第3話 この子誰の子

 

 

 

 とうとう雨が降りだした。砂地はたちまちぬかるみとなり、私たちの足をすべらせた。

「もっと押せ。この道はすぐ川になるぞ」

 驢馬ろばの頭絡を握るフィッツが声をあげた。

 そんなことは、言われなくてもわかっている。我らが旅芸人一座の荷車がやっと通れる幅の坂道は、左右の林地より一段低くなっている。雨水はそのうち、ここを川のように下りはじめるだろう。

 この状況では、道をそれての雨宿りはできない。先を急ぐしかないので、私はこれまで以上に足腰と腕に力を入れた。荷車を押すふりをして背面に手を当てるだけだった座長も、本気を出して足を踏ん張ったはいいが、たちまちすべって前のめりに転んだ。

 すぐに踊り手のオルド・ニイが助け起こし、泥だらけになった顔や手をオルドの双子の姉のレンガがぬぐったけれど、座長は怒りに肩を上下させていた。

「まったく、このいまいましい道のやつ」

 そして荷車の後ろをどんと押し、また転びかけたが、今度はこらえた。

 我らが座長は数々の難点の持ち主だが、短気はそのうちに入らない。鷹揚といえば聞こえがいいが、不愉快なことや怒りの元を気持ちからそらすのがうまいのだろう。こんなふうに癇癪かんしやくを起こすことはめったにない。珍しいので、私はしげしげとながめてしまった。

「だったらこんな仕事、受けなきゃよかったのに」

 レンガ・ニイもおもしろがっているようで、からかうように言った。

「これほど道が悪いとは知らなかったんだ。知っていたら」

 座長はそこで口をつぐむと、むきになって荷車を押しはじめ、私をいくぶん楽にしてくれた。知っていても、きっとこの仕事を受けただろうと自分で気づいて、何も言えなくなったのだろう。

 

 荷車二台と驢馬二頭、八人の男女と珍獣一頭で旅する我らが一座は、通常、街道の通っているところにしか出向かない。英邁なる〈太陽の君〉の威光の及ぶ大地には、整備された道が張り巡らされており、たくさんの町や村や集落を結んでいる。我々のような小さな一座も、そうした道をはずれることなくやっていけるのだ。

 それが今回、こんなにも狭くて荒れた急斜面をのぼっているのは、座長が金に目をくらませたためだった。

 しかたのない面もあった。この直前にいた町は、規模が大きいのに客の入りがさっぱりだった。少し前に似たような一座が派手に興行を打ったばかりだと、やがてわかった。我々と違って、英邁なる〈太陽の君〉から下された認可板をもってはいない、もぐりの芸人たちだ。いずれ〈星辰の臣〉に処罰されるか、どこかに逃げて鳴りをひそめるかするだろうが、そんな観測は私たちの苦境を救う役には立たなかった。

 座長は不運を嘆くことも、もぐりの一座をののしることもせず、ひょうひょうと打開の道をさがしはじめた。我々を招いてくれそうな近場の町か村がないか、訊いて歩いたのだ。

 巡業は前々からの約束の地をまわるものだが、次の約束までかなりの日数があった。それまでずっとこの町にいたくはない。大きな町は宿代も高いし、客の入りが悪いと座員の酒量がはねあがる。すでに滞在費が実入りを上回りはじめていたのだ。

 町役場に打診すると、早々の打ち切りに難色は示されず、むしろ歓迎されそうだった。あとは、我々を受け入れてくれる地を見つけるだけだ。

 町は交通の要衝だけあって、訊ねてまわると近隣の町村出身者はうようよいたが、座長の話に耳を傾けてくれた人も、しだいに困ったような顔になり、「村長がうんと言わない気がするな」と席を立った。それでもめげずに探していたら、ここから少しばかりはなれた村の出身だという男が、向こうから声をかけてきた。座長が夜な夜な手持ちの金を数えて、ため息をつくようになったころのことだ。

 油屋の主人だという五十代くらいの男は、私たちを居酒屋に招き、席に着くと同時に言った。

「あんたたち、認可板を持った一座だよな。だったら、うちの村に来てもらえないか。ちょうど大集合の時期なんで、みんないるんだ」

 よくわからない言葉のまじったこの申し出に、私は警戒感をもったのだが、座長はとろけるような笑みをうかべていた。

「できたら、明日にでも出発してほしいな。きっと、みんな喜ぶぞ。これまで一度も、村に芸人が来たことはないんだ」

 油屋は、心なしか目を潤ませていた。私は座長の耳に、それはよほど辺鄙な場所にあるか、住人が少なすぎて商売にならないからではないかとささやいた。私たちと男をへだてる木の卓は広く、私は小声でしゃべったから、聞こえたわけはないのだが、油屋は、卓の上に重そうな布袋をどすんと置いた。

「礼金は前払いする。これくらいで、どうだろう」

 中身は、この町での実入りの見込み違いを補ってあまりある金額だった。あとで酒屋の主人と相客たちに聞いたのだが、この男は、故郷の小村に働き口がないため町に出て、下積みを経て独立し、商売を成功させた人物で、蓄えた金で故郷の人たちを喜ばせることがしたいと考えていたところ、私たちの噂が耳に入り、頼むことにしたらしい。

 私の忠告をよそに、座長はこの話に飛びついた。あの金額が前金でもらえたのだから、その決断に恨みはない。けれども、成功した油屋の村へとつづく細道にただ一軒たっていた茶屋の主人の忠告には、耳を傾けてほしかった。

 

 細道とはいえ、木材や炭などの運搬に使われているからだろう。道がしばらく平らになったところに、畑を耕しながら旅人に軽食や休憩の場を提供している家があった。先を急ぐ私たちが車を止めずに通り過ぎようとしていると、そこの主人が畑から鍬を持ったまま走ってきて、休んでいくよう呼びかけた。この先に長い急坂がある。もうすぐ雨が降りそうだが、そうなったらその道はひどいことになると言って。

