5
翌朝の十時、玄関先で対面した「謎解き業者」の男を見て、賢一は唖然とした。
彼は、直接貝瀬宅にやってきた。賢一は外の店で会うことを提案したのだが、相手が「できれば現場のほうが状況を掴みやすいので」と言ってきたのである。果たして、貝瀬宅のチャイムを鳴らして現れたのは、学生街でも歩いていそうな若者だった。
「竹花尋と申します! 今回はご用命いただきありがとうございます」
にこにこと笑うその顔は、高校生にも見えるような童顔である。二重瞼の目はぱっちりしていて、美容にも気を遣っているのか、頬はつるりと滑らかだ。後ろ髪は肩までかかる長さで、なぜか上半分だけを結んでいる。
もっとも顔立ちは本人の責任ではないし、自由業者なら髪型は自由だ。しかし、顔から下の身なりは賢一にはいただけないものだった。上はTシャツで、下はやたらぶかぶかなうえ、ところどころ穴の開いたデニムパンツ。しかもシャツの柄がふざけている。USAと大文字で書かれているのだが、モチーフはアメリカ合衆国ではない。そのアルファベットは、うさぎのシルエットの上に印刷されているのだ。
「朝から押しかけちゃってすみません。お母さまもご在宅ですかー?」
「いや、今は出ていますね」
偶然だが、つい先ほど〈ベーカリー井田〉に出かけたばかりである。信頼できそうな相手なら母にも引き合わせるつもりだったが、もはや母がなるべく遅く戻ることを願いたい気分だった。
やむなく招じ入れると、竹花は意気揚々と上がり込んできた。何が入っているのか知らないが、バックパッカーめいた巨大なリュックを抱えている。靴はくたびれたスニーカー。ここまで徹底的にラフだと、常識がなっていないと叱る気すら失せる。自分のほうが、TPOを見誤ってこの若者を呼んでしまったのだろう。
とりあえずリビングダイニングに通して座らせる。「インスタントですまないけれど」と言ってコーヒーを出すと、竹花は笑顔で「いただきます!」と応じた。気のいい人間ではあるようだ。
「竹花さんは、ずいぶんお若いようですね。失礼ですが、大学を出られてどれくらいになりますか」
「おれ大学出てないんですよー。やりたい学問、とくになかったんで。高校卒業してから、ずっとフリーランスです」
年齢を知りたくて遠回しに尋ねたつもりが、より礼を失した質問になってしまった。賢一は平謝りしたが、竹花にはまったく気にした様子がない。
「それはさておき、お母さま、詐欺に遭ってしまったってことでしたよね。つらいですよね。おれで力になれることなら、どんとこいです。さっそくお話伺ってもいいですか?」
自分も粗相をしたとはいえ、賢一は相手の一人称が気になって仕方なかった。社会人であれば一人称は「私」、最低でも「僕」か「自分」にすべきではあるまいか。こういう者は、仕事の出来も知れている――などと考えてしまう。
とはいえ、いざ賢一が話し始めると、竹花はかなりの聞き上手であった。事件の概要を賢一にすべて語らせた後、雑談めいたテンションで掘り下げが始まる。「警察から最初に電話が来たときは、恐ろしかったでしょうね」という言葉に始まり、賢一の心情を引き出してきた。警察署での会話の細かい部分や、昨夜帰宅したときの様子も語らされて、気づけば、一昨日の夜以降起きたことを、賢一がまったく意味はないと思っているやりとりまで含めて、ほとんど喋り尽くしていた。
人間はなんだかんだ、自分に好奇心を向けられると嬉しいものである。この竹花という青年は興味津々で相手の話に乗っかるのが上手いようで、なるほどコンパニオンとしては優秀なのかもしれない。そんなふうに冷静に分析しつつ、賢一も気分が上向いてきたのは否定できなかった。
一方で、表情豊かに耳を傾けていた竹花は、話が終わった途端に真面目な表情になって黙り込んだ。無理もないな、と賢一はほとんど同情すら覚える。第三者がこんな話から真相に辿り着けるとは思えない。穐山のカフェで事件のトリックを解いたというのは、たまたま推理小説かなにかで同じネタに接していただけではないのか、と意地悪な推測すらしてしまう。
「どうですか、竹花さん」柔らかい口調を心掛けて言った。「事件そのものは組織的犯罪ですから、もちろん全容などわかるわけありませんが。それでも、母の不審な態度について、なにかアドバイスをいただけそうですか。もちろん、無理にではありませんよ」
