謹啓

 突然お手紙差し上げます非礼をお許しください。

 当方、横浜にて貿易業を営む入舟いりふねきよろうと申します。先達て、青森県西津軽郡鱶姥ふかうば村のぼんじやくにて執り行われました第一四七震洋しんよう特別攻撃隊の合同慰霊祭にて、貴台の斜め前方に腰掛けておりました眼帯の老人と申しますればしかしたら御記憶かも知れません。

 左様な、いち面識もない男が突然何用かと御不審のことでしょう。ですが当方には、どうしても貴台に御手紙を差し上げねばならない事情があり、慰霊祭の主催者たる梵寂寺の善海ぜんかい和尚より貴台の住所を教え受け、こうして筆を執りました次第となります。

 既に御承知のこととは存じますが、震洋とは、自動車用エンジンを積んだベニヤ板製の小型モーターボートに、二五〇キログラムの爆装を仕込んだ旧帝国海軍の水上特攻艇を指します。その名には、読んで字の如く「敵艦を撃沈し太平撼させる」という意味が込められており、来襲する敵艦を水際で退けるべく、特攻隊員たちはこのもろく小さな木製ボートに乗り込んで、必死の体当たり攻撃を敢行するのです。

 貴台の弟君、那智なちきゆうへい海軍中尉は鱶姥に配属されました第一四七震洋特攻隊の隊長であり、当方はおおみなと警備府内の司令部で特攻参謀を務め、那智中尉の上官職にあった者になります。

 

 ここまでお読みになった時点で、若しかしたら貴台は、この手紙を破り棄てておられるかも知れません。

 あらかじめ申し上げます。那智中尉は昭和二十年八月十六日、即ちあの戦争が終了した翌日、国籍不明の軍艦接近という報に触れて鱶姥基地を出撃、戦死いたしました。そしてその命令文書に署名をしたのは、他ならぬ当方であります。

 

 慰霊祭後、当方は偶々たまたま、貴台が善海和尚とお話しされている傍らを通りました。そこで那智中尉の名を耳にして、その場におられたご婦人、つまり貴台が中尉の御姉君だと知った時には、驚くと同時に、運命の巡り合わせを感じずにはいられませんでした。

 当方は、那智中尉の上官としてその特攻死の実情を把握しており、それを御説明すべく、長らく中尉の遺族を捜しておりました。しかしながら昨年末より著しく胃を患い、当方がこの慰霊祭に参加出来るのも今回が最後だと覚悟せざるを得ない状況だったのです。

 余程声をお掛けしようかとも思いましたが、物陰から貴台のお話を聴取し、矢張りその場では身を引くことにいたしました。

 御両親共に幾度かの空襲に遭いながら何とか生き延びたものの、愛する息子の特攻死に酷く落胆され、終戦の年の冬に相次いで亡くなられたよし。お二人とも、死の床に在ってなお、なぜ鳩平は大元帥陛下より停戦の命が下されていながら出撃させられたのかを嘆かれていた由。貴台に於かれましてもその点はどうしても納得がいかず、出撃を命じた上官がいるかも知れない慰霊祭に参加するには、十年もの歳月が必要だった由。事情は全て拝聴いたしました。

 そんな、弟を殺した男が今更何用かとお思いでしょう。自己弁護をするつもりは毛頭ございません。繰り返しになりますが、あの日、昭和二十年八月十六日、那智中尉は当方の命令で震洋に乗り込み、既に戦争は終わっているのにも拘わらず鱶姥の沖合に出撃して、その尊い命を散らせたのです。

 しかし一点だけ。貴台が和尚にこぼされた「弟は無駄に命を散らしたのだ」というお言葉。これだけはどうしても見逃すことが出来ませんでした。

 同封いたしましたノートは、那智中尉が鱶姥に着任後、その死の直前までつけていた日記になります。訳あって当方が引き取り、いつか遺族の方に手渡そうと、今日に至るまで大切に保管しておりました。

 これを貴台にお返しします。先ずは最後までお読みください。その上で、これ以降の当方の手紙に目をお通し下さい。そうすれば貴台にも弟君の死の理由が、何故那智中尉は終戦後に水上特攻を敢行せねばならなかったのかをご理解頂けることと存じます。

 なお、この日記は唐突に終わっております。お読み頂ければ分かることですが、あの日、那智中尉と私は、連合軍の上陸以前に残存する震洋を処分する為の打ち合わせを梵寂寺内で行っておりました。その合間を縫って中尉が日記の残りを書いていた矢先、正確には十三時三十八分、秋田県しろ市西方沖数十キロメートルを震源とした巨大な地震が発生したのです。

 

 

    ハシガキ

 ふと思い立って日記をつけてみることにした。

 いつまで続けられるか(要は、おれがいつまで生きていられるか)は分からないが、折角始めるのだから、ここに限っては嘘偽りなく、まがりなりにも海軍中尉である身として余所よそでは口が裂けても云えないようなことも、おれの本心として書き綴っていこうと思う。

 特攻隊を任された者の心境というのは如何いかがなものか。これもまた日記の形で後世に残しておいて損はない筈だ(忘れがたく、口惜しきこと多かれど、え尽くさず、とまれかくまれ、疾く破りてむ、となるのかも知れないが)。

 

 先ずは自己紹介。

 第一四七震洋特別攻撃隊隊長、那智鳩平海軍中尉。大正十年十一月九日、名古屋市中区葉場はばちよう生。明倫めいりん中→八高→京都帝大と進み、我が恩師、くりや教授の下で所謂いわゆる「実証史学」を学ぶ。卒業論文は「近世のさかいに於ける石造物利用の形態について」。

 

 ここまで書いて思ったが、本当は家業を継いで欲しかったであろうに(ウチは代々配管資材の卸売りをやっている)、文句を云いながらも俺のしたいようにさせてくれた両親には頭が上がらない。その上、碌な親孝行も出来ぬうちにこうして特攻隊に配属されてしまった訳だから、とんだ不孝者である。

 湿っぽくなるからここいらで止めておこう。

 昭和十八年九月、半年繰り上げで大学を卒業。どうせ軍隊に引っ張られることは分かっていたので、海軍の予備学生を志願する(なぜ陸軍じゃないかって? そりゃ一個も良い噂を聞かなかったからだ)。他の連中はこぞって飛行科を志願したが、そんなに器用だとも思えなかったので、一般兵科を志願し、無事採用される。その後、三浦半島の先にある武山たけやまの海軍予備学生教育部で海軍トハ何タルカを学ぶ。