 座長はそれを、客引きのための嘘だと決めつけた。見上げれば、空はきれいに晴れていたのだ。

 くだんの上りは、私たちが覚悟していたよりずっと急だった。足下は砂地ですべりやすく、のろのろと進むうちに風が強まり、頭上に黒雲が流れてきた。荷車を回転させる幅がないため引き返すこともできず、私たちはできるだけ急いだが、ついに雨が降りはじめ、砂地が泥土でいどと化したのだ。

 いくらもたたないうちに雨水は下着にまでしみとおった。安物の布地は、濡れるとからだにまとわりついて身動きの邪魔をする。粗革の靴は常に水の中に沈んでおり、ときどき泥に引っ張られて脱げかけた。幌が水を含んだ荷車はますます重くなり、ぬかるみにとられた車輪はいっこうに回ろうとしてくれない。

 この坂道はいったいどこまで続くんだと気力が尽きかけたとき、雨音や木々を揺らす風、座長のうなり声といった肉体の苦痛をいや増す音をかいくぐって、優しい響きが耳をなでた。

 我らが一座の歌姫、ララト・アンが歌っていた。

 雨の膜を通して目をこらすと、前を行く荷車の横に、片足を引きずって歩くララトの姿があった。足の悪い彼女は車に乗っていたはずなのに、いつのまに降りたのだろう。

 歌は、聞いたことのないものだった。意味をくみ取れる歌詞はなく、心を落ち着かせるゆったりとした旋律を、「あ」と「ゆ」と「り」の三音で奏でていた。

 

 ララト・アンは歌い手として、特に美声なわけではない。衣装を身につけて演台に立ち、計算された身振りとともに声をあげれば、客の大半はうっとりとした顔をするが、拍手や足踏みに込められる熱狂が、他のし物を越えることはめったにない。

 時にララトはそれを気にして、私たちにからんだり、ひとりで落ち込んだりする。いつものことなので、軽業師のホイニーをのぞいて誰も気にとめないのだが、あまりに落ち込んだときは、こうなぐさめる。

「おまえには、歌のための特別な耳があるじゃないか」

 ララトは、どんな歌でも一度聞いたらおぼえてしまう。歌詞も細かい節回しも、すっかり頭に入って、あとで再現できるのだ。

 巡業をしていると、その土地独自の歌に出合う。海辺の町には海辺の歌、山の集落には山の歌、広々とした丘陵地には空の歌がある。子守歌や恋の歌にもその地に特有のものがあり、ララトは好んでそうした歌を聞いてまわるので、いまでは数え切れないほどの曲を知っている。〈太陽の街〉でやんごとなき人々の前に立つ高貴な歌姫の中にさえ、そんな歌い手はいないだろう。

 けれども、この能力がララトへの拍手を増すことはない。客が喜ぶのは、耳になじんだ歌だからだ。よく知っている大好きな曲を、自分たちでは歌えないほど美しく詠じてほしくて、客は木戸銭を払うのだ。

 それでもララトは、座長の苦い顔をよそに幾度となく、人気の歌にはさんで客が初めて聞くであろう歌謡を披露した。すると人々の顔に困惑が浮かび、場の熱は冷め、拍手はおずおずとしたものに変わるのだった。

 いまではララトは、私たちにしかそうした歌を聞かせない。それも、頼んだときには知らん顔で、町から町への長い移動の道中などに、気まぐれに、荷車から垂らした脚をぶらぶらさせつつ、唇に浮かんだ歌を解き放つのだ。

 私は、そうした歌を聞くのが好きだった。多くの聴衆と同じく、初めて耳にする歌の魅力をただちに感じ取るのは容易でなかったが、没入せず聞き流すようにしていると、心にすんなり入ってくるようになった。

「あ・ゆ・り」の歌は、泥坂で荷車を押すことに疲れ果て、頬を伝う雨粒のせいで泣きたい気分になり、この苦境を何かのせいにしないではいられない苛立ちに心をかきむしられていた私たちを、なだめてくれた。なぐさめてくれた。耳から入ってくる歌声だけに心をゆだねて、ひたすら押し、泥に抗して足を運んでいるうちに、峠を越えた。

 

 ほどなく雨もあがった。ララトはふたたび荷車に乗り、それでも「あ・ゆ・り」の歌をつづけていたが、気づけば聞こえなくなっていた。前の車に目をやると、荷物に寄りかかって眠っていた。悪路を無理して疲れたのだろう。

 道はそれからも上り下りを繰り返し、先はまったく見通せなかった。オルド・ニイが、日の沈む前に到着できるだろうかと気を揉んで、私たちをさかんにかしたが、誰の足にもそれ以上いそぐ力は残っていなかった。それどころか、とぼとぼと前に進む力さえ尽きそうだった。いままだ足を動かしていられるのは、すっかり耳になじんで頭の中でまだ鳴っている「あ・ゆ・り」の歌のおかげかもしれない。

 そんなことを考えていると、先頭をいく楽士のパクシが声をあげた。

「羊みたいな白い岩が見えたぞ。教わった道順からすると、もうすぐだ」

 後ろの私たちにも岩が見えるところまで進んでから、二台の荷車を止めた。木々の間にのぞく向こうの山に、たしかに白くて大きな岩があったが、私には羊ではなく犬に見えた。羊だとしても、あの岩なら、こちらの山のあちこちから見えるだろう。ここが教わった道順の「もうすぐ」の場所とはかぎらない。