「うーん。一応、答えらしきものは出た気がします」
おや、と驚いて賢一は顔を上げたが、続いて竹花は、
「でも、僕の口からそれを言うのは、ちょっと嫌かもしれません」
と言ってのけた。この発言には、賢一も呆れる。話を聞いてもらううちに好感を抱き始めていた相手だけに、失望を覚えた。月並みな慰めでも言ってもらえたほうがよほど嬉しい。
「真相に辿り着いたのに、教えていただけないんですか? 参ったな。私としても、代金をお支払いしたいんだけれど」
「お代はけっこうです。でも、心配しなくて大丈夫ですよ。警察はそのうち、すべての真相に辿り着くと思いますから。でも……」
竹花は言葉を切って、頬を掻きながら賢一を見た。
「でも、そうなっても、あなただけは春子さんを責めないでくださいね。こんなこと言うの、余計なお世話だと思うんですけど」
賢一は思わず椅子を蹴って立ち上がった。
「どういうことですか、竹花さん。母がなにか悪事に手を染めている確証を得られたのですか? それなら教えてください。母がなにをしているのか」
「そうじゃないです」悲しげな顔で竹花は言った。「たしかに、彼女は嘘をつきました。でも、おれは春子さんが嘘をつくのも理解できるんです。なんていうんですか、人情として」
「いったい、どういう……」
賢一がさらに詰め寄ろうとしたとき、リビングの扉が音を立てて開いた。そこには、〈ベーカリー井田〉の紙袋を手にした春子が立っていた。
「母さん……」
「ご近所さんからいただいたお野菜を置きがてら、勝手口から戻ったの」春子はしずしずと部屋の中に入ってきて、誰にともなく頭を下げた。「今の話、途中から聞いてしまったわ」
顔を上げた春子は、上目遣いに竹花を見た。その顔には、竹花から伝染したかのごとき悲しげな表情が浮かんでいる。
「……どちら様か存じませんけれど、あなたにはすべてわかっているみたい。私も……私も、すべてをごまかせるなんて、思っていなかった。本当のことを賢一に話そうと、何度も、何度も考えたの。でも、その勇気が出なかった」
春子は震える手で自分の喉を押さえて、竹花に懇願した。
「お願いします。私の代わりに、どうぞおっしゃってください。私、本当に自分が情けなくて、恥ずかしくて――どうしても、言葉が出てきません」
竹花は、長い髪の毛先をいじりながらしばし黙していたが、意を決したように顔を上げた。
「わかりました、おれの推理をお話しします。春子さん、あなたが引っかかってしまった詐欺は、本当は――ロマンス詐欺だったんですね?」
頷いた春子の目から、大粒の涙が溢れた。
6
それから五分後、三人はダイニングテーブルを取り囲んで座っていた。泣き止んで落ち着いた春子は、買ってきたパンを竹花に振る舞って、ゆっくりと語りだした。賢一は驚きのあまり一言も発することができず、黙って耳を傾けるしかなかった。
すべての始まりは、昨年末に春子がパートを辞めたことだった。彼女はそのとき以来、長すぎる一人きりの時間を持て余し、日に日に塞ぎ込んでいった。図書館で本を読んだり、映画を見に行ったりしてみても、どこか心が満たされない。ずっと夢見ていた、なんの義務も苦労もない生活に入れたはずなのに、いざ身を置いたそれは、目的もなければ意味もない暮らしだった。
「週五のパートのお仕事はきつくなっていたから、三年前からは週三回に減らしていたの。だから、とくにすることがない日なんて、これまでもたくさんあったわ。でも、完全に自分が属するところがなくなってしまったことが思いのほかこたえてしまって」
虚無感を打ち払いたくなった春子は、徐々に刺激の強いことに惹かれるようになっていく。好きでもない酒をときどき飲むようになった。気まぐれに、パチンコ店に足を運んでみたこともあるという。その告白は、賢一にとってひどくショッキングなものだった。生真面目で悪い遊びなど知らない母が、そんなことになっていたとは。
「でも、あんなアプリを入れてしまったのは、本当に馬鹿だった」
去年、ディスカウントストアで働いていたとき、四十代のパート仲間から勧められたのが、「大人の男女」向けのマッチングアプリであった。春子にそれを教えた女性はバツイチで、同年代の男と「大人の遊び」を楽しんでいたという。