 基礎教育修了後、砲術、水雷、対潜、通信、航海、電測、気象、工機、工作、潜水と、どの術科学校に進むか選ぶ必要があり、(こんなことを余所で云ったら殴られるどころじゃ済まないだろうけれど)一番命の危険が少ないであろう「通信学校」を第一希望に出す。しかしながら、仮令たとえ数ヶ月でも海軍のしおに当たっていると性根まで変わってしまうものなのか、同級生に惰弱と思われるのも癪で、つい第二希望に「水雷学校」、脇に「魚雷艇志望」と付け足してしまう(コレガ一生ノ不覚ナリ)。

 その結果、真逆の第二希望が通ってしまう。魚雷艇学生第一期として横須賀市うらの水雷学校で諸々の訓練を受け、昭和十九年五月海軍少尉任官。第一六震洋特別攻撃隊第一艇隊長としてはちじようじま赴任。昭和二十年五月海軍中尉任官。七月第一四六震洋特攻隊第二艇隊長として宮城県みや村に異動となるも、現地で急遽第一四七震洋特攻隊隊長に任ぜられ鱶姥配属を命じられる。同日二十五名の部下(十五名の搭乗員、五名の基地隊員、五名の整備隊員)と共に当地へ急行し、今日こんにちに至る。

 

 ついでに今日のことも書いておく。

 鱶姥着は十三時四十五分。皆疲労困憊。仙台を出たのは二十一日。十日の仙台空襲で奥羽本線は不通のため、仙台駅八時二十五分の二〇一列車に乗り込み、こう大館おおだてひがししろと乗り換えて、日付が変わる頃には鱶姥に着く筈だったが、こちらも列車が来ない。東北本線の線路も空襲で一部が破損したため、時刻表はあって無きが如しと駅の助役も云っていた。

 一時間遅れでようやく来たかと思ったら、今度は警戒警報発令で動かない。一日かけて何とか好摩まで。本日の運転はここまでとのこと。已むを得ず隊員たちと共にホームで雑魚寝。夏場で良かった。

 好摩―大館や大舘―東能代は流石に空襲での取り止めは無かったものの、列車は遅々としてまた途中で野宿。結局鱶姥に着くまで二日近くを要した。

 鱶姥は西津軽のいち漁村(詳しい地形は明日以降確認の予定)。懸念していた現地の様子だが、村長の恒川つねかわ氏にはきちんと話が通っていたようで、まずひと安心。少なくとも現時点では下にも置かない持て成しぶりだった(若い兵が多いから?)。有難い話である。隊員たちの宿舎も分けなければならないが、夜も遅いため、高台にある古寺(梵寂寺と云うらしい)に全員泊まる。おおみなとの警備部に鱶姥到着の一報を入れる。震洋十五艇は既に大湊より海送済とのこと。

 

 昭和二十年七月二十四日 海軍中尉那智鳩平 記す

 

七月二十五日 晴

 午前座学と体操。場所は梵寂寺の講堂を借りられた。午後は震洋艇の性能検査。五日前に大湊より海送された十五艇は二人乗りの五型で、海岸近くの天然洞窟に隠されていた。ひと目見て唖然となる。洞窟内の湿気にやられたのか、エンジンはすっかり錆びて船体も腐食しつつあり。手頃な木材を譲り受け、至急修理させる。

 監督は戸田とだ整備長に任せ、どう上等兵曹と共に恒川村長の案内で村落を一周する。久藤には、宮戸の時分から甲板下士官を任せている。おれのような予備学生あがりが何とかやっていけているのは、叩き上げ下士官の久藤が部隊の規律を司り、〆るべきところはしっかりと〆ているから。頼りになる男である。

 鱶姥は海岸線まで険しい山岳地帯が連なっているため、殆どの民家は海沿いに建っている。主な産業は漁業と林業。漁師が七で樵夫が三。山の中腹から見た海岸線は鋸の刃のようにギザギザとしていた。村長曰く、元々山だった土地が水没してあのような地形になったのだそうだ(おぼだにと云うらし)。若狭出身の久藤は故郷を思い出すと云っていた。

 梵寂寺に戻り、恒川村長と隊員宿舎借り受けの協議。近隣民家に隊員を三名ずつ振り分ける。通信機器は梵寂寺の講堂に置き、ここを鱶姥基地とする(おれは庫裏の一室を借りる)。

 今のところ鱶姥で空襲は無し。敵機来襲も現時点では皆無。外洋での訓練も可能? 訓練中に一ヶの爆弾でも、否、一発の機銃掃射でも喰らえばたちまち大爆発なので慎重に検討する必要あり。

 夕刻、戸田整備長より報告。計画では四十ノット、遅くとも三十五ノットは必要なところ、手元の震洋全て二十ノットすら出るか怪しいと云う。遅い遅い。しかし、出来るだけやるしか仕方がないので至急の調整を命令。

 明日から本格的に海上訓練の予定。

 

七月二十六日 晴

 午前、座学と体操。午後、海上訓練。

 座学と云っても精神訓話は昨日したので、定番だが楠木正成について話した(我ながら講談のようであった)。存外評判も悪くない。史学徒の端くれとして、この類いならどれだけでも話していられるからひと安心。

 特に搭乗員たちはさくらの訣別に至極昂奮していた。彼らは土浦つちうらの航空隊で水上特攻を志願した予科練出身の少年飛行兵で、皆、十六、七の腕白盛りである。そんな子どもが、華々しく死んでやるぞと意気込んでいる姿は、どうにも矢張り心苦しいものがある。

 特攻隊長として、冷血にならねばと思う。冷静ではいけない。冷血に、冷酷にならなければならないと思う。

 

 なんじをここより帰さんは 我がわたくしの為ならず

 おのれの討死なさんには 世は米英のままならん

 早く生い立ち大君おおきみに つかえまつれよ国のため

 

 ひるののち鱶姥で初の海上訓練。久藤上等兵曹と相談して、一先ずここの海に慣れるため、沖合三キロにある無人島(村人たちはいわしまと呼んでいる)を速度全開で一周させることにした。これに慣れたら、今度は離島を敵艦に見立てて突撃する訓練内容に変更の予定。