 他の面々も半信半疑の顔で、すぐに歩みを再開しようとしたが、眠っていたはずのララト・アンが荷車の上で立ち上がった。

「ほんとだ、羊だ。だったら私たち、着替えをしなくちゃ」

 私たちはこれを聞き流した。ララトの突飛な発言はいつものことだ。こんなときに、かまってなどいられない。

 ところがララトは、足が悪いとは思えないほどすばやく荷車を降りると、先頭の驢馬の頭絡をパクシの手から奪って、出発を阻止した。

「ここなら道が平らだし、ちょっと広いよ。ここで休んで、身なりを整えようよ」

「勘弁してくれ。パクシの目論見違いで、先がまだ長かったら、日のあるうちに着けないかもしれない。こんな道で野宿することになったら、危険だよ」

 オルド・ニイの訴えに、姉のレンガが加勢する。

「うん。いまは先を急ぐべきだと思う。身なりなんて、どうでもいい」

「そうだよ。大きな町に行って、お偉いさんの前に出るってわけじゃないんだから」

 フィッツが明るいだみ声で、なだめるように言っても、ララトは譲らなかった。

「私たち、村を訪れる初めての芸人なのよ。こんなびしょ濡れの、みすぼらしい格好で現れるわけにはいかないじゃない」

 すると、それまで静観していた座長が、感銘を受けた顔で演説を始めた。

 まったく、ララト・アンの言うとおりだ。芸人など一度も見たことのない人々を相手にする、これは光栄で特別なことだ。登場の瞬間から、村人が期待する以上の芸人であらねばならない。身なりを整えて臨もうではないか。木戸銭をとる興行ではないのだから、村に着いたときに、いきなり何か演し物をやるのもいいかもしれない。ここは、旅芸人の矜持の見せどころだ。

 おそらく、村の人たちをうんと楽しませたら、気前のいい油屋が追加の礼金をくれるかもしれないと期待したのだろう。

 座長とララトが意気投合したのなら、従うほかない。パクシの「もうすぐ」という観測がはずれていたらとんだ無駄になると思いながら、私たちは濡れて泥にまみれた服を見映えの良いものに替えた。ララトとパクシの二人など、座長の指示で、演し物用の衣装をまとった。到着と同時に何か披露するといっても、こんな険しい道をたどった直後に軽業や踊りといった体力のいる芸をやるのは無理がある。まずは音楽と歌で山奥の人たちを魅了しようというわけだ。

「まだ遠いかもしれないのに。洗濯物を増やすだけの気がするな」

 レンガ・ニイは最後までぶつぶつ言っていた。

 

 

 めずらしいことに、ララトの用心と座長の目算が当たった。ついでに言えば、パクシの道への見当も。

 再出発後、道はすぐまた細くなり、木々の間で曲がりくねりと起伏を繰り返したが、ひときわ濃い木立を抜けると、なだらかな下り坂が現れた。その行き着く先には、人家の集まりとささやかな平地。

 集まりといっても数軒だが、木立に隠れてさらに家があるのだろうと、そのときは思った。道が下りきったところの小さな広場に、三、四十人の男女がいたからだ。全員がこちらを向いており、私たちの姿を見つけると、座っていた者も立ち上がった。

 近づくにつれ、誰もが笑顔だとわかった。男も女も年寄りも子供もいた。しかも、木陰や家の裏手から次々に新たな人影が現れて、ついには六、七十人にもなった。私たちに向かって手を振ったり、隣の人と談笑したり、実に楽しげだ。

 自然とこちらも笑顔になった。内心では冷や汗をかいていたが。もしもララトの主張に従わず、泥まみれの格好でここにいたら、どれほど身のおきどころのない気持ちになっただろう。

 

 私たちが広場の端に到達し、二台の荷車が静止すると、人々は誰に指示されるでもなく半円形の人垣をつくって拍手をした。これまでにも、小さな集落などで物見高い子供らの出迎えを受けたことはあったが、これほど多くの老若男女に歓迎されたのは初めてだった。

 短躯のがっしりした体型の者が多かった。男はみなひげをたくわえ、男女とも蔓草で編んだ帽子をかぶっている。粗革や麻で出来た灰白色から茶色の似たような上着をまとった姿は、いかにも山の民だった。

 ララトは、村の人たちから見えない側から荷車を降りると、髪と衣装を手で整えなおして深呼吸した。それから、悠然と人々の前に歩み出る。衣装の裾が長いので、わずかに足を引きずっていることには、私たちしか気づかなかった。

 楽士のパクシがその後を追い、ララトが足をとめると胡弓をかまえた。

「朝は美しい

 太陽輝くこの良き日

 あなたに会いに走っていく

 朝露に濡れた小路を」

 ララトが歌いはじめたのは、どこの町村でも愛されている明るい歌謡だった。歌声が広場を満たすと、人々の期待の微笑は恍惚の表情へと変わった。顔を上気させる人、目を閉じてしずかにからだを揺らす人、隣の誰かともたれあってくつろぐ人――。

 裏方として興行を見守る喜びは、まさにこんな一時ひとときにある。

 人生は厳しく、人の世は悪意に満ちている。心の平安に疑惑の雑味が、愉快な団欒に明日への不安や昨日の苦い思い出が、混じらないことはめったにない。

 その稀な機会が、楽しむために人々が集まる場には、時として訪れるのだ。

 ふだんの興行では、退屈顔や物思いに沈む様子の者がひとりやふたりはいるものだし、前の客の頭が邪魔だと口論や小突きあいがはじまったり、隣の誰かの懐を狙うやからがきょろきょろしたりと、不穏のタネがあちこちにある。それを見つけて何とかするのも、私の仕事だ。

 けれども、ごくごくたまに、その場にいる誰もが、ただ純粋に楽しんでいると感じられることがある。目に映るすべての事象が、なごやかな喜びだけで出来ていると思えることが。

 そんな稀有な時間を、叫び声が引き裂いた。

「助けて」

 悲鳴のようなその声の主をさがして私が視線を動かす間もなく、人垣から茶色の頭巾をかぶった女が飛び出し、ララト・アンにしがみついた。

「助けて。子供をさらわれた」

 そのせりふに、私や座長は息をのんだが、村人たちは、人垣を崩すことなく互いの顔を見合うばかりだ。子供をさらわれたという訴えは、「火事だ」とか「嵐が来るぞ」以上に、こうした集落の人々を行動に駆り立てるもののはずなのに、この反応はどういうことだ。

 そうした疑問に気をとられて、私はすぐに動けなかった。ララトの恐怖にひきつる顔を見て、まずは彼女を助けなければと気づいたとき、「ほほーい」と、ホイニー・トッツが声をあげた。軽業の芸に入るときのかけ声だ。

 人々の視線を集めたホイニーは、大きく宙返りをしながらララトのほうに向かっていった。いつもの衣装を着ていないから、手首や足首のたなびく細布や、着地のたびにシャラシャラと鳴る鈴はないが、旅の疲れをみせない軽やかさで、ふたりの女の前にぴたりと着地した。

