそのことを知っているのか、どこの学校に行こうと思っているのか、稜花を去ることに悔いはないのか……。聞きたいことはたくさんあったが、杏は何も口にできなかった。そう口にする眞幌が本当に苦しそうに見えたからだ。

 眞幌が自らの性自認について話しているのはなんとなく理解できた。当然、杏は何を言われても気にしない。世間にそんな人はたくさんいるだろうし、そもそも自分の性の認識だってあやふやだ。

 それを気づかせてくれたのが眞幌だった。眞幌と二人きりで話をしているとき、まるで恋人と時間をともにしているかのように胸がふわふわする。自分でもおかしいと思うくらい、身体が熱くなる。

 知りたいことは他にもあったが、覚悟を決めて身の上話をしてくれた大好きな先輩に、うかつなことは口にできなかった。

「すごくいいと思います。眞幌先輩、あんまり稜花に合ってないし」

「そう思う? そう言ってくれるのはうれしいけど」

「いいなぁ。私も先輩と同じ学校受験しちゃおうかな」

「ええ、杏はいいでしょう?」

「なんでですか? 私、学校全然楽しくないし。眞幌先輩いなくなっちゃったらなおさらだし」

 いまほど確固とした思いがあったわけではないけれど、口調ほど軽い気持ちで言ったつもりもない。その証拠に、寒い部室の中で手のひらがしっとりと汗ばんでいた。

 眞幌も冗談とは捉えないでくれた。

 沈黙のあと、返してくれた言葉は力強いものだった。

「杏とまた同じ学校に行けたら楽しいだろうね」

 

 杏が本気で他校を受験することを決めたのは、眞幌が第一志望の大学附属の高校に合格し、涙を流しているのを目にした日だ。

 眞幌はちゃんと決断したのだ。違う学校に行くことをひそかに決めて、ぬるま湯のような環境を自らの意志で断ち切った。

「おめでとうございます。本当におめでとうございます!」

 女子校というのは涙の多い場所だとつくづく思う。運動部なんて毎日誰かが泣いているような気がするし、好きなアイドルのスキャンダルが発覚したときも、ちょっとした揉もめ事を巡ってもみんなよく泣いている。意地悪な言い方をすれば、安い涙。杏はそうした光景を冷めた目で見ていることが多い。

 その自分が、眞幌に祝福の言葉をかけながら信じられないほど号泣した。普段やっぱりあまり泣かない眞幌の涙を直視してしまったからだろう。

「ありがとうね。ありがとう、杏」と、同じように繰り返しながら、眞幌は杏を思いきり抱きしめてくれた。

 そして耳もとでささやいた。

「杏も自分の人生をちゃんと生きなよ。あんたは自分が思っているほど強くないし、意外と周囲に流されちゃう子だから。友だちでも親でもなく、もちろん私の言うことでもなく、自分のことは自分で決めな」

 先輩風をあまり吹かさない眞幌にしてみたら、めずらしく説教くさい言葉だった。杏は何度も首を振りながら、そんなの決まっていると心の中で唱え続けた。今度は私が決断する番だと、杏の方もめずらしく熱っぽくなっていた。

 両親の反対は思っていた以上に強かったが、杏の意志は揺るがなかった。通っていた塾の先生にだけ思いを伝えた。「薬師寺はやる気を出せばもっとできるんだけどなぁ」が口グセだった男の先生は、協力を惜しまないと約束してくれた。

 二年生に上がってからは学校の景色が劇的に変わった。眞幌がいなくなったことも大きかったが、それ以上に杏自身の変化のせいだろう。目標を持って毎日を迎えるだけでこんなにも見える光景が変わるのかと、鮮烈なおどろきを受けた。

 ただでさえ幼く見えていた同級生たちが、さらに子どもっぽく見えた。もともと狭い世界での人間関係に興味はなかったが、輪をかけて気にすることがなくなった。

 明大前から乗った吉祥寺行きの電車が浜田山に到着する。青いタータンチェックのスカートに好みの色のカーディガンを合わせた女の子たちがホームに吐き出される。杏はただでさえ短いスカートをもう一段たくしあげた。寒くはあるが、気合が入る。

「今日から中三かー。なんかあっという間だったなぁ」

 改札を通ったところで、千佳が大きく伸びをした。陽葵が愛想良く応じる。

「まだ終わったわけじゃないよー。あと一年もあるんだから」

「私、今年は二人と同じクラスがいいな」

「あ、それいいね! 私も二人と同じクラスになれたらうれしい!」

「高校に入ったら、どうせ大学受験とか意識させられるんでしょ? ノンキに遊んでられるのも今年くらいなわけだよ。だったらストレスなく、好きな子と同じクラスにさせてほしいよね。杏もそう思うでしょう?」

 先ほどまでの「薬師寺さん」がするりと「杏」に切り替わった。千佳は何食わぬふうを装っているけれど、緊張は隠せていない。

 ため息を吐きながら、空を見た。四月のさわやかな風に吹かれて、通学路に伸びる桜の花びらたちが気持ち良さそうに揺れている。

「そうだね。最後くらいストレスを感じない子たちと過ごしたいかも」

 べつにあんたのことじゃないけどね。イヤミっぽい下の句は押し留とどめておいた。

 千佳の顔がパッと華やぐ。暗いと思っていた陽葵までもが「うわぁ、杏ちゃんがそう言ってくれるのはうれしいなぁ」などと目尻を下げている。

 小学校から高校までを有する稜花女学院は駅から十分ほど歩いた高台にある。「おはよう」「おはよう」というはつらつとした声がそこら中から聞こえてきて、東に向かって一直線に延びる道が太陽に照らされ、杏でさえ心が弾みそうになる。

 陽葵と千佳が「ホントにまた同じクラスになれたらいいね」と腕を組んでいる。一年生のときは同じクラスだったが、二年生で離ればなれになってしまい、それ以来あまり話す機会がなかったという。

 ちょっとクラスが離れたくらいで話さなくなる程度の子と、また同じクラスになりたいというのはどういう心境なのだろう。

 今度はイヤミではなくそう思ったが、やっぱり口には出さなかった。最後の年をストレスなく過ごしたいという気持ちにウソはない。稜花で過ごす最後の一年だ。自分で最後と決めた一年が今日から始まろうとしているのだ。

「おはよう、杏!」

 校門をくぐり、桜のアーチでピンク一色の階段を上り終えたところで、弾はじけるような声が耳を打った。思わず笑顔のまま振り返る。

 悪意のない笑みを浮かべ、大きく手を振っている女子がいた。 

 それが小学生の頃の友人、宮古沙羅だと知って、杏は頰が引きつるのが自分でもわかった。

 

 

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