 鱶姥の外洋は宮戸に比べて格段に浪も穏やか。おれも一時間ばかり舟艇を走らせてみたが、横波に圧されることも少ない。日本海は荒れた灰色の海というイメージだったけれど、存外そうでもないのかも知れない。

 余談。夕刻、梵寂寺の境内を散歩中にすっかり風化した石碑を見つけた。雨風に磨かれて判読は困難。かつて実証史学に身を捧げた者として心惹かれるものがある。今度善海ぜんかい和尚に訊いてみよう。

 

 折角なので、我が棺桶となるであろう「震洋」についても書いておこうと思う(とかく後世に向けて記録を残したがるのは史学徒の常である)。

 要は水上特攻艇である。薄手のベニヤ板を釘や螺子ねじで組み合わせた、長さ六・五メートル、幅二メートル弱の木製高速ボートで、その艦首には二五〇キロの炸薬が詰め込まれている。誰の発案か全体が緑色に塗られているため、陰では「アマガエル」と呼ばれているとかいないとか。おれたちはそんな巨大な蛙に乗り込み、夜闇に身を隠しつつ敵艦へ突っ込むのだ。

 爆撃機から投下する艦船攻撃用の爆弾も同じく二五〇キロ程度の重量だが、こちらは爆弾の外装が一九〇キロであり、内部の火薬は六〇キロしかない。従って震洋による特攻は、通常の爆弾四発が命中したのと同じ効果を上げることが出来る。

 無論そんな簡単な話ではない。当然敵サンも近寄らせまいと機銃掃射で攻撃してくる。一発でも当たったらお終いなので、十艇同時に猛進して、一艇でも銃撃を掻い潜ることが出来れば万々歳といったところか。一〇〇メートルまで接近出来たのならば、針路を保ったまま舵を固定した上で海中に避難しても良いことにはなっているものの、そんなことが実際に出来る訳もない。従って、結局おれたちはこの木っ端舟と運命を共にしなければならないのだ。

 生憎と、おれは未だ実戦に臨んだことがない。やらねばならないことは前提として、しかし本当に特攻出来るのか甚だ懐疑的である。この水上特攻艇がいつ頃から運用開始されているのかは知らないが、南方や沖縄方面ではそこそこの成果を上げていると説明を受けた。ただ、真逆敵サンも初めの内はモーターボートで突っ込んでくるとは思うまい。不意討ちがゆえの戦果だとしたら、虚しい限りだ。こんな話は絶対に部下には出来ないけれど。

 

七月二十七日 晴

 午前座学と体操。午後、海上訓練。

 訓練からの帰路、大勢の児童の列を擦れ違う。聞けば、盛岡からの疎開学童五十名とのこと。当初はこの梵寂寺を臨時の学校とする予定だったらしいが、ひと足先におれたちが入ってしまったので、今は空き家となっている、岩ノ島を正面に望む東の浜辺(いそはまというらしい)に近い西地区の旧温泉旅館を宿舎兼学校として使うらし。

 夕刻、恒川村長がラジオを持って来て呉れる。深謝。

 「特攻隊が配備されたということは、ここにも敵が攻めて来るのか」と遠回しに訊かれる。咄嗟の回答に窮す。それはおれも教えて欲しい。

 宮戸にて鱶姥赴任を命じられ、それが青森県の日本海側にある漁村だと分かった時は驚いた。

 震洋とは、接近した敵艦船に特攻するための水上艇である。いったいどこの敵が日本海側から攻めて来るのだ? 真逆アメリカの軍艦がそう海峡や津軽海峡を越えてここまでは来ないだろう。蒋介石の国民党軍や共産党軍? 若しくはソヴィエトが中立条約を破棄して太平洋艦隊で攻めて来る? そんな事態となれば、最早特攻でどうにか出来る話でもないと思うのだが。

 

七月二十八日 炎暑

 午前座学と体操。午後、海上訓練。

 急に暑くなったので、皆嬉々として海上訓練に臨む。気楽なものである。

 鱶姥着任以降、宮戸の時と比べても食糧事情も格段に良くなった。ここは流石に魚が旨い。麦飯も腹一杯食わせて貰える(若い搭乗員に対する同情が強い様子)。

 そう云えば、善海和尚から鱶姥の由来について教えて貰った。奇妙な地名だと思っていたが、中々興味深い由来だったので記録しておく(とかく後世に向けて記録を――以下略)。

 或る日、漁に出たまま帰って来ない漁夫がいた。老いた母は子の身を案じ、毎日岬に出て帰りを待っていたが、遂に戻らなかった。老母は嘆き悲しみ、海に身を投げた。その身は忽ちふかに転じて、今も大海原で子を捜している、のだとか。

 老いた母、即ち姥が鱶に転じたので鱶姥。筋は通っている。一種の変身譚だが、から佐用さよひめ伝説しかりえんしゆう七不思議のきようまるたんしかり、人間が人外に転ずる際、悲嘆がきっかけとなる物語が多いのは何故なのだろう。この辺りを調べてみたら面白い論文が書けそうだと思い、未練未練と考え直す。

 夜のラジオニュース、英国総選挙は予想に反して労働党の大勝。チャーチル退き、アトリー内閣成立。他にもスマトラあたりの独立気運を説いていた。世界はどんどん動いている。

 

(追記)

 二一一五、警戒警報。その後二二一〇、空襲警報発令。庭先に飛び出すと、真っ暗な東の空に微かな轟音を聞く。B二九だと直感。震洋が見つかる恐れはないが、それでも総員待機させる。大湊に打電するも返信なし。二十九日〇〇二二、空襲警報解除。隊員たちは宿舎に戻らせ、おれも仮眠を取る。

 

七月二十九日 炎暑

 夜明けと共に青森大空襲の一報入る。市街地は一面の焼け野原で、死傷者数千人との噂もあり。使用された焼夷弾は水を掛けても消えず、むしろ燃え広がったとか。新型爆弾?