「お困りですか、美しいご婦人」

 片膝をついて深く礼をしてから、女の両手をやさしくとった。女は、驚きと虚脱が入り交じった顔で、されるがままだ。

「さらわれたお子様の件、あちらでじっくりお聞きしましょう。さあ、どうぞ」

 ホイニーは右手を女の腰にまわすと、すべるような足取りで誘導し、荷車の陰まで連れてきた。途中でララトが歌を再開し、胡弓がこれに加わった。人々は、さっきまでの明るくなごやかな雰囲気は失っていたが、歌に合わせてからだを揺すり、中断などなかったように音楽を楽しみはじめた。

 これで、はっきりした。村の人たちは、「子供がさらわれた」との訴えを誰も本気にしていない。ただ困惑し、なかったことにしたがっている。

 おそらく、さらわれた子供などおらず、村人たちはそれを承知している。この女は、こうした騒ぎを何度も起こしているのだ。きっと、人が楽しんでいるときに限って――。

 夢の時間を破られた無念を、私は胸の内で押し殺した。ここからは感傷を排して、気を引き締めてかからねばならない。

 

 私たち旅芸人には、人々を愉快な芸で楽しませる以外にも使命がある。よその国では警察とか探偵とかいわれる人たちが扱う事件を調べて事の顛末を明らかにし、ときには刑の宣告までおこなうのだ。

 数代前の〈太陽の君〉のご英断で始まったこのやり方は、おおむね好評を博しているが、我々にとってはなかなかの重荷だ。誰かの人生を左右する判断を迫られるうえ、この義務をきちんと果たさないと認可板を取り上げられる。「子供がさらわれた」という訴えは、どんなに怪しい話でも、まじめに聞きとり、事の次第を正しくあらためなくてはならなかった。

 私はまず、この話をはなから嘘と決めつけてはいけないぞと、自分を戒めた。ここは他の町村との交流に乏しい山奥の村。住人が何らかの理由でこの女性をけ者にしており、彼女の家族に何が起きようと知ったことではないと考えている可能性も皆無ではない。

「子供がさらわれたそうですが、それはいつのことですか」

 まず時を訊ねたのは、「誰が」や「どのように」より簡単に答えられる問いだからだ。混乱した頭からも具体的な返答が戻りやすく、物事の見当を手っ取り早くつけられる。

 女は、三十代にも四十代にも見えた。骨格が太いので痩せてはみえないが、やつれた顔をしていた。騒ぎではずれた頭巾のまわりに、頭上でまとめていた髪が乱れ落ち、道に迷って長いこと歩きまわった後のような混乱と疲労をたたえている。

「八年前」

 事態の把握と対処を急がなくていいことが、まずわかった。

「わかりました。くわしく話をうかがいましょう。とりあえず、どこかに座りませんか」

「その女はどこにも座らない。わしと家に帰るんだ」

 後ろから野太い声がして、中背で骨太、他の村人と共通するいかつい顔立ちの男が現れた。

「帰らない」女が、痛いほどの力で私に抱きついた。「チェノを返して」

 さっきララトがどんな目にあったかを体感しながら、私はつとめて穏やかに言った。

「落ち着いてください。あなたの話をすべて聞きます。聞いて、問題の解決にあたります」

 こんなせりふが功を奏したわけではなく、彼女の夫と思われる男が後ろから引きはがしてくれたおかげで、私の背骨は折れそうな重圧から解放された。

「何度言ったらわかるんだ。チェノは獣にさらわれたんだ。ニーサはチェノじゃない」

 男が女の手首をつかんで強く引いた。女は足を踏ん張って抵抗したが、このあたりも雨に降られて地面は濡れており、両脚をつっぱらせたまま引きずられた。

「待ってください。私はこの人から話を聞かなければなりません」

「こいつの話なんか、聞くことはない」

「聞きます。聞くと約束しましたから。どうしても家に連れて帰るとおっしゃるなら、私もついていきます。お宅で話を聞かせてもらいます」

「芸人なんかを家に入れるつもりはない」

 鬼の形相で怒鳴ってから、言いすぎたと思ったのだろう。男は口の端をゆがめて、肩を落とした。

「あんた、認可の石板を持つ芸人だったな」

「はい。ですから、子供をさらわれたという訴えがあれば、きちんと聞いて、あらためをおこなわなければなりません」

 荷車の向こうの人垣から大きな拍手があがった。私の宣言に感心してくれたわけではない。ララトが歌い終わって辞儀をしたのだ。

 

 けっきょく私たちは、広場の周りに五つほど立っている、皮つきの丸太が柱で屋根はかや編みという造りの東屋あずまやのひとつに腰を下ろした。あとの四つも数人ずつでにぎわっていたが、自分たちの話に興じるふりをしながら、こちらをうかがっているようだった。

 広場の中にはすでに誰もいなかった。人垣は散り、我が一座の荷車は最初に止めた場所にそのままだが、驢馬は村の人間が世話をするために連れていった。私以外の座員は、村役場だという、いちばん大きな建物にいる。興行や滞在についての打ち合わせのためだ。さっきの歓迎ぶりからすると、いまごろは軽食や飲み物がふるまわれているかもしれない。

 そう考えたら、胃がきゅっと鳴った。だが、いまは目の前のふたりに集中しなければ。

 厳つい顔の男――ここにくるあいだにナトイ・ソブロと名乗った――は、ヨルガという名の妻を牽制するように、あるいは守るように、ぴったりと横に座って、その膝に手をのせていた。

 私の膝には、認可板の入った袋があった。ナトイが見たがったので、座長から借りてきたのだ。私が石板を差し出しても、ナトイは手にとることはせず、地面にひざまずいて頭を下げた。英邁なる〈太陽の君〉の名が記された石の板は、こうした村の人たちにとって、それほど神聖なものなのだ。

