那智中尉の日記はここで終わっております。あの日、遅めの昼餉を摂った後の合間を使って、彼は昨日と今日の午前の記述を済ませていたのでしょう。

 日記にある通り、私は震洋艇の処分のために鱶姥を訪れておりました。正午過ぎまで掛けて大半の震洋を沖合の離島に運び、後は海岸線からの砲撃で爆破するのみとなった矢先の十三時三十八分、前述の通り強大な地震が鱶姥を襲いました。

 その時、私は梵寂寺の庭で、不要となった作戦文書を焚火にべておりました。すると遠くから地鳴りのような音が聞こえ、何事かと思った瞬間、足下の地面が大きく揺れ始めたのです。

 地震だと直ぐに理解しました。強い横揺れは一分ほど続いたでしょうか。梵寂寺の本堂は軋んだ音を立て、その天井から振るい落とされた埃は濛々もうもうと立ち込め、私の立つ庭先にまで流れて来るほどでした。

 漸く落ち着き始めたと思うや否や、再度凄まじい、今までとは比べ物にならないほどの衝撃が私を襲いました。これが本震でした。立っていることも困難なほどのあの激しい揺れは、今でもはっきりと覚えています。硝子の割れる音と共に本堂では梁が崩れ、まるで大きな足に踏み潰されるような形で倒壊しました。

 私は咄嗟に身をひるがえし、何とか巻き添えを食らわずには済みましたが、その際、立ち昇る土埃に目を傷め、地面にうずくまったまま未だ止まぬ激しい横揺れに動くことが出来ずにおりました。そこを那智中尉に助けられたのです。

 中尉は自室で休んでいたところを地震に遭い、庫裏で腰を抜かしていた善海和尚を担いで間一髪逃げ出していました。動くことの出来ぬ私に変わって焚火を消し、落下物の危険の無い庭の隅にまで私と和尚を誘導し、共に揺れが収まるのを待ちました。

 実際には五分程度だったのですが、私には十分近く揺れ続けていたように感じました。それほど長い地震でした。揺れが収まった後、中尉が手水舎から運んで来た水で目を洗い漸くひと息吐けたのですが、それでも頭はふらつき、真っ直ぐに歩くことも苦労をしました。

 境内から見下ろした村落の様子は、想像を絶するものでした。立ち込める土煙の向こうで殆どの家屋は倒壊し、幾つかは火の手も上がっていました。

 下敷きとなった住民がいるかも知れない。直ぐにでも動ける隊員を動員して救助活動に当たらねばと考える私の袖を、那智中尉が強く引きました。

 何事かと振り返った私は、中尉が指し示す鱶姥の海を見て絶句しました。

 今の地震で砂が巻き上げられたのか、透き通るようだった青い海は茶色く濁り、更には沖に向かってどんどんと、何の音も無く、泊められていた漁船と共に流されていくのが分かりました。そして、瞬く間に港の水は完全に引いてしまい、凸凹とした焦茶色の海底が露わになっていました。

 引き波です。私も帝国海軍に身を奉じた一人として、知識としてはそれを知っていましたが、あれほど凄まじい引き波は見たことがありませんでした。

 津波が来ると善海和尚が呻きました。那智中尉も、真っ青な顔で立ち尽くしていました。私は、彼を促し、隷下の部隊で以て救助活動と避難の誘導を行うため、急いで梵寂寺を後にしました。

 既に村落では、隊員たちも自主的に参加をして、恒川村長の指導の下、救助活動が始まっていました。漁業を生業とする者が多いだけあり、これから押し寄せるであろう津波に対する知識も十分で、裏手の山へ避難も開始されていました。

 私は那智中尉と共に、隊員たちを率いて怪我人や足腰の不自由な老人たちをたすけながら同じく山手の高台に避難をしました。点呼を済ませ、何とか全員無事に避難が完了したと思った矢先、私と那智中尉は、蒼褪めた顔の恒川村長から、盛岡からの疎開学童一行が見当たらないことを告げられたのです。

 盲点でした。内陸から来た彼らは、引率の教員を含めて、津波への認識がなかったのです。私は中尉と共に、三名の隊員を連れて、子どもたちが寝起きしている村落西部の旧温泉旅館へ急ぎました。

 いつのまにか海はどす黒く染まり、水位を上げながら大きくうねる海面には、白い泡の渦ばかり目立つようになっていました。息を切らせて駆けながら、一方で私は、若しかしたら間に合わないかも知れないと、心の片隅で思い始めていました。

 直線距離にして五百メートルもない道のりでしたが、地震によって家々の塀が崩れ、それに足を取られた結果、予想以上に時間が掛かりました。

 漸く行く手に旅館が見え始めたという矢先、那智中尉が背後から私の名を呼びました。そして、肩で息をしながら、津波を消すことはできないかと云いました。これだけの大地震ならば、梵寂寺のあの伝承と同じく、海底から大量のメタンガスが漏れ出ているに違いない。そこに震洋をぶつけることで引火させ爆発エネルギーを利用することで津波を消滅させることはできないか、と。

 莫迦を云うなと私は大喝しました。地震に由来する津波とは、元来数十キロに渡る横一線の巨大な壁です。しかもそれは初めだけでなく、第二波、第三波、第四波と絶え間なく陸地に押し寄せて来ます。仮令たとえ、奇蹟が起きてあれと同じ方法で最初の津波を霧散させることが出来たとしても、直ぐに次の、そのまた次の津波が押し寄せて来るのです。

 あんなものはいにしえの伝承に過ぎず、万が一にも再現出来る訳がない。とにかく、押し寄せる津波には、それが届かないほどの高台に逃げるしかすべはないのだと私は中尉に強く云いました。