 大湊警備府に伺いを出すが、引き続き鱶姥にて待機とのこと。

 夕刻ラジオニュース、鈴木貫太郎首相ポツダム宣言を黙殺。戦争完遂に邁進するのみと語る。

 

七月三十日 炎天

 同一訓練。青森の惨状、徐々に伝え聞く。悲惨のひと言。炎熱で道路のアスファルトが融け、遺体を片付ける際は引き剥がすようにしなければならなかったとか。

 また一方で、これは飽くまで噂だが、前日二十七日の深夜、数機のB二九が飛来して、近日中に爆撃を行うので避難するように告げるビラを大量に散布したらしい(無論、憲兵隊が徹底して回収)。更には、青森県知事より空襲時の消火活動を放棄して避難した住民は断固処罰する旨の通達が出されていたとのこと。それで市民たちは居残り、消火活動に身を奉じて――――嗚呼。死者は千人以上。これが戦争である。しかしながら暗澹たる思い。

 

七月三十一日 炎暑

 同一訓練。エンジン系統の調整を重ねても、矢張り最高速度三十二ノットが限界。戸田整備長もさじを投げる。仕方がない。やるしかないからやるしかない。明日から突撃訓練に切り替える予定。

 夕刻、海岸を歩いていると、基地隊員のおお瀬戸せと一等水兵が磯ヶ浜で熱心に何かをスケッチしていた。訊けば現地調査だと云う。

 大瀬戸は応召兵で、元は天草あまくさの海底炭鉱の主任技師を務めていた男だ。おれよりも余程歳上で今年四十の筈だが、どうも軍隊というところは階級が上だと歳も上のように感じるのか、久藤といいこの大瀬戸といい、おれを二十幾つの若造とは見なさない。どうも妙な感覚だ。

 閑話休題。そんな大瀬戸曰く、日本近海には圧縮されて固形になったメタンガスの鉱脈が大量に存在するのだそうだ。殊に寒冷な日本海北部では海底から放出したメタンガスも海水には溶けず、少量ずつだが気泡となって漏れ出ているのだとか(「風呂のなかで屁をこいたようなものです」と云っていた。成る程、分かり易い)。

 この鱶姥の外洋にもかなりの量の鉱脈が存在するのだと、大瀬戸はよくわからない計算式や海底の略図を示しながら説明していた。それは回収出来ないのか訊くと、金は掛かるが理論上は可能だと云う(金と云っても戦艦一隻程度らし)。

 メタンは可燃性のガスなので、燃料資源にも使い得るだろう。この戦争は、元を辿れば結局は石油が欲しくて始めた戦争だ。若し戦争でなくそちらにお金を廻していたら――止せ止せ、もの云えば唇寒し夏の海。

 二〇三〇、大湊警備府よりとままいの製紙工場が敵潜水艦の艦砲射撃を受けて損害を被ったとの報が入る。苫小牧は先日も空襲を受けている。敵は直ぐそこまで来ている。

 

八月一日 炎暑

 おれの歴史講話ばかりでは飽きるだろうと思い、座学の講師を善海和尚に依頼する。通常の法話で構わないのだが、難色を示される。仏の教えと特攻精神が相容れないため? 再三頼み込んで何とか了承を得る。

 夜、恒川村長が酒を持って来訪。見掛けないなと思っていたら、出張で青森まで行っていたらしい。今や鉄道は完全に途絶。運良く動いたとしても、警戒警報発令の如何に拘わらず無灯火運転ゆえに牛車よりも遅いスピードで、あれならば歩いた方が速いと云っていた。

 和尚、村長と食卓を囲むなか、ふと思い出して例の石碑について訊く。これもまた興味深い内容だったのでここに記しておく(とかく後世――以下略)。

 江戸時代中期(浅間山が噴火した頃とのことなので、天明三年か四年と思われる)、この沖合を震源とする大地震が起こり、鱶姥には十メートルを越す大津波が押し寄せた。鱶姥の村落は港湾の奥に位置するため、湾内に入った津波は更に高さを増した。山手に逃げようにも間に合わず、村人たちが諦めた矢先、偶々たまたま村を訪れていた行脚の僧侶が、今にも津波が迫らんとする岬の先端に立ち一心に念仏を唱え始めた。刹那、辺り一面に強い光が充ち、轟音と共に津波が消えた。村人たちは奇蹟だと驚き岬へ急いだが、気力・法力を使い果たしたのか、僧侶は両目が潰れており、間もなく大量の血を吐いて死んでしまった。村人たちは梵寂寺にてその亡骸をねんごろに葬った――云々うんぬん

 くだんの石碑は某というその僧侶をまつったものらしい。修験者による調伏譚は各地に多く残っているが、津波を消すというのは初めて聞いた。中々なかなか面白い。

 

八月二日 晴

 訓練中に震洋一艇が沖合の岩礁にぶつかり破損。エンジン系統から出火。直ぐに鶴嘴つるはしで船底に穴をうがって自沈させる。万が一船首の炸薬にでも引火したら大惨事だった。

 事故の処理後、搭乗していたおおがき二等飛行曹、うら二等飛行曹が、貴重な一艇を失くした責任を取って自決すると騒ぎ出す。久藤上等兵曹と共に宿舎代わりの民家に急いで慰留する。未だ子どもなのだ。二人とも顔を真っ赤にして泣いていた(隊長は甘すぎると久藤には苦言を呈された)。

 大湊警備府に事故の報告と震洋の追加を要請したが、勝手に艇を沈めるなど本来なら軍法会議ものと叱責される。

 

八月三日 晴

 大湊警備府より、入舟少佐という特攻参謀が来村する旨の報が入る。鱶姥での特攻作戦遂行に際しての実地確認だそうだ。おれたちが着任して既に一週間以上経過しており、今更かと思わないこともない。

 通信要員のうち水兵長曰く、この参謀は元々つくの航空隊で腕利きのパイロットだったが、統率とうそつどうであると上官からの特攻命令に反抗し、大湊警備府の閑職に左遷された将校サマらしい。

 生還を期せぬ特攻が決して望ましい戦術でないことに異論はないが、それを明言することは、日々訓練を積む我々にとって侮辱である。部隊の士気を下げるような人物ならば、仮令たとえ上官といえども断固抗議をせねばならない。果たしてどうなるか。ああ胃が痛い。

 

八月四日 炎暑

 午前午後と同一訓練。

 夕刻、入舟参謀到着。昨日の逸話?から、痩せて蒼白い神経質な小男を想像していたのだが、あにはからんや、こわい口鬚を生やした見上げる程の大男だった。しかも、驚いたことに馬に乗ってのご登場である。鉄道を乗り継ぎ、途中のあじさわからは駄馬を借り受けたのだと笑っていた。