 再び袋におさめて膝上に戻した石板への敬意が、私への態度をやわらげてくれたのか、座りなおしたナトイの口調は、いくぶん穏やかになっていた。

「チェノというのは、わしらの末息子だ。三歳の可愛いさかりに、突然いなくなった」

「二つよ。あの子の三歳の誕生日まで、あとふた月だった」

 私としては、まずは訴え出たヨルガひとりから話を聞きたかったのだが、その願いをナトイが受け入れるとは思えなかったので、ふたりに向かって訊ねた。

「最後に見たとき、その子はどこにいたのですか。いなくなったときのことを詳しく教えてください」

 夫婦は言い争いながらも、互いの話を訂正しあい、補いあって、前後の事情を説明した。不仲にみえて息が合っている。チェノの前に四人の子供を育て上げたというから、いやでもそうなるのだろう。

 上の子のうち三人は、すでに村を出て自分の道を歩んでいる。十五歳になる四人目は、親元に残って家業を手伝っているそうだ。

 ナトイ・ソブロは数頭の馬を所有しており、山と町とのあいだの運送を生業なりわいにしている。といっても、実際に馬に荷を積んで往復するのは雇い人たちで、ソブロ夫妻は村人から炭や薪や毛皮や干し肉を買ったり、町から運んできたものを売ったりに従事している。ソブロ家は、この村唯一の商家なのだ。

 そもそも、村にはいま見えている五、六軒のほかに建物のないことが、ふたりの話を聞いてわかった。さっき人垣をつくっていた何十人もは、ふだんは山の奥深くで暮らしているのだ。家族ごとにばらばらに。

 私たちにとって、いまいる場所はじゅうぶんに山の中だが、彼らはここを〝村中むらなか〟と呼んで、山暮らしと区別している。家長は月に一度くらいは、売りに出すものを運んで村中にやってくるが、妻子や老親は何か月も山を出ず、遠く離れた隣人とさえ顔を合わせないことも珍しくない。

 実はこれが、この事件をややこしくしていた。

 家族以外と会うことなく、山奥で何か月も過ごすなど、想像するだけでさびしくなると私が漏らしたら、ナトイ・ソブロはせせら笑った。

「さびしい? そんな言葉は、町の連中がつくったものだ。わしらにはそれが、どういう気持ちかわからない。まあ、わしも、こういう商売をしているから、町の連中の言い回しはけっこう使える。だから言わせてもらうが、山はさびしいところじゃない。山は、にぎやかだ。にぎやかで、豊かだ」

 誇りに満ちた顔でそう言いきるナトイの横で、妻のヨルガは顔をしかめていた。

「ただし、家族だけで暮らしていると、人とのつきあい方が身につかない。家族と他人とは、いろいろ違うからな。ほかにも、金の使い方とか、そもそも物を買うのに金がいることとか、学ばなきゃいけないことがあるから、大集合をやるんだ」

 大集合。油屋の主人が口にした謎の言葉だ。

 座長たちが村長から聞いてきたことと合わせてあとで詳細がわかったのだが、この村では年に一回、二十日間、村中に学校が開かれる。三歳以上の子供が集まって、家族以外と交わることや、簡単な読み書き、計算などを学ぶのだ。

 屋外で雑魚寝をしても平気な季節のうち、山仕事が比較的暇になる時期におこなわれ、たいていは家族総出でやってくる。村役場の裏手の山の端に立ち木のまばらな斜面があり、そこに綿布の屋根を張って壁のない寝場所をつくって共同生活を送るのだ。子供は学校と遊びで一日を過ごし、おとなは村についての話し合いをする以外は、酒宴をはったり、噂話の交換をしたり、笑いあったり、相撲をとったり。

 大集合とは、そのような、長い祭りのことだった。油屋が、村で初めて芸人を呼ぶのに良い時だと考えたのも当然だ。

「ヒンルンは、八歳になるまで子供を大集合に連れてこなかった。そんなの絶対、おかしい」

 息子の失踪についての話になると、ヨルガは落ち着きを失って、いつまた私の背骨を締め上げるかわからない剣幕になった。

「からだが弱かったから、山道を長く歩かせたくなかったって言ってたじゃないか。三歳にもなれば連れてくるのがふつうだが、これまでにも、六歳や七歳が初参加って例はあった」

 ナトイの口調は、このせりふをすでに何百回と口にしているような乾いたものだった。

 この夫婦の幼い息子チェノは、八年と少し前に行方不明になった。家の中でひとりで昼寝をしていたときのことだ。

 ふだんの村中は住む人が少なく、遊び友達も子守もいない。ナトイは荷物の出し入れの差配で、ヨルガは雇い人のぶんも含めた食事のしたくで忙しく、しばらくチェノの様子を見ていなかった。

 家の扉は取っ手を動かさなくては開かず、チェノには手が届かない。窓は開いていたが、下枠は子供が手を伸ばしても届かない高さにあり、近くに踏み台はない。勝手に外に出られたとは思えないが、気がつけば、家の中のどこにも姿がなかった。

 ヨルガは取り乱し、やがて半狂乱となって我が子を捜した。ナトイは村中にいた人たちに助けを求めて、全員であらゆるところを捜索した。翌日から、山住みの男たちの多くにも来てもらって、山狩りをした。チェノは見つからなかった。

「きっと、窓から入った獣にさらわれたんだ。そういうことは前にもあったらしいからな」

 これも何百回と口にしたらしい、感情の抜け落ちた言い様だった。

「さらったのは、獣じゃない。ヒンルンよ」

 ヨルガのせりふもまた何百回と繰り返されたものだとしても、そこにこめられた悲痛な響きは少しも減じていないようで、私は胸が痛かった。

 ヒンルンというのは、夫アディト・プジャクとともに山の中に住んでいる女性だそうだ。この村には珍しく、プジャク家には子供がおらず、夫妻ふたりきりで暮らしていた。

 ところが三年前の大集合に、彼女は息子だといって、八歳くらいの男の子を連れてきた。

 その子を見るなり、ヨルガは我が子の名前を叫んで抱きつこうとし、それを阻止しようとするヒンルンとつかみあいの大喧嘩になった。それからヨルガは、プジャク家の初めての子のニーサとされているのは、彼女の息子のチェノだと訴えつづけている。