 しかし中尉は、更に膨らみ始めた黒い海面を指しながら、そんな余裕はないと食い下がりました。同行した下士官たちは、思いがけない上官たちの口論に、困惑した顔で立ち止まりました。

 議論する間も惜しく、また那智中尉の表情は、決して己の意見をげようとはしない覚悟で強張っていました。私は彼を殴り飛ばし、ならば勝手にしろと怒鳴りつけて再び駆け出しました。下士官たちは戸惑いながらも、私に従いました。

 案の定、疎開学童たちは教員も含め、全員がその場に留まっていました。温泉旅館は無惨に全壊し、子どもたちは全身に土埃を浴びた姿のまま、輪になって前庭で震えていました。

 私は年嵩の教師を捉まえ、間もなくこの村に大津波が押し寄せる旨、そのため直ぐにでも山手へ避難する必要がある旨を口早に告げました。五名の教師は皆蒼褪め、子どもたちを移動させようとしましたが、初めて経験したであろう巨大な地震に誰も彼も恐慌を来し、その声はまるで届いていない様子でした。

 沖合には、白く長い線が見え始めていました。津波です。このままでは間に合うかも分からない。しかし、子どもを置いて自分たちだけで逃げ出すことも出来ない。私は及び腰になる下士官を叱咤しながら、蹲る子どもたちの首根っこを掴むようにして山手へ追い立てていました。

 津波の位置を確認しようと振り返ったその時、私は、磯ヶ浜から、これまでになく水位の上昇した黒い海に延びる、一本の白い航跡を見ました。元々飛行機乗りだったので、視力だけには自信があるのです。それは間違いなく、真緑の小型ボート、即ち震洋に乗り込んだ、那智中尉に他なりませんでした。

 私は愕然としました。真逆、本当に彼が決行するとは思いもしなかったのです。

 震洋の動きが緩慢に見えたのは、凄まじい勢いの津波に逆らって進んでいるからでしょう。しかし、その緑色の舟艇は、激しく畝る波を越えて、今にも津波の迫らんとする岩ノ島へ、一直線に向かっていました。その洞窟には、今日の午前中に格納した残りの震洋十一艇が格納されています。那智中尉がそこに突っ込み、震洋全艇の爆発で以て迫り来る津波の威力を軽減させよう、若しくは少しでも到達を遅らせようとしていることは、容易に予想できました。

 無茶だと思いました。そんな上手くいく筈がない。自分があんな話をしなければ、彼がこんな莫迦げた真似をすることもなかったのだと、私は歯噛みしながら過去の自分を呪いました。

 岩ノ島の岩礁を遥かに超す高さの津波が迫り、那智中尉の乗った震洋はその陰に見えなくなりました。思わず立ち止まって目を凝らした刹那、岩ノ島の岸辺で爆音と共に大きな火の手が上がりました。

 震洋で突っ込んだのだと頭で理解した次の瞬間、目も眩むような白い閃光と共に、先ほどとは比べものにならないほどの轟音を発して、岩ノ島は島ごと吹き飛びました。一拍も間を措かず、凄まじい衝撃波が私たちを襲います。抗うことも出来ずにただ押し倒される直前、私は確かに、岩ノ島を越えようとしていた大津波が突如海中から立ち昇った一つの巨大な水柱によって大きく二つに別けられるのを見ました。

 那智中尉の乗った震洋が岩ノ島に衝突し爆発する。それが引金となって、洞窟に格納されていた残りの震洋が全艇同時に誘爆を起こす。更にはその大爆破が、梵寂寺の伝承と同じく、地震によって海中に放出されていたメタンガスの気泡に引火し一気に爆発する。それがあの巨大な水柱だったのです。

 依然として海面は激しく畝り、幾つもの巨大な渦は発生していましたが、押し寄せる津波と海中の大爆破で威力が相殺されたのか、海岸線に到達した津波の勢いは、確実に弱まっていました。

 再び奇蹟が起きたのです。

 吹き飛ばされた海水が雨のように降り注ぐなか、私たちは呆気に取られている子どもたちを追い立て、次の津波が到達するまでに、何とか全員を山手に避難させることが叶いました。

 那智中尉の行動によって、結果的に鱶姥は、ひとりの命も失われることなく、津波の被害から逃れることが出来たのです。

 

 長々と書き連ねて参りましたが、以上が、昭和二十年八月十六日に起きた出来事になります。

 終戦時の混乱のため、この地震そして大津波の事実が公にされることはありませんでした。こののち、大湊に戻った私は、那智中尉の行動が「停船命令にも応じない国籍不明の軍艦接近に伴い、大湊警備府から発せられた出撃命令によるものだった」と作戦文書を書き替えました。「戦死」となれば遺族に対して特別弔慰金が支給されることもありましたが、何より、彼はあの時、逃げ遅れた学童たちを、即ち、敗戦によって零にまで戻ってしまった日本の、これからの復活を担う者たちを護るために出撃したのです。それは他の特攻隊員たちと同様、敵を撃滅し勝鬨かちどきを上げるためでなく、ひとえに、それによって少しでもこちら側の被害を減らし、この国の未来を守るため、命を散らしたことに変わりはありません。

 改めて申し上げます。生還を期せぬ特攻は統率の外道であります。ですが、この事実だけはどうしても貴台にお伝えしたく、差し出がましい真似とは理解しつつも筆を執った次第であります。

 末筆ながら、時節柄、呉々もご自愛ください。貴台のご健勝を衷心より祈念申し上げます。

謹白

 昭和三十一年八月二十二日

               入舟清四郎

 

那智波留子はるこ 様

      足下

 

(了)