 既に日も暮れかかっていたため、現地説明は明日に廻し、恒川村長、善海和尚と共に梵寂寺の斎堂で少佐を持て成す。見かけに違わず大食漢。良く喰い良く飲むお方なり。

 入舟と聞いて、おれは先ず、天正年間に堺政所さかいのまんどころを務めた入舟清成きよなりという秀吉ひでよし麾下きかの武将を思い出した(論文の為によく調べた一人なのだ)。何気なくその名を口にすると、少佐はおれの先祖だと云う。驚愕。入舟家は平安時代から続く家柄らしく、遣唐使船に乗っていた者もいるとかいないとか。

 その後はどういう訳か、少佐の要望で怪談・奇談を語る会になった。善海和尚は津波を消した件の僧侶の話を、おれはその類いにとんと疎いため、先達て大瀬戸から聞いたメタンガス田の話をする。

 恒川村長は海坊主を見たという話。二十年近く前、当時は未だ一介の漁夫だった村長が夜漁に出た際、遥か沖合で異様な物体を見た。皓々こうこうとした月明かりの下、十メートル近い黒く巨大な球体(村長曰く、海面からにゅうっと突き出たつるつるの坊主頭)が音も無く漁船に近付いて来た。慌てて逃げ帰ったが、あの時ほど恐ろしい思いをしたことはないと云う。

 頭部だけで十メートルということは、人間大ならば全長は九十メートル近くになる。そんな巨人が夜の海から顔だけを覗かせているのは確かに不気味である。

 すると少佐はひと言、鯨の屍骸だろうと云った。何のことかと思ったが、後に続く少佐の説明で漸く理解した。即ち、鯨の屍骸が漂流する裡に腐敗が進み、発生したガスによって徐々に膨らみ始める(そうで云うところのちようそう)。そして、これ以上ないほどぱんぱんに膨らんだ屍骸は丁度ゴム鞠のような形状であり、視界の悪い夜の海では、あたかもそれが海中から現れる巨大な頭のように見えるのだ。

 成る程と思わず膝を打った。名推理である。村長と和尚もすっかり感心していたが、当の本人は、興を削いだと自省されていた。何とも変わった御方である。

 

八月五日 炎暑

 早朝より入舟少佐に鱶姥を案内。午前は戸田整備長を伴って、残存する震洋十四艇の現状を説明。あまりの貧相さに少佐も絶句。新たな機体の融通を上に掛け合って下さることになった。

 午後、基地で昼餉を済ませ、作戦の確認のため、入り江が見渡せる山の中腹へ向かう。道中、前から気に掛かっていた「日本海側に配置された我が部隊は何を敵と想定すればよいのか」を思い切って尋ねてみる。少佐曰く、やはりウラジオストックの太平洋艦隊とのこと。ソヴィエトは四月に中立条約の破棄を通告しており、いつ宣戦布告が為されるか分からない状態である。軍令部としても万が一に備える必要があり、そのための対抗手段がおれたち第一四七震洋隊なのだそうだ。今度はこちらが絶句。装備の貧弱さや人員不足以前に、ウラジオの敵を叩くのならば、せめて朝鮮か満洲の港に配備すべきではないのか。そんなおれの疑問に、少佐は溜息を吐いてひと言、「最早そんな遠方にまで震洋を運ぶだけの余力が今の海軍には無いのだ」。瞑目。

 ウラジオから出撃するソ軍艦隊は先ず宗谷海峡と津軽海峡を封鎖しようと目論むであろうから、そこにおれたちが突っ込むことになる。十四艇しかない以上、仮令たとえ深夜の出撃だとしても戦果は殆ど見込めない。それは少佐も理解しているのか、深く言及はしなかった。

 帰路も少佐と雑談を交わす。内子水兵長から聞いた噂話が脳裏を過り、参謀は特攻作戦に反対なのですかと遠回しに訊いてみた。統率の外道であると即答。おれは咄嗟に反論しようとしたが、それよりも早く、少佐はこう続けた。「しかしながら、十分な訓練を受けられず、また肝心の飛行機も不良な機体が多いなかで、通常の攻撃をさせても敵の餌食になるだけだ。それならば、体当たりでもさせて大きな戦果を挙げさせた方が、当人にとってどれだけ良いか分からない。何も知らぬ輩は云うだろう、今更敵艦一隻を沈めたところで何になると。しかし、今や日本国民は、連日敵機の襲撃に脅かされている。老いも若きも、空襲によって、その尊い命が無数に失われている。殊に、子どもを失くすことは、無限の可能性を失うに等しい。それを食い止めるには、敵の飛行機基地である航空母艦を沈める以外に道はない。この戦争がどのような形で終わるのかは誰にも分からん。しかし、それまで私は、誰に何と云われようと特攻を止めるつもりはない」

 予想外の回答に、思わず、特攻指令に抗命されたのではないですかと問い返す。少佐は笑って事情を説明してくれた――少佐の率いる部隊に特攻の命が下るものの、支給された機体は古びた練習機だけだった。旧式ゆえに足も遅く、これではどれだけ腕利きのパイロットでも、敵艦に近付く以前に撃墜されてしまうことが容易に想像出来た。未だ基地の戦闘機には余裕があったため、せめてそちらを使わせて呉れ、それさえ叶えばきっと敵空母を撃沈してみせると、少佐は司令部の参謀たちに具申した。しかし、一顧だにされなかった。それどころか、貴重な戦闘機をそう軽々しく使えるかと吐き棄てられ、少佐は激怒した。「無論戦死を拒むものではないが、特攻に出る訳でもない連中のその態度は、到底許せるものではなかった。気が付いた時には拳銃を引き抜いて、床に三発ばかりブチ込み、『だったらてめえらがこれに乗って飛んでみろ。俺ァ一機でてめえら全員を相手してやる。一人でも俺から逃げられたら、その時ァ文句云わずにこれで飛んでやる』と啖呵を切っていた。その結果、いまこうして貴様の目の前に立っているという訳だ」

 流石におれも笑うしかなかった。明日は海上訓練の視察の予定。

 

八月六日 薄曇り

 海上訓練中に重大事故発生。順を追って説明する。

 先ず入舟少佐の訓話あり、その後全搭乗員での海上訓練。震洋十四艇全て出し、二艇ずつで岩ノ島の周回と敵艦に見立てての突撃とジグザグ航行。

 一一〇〇頃より風が出始め波濤も強くなる(ここで中止しておけば!)。一一二五、ジグザグ航行中の一艇が波に押され、岩礁に横から衝突、直後大爆発。訓練なので信管は抜いていたが、恐らくエンジンが破損し炎上、そして船首の炸薬に引火したのだと思われる。更には後続の一艇も爆破に巻き込まれて誘爆。前方に搭乗していた今治いまばり一等飛行曹と津野つの二等飛行曹、後方に搭乗していたいそ一等飛行曹に、藤代ふじしろ二等飛行曹は即死。他、近くに待機中だった三輪みわ一等飛行曹、太田垣二等飛行曹、浦二等飛行曹も爆破の衝撃で海中に落下。三輪は顔面を、浦は左肘から先を、飛散した機体の破片で切断し重傷。