「当時は、彼女の恥じらいのなさに眉をひそめたものだけど、思い返すとあの人、本当に人生が楽しそうでいつも生き生きしてた。私にも『いま旦那がいないなら、やっちゃ駄目な理由はないじゃない』って言ってきて……その言葉を私は忘れられなくて、ずっと頭の隅で転がしていたの」
今年の四月、とうとう春子はそのアプリをスマホに入れたという。どういう使い方をしていたか、という詳細は語らなかったが、とにかく彼女はあるとき、高橋と名乗る五十代の男とマッチしたという。二週間前のことだ。
投資銀行の役員を名乗る高橋は、自身も深谷出身であることから春子と話してみたくなったと言った。彼はメッセージアプリに春子を誘導して、親身になって話を聞いた。甘い言葉も囁いた。
「まったく会ったこともないような人と話して……、なんだか、新鮮な気分になったわ。舞い上がって、馬鹿みたいよね」
あるとき、高橋は投資信託の話を始めた。流行りの〈つみたてNISA〉というやつで、「ここに入れておけば元本割れするリスクはほぼないし、長く入れておけばおくほど資産が増えてゆく」という資料を提示された。春子はその話に前向きになる。入れておくだけで資産が増える――それなら、孫のための教育資金を積むのにうってつけだと思ったのだ。
「それで、一昨日……金曜日に、高橋さんは私のために開設しておいてくれた積み立て用の口座番号を送ってきた。私は、そこにネット銀行のお金を移したの。そうすることで〈つみたてNISA〉にお金が積めるっていう話だったから。私、それが変なことだとはちっとも気づかなかった。詳しいことは、今日聞くってことになっていたの。つまり……高橋さんは日曜に深谷駅までやってきて、私とお茶をするって約束だったから」
美容院で戸ヶ崎に髪を切ってもらっていたとき、春子はまだ詐欺被害に気づいていなかった。だから、彼女は笑顔だったのだ。
ところが帰宅してスマホを開き、愕然とした。高橋がメッセージアプリのアカウントを削除していたのだ。このとき春子は、自分が騙されたことを完全に悟った。
「馬鹿よね。本当に馬鹿。恥ずかしくてたまらなかった。六十五の女が……十も年下の男性からちやほやされて、詐欺に引っ掛かるだなんてね。恥もいいところ。だから、もう泣き寝入りしてしまおうかと思った。でも……賢一と美和さんには、絶対に隠し切れない。そう気づいてはっとしたの」
「そうか――俺が、通帳を見ていたから」
先日、翔馬の塾代と入学金のことで、賢一は春子と通帳を突き合わせたばかりだったのだ。それゆえに賢一は遅かれ早かれ、春子の経済状況が一変したことに気づいただろう。
「それに、警察に言えば犯人には逃げられても、ちょっとだけでもお金が戻ってくるんじゃないかしらって……そんな都合のいいことを考えて、私は、とてもずるいやりかたをしてしまった」
それがすなわち「詐欺の内容のすり替え」であった。
詐欺手口については、官公庁が注意喚起として出している「お手本」がいくらでもある。春子はそれを台本にして、自分が遭った詐欺の真相を書き換えた。弁護士を騙る男からの電話などは、実際にはなかったのである。この計画を大急ぎで立てて、昼休み中の賢一に「確認の電話」を入れた後で、春子はさらに細部を練った。
メッセージアプリは――そもそも警察が調べる理由もないが――念のためアプリ自体を削除した。詐欺の証拠は歴然と残っても、ロマンス詐欺の証拠はもはやない。
「でも、待てよ」賢一は腑に落ちずに声を上げた。「通話履歴は実際に残っていたじゃないか。電話はネットでの送金よりも前にかかってきたはずだ。どうして偽装の通話履歴を残せたんだ?」
「偽装じゃないんでしょう」チョココロネをもぐもぐやりながら竹花が言った。「推測ですけど、それって、無言電話だったんじゃないですか。根岸さんって人からかかってきた……」
「まあ」春子は目を瞠って、口を押さえる。「そんなところまでおわかりになったの」
続いて母が語った真相は、賢一にとっては驚くべきものだった。
春子が最近受けていた一連の無言電話は、じつは隣人の根岸による嫌がらせだったのだという。
「最近ゴミ出しで揉めた彼女くらいしか、私に無言電話をかけてくる人が思いつかなかったもの。だから昨日、非通知からの着信があって、私、すぐに呼びかけたのよ。『もしかして根岸さん?』って」