「しかし、あなたはそう考えてはいないのですね」

 夫のナトイに訊ねると、ヨルガの顔が醜く歪んだ。

「たしかにニーサはチェノに似ている。だが、プジャクの家とうちは親戚筋だ。似たところがあって不思議はない」

 こうした小さな集落では、家系図を描くと、みんなどこかでつながっているものだ。よそから来た人間の目に、この村の人たちの体格や顔立ちには共通するものがある。ほかの土地で出会ったら、あの村の出身ですかと声をかけることができそうなほどに。

 とはいえ、実の父親に見分けがつかないものだろうか。

「わかりました。これから、ニーサという少年があなたがたの息子のチェノなのかどうか、あらためをいたします」

 虚ろだったヨルガの瞳に、生気のようなものが宿った。ナトイは何か言いたげに口の端を持ち上げたが、それを制して私は、袋に入ったままの石板を頭上に掲げた。

「英邁なる〈太陽の君〉より託されたこの石板が、私を真実に導いてくれることでしょう」

 ふたりは同時にひざまずいて、ナトイは無言でこうべを垂れた。ヨルガは「お願いします。お願いします」と額を地面にこすりつけながら泣いていた。

 ほんとうに真実を見つけ出せればいいのだが。

 

 

 一座のみんなは、最初に止めた場所から少し山側に移動させた二台の荷車の間に幕を張っていた。興行の準備ではない。この村では、珍獣翼虎よくこの演し物を一日一度やる以外は、人々が集まっている場所をまわって、芸を披露していくことに決まった。そんなやり方は初めてだが、楽しい滞在になりそうだと、みんなわくわくしていた。芸をやるのは衣装を着ているときだけ。平服のときは、村人と同じように、あちこちで供される大集合のご馳走を飲み食いしていればいいと言われていたから、なおさらだ。

 問題は寝場所だった。村は、木造家屋の一室を提供すると言ってくれたが、我々がヨッコと呼んでいる翼虎の木箱をそこに入れると、あとは八人がようやく横になれるほどの広さしかなかった。人間はそれでいいが、ヨッコには、人に見られず歩きまわる場所が必要だ。

 もう少し広い寝場所はないかと訊ねて、この村の家屋の少なさを知った座長は、そんななかで部屋の提供を申し出てくれた親切に感謝しつつ、大集合にやってきた村人たちと同様に、戸外で寝起きすることを選んだのだ。

 荷車二台と数本の立木を幕で結ぶと、広々とした〝住居〟が出来上がった。天井はないが、雨が降ったら、荷車の幌の下でやりすごせばいい。

 フィッツがさっそく木箱からヨッコを出して、伸びをさせてやり、毛に櫛を通しはじめた。私は、車から降ろしたの子の床に寝転んだ。風が幕を静かに揺らして、あるかなきかの音をたてる。幕の上部に山の緑がのぞいている。油断すると眠りに引き込まれそうなぼんやりとした心地の中で、私は事件のことを考えた。

 八年前に、三歳に満たない子供が行方不明になったことは、間違いなさそうだ。問題は、その子がプジャク夫妻が我が子と主張する子なのかどうか。事実を確かめるのは、そう難しいことではなさそうなのに、どうして三年も揉めているのか。油屋の主人は、もしや、この件もあって、私たちを雇ったのか。

 最後の疑問は特に追及しなくていいだろうが、その他のことは大きな問題だ。私は、重いからだを起こして、布の住居をあとにした。

 

 ヒンルン・プジャクは、息子のニーサとともに村役場の二階の小部屋にいた。ほかの子供たちは、雨上がりの空の下で、先生役の村人が唱える町での生活の要点を、声をそろえて復唱しているというのに。

 ヒンルンを見つけようと訊ねまわってわかったのだが、村の人たちは、大集合の間、この母子とヨルガが顔を合わせないようはからっていた。

 最初の騒動のあと、村役場は双方の言い分を聴取した。ヨルガはニーサはチェノだと言い張ったが、ヒンルンは、この子は自分が産んだ子に間違いないとまなじりを決し、その横で夫のアディトが無言でうなずいていた。チェノの父親のナトイと兄のミドナは、どちらとも確信をもてずにいた。

 村中の他の住人たちにも確かなことは言えなかった。チェノはいなくなったとき三歳弱だった。まだ家の中にいることが多かったから、五年後に現れた少年と記憶の中の面立ちをくらべるのが難しかったのだ。

 ニーサ本人は、自分がプジャク家の実子でないなど、思ってもいないようだった。ヒンルンを遠ざけてヨルガと対面させても、他のおとなに対するのと同じく、かちんこちんにかたまっただけだった。初めて大集合にやってきたニーサは、両親以外の人間とどう対応していいか、まだわからなかったのだ。ヨルガがそっと抱き締めて「チェノ、母さんよ」と話しかけても、ソブロの家に連れて行って、幼いチェノが遊んだ木馬やお気に入りだった掛布を見せて触らせても、好きだったおやつを食べさせても、ニーサはかたまったままで、何かを思い出したり、親しみを感じたりの反応はいっさい示さなかった。

 山に住む人々は、それぞれはなれて住んでいることもあり、プジャク家の子供をごく最近まで見たことがなかった。生まれたことさえ知らなかった。無口なアディトは社交的とはいえず、訪ねてくる人がいなかったのだ。

 けっきょく、ニーサがチェノだとの根拠はヨルガの主張のみだが、プジャク夫妻の実の子だとの裏付けも、夫婦の証言だけ。決め手はないが、だとしたら、現状を変える理由もない。なにしろ、ニーサ自身が、山の家での暮らしをつづけたがっているのだ。

 村の会議は、ヨルガの訴えを退けるとの結論を出した。

 ヨルガは泣き叫んで抗議したが、これは何より子供のための措置なのだと説得された。もしもあの子がチェノだと思うのなら、生きていたことを喜びなさい。そして、あの子にとって、どこにいるのがいちばんいいか考えなさいと。夫や、町からわざわざ訪ねてきた長男にまでそう言われて、ヨルガは折れた。たとえ山の中のプジャク家に押し入って、力尽くで子供を奪ってきても、村の総意で、また奪い返されるだけだと悟り、観念したらしい。