 隊員を動員して怪我人の収容と被害状況の確認。事故発生現場は沖合一キロ強。二艇同時爆破の威力は凄まじく、海に面した家屋では一部が倒壊した建屋もあった由。おれと少佐も東の海岸線から訓練を確認していたが、一メートル近く吹き飛ばされるほどの風圧だった。村人や疎開学童など人的被害が無かったことだけが不幸中の幸いか。

 少佐と共に村落の損害を見て廻っていると、久藤上等兵曹が駆け付け、磯ヶ浜でまり上等飛行曹の屍体が見つかったとの報告を受ける。鞠子は搭乗員のなかでも一、二を争うヴェテランで、搭乗員たちの運転の癖を明確にするため、陸上からの記録を命じていた。

 慌てて駆けつけると、鞠子は磯ヶ浜の西方にある釣り小屋の手前で、仰向けに倒れて既に絶命していた。驚いたことに、屍体の左胸には大きな銃創が見られた。鞠子は真正面から心臓を撃ち抜かれていたのだ。そして遺体の右側には、鞠子がいつも腰に提げていた十四年式拳銃が砂に塗れて転がっていた。

 殺されたのだと思った。しかし誰が? 何の目的で鞠子を? 激しく混乱するおれの傍らで、少佐は砂上の拳銃を取り上げて後方の釣り小屋に向かった。

 おれは急いでその後を追い、憲兵隊への通報を訴えた。少佐はその必要はないと応え、手元の拳銃を素早く解体して見せた。

 鞠子の拳銃は、弾倉に八発、薬室に一発の銃弾が装填されていた。即ち、一発も発射されていないことになる。では鞠子は何で撃たれたのか。戸惑うおれに、少佐は釣り小屋の一角を指で示した。

 胸の高さほどの壁面に赤黒い染みがあり、何かが埋まっていた。拳銃の部品を使って少佐が器用にほじくり出したそれは、赤く汚れた小指大の螺子ねじだった。

 思いつくと同時にあっと叫んでいた。少佐は頷き、不幸な事故だったと呟いた。

 

 沖合約三キロで相次いで爆発した二艇の震洋。爆破の威力は凄まじく、飛び散った機体の破片は、斧のように浦の左腕を切り落としたほどだった。

 四散した部品のなかに、ベニヤ板を留める螺子があった。爆発によって吹き飛ばされたその螺子は一直線に磯ヶ浜まで飛来したそしてその射出線上には不幸にも同地で海上訓練を記録中だった鞠子上等飛行曹が立っていた。銃弾が如きスピードで飛来したそれは難なく鞠子の左胸を貫通し、背後の釣り小屋の壁面に食い込んだ。心臓を撃ち抜かれた鞠子は即死、転倒した際の衝撃で腰のベルトから拳銃が外れたのである。

 

 夕刻、三輪と浦は遂に助からず。鞠子上等飛行曹以下、搭乗員七名の葬儀を梵寂寺にて執り行う。遺体は棺桶に納め、磯ヶ浜で火葬。

 夜、少佐に進退伺を提出する。一先ず預かるとだけ返答あり。

 

 皆死んでしまった。俺が死なせてしまった。

 風が強くなった時点で訓練は中止すべきだった。分かっているのだ。実際に出撃となった際、波が高ければ取り止めとなるのか? 風が強ければ中止となるのか? そんなことはない。だからあれは已むを得ないことだった。

 それでも、七人は出撃も叶わずに死んでしまった。飛行機乗りに志願して、しかしそれは叶わず、水上特攻部隊に廻された少年兵だった。醜い「雨蛙」の姿にぶうぶう文句を云いながら、それでも隊長隊長と慕って呉れた可愛い奴らだった。

 十六、七の彼らは、きっと本当の意味で死というものを理解などしていなかっただろう。いや、むしろ十分すぎるほど理解していて、その上であれだけ飄々ひようひようとしていたのか。

 おれを含む特攻隊員は、誰ひとりとして自分が敵艦に突っ込むことで戦局を挽回できるなどとは思っていない。ただ、昨日の入舟少佐の話ではないが、自分が死ぬことで他の日本人(それは不思議と自分の親兄弟、親族、友人に限らない)が幾らかでもいいようになるのなら、以て瞑すべしだと考えている。自暴自棄になっている訳でも、甘ったるいヒロイズムに酔っている訳でもない。ただ漠然と、ぼんやりとそう思っているのだ。

 だからこそ、鞠子、今治、津野、大磯辺、藤代、三輪、浦には特攻をさせてやりたかった。その機会を奪ってしまったことが口惜しく、何とも申し訳ないのだ。

 

八月七日 晴

 結局昨夜は一睡も出来ず。全身の筋肉が泥のような感覚だが、頭だけは冴えている。

 寝不足の頭を抱え、新しい編制について基地で少佐と協議。しかし、艇数不足は如何ともならず。少佐は一度大湊に戻り、使える震洋をこちらに廻すよう手筈を整えるとのこと。粛々と承る。

 往路同様、先ずは借り受けた馬で鰺ヶ沢まで出ると云う。出立に向けて馬に水を飲ませていると、少佐はこんな雑談を始めた(いま思えば、余程おれが酷い顔をしていたのだろう)。

 善海和尚が語った例の伝承である。昨日の一件を経て、津波が消えた理由が漸く分かったのだと云う。

 貴様はどうだと水を向けられたが、無論何も思い浮かびはしない。

 謎を解く鍵は海底のメタンガス田だと少佐は云った。困惑しながらも考えを巡らせていると、不意に四つの単語が一直線に並んだ。地震、津波、メタンガス田、それに爆発。津波が起きたのは、鱶姥の沖合を震源とする大地震によってである。その地震に伴う地殻変動で、海底のメタンガス田からは蓄積されていた大量のメタンガスが放出される。大瀬戸が云っていた通り、「風呂のなかで屁をこいた」が如く、海中には可燃性ガスからなる無数の気泡が湧き続ける