電話の向こうで息を詰まらせた相手に対して、春子は「根岸さんよね」と畳みかけた。さらに、自分の言い方も悪かった、ごめんなさい、と詫びて、和解を呼びかけたという。すると、根岸も電話越しに謝罪の言葉を返してきた。
「つまり――電話は、詐欺とはまったく無関係にかかってきたものだったのか」
「ええ。私……詐欺の被害に気づいた後で、この通話履歴が使えるって思ってしまった。悪魔の囁きね。でも、あのときは神様の贈り物みたいに見えてしまった」
詐欺電話をかけてきたのが男性だったと言えば、根岸を巻き込むリスクも少ない。春子は、警察署に出向く道すがら、根岸が使った――と本人から聞いた――公衆電話の指紋も、念のため拭いておいた。あの公園が「防犯カメラもなにもなくて危ない」というのは、近所では有名な話である。
「刑事さんが『この手口で受け子がいないのは珍しい』と言っていたのも当然ですね。本当は別の手口だったんですから。昨日、根岸さんって人が菓子折りを持ってきていたのは、無言電話のお詫びだったんじゃないですか」
指先についたチョコを舐めとりながら喋る竹花を、賢一は畏怖の念を込めて見つめ直す。
「しかし、竹花さん、どうして――どうしてわかったんです。そんなことが」
「えっ? まあ、春子さんとトラブルを起こした人は根岸さんぐらいしかいなかったそうですから、無言電話をかけてくるのも当然彼女でしょう」
「いや、もっと根本的なところですよ。この事件が、弁護士を騙った振り込め詐欺ではないとは、私には想像もつかないことだった。どこにそんな手がかりがありましたか」
「春子さんがお洒落をしたと聞いて、ビビッときたんですよ」
竹花はにこっと笑って、自分の頭を指さしてみせる。これには母子揃ってきょとんとしてしまう。
「春子さん、美容室でヘアスタイルをいつもよりお洒落にしてほしいって頼んだんですよね。たしかに、よくお似合いです。で、人がお洒落するときってどんなときかなと考えてみまして。もちろん、自分を喜ばせるためって人も大勢いると思います。俺自身、自分のテンション上げるために好きな服着るタイプですから。でも、最近春子さんがうきうきしていたって噂や、喫茶店の穐山さんの話と繋げると、ロマンスの予感が一気に漂ってくるじゃないですか。やっぱりお洒落のきっかけや、急に人生にわくわくする理由は恋ですよ、恋」
春子は「よしてください」と呟いて、俯いた。
「あ、ごめんなさい。茶化しているわけじゃないんです、ほんとに。人生に恋とかいらないって人も多いし、それもそれでフツーですけど、おれは恋多き男なんで共感します」
「しかし……それだけでロマンス詐欺を思いつくだなんて、ほとんど神がかりだ」
「あ、それはもう一つ道しるべがありまして。そもそも、振り込め詐欺っていう前提がおかしいですもん。春子さんが電話を取ったってことがそもそも変です」
賢一は意味がわからず、頭を掻いた。春子も目を丸くしている。
「えーと、言葉足らずでしたね。春子さんは、パン屋さんにも相談するくらい、無言電話でお困りになっていたんでしょう。そんな人なら普通、非通知からの着信を拒否したはずじゃないですか。でも、公衆電話からの着信を受けている。そして、公衆電話からの電話は必ず非通知です。なんで電話を取ることができたんだろう? って疑問が当然、出てきます」
「だが、母はデジタル音痴で……」
「二十年間使ってる自宅の電話は、機械が苦手な人でもさすがに扱えますよ。それに昨日も、刑事さんの番号を登録したんでしょう」
「……そういえば」
賢一は妙な気分になった。母は自分でマッチングアプリまで入れて、スマホを使いこなしていた。そして電話機の設定も、当然のように把握していたのだ。
「ってなわけで、春子さんはなんらかの意図があって、あえて非通知からの着信を拒否していなかったんだな、ってピンときたんです。この場合は、無言電話の犯人を迎え撃つってつもりだったわけですね。まあ、そこに気づいたら、後はなんとなーく想像つきました。電話がご近所さんのイタズラなら、弁護士を名乗る男の存在はフィクションってことになるでしょ。でも詐欺自体は現実に起きている。そこから、言いにくい詐欺ってなにかなーって考えて、春子さんの最近の様子から、事件の全貌が見えてきたってわけです」