 こうして村に平和が戻った。ところが、一年間おとなしくしていたヨルガも、次の大集合でニーサの姿を目にすると、取り乱して、叫び、暴れた。

 そこで、大集合の間は、ヨルガの夫が、できるだけ妻を家の中にいさせる、妻が外出しようとしたら、その邪魔をしつつ、家の前で待機している伝令役に合図をし、ヒンルンとニーサを村役場の二階に籠もらせ、ヨルガに姿をみせないようにすることとなったのだ。

 ナトイが妻を家に連れて帰りたがったのは、そういうわけかと得心した。

 ところがヨルガは、今年の大集合では昨年と違う暴れ方をし、その結果、認可板をもつ我が一座が訴えを引き受けることになったのだ。

「わが村の出した答えが間違っていたとは思わないが、ここらできちんと、よその人に調べてもらったほうがいいのだろう。ニーサはチェノなのか、違うのか。はっきりしたことがわかれば、みんなが救われる」

 そう言って村長は、協力の姿勢をみせてくれた。

 

 ヒンルンへの訪問を二度手間にしないために、私はいったん仲間のもとに戻って、ララトに同行を頼んだ。プジャク夫妻がヨルガの息子を誘拐したのか否かの調査なのだ。やましいことがあってもなくても、私に対して警戒心をむきだしにするだろう。ただでさえ、村外の人間と話すのが苦手な山の民。まともに受け答えしてもらうには、一工夫が必要だ。

 村役場までの短い道のりですれ違う人はみな、ララトに笑顔を向けた。平服なので歌をねだられることはなかったが、「あんな歌を、また聴かせてくれよ」などと声をかけられ、ララトはまんざらでもない顔をしていた。

 ヒンルンとニーサの籠もる小部屋は薄暗かった。窓が木の板でふさがれているせいだ。子供が窓から外をのぞいて、ヨルガの視線に触れるのを防ぐためだろう。

 ふたりは壁にもたれてうたた寝でもしていたようだったが、私たちが入室すると、ヒンルンは素早く膝立ちになり、ニーサをかばうように片手をその前にのばした。

 母親の腕の後ろにのぞくのは、この村の他の子供らと同じくよく日に焼けた、角ばった顔で、人なつこそうな両目はいくぶん困惑していた。

「こんにちは」私は、できるだけ穏やかに少年に語りかけた。「私は、この村にやってきた旅芸人一座の者だ。君はさっき、この歌姫の歌を聞けなかったよね。これからここで、君のために歌ってあげるよ」

 そこまで言って、私は少し心配になった。

「きみは、歌とは何か、知っているかい」

 ものごころつくまでどこにいたかはさておき、少なくとも三歳から、山の中で家族だけの生活をしてきたのだ。大集合への参加もまだ四回目。街道の通っている村や集落の子供たちと、知識の幅にずいぶんな違いがあるだろう。

「知ってるよ」

 子供はさっと立ち上がり、奇妙な節で呪文のようなものを唱えはじめた。

「ヒトツ、ヒマザル、キカラフン

 フタツ、フミヘビ、ドクガアル」

「数え歌よ」ヒンルンが、警戒の手を引っ込めてから、いくぶん恥ずかしそうに説明した。「家の近くに出る生き物を教えるための」

 ララトは目を丸くしてかたまっていた。この顔は、歌をおぼえようとしているのだ。

「ミッツ、ミカヅキ、コワイヒル」

 数え歌を続ける少年と聴くララトの邪魔をしないように私は、声を低くしてヒンルンに向かって言った。

「大切なことを数え歌で教えるとは、いい考えです。山暮らしの知恵ですね」

「そんな……」ヒンルンの頬に朱が散った。「こんなの、歌だなんていえないよね。本物の歌は、聞いているうちに、ふうっと空に昇っていくみたいな気持ちになるんでしょ。それに、とってもきれいな花が目の前で咲いたみたいにうっとりできる。みんながそんなふうに言っていた」

 数え歌が十で終わると、ララトはその場にあぐらをかいて座り、すっと背筋を伸ばした。

 そして、歌いはじめた。

 静かな調べだった。興行では披露しない、地味だが耳に優しい、雨上がりの野原を称える歌。

 ヒンルンの表情がしだいにやわらかくなり、ゆっくりと尻を落として床に座った。ニーサは立ったまま、じっと耳を傾けている。

 小部屋が静寂に満たされると、ヒンルンはほうと息を吐いた。

「ありがとう。本物の歌がどういうものか、よくわかった」

「その子の数え歌も、本物の歌よ」

 ララトが笑って応えた。

「さて、私たちがここに来たのは――」

 私は用件を切り出した。ヒンルンは、怯えたり攻撃的になったりすることなく、落ち着いて私の質問に答えてくれた。

 彼女は、山の中の別の家庭からアディト・プジャクのもとに嫁ぎ、アディトの両親と独身の弟との五人で暮らしはじめた。ところが、数年のうちに事故や病気で義父母と義弟が亡くなり、夫婦二人だけになった。なかなか子供ができず、太陽神と山の神に毎日お祈りをして子宝を願ったところ、ついに身ごもり、ニーサが生まれた。実家の両親もすでに故人となっていたので、そのことは誰にも知らせなかった。幼いころニーサはからだが弱かったので、村中に連れて行くのに不安を感じ、八歳になるまで大集合に参加させなかった。

「実は一度、結婚してすぐ身ごもったの。嬉しくて、あちこちに知らせた。でも、流れてしまって……。そのあと、義父とうさんや義母かあさんや義弟おとうとが死んで、あたしのせいだと思った。良い知らせは、口に出せば流れてしまう。そのうえ、さらなる不幸が流れ込む。昔、おじいちゃんがそう言っていたのを思い出したから。それで、ニーサのことは、大集合に連れて行けるようになるまで、できるだけ黙ってた」

 私がヒンルンから話を聞くあいだ、ララトはニーサに楽しい小唄を聴かせていた。ニーサは笑顔を浮かべて、繰り返しの多い唄は途中からいっしょに歌ったりもしていたが、片方の耳はヨルガの話に向いているようだった。