 一方、津波の内部には、海底から巻き上げられた様々な固形物が含まれている。それらが高速でぶつかりこすれあった結果、静電気放電から火花が発生する。同じく海中に充ちた可燃性ガスの気泡の一つにでも引火すれば、後は昨日の事故のように、立て続けに誘爆していくことだろう。幾つもの爆破が連なって、やがて津波そのものが大爆発を遂げて消散したのだ

 その証拠に、岬の先端にて念仏を唱え続けていた僧侶は両目が潰れ、大量吐血の末に死亡した。これは、津波そのものが消滅するほどの爆発の衝撃波を至近距離で受けたからではないのか

 おれがそんな仮説を述べると、少佐は苦笑していた。謎を提示することでそちらに気を向けさせておくつもりだったらしい。そんなに早く解かれては意味がないと肩を竦めていた。

 

 夕刻、入舟少佐出立。部隊員全員で見送る。

 夜、ラジオニュース。沖縄の敵艦隊に我が帝国海軍の巨艦先頭に体当たり攻撃を敢行、司令官とう整一せいいち中将は大将に昇進したとの発表あり。

 

八月八日 晴 午後少雨

 海上訓練は中止して、体操と遠泳の訓練ばかり。久しぶりの雨だった。

 朝方より六日の広島空襲に関する大本営発表あり。敵は数機飛来し「新型爆弾」なる物を投下した由。あの大本営が「相当の被害あり」「威力侮るべからざるものあり」と云うのだから余程のことなのだろう。しかしながら、正午のニュースでは一切触れず。

 夜、陸相談話に併せて、広島では陸軍大佐のグウ殿下が戦死した旨の報道あり。どうも只事ではないようだ。他にも新型爆弾に対する注意喚起多数。曰く、一機だけでも必ず防空壕に入ること、高熱を発するため肌を露出させないこと等々。

 恒川村長が新型爆弾に就いて知っていることはないかと訪ねて来たが、何も知らぬためお引き取りを願う。

 

八月九日 雨

 早朝、大湊の入舟少佐より第一警戒配備の緊急電が入る。八日深夜、遂にソヴィエトより対日宣戦布告あり。既に満洲では侵攻が開始されているらし。太平洋艦隊の動きは不明だが、いつでも出撃できるように待機せよとの命令。

 総員集合させ、外していた信管を全震洋艇に挿入する。ソ軍参戦を聞き知った疎開学童の引率教師たちが、相次いで基地を来訪。自分たちはどうすればよいのかと云い募るので、真っ先に鱶姥を攻めて来ることは先ず考えられないので落ち着くようなだめる。しかしながら、俺たちの存在、即ちここに特攻隊の基地があると知れたら、艦砲射撃の標的ぐらいにはなるかも知れない。そうなったら、大きな被害が出る前に討って出る他になし。

 午後のラジオニュースにて、長崎にまた「新型爆弾」が投下された旨の発表あり。「詳細目下調査中なるも被害は比較的軽少なる見込み」とのことだが、広島と同型の爆弾だとすれば、被害は甚大な筈だ。また、満洲ではしんきよう、ジャムス、吉林きつりんなどが爆撃を受け、まんしゆうこんしゆんの両方面からソ軍の侵攻を受けているらし。

 一九〇〇、再度大湊より入電。信管は装備したまま即時待機とのこと。搭乗員、基地隊員、整備隊員を半分に分け、順番に仮眠を取らせる。この緊張状態をいつまで保てるか心配である。

 

八月十日 晴

 明け方、おれも仮眠を取る。大湊よりの続報なし。少し余裕が出来たため、磯ヶ浜に出て外洋の監視を続ける。

 ソヴィエト参戦となっても、村人たちには思ったほどの動揺なし。真珠湾攻撃時のような昂奮は無論なく、「遂に来ましたね」という、苦笑とも違う、諦めのような鈍い微笑を浮かべるばかり。

 正午を過ぎても大湊より続報なし。流石に可怪しいと思い、一三〇〇、命令を請うためこちらから通信。しかし繋がらず。

 夕刻、基地を訪れた村長より、昨夜から今朝方未明にかけて大湊が空襲に遭った事実を教え受ける。大湊の親族から連絡があったのだと云う。湾内の艦艇はことごとくが大破し、海軍基地も壊滅の由。愕然となる。左様な状況では俺たちのことなど構っては貰えないだろう。信管装備のまま即時待機を続けるしかない。

 夜半、ラジオの戦況発表。遂に樺太からふとでもソ軍の侵攻が始まった旨の発表。

 

八月十一日 曇

 午前、入舟少佐より入電。警備府は壊滅状態。ソ軍艦隊が攻めて来ても戦える術はなしとのこと。信管装備のまま即時待機している旨を報告すると、一先ずそれで良しとの回答。ただし新しい震洋は用意出来なかったと謝罪を受ける。却って恐縮する。近日中再度鱶姥を訪れるとのこと。

 戸田整備長に全艇の性能検査を命ず。

 

八月十二日 晴

 搭乗員たちも限界に近い。緊張の継続にも限度がある。万が一出撃命令が出されてそれが取り止めとなったら発狂してもおかしくない。

 午後のラジオニュース、ソ軍は海拉爾ハイラルこくを包囲し北鮮に侵攻を開始。満洲の邦人は無事だろうか。無敵を誇る関東軍は何をしているのか。

 

八月十三日 晴

 海は凪いでいる。

 

八月十四日 晴

 午前、入舟少佐より明日鱶姥を訪れる旨の連絡あり。併せて、即時待機の解除を命ぜられる。信管も外せとのこと。思わず訳を問うが明瞭な回答は得られず(こちらから上官を問い質すなどとんでもないことだ)。一度緩めた気持ちを再度特攻に持っていくのは困難であると力説したが、聞き入れては貰えなかった。

 已むを得ず、命令通り信管を外し、搭乗員たちに十分な休息を取るよう命じる。不服の声少なからずあり。久藤上等兵曹の一喝で何とか収まる。

 基地に戻ると恒川村長の訪問を受け、明日の正午に重大発表ありとの噂を伝え聞く。ソ軍への宣戦布告か? 夜のラジオニュースでも同じ報道あり。

 

八月十五日 炎暑

 正午、陛下の御放送。ポツダム宣言受託の由。戦争が終わった。

 

