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 桜の枝が新緑に染まる頃、これはという物件が見つかった。

 横浜市内の中古マンションで築七年。関内駅と伊勢崎長者町駅のちょうど中間で、真奈美と裕司の会社へも無理なく通える距離だ。

 金額は四千五百万。予算を多少上回るけれど、いざとなればローンの年数を上げてもいいと思うようになっていた。早速内覧の予約を入れ、ついでに条件に近い物件を不動産の担当者といくつか回ることになった。

 当日は春香が夜まで亘を預かってくれることになり、裕司と車で横浜方面に向かった。もしかしたらこの街に住むようになるかもしれない、と思うと道中の景色にも自然と目がいく。

 横浜の市街地だけあって緑は少ないものの賑やかな印象だ。道路は車線が多く、目当てのマンションも大通り沿いにあった。

 けれど、それがネックになるなんて。

 マンションはネットに掲載されていた写真通り、外観も内装も新築のような真新しさだった。セキュリティも最新なんですよ、とサーファーっぽい雰囲気の担当者が誇らしげに言う。

 違和感はリビングを案内してもらっている時に抱いた。

「あの、さっきからずっとサイレン鳴ってません?」

 真奈美より先に裕司が口にした。あぁそれなんですけど、と担当者がウェーブがかった前髪を撫でつける。

「近くに大きい病院があるんですよ。まぁ窓を閉めればそんなに気にならなくなると思います」

 そう言われ窓を閉めてみたもののやはり聞こえる。

「これでも少なくなりました。コロナの時は二十四時間サイレンが鳴っていたそうですよ」

 正直すぎる担当者のフォローはさらに真奈美たちの心証を悪くした。よく見れば壁の換気口も黒ずんでいて空気の悪さを感じさせる。南側が通りに面しているため、眺望もひっきりなしに車が行き交う様子ぐらいだ。

 結局この部屋で暮らすイメージは湧かず、続けて回った物件も微妙だった。特に最後に見た部屋は、ベランダの前にいかにも新たなマンションが建ちそうな土地がある。

「まさか住んで数年後とかにマンション建ったりしませんよね」

「可能性は否定できません」

 担当者はこちらも否定しない。

 裕司と顔を見合わせ、ひとまず持ち帰りますと断ってその場を後にした。

 

 

「俺、このまま今のマンションで暮らすのもいい気がしてきた」

 予定よりもずいぶん早く内覧が終わってしまい、立ち寄ったラーメン屋で裕司がつぶやいた。以前から裕司が行きたがっていた店だ。

 これは、というものがあればローン審査を申し込むつもりでいたのに、どれも期待外れだった。逆に安いのにはそれなりの理由があると思い知らされた気がする。

「それってずっと賃貸でもいいってこと?」

「いや、そりゃ俺だって持ち家が欲しいし、亘に資産を残してあげたいよ。でも今日の物件とか見ててもさ、この金額出してこれかぁ〜って思っちゃうんだよな。今なら会社も近いし周りの環境も申し分ないし。無理しておかしな家を買ってローンに縛られるよりよくね?」

 それは同感だった。学生だった頃なんて、四千万もあれば豪邸が建つようなイメージを持っていたのに。

「それよりこうやって週末は家族で好きなもの食べに行ったり、たまには旅行に行ったりしてさ、今の暮らしを大切にできる方が俺はいいよ」

 裕司が勢いよくラーメンをすする。よほど食べたかったのか一番高い全部のせだ。

「まぁね。ただ今はいいかもしれないけど二人目ができたらそうはいかないでしょ」

 真奈美もずずっとスープを飲んだ。途端に煮干しの濃厚さがガツンときて、あぁ久々に外で食べていると実感する。

「俺は一人でもいいと思うよ。その分、亘に手間かけてやれるしさ」

「え……?」

 口元に運びかけたれんげが止まる。聞き間違えたのかと裕司を見ると、変わらず箸を動かしていた。

「……本気で言ってるの?」

「うん。俺も姉ちゃんいるし可愛がってもらったよ。でも兄弟がいることがすべてじゃないよ。子供はちゃんといろんな人を見て育つからさ。真奈美はつくってあげたいんだろうけど」