 

 続いて私は、壁のない雑魚寝の宿で男たちの輪にいたアディト・プジャクを、広場の東屋に連れ出した。たしかに無口な男だった。

 アディトは、妻子が人と接することなく暮らすあいだも月に一度は村中に出ていたが、妻に口止めされていたので、ニーサが生まれたことはしばらく誰にも告げなかった。

 これだけのことを引き出すのに、私はいくつも質問を重ねた。何かを隠しているというのでなく、しゃべるのが苦手なようだ。

 山中での夫婦二人きりの生活がどんなだったか訊ねても、ろくに言葉を返さないので、ナトイの見解をぶつけてみた。「山は豊か。そのとおりだ」と満足げに言ったときだけ、感情がおもてに現れた。

 

 そのナトイにも、あらためて会いに行った。自宅の前で、山から出てきた男たちと車座になって砂糖湯を飲んでいた。酒は、暗くなってからのお楽しみだという。ヨルガは家の中で、ほかの女たちといっしょに菓子作りをしている。おかげでニーサは、子供らの集まりにふたたび加わっているのだと、ナトイはほっとした顔で私に告げた。

「あなたは、ニーサがチェノだと考えたことはないのですか」

 他の男たちから少しはなれたところに行ってから、私は訊ねた。

「わしは、四人の子供を育て上げた」家の出入口に目をやりながら、ナトイは不機嫌そうに言った。「簡単なことじゃなかった。必死に働いて、ようやく四人目が家業を手伝えるまでになった」

 質問への直接的な答えではなかったが、告白めいたこの話の続きは気になった。

「下の子だけでなく、上の三人にも手伝わせようとは思わなかったのですか」

「うちは、この村唯一の商家だが、おとなを何人も養えるほどの儲けはない」

「あなたは、山は豊かだとおっしゃった」

「山は豊かだ。木の実に魚に獣に野草。ちょっとずつでもいろんな食べ物がある。どこでいつ何がとれるかわかっていたら、飢えることはない。もちろん、ひとつの山が養える人数は限られるが、あんたが思っているより、ずっと多い」

「村中の商売では、そういうわけにはいかないのですね」

 ナトイには、五人目の子が負担だったのだろうか。だから、いなくなっても妻と違って懸命に取り戻そうとはしていない。よそで大切に育てられているなら、それでいいと思っている――そこまで言い切っては、彼に対して辛辣にすぎるだろうか。

「山に暮らす家族は、たいがい子だくさんだ」ナトイはふたたび、私の質問と無関係なことを話しはじめた。「たくさん生まれて、町の子よりもたくさん死ぬ。山は怖いところだからな。わしの一つ下の弟も、毒虫に刺されて死んだ。死ねば悲しい。それは町の連中といっしょだ。だが、子供が小さいうちにいなくなることに、慣れているのかもしれない」

「あなたは、村中の生まれではないのですか」

「ちがう。西の山のうんと上に住んでいた。商売は、ヨルガの親がやっていたものだ」

「そうでしたか」いろいろと合点がいった。「ところで、ヨルガさんが、ニーサがチェノだと言い出したとき、あなたはそうは思わなかったのですか。顔だちとか、からだつきとか、しぐさとか、ご子息を思わせるところはありませんでしたか」

 最初の質問に戻ると、ナトイは助けを求めるように我が家をじっと見つめた。

「似てはいる。前にもそう言った。だが、チェノがいなくなってから、どの子を見ても、あの子に似たところを見つけてしまう。正直、ニーサがチェノなのか、違うのか、わからない」

 私は、家業を手伝っているという四人目の子のミドナにも話を聞いたが、父親と同様のことしか言わなかった。

 

 日が沈むと篝火かがりびが焚かれ、あちこちに酒盛りの輪ができた。どの輪も楽しげに盛り上がっていたので気がひけたが、私はにぎわいに水を差してまわった。チェノの行方不明とヨルガの訴えの件は、持ち出したとたんに人々の笑顔を消しさる問題だったのだ。それでも、誰もが嫌な顔をみせずに、せいいっぱい記憶をあさって答えてくれた。

 私は、おもに二つのことを訊いてまわった。

 一つは、ヒンルンがニーサを大集合に連れてくるまでの八年間、プジャク家に変化があったことを聞いたり気づいたりした人は、ほんとうに一人もいないのか。赤ん坊の泣き声は遠くまで聞こえるものだ。いくら山中の一軒家といっても、もっとも近い家屋か山歩きしている者の耳に、届いたことはあったのではないか。

 けれども、そんな人間は見つからなかった。

 アディトの口から子が生まれたことを聞いた者は、何人かいた。ただ、それがいつだったかがあやふやだった。八年前だと思ったが、アディトに九年前に話したと言われれば、そんな気がしてくるという。

 だがこの件では、八年前か九年前かは決定的な違いとなる。チェノが行方不明になる前に、プジャク家に幼児がいた証があれば、あらためはそこで終わりとなる。けれども、そんな証も見つからなかった。

 二つめは、チェノがいなくなった日に、村中にヒンルンかアディトが来ていなかったかだ。見かけたという話は聞けなかったが、意外なことがわかった。そのころまでヒンルンは、年に何度かひとりで村中に出て、村の女らとおしゃべりをして帰っていたというのだ。アディトは口数が少ないから、話し相手がほしかったのだろうと、村の男たちは言っていた。

「しかし、チェノがいなくなったころ、ニーサはもう生まれていたはずですよね」

「二つや三つのガキも、話し相手にはならないさ」

「そんな年頃の子を置いて、母親ひとりで山を下りたのですか」

「父親が面倒をみてたんだろう」

 けれども、チェノがいなくなった後、ヒンルンは山を下りなくなった。

「うんと小さい子供は、家に閉じ込めておけば命にかかわる悪さはしない。だが、三つを過ぎると目をはなせない。それでじゃないか」

 私からみれば不自然に思えるあれこれも、山暮らしの人たちには納得できることのようだ。そういうことにしておきたいだけかもしれないが。

 

 

(つづく)