(以下、十六日追記)

 何も出来ず、する気力もなく、ただ横になっていた。搭乗員たちが暴発しないか心配だったが、皆おれと同じように全く虚脱している様子。暑い。本当にだるような暑さだ。

 昨日のことを書く。

 朝のラジオニュースにて、正午の重大発表は陛下御自ら御放送遊ばさる旨発表あり。正直に云えば、この時点で俺の脳裏には「降伏」のふた文字が浮かんでいた。そんな訳がないと嗤いつつ、しかし一方では、確信に近い思いも確かに胸中には存在した。問題は、その上に「無条件」の三文字が付くか否かだった。隊員たちには一一三〇に梵寂寺に集まるよう下命。

 一〇四三、入舟少佐到着。今度はオートバイ。大湊から夜通し駆けて来たらし。空襲時に割れた窓硝子の欠片で切ったと、左目に大きな眼帯。正午の御放送に就いて遠回しに尋ねるも矢張り明瞭な答えは得られず。

 震洋を確認したいと云うので、格納庫へ案内する。全艇確認ののち、再び基地へ戻る。鱶姥の村落でも正午の重大発表に関する噂で持ち切りの様子。

 一一三〇、全隊員集合。ラジオを縁側に出す。誰も何も口にしない。暑い。立っているだけで汗が滴り落ちるような炎暑。

 ラジオから正午の時報、その後、妙に間延びした君が代。ざあざあというレコードの針の音が真っ先に聞こえて、おれは、それが生の放送で無いことを知った。

 酷い雑音の向こうに「ヒジョウノソチヲモッテジキョクヲシュウシュウセム」と聞こえた瞬間、おれは、遂に日本が敗けたことを理解した。その後に続いた「ソノキョウドウセンゲンヲジュタクスルムネツウコクセシメタリ」という文言が、それを確かなものにした。

 指先から冷たい物がせり上がって来るのが分かった。抑揚の少ない御放送はその後も続いていたが、もう殆ど聞き取ることは出来なかった。唯一耳が拾えたのは「オモウニコンゴテイコクノウクベキクナンハ」という一節だけだった。

 今後――そのたった二文字に、おれは横面を張られたような気持ちになった。戦争に敗れても、紀元二千六百年を誇るこの国が敗けてもなお明日が来るという事実が、おれには信じられなかった。

 御放送が終わり再び君が代が流れても、誰も動こうとはしなかった。若い搭乗員たちも、壮年の基地隊員や整備隊員たちも、皆、俯いたまま、地面に突き刺さった棒のように微動だにしなかった。彼らは敗戦の事実に衝撃を受けているというより、むしろあまりにも巨大なその事実の前に、どう振る舞ったらよいのか戸惑っているような感じだった。

 放送員による解説らしきものが始まって、漸く入舟少佐が動いた。

「只今の放送にもあった通り、天皇陛下におかせられてはポツダム宣言受託を御決意になり、本日、詔書を渙発かんぱつなされた。この戦争は宣戦の詔勅によって始まった訳であるから、今日こんにち、終戦の詔勅が下された以上、我々はそれに従わなければならない。断じていち個人の軽々しい感情で以て行動してはならない……」

 少佐はその後も絞り出すような声で訓話を続けていたが、皆の、少なくともおれの耳にはもう届いていなかった。

 戦争が終わった。頭ではそう理解しているのに、心が追いついていない感覚だった。呆気に取られているというのが、感情としては一番近いのかも知れない。

 生きていられるという喜びはなかった。怒りも、哀しみも、虚しさも無い。とにかく全身が怠く、まるで背骨が引き抜かれてしまったように、立っていることさえも億劫だった。だが、隊長たるおれがそんなことでは駄目だという義務感だけで、必死に足を踏ん張っていた。

 解散し隊員たちは各宿舎にて待機するよう命じた後、少佐は改めておれに、震洋を処分するため鱶姥を訪れたのだと説明した。近日中にこの青森にもアメリカないしソヴィエトの軍隊が上陸し、武装解除等が始まる。軍国精神の結晶のような特攻兵器が敵の目にどう映るか分からない以上、先んじて処分しておくことが帝国海軍の方針と相成ったらしい(何とも情けない話だ)。

 一五〇〇のラジオでなみ陸相の割腹を報じる。遺書に曰く「一死を以て大罪を謝し奉る」。

 基地にて恒川村長、久藤上等兵曹、戸田整備長を交え、夜更まで震洋の処分に就いて打ち合わせる。残存する震洋は十二艇。信管を抜き全て沖合に沈めるのが安全だと思われたが、大湊警備府の意向は全て跡形も無く爆破せよとのこと。結局信管はそのままに、岩ノ島の天然洞窟に格納し、遠方からの砲撃で爆破させることにする。十二艇同時の爆発ともなればその規模はかなりの物となるので、村民全員を避難させて明日決行。

 茶漬けで遅い夕餉を摂り就寝。寝床に入る前、梵寂寺の庭から夜の鱶姥を望む。肚の底に響くような潮騒は何も変わらない。大日本帝国が敗れても、海は変わらない。星の輝きも変わらない。

 打ち合わせに入る前、昨日までは空襲に対する灯火管制で真っ暗だった村落に、点々と灯りが点いているのを見た入舟少佐が、「本当にこの国は敗けたんだな」と呟いていた。それが酷く印象的だった。

 

 床に就いてからも全く寝付けなかった。目を閉じても、開けても、目の前には果てしない暗闇だけが広がっていた。そのなかを、鞠子、今治、津野、大磯辺、藤代、三輪、浦の顔が無限に過っていく。

 戦争に敗けた悔しさはない。立派に死ねなかったという口惜しさも、あまり感じてはいない。

 ただ、おれは生き残った。生き残ってしまった。

 切ない。虚しい。

 錆びた釘のように俺の胸をさいなむこの苦悩は、ひとえに、あいつらを無駄に死なせてしまったという点に尽きる。

 許して呉れとは云わない。ただ、待っていて欲しい。おれはお前たちを忘れない。あの人懐こい、悪戯っぽい顔を決して忘れない。

 

八月十六日 晴

 午前ラジオニュース、東久邇宮ひがしくにのみや稔彦なるひこ殿下に大命下る。

 ピストン輸送の方式で震洋を岩ノ島へ運ぶ。残った一艇は、漁船を一艘借り受けて午後に。

 

(つづく)