四年ぶりの大舞台に立つ僕は、自分でも意外なほど落ち着いていた。会場の広さも観客の数も、三カ月前の地区大会とは天と地ほどの差だ。
しかし、どこで泳ごうと誰が相手だろうと、僕がすべきは全力で泳ぐことだけ。去年、この会場で未菜萌とドルフィンカップに出た影響も大きかったかもしれない。
予選は海潮が別ブロックだったこともあって、難なく一位通過できた。二位との差も0・5秒以上の快勝で、海潮と同じ土俵に立つには充分。
肩の痛みはあるけど、それ以上に気持ちが昂っている。
一刻も早く海潮と戦いたい。どんな結果を迎え、どんな感情を抱くのか知りたい。そうして迎えた、男子百メートル自由形、決勝戦。
入場前、他の選手と一緒に通用口で待機していた僕は、唐突に声を掛けられた。
「驚いたよ。たった一年のリハビリで選手として息を吹き返すとは」
声の主は当然、犬河海潮その人だ。
鍛え上げた肉体を見せつけるように仁王立ちし、海潮は続けて言い放つ。
「だが、侮られたものだな。お前がコーチだのシンクロだのにうつつを抜かしてる間、俺はずっと競泳一筋でやってきたんだ。その俺に勝てると思っているのか」
挑発的な色を滲ませながらも、その声音はどこか楽しげだ。
彼の宣戦布告に、僕は不敵な笑みをもって応えた。
「そんなの分からないよ。水の中ではなんでも起こり得る。そのことは僕より海潮のほうがよく知ってるはずだろ?」
思いがけない反撃だったのか、海潮の表情が一瞬で引き締まった。
一矢報いた気分で、僕は海潮に左手を差し出した。
「海潮のほうこそ、あまり舐めてかからないほうがいいよ。何せ僕は今日、人生を懸けて来ているからね」
しばし僕の手を見下ろした後、海潮は固い手で強く握り返してきた。
「そうだな、そう来なくっちゃ面白くない」
「ベストを尽くすよ、今日こそは」
係員の誘導で、僕たちは広大なメインプールへと入場する。
期待、羨望、そして夢破れた者の怨嗟。種々雑多な感情を一身に受け、僕たちは飛び込み台に立つ。奇しくも海潮は隣のレーンだ。
静かに揺蕩う水面は、あの時と同じなのに、全く違う。
あの日、飛び込むことを拒んだ水の世界に、今は一刻も早く身を委ねたい。ゴーグルをつけ、その時を待つ。真空めいた完全な無音が僕を満たす。
スタートブザーが肌を刺した瞬間、僕はそれを音と認識する前に、飛び込み台を蹴っていた。
四年もの歳月を要したスタート。我ながら遅すぎたと思うけど、無駄な時間じゃなかったことだけは断言できる。
四年前の僕には絶対にできなかった。積み重ねた全てを信じ、これほど無心で条件反射のスタートを切ることは。
重力に従って空を切り、指先から順に全身を水が包む。ドルフィンキックで前進し浮上、間髪入れず水を掻く。
スタート直前まで凪いでいた心が、沸々と奮い立つのを感じる。静かな水面に刻まれた荒波が、そのまま僕の心と共鳴しているかのようだ。
何度目かの息継ぎの時、僕はゴーグル越しに、隣のレーンの海潮と目が合った気がした。
目線の高さは同じ。今のところ互角に戦えている。
地区大会や予選とは全く違う高揚感が、僕の全身を満たす。同時に理解した。四年前、海潮が僕に激昂した理由を。
去年の再会の別れ際、海潮が悲しげに吐露した言葉の意味を。
同じ目標を持つ仲間と競うことが、こんなに心躍ることだったなんて。難しく考えることなんて何もなかった。
やめる理由がない。
水泳を続ける理由なんて、それだけで充分だったんだ。
五十メートルに差しかかり、レースも後半。折り返しの壁際で半回転し、壁を蹴る。クイックターンのタイミングも完璧だ。