喋りながらコロネの包み紙を折りたたんでいた竹花は、手を合わせて「ごちそうさまでした!」と元気に言った。
それから一時間後、賢一と春子は深谷警察署に出向いて、小野里刑事にすべてを打ち明けた。
刑事は春子に、猛烈に雷を落とした。しかしどうやら厳重注意で済みそうで、新たな供述調書が作られたうえ、詐欺事件の捜査は続けられることになった。
「警察には、もう決して嘘をつかないでいただきたいですが」
小野里刑事は最後に、表情を和らげた。
「ロマンス詐欺は泣き寝入りが多いですから、名乗り出られた勇気は素晴らしい。しかしですね、そもそも恥の意識など持つ必要はまったくないわけです。恥ずべきは、他人の気持ちを利用して金を奪おうとする卑怯者だけですから」
貝瀬母子は、まだ明るいうちに警察署を後にした。
起きてしまった被害は本物で、失われた三百万円が戻ってくる見込みは薄い。なにかが取り戻せたわけではないのに、賢一はどこか新鮮な気持ちで、日曜の昼下がりの道を眺めていた。
「竹花さんって、不思議なかただったわね」
「そうだな――本当に」
竹花尋は、〈ベーカリー井田〉で春子が買ってきた特製チョココロネを非常に気に入って、あのあともう一つ食べた。気に入るあまり「お代はこれだけでいいです!」と主張したものだから、賢一は慌てて報酬の一万円を押しつけたのだった。
「ちょっと変な若者だと思っていたけど、人を見る目がなかったよ。俺は……」
自然と口から零れ出たその言葉には、春子への思いも籠っていた。
あらためて母を見る。ブラウンに染められた髪は、夏の陽の下できらきらと輝いていた。ショートボブの髪が、風にすくわれて軽やかに踊る。泣き腫らした目許を隠すために入念に化粧をほどこした顔は、母を齢よりもずっと若く見せていた。
いつからか自分は、母親を力なき存在として扱ってしまっていたのかもしれない、と賢一は思った。デジタルの扱いは苦手で、身体も老いてきており、面倒を見てやらねばならない存在だと。事件のことを聞いたとき、どこかで「自分がしっかりしていなかったからだ」と思いはしなかったか。
だが、じつのところ春子が事件に巻き込まれたのは、大いなる冒険の帰結だったのだ。新たな出会いを求め、その挙句、投資信託に乗り出そうとした。もしも相手が詐欺師でさえなければ、なにも悪いことはなかったのだ。還暦を超えた母は、自らの人生を新たな色で彩ろうともがいている。その最初でつまずいてしまっただけのこと。
賢一は、かつて母の再婚が嫌だったときのことを思い出す。あのころの自分は潔癖な子供で、母が選ぶ新たな人生に巻き込まれることを拒んだ。でも、今では自立した人間同士だ。これから始まる母の挑戦に対しては、全力で背中を押してあげたい。それこそ、彼女に報いることではないか。
「同居のことは、あらためて考えよう」ふと思いついて言った。「こっちも、自分たちのことは自分たちで、なんとかするから。親切ごかしで甘えようとしていたな」
「そこまで悪く言わないで頂戴。美和さんもよく考えてくれてのことなんだから。とはいえ、私も、本当はそんなに心配してもらうほど身体は弱っていないのよ。それに」
彼女は、にやりと笑ってみせた。
「美和さんも、本当は私の目がないところで暮らしたいと思ってるに決まっているものね。わかるわよ。私だって同じ思いをした時期があるのだから」
「そうだな。誰にだって……それぞれの時期を楽しむ権利がある」
帰ったら、翔馬をドライブにでも連れ出そう、と考えてみる。そして本音を聴こう。いま、翔馬はどうしたいのか。なにを望んでいるのか。
「不惑なんて大嘘だな。四十路になっても、なにもわからん」
親の前で弱音を吐いたのはいつぶりだろう、と賢一は思った。春子は恥じ入ったように顔を背ける。
「賢一はよくやってる。私にはアドバイスする権利もないくらいよ。六十五にして惑いまくっているところを、知られてしまったのだから」
「電話はもう少し、こまめにかけるようにするよ。大きなお世話だろうが」
「いいえ。あなたからの電話を疎んじたことは一度もない」
「相談も、またさせてくれ」
「私も、なるべくするわ」
例の公園が見えてきた。近付くべからずという親の勧告を無視した小学生たちが、ジャングルジムで遊んでいる。日曜の陽気の中、なんの憂いもなさそうな子供たちの歓声が響き渡った。