 驚いた。まさか裕司がそんなふうに考えていたとは。違いすぎて愕然とする。麵をくわえた呑気な横顔に猛然と怒りが湧いてくる。

「でも、裕司は別に産んでないでしょう」

 春香ばりの低音ボイスに裕司も「え?」と箸を止めた。

「つわりも経験してないよね。パンパンに張ったおっぱい看護師さんに揉みしだかれて泣いたこともないよね」

「何言ってんだよ。あたりまえだろ」

「だから何で産んでもないあんたが、そんな風に言うわけ?」

 カウンターの周りにいた人たちがこちらを見るのがわかった。けれど、むしろ声は大きくなっていく。

「亘の夜泣きがひどかった時も自分だけぐーすか寝ててさ。家事だって、やるやるって結局自分の気が向いた時しかしないよね。亘が熱出した時に保育園に迎えに行くのも全部私じゃん。仕事してるの自分だけじゃないってわかってる?」

「おいちょっと落ち着けって。とりあえず店出よう」

 肩に回そうとした手を振り払う。

「そうやって都合が悪いとすぐに逃げる。あの出産の痛みも、苦しみも辛さも……全部経験した私がそれでも二人目が欲しいって言ってるの! あんたなんかに決められたくない!」

 つい先ほどまで賑やかだった店内は通夜のように静まり返った。

 裕司はラーメンを残したまま立ち上がると、店の人に「すいません」と頭を下げ出ていく。真奈美も追いかけて暖簾をくぐると、裕司は逃げるように歩き出していた。

「待ってよ」

 裕司は止まらない。走ってようやく追いついて、無言のまま二人で駐車場に向かう。

 運転席に乗り込むと裕司が重い口を開いた。

「……俺はこういうのも嫌なんだよ」

「は? 何、こういうのって」

「亘が生まれてしばらくはさ、しょっちゅう今みたいにケンカしてただろ」

 真奈美は当時の記憶を探った。

 毎日が台風みたいだった日々──もうずいぶん前のことにもついこの間のことのようにも思える。

「真奈美はずっとイライラしてるし俺も余裕なかったし、ちょっとしたことですぐに険悪になって正直家にいるの辛かった。でも今は違う。俺はまたあの時みたいに関係が悪くなるのが一番嫌なんだよ」

 この人は一体何を言ってるんだろう、と思う。

 だから亘のために、と言いかけて口をつぐんだ。なんだかもうよくわからない。もしかして自分の方がおかしいんだろうか。

 エンジン音とともに車が動きだす。窓の外、昼に来た時と同じ横浜の景色が流れていく。けれど真奈美は二人の時間だけ止まっているような気がした。

 

 

 なかなか進まない宮下家とは逆に、栗山家の家造りは進み始めたようだった。

 真奈美は春香が淹れてくれた紅茶を飲みながら、先日もらったばかりという設計図を見つめる。反発しあっていた夫婦の要望は二重構造の箱形の家にする、という建築士の発想によってほぼ叶えられたらしい。

「すごいね、何とかなったんだ」

「うん、さすがプロだなって思った。でも今度は内装の素材で隆明と意見が合わなくて。一度夫婦でまとめてきてくださいって宿題出されちゃった」

 そう言って春香はテーブルに積まれた住宅雑誌を広げた。ページのところどころに付箋が貼ってある。

「イメージに近い部屋に付箋貼ってくださいって言われたの。黄色が私でグリーンが隆明なんだけど、両方貼られてる写真これしかなくて」

 真奈美は雑誌を手に取りパラパラとめくってみた。今はどの部屋の写真を見ても羨ましさが募るばかりで目に毒だ。

 裕司とは横浜に行ってから家の話をしていない。

 何となく避けられているのがわかるし、真奈美も前ほど熱心に物件を探せなくなっていた。亘が小学校に行く前には……と思っていたのにこのままでは厳しそうだ。

 閉じようとして、あるインタビュー記事に目が止まった。

 

〝空間デザイナーが語るこれからのインテリアスタイリング

  蝶野あさり(TDA)〟

 

 見開きのページに高級ホテルのような一室で、軽くソファに腰をかけた女性がいる。

 白シャツに黒いサロペット姿でセミロングの黒髪。

 にこりともしていない整った顔立ちと、短く切り揃えられた前髪が印象的だ。

 何よりその化粧っ気のない顔と、名前に真奈美は見覚えがあった。

 まさか、あの蝶野あさり?

「何? 気になる写真でもあった?」

 春香に声をかけられハッと我に返る。

「あ……うん。私もこの雑誌買ってみようかなぁって」

「エルホームか。でもそれ三年くらい前のなの。次の打ち合わせまでにあればいいからよかったら貸すよ?」

「本当? ありがとう」

 話を続けながらも、自然と意識が雑誌へ吸い寄せられていく真奈美がいた。

 

『理想の家はどこにある』は全4回で連日公開予定