あとは反対の壁につくだけ。息継ぎの間すら惜しみ、一心不乱に水を掻き、蹴る。脳内のアドレナリンが切れたのか、それともとうとう限界を超えたのか、右肩が燃えるように痛み出した。
痛い。苦しい。投げ出したい。どうせ優勝したって何もないのに──。肺に十秒ぶりの酸素を送り込んだ、その瞬間。
僕は眼前に、一面の銀河を見た。
視界を覆い尽くす泡飛沫の向こうに、ひときわ大きな流星が在る。
その正体は海潮だ。わずかに、しかし確かに、僕との差をつけている。嫌だ。置いて行かれたくない。負けたくない。
僕もあいつと同じくらい、胸を張って輝ける存在になりたい。
そう絶叫しようとして、僕は気づく。
ここは水底に広がる銀河。呼び止め、希う声など、なんの意味も成さない。星に届きたいと願うなら、方法はたった一つ。
残り何メートルかなんて関係ない。とにかく壁に当たるまで腕と脚を動かせ。後のことなんて考えるな。
その執念が、半ば功を奏し、半ば災いした。
僕の泳ぎは壁際になっても収まることなく、ほとんどぶつかるような形でのゴールとなった。
酸欠でくらくらになりながら、水底に足をつき、僕は辛うじて呼吸を繰り返す。
残り二十五メートルあたりからは全く息継ぎをしていなかった。
思い出したようにタイムボードを見上げると、その結果は──。
【一 犬河海潮 48・57秒】
【二 北見志吹 48・60秒】
まさにタッチの差。
ゴールのタイミングを見極めて腕を伸ばしていれば、あるいは海潮を下していたかもしれない。
だけどそんな冷静な泳ぎをしていたら、絶対に海潮とここまで競ることはできなかった。
隣の海潮を見ると、キャップとゴーグルを剥ぎ取った彼は、拳を突き上げて喜びを爆発させていた。観客も彼に惜しみない喝采を送っている。
あの日に見られなかった彼の歓喜を見て、僕の中にも悔しさ以上の喜びが湧き上がった。
「おめでとう、海潮! マジのガチで泳ぎ切ったんだけど、やっぱり速いな」
「当たり前だ! 俺の自己ベストを更新して『花を持たせてやった』なんてぬかしやがったらぶっ飛ばすぞ」
僕の祝福に、海潮は珍しいハイテンションで応じ、僕はつい噴き出してしまった。少し落ち着いた海潮は、改めてタイムボードに目をやり、しみじみと呟く。
「だがまぁ、お前がこの場にいなかったら、この成績は出せなかっただろうな。こんなに白熱した戦いになるなんて夢にも思わなかったが……それでも勝ちは勝ちだ。有り難くもらっていくぞ」
「ああ、全国でも頑張れよ。僕のぶんまで」
健闘を讃え合いながら、僕はプールサイドに上がろうとしたものの──右腕の力が一瞬にして抜け、バランスを崩してしまった。
先にプールサイドに上がった海潮は、派手な水飛沫を上げて転落した僕を見て、呆れ笑いを浮かべている。
「なんだよ、最後の最後に締まらないな。やっぱりお前、相当無理して──」
しかし、一向にプールから上がらない僕を見て、海潮の表情が変化した。
もちろん僕も早くプールから上がりたい。だけどもう、僕の右腕はピクリとも動かないどころか、感覚すら感じない。疲れ切った左手を縁につくのが精一杯だ。海潮は血相を変え、僕に呼びかけてきた。
「志吹!? おい、お前、どうしたんだ!?」
「ごめん、海潮、今度こそお前にそんな顔させたくなかったんだけど……」
「そんなこと言ってる場合か! すまない、誰か手を貸してくれ! 志吹を医務室に運ぶ!」
言うが早いか、海潮は僕の左腕を掴み、無理やりプールサイドに引っ張り上げる。
水から上がっても、僕の右腕は模型のように無感覚のままで、不思議と僕はそのことを他人事のように思ってしまっていた。
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