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朝食後、さっそく賢一は事務手続きの手伝いを申し出たが、やるべきことはなにも残っていなかった。被害者にできることは非常に限られているのだ。弁護士への相談も、被疑者の実態が把握できてからがいいように思えた。となると、いよいよすることがない。
母と顔を突き合わせていることもつらく、「昼食を買いに行く」と言って、賢一は家を出た。すでに夏の陽射しは強かったが、憂さを晴らしたい一心で近所を歩きまわる。
三十分以上ぶらついたが、背中が汗でびっしょりと濡れただけで、とくに気も晴れないまま、貝瀬家のそばまで戻ってきた。そして、家の百メートルほど手前で足を止めた。母がさっき話していた〈ベーカリー井田〉が目に入ったのだ。
三十年ほど前からある店で、賢一も高校生のときは登校する途中、ここのパンをよく買っていた。赤いオーニングテントは雨風と排気ガスに曝されて、ほとんど文字が読めなくなっている。懐かしさに駆られて、賢一はつい店内に足を踏み入れた。エアコンの冷気に包まれ、生き返るような心地で息をついていると、カウンターの奥にいた初老の女性がまじまじと賢一を見て、言った。
「いらっしゃいませ。ねえ、貝瀬さんところの賢一さんじゃない? そうよね? ひっさしぶり。随分とまあ妙な時期に帰省なさってるのねえ」
昔と変わらぬ賑やかさで、店主の井田はまくしたてる。会うのはもしかしたら十年以上ぶりかもしれないが、彼女の陽気でおしゃべりな性格はまったく変わっていない。顔を憶えていてくれたことが、賢一には妙に嬉しかった。
「いや、ちょっと母の様子を見に帰ってきただけなんですよ」
井田はそうよねえ、と大きく頷く。噂好きで早耳の彼女でも、さすがに春子の事件のことは知らない様子である。
「パートもお辞めになったんだものね。お仕事辞めちゃうとさ、一気に老け込む人多いからあたしも心配してるのよ。あ、でも春子さんはまだまだお若くて元気でいらっしゃるけど」
「母は元気ですか」
「ええ。社交辞令だと思わないでちょうだいね。春子さんね、ここ二週間くらい、なんだか急に明るくなられたもの。楽しみにしていることでもあるみたいに」
賢一は、はっとした。もしかして母は、自分たちとの同居を密かに楽しみにしているのだろうか。どこか打算的に母と接してきた自分たち夫婦の振る舞いを思い出して、喉の奥が窄まるような感覚をおぼえる。
トングとトレイを取って、賢一はパンを選んだ。母が好きだったのは、たしかもっともシンプルなミルクパンであった。それを二個、あとは自分の好きなクロワッサンを一つ載せる。お会計をする間も、井田は喋り続けた。
「元気とはいっても、やっぱり女性の一人暮らしって心配ですものね。そう、ご本人からお聞きかもしれないけれど、春子さん最近、無言電話にも悩んでいたみたいよ。二、三回かかってきたそうで、やんなっちゃうって先週言ってた」
それは、春子からも小野里刑事からも聞かなかった話だ。
犯人グループが最初から春子に狙いを定めていたのだとしたら、無言電話は事件と関係があるかもしれない。たとえば、春子が在宅している時間を調べるためにかけていた可能性がある。
それにしても、無言電話に困っていると、どうして母は言ってくれなかったのだ。一人息子である自分に相談してくれてもいいのに――と思う一方で、それはずるい言い分だな、ということも、賢一は自覚していた。用事がないときに自分から電話をかけることは、ここ数年ほとんどない。
「ところで、母は仕事もやめてしまったわけですから、地域に居場所があるのか心配です。一番のお友達ってどなたでしょうね」
紙袋を受け取りつつ、話題を転じた。詐欺犯の一味が春子に接触していたのなら、情報通の井田もその人物を知っているかもしれないと思ったのだ。
「春子さんの? 手前味噌だけれど、うちに来ておしゃべりするのが一番多いんじゃないかしら。でも、そうねえ……。お隣にお住まいの根岸さんちの奥さんとは、時たま一緒にお店に見えることもあるわね」
「なるほど。根岸さんですか……」
根岸家は、賢一が実家を出たあと貝瀬家の隣に家を建てた家庭である。夫婦二人住まいで、妻は専業主婦、夫は市内の電機メーカーでそれなりに偉いポジションだという。賢一は、彼らの人格をよく知らない。堂々たる佇まいの白塗りの家や、ガレージから顔を覗かせるBMWから、暮らし向きがよさそうだと推察している程度だ。
「でも、春子さんのことがお知りになりたいならご本人に訊けばいいじゃないの。親子間コミュニケーションよ」
井田が最後に言い放った言葉は、冗談めかしていたが賢一の胸を刺した。
家へ向かって、なんとなくみじめな気持ちで歩く。油の染みが浮いてきた紙袋すら、重たく感じられてきた。そんなとき、向かいから自転車に乗った女性が軽やかに近づいてくる。賢一は目を伏せて脇に寄ったが、彼女はブレーキを軋ませて停止した。
「あれ、貝瀬くん? 貝瀬くんだよねえ」
顔を上げると、自分と同い年くらいの女性が見つめていた。ウェーブのかかった栗色の髪と、明るい化粧が華やかな印象だ。カットソーとワイドパンツも洒落ている。
「ええと……、ああ、戸ヶ崎さん」
小中学校時代の同級生である。会うのは久しぶりで、顔と名前が一瞬結びつかなかった。
「なんか変な時期に帰省してるねえ。春子さんの話だと、まだ東京にお勤めだって聞いてるけど」
戸ヶ崎は近所の美容院に勤めていて、自分の担当をしてくれているのだと以前母から聞いた。賢一にとっては特別親しかったわけでもない級友だが、母との間で自分の話題が共有されていると思うと、なんとなく居心地が悪い。
「母は、そんなに俺のこと話しているんだ」
「ごめんねえ、共通の知り合いって美容師にとって恰好のネタなの。それにしてもタイムリー。春子さん、昨日もいらしたばかりだから」
これには賢一は驚かされた。昨日? 母は、朝の十時過ぎに弁護士を装った電話を受けて、正午にはそれが詐欺だと悟ったと言っているのだ。そして午後は、警察署に出向いてずっと話を聞かれていたはずである。いつ、美容院に行く暇があったというのだ。
「昨日? 一昨日じゃなくて?」
「間違いなく昨日だって! 嫌だな、私ら、まだそんな記憶がおぼろげになる齢でもないでしょ。昨日の午前。間違いないって」
となると朝早くか――と納得して、賢一は話題を変える。ここでも、聞き込みもどきを試したくなったのだ。
「最近、うちの母はどんな感じかな」
「昨日はすごく元気そうで、溌剌としてらしたよ。あ、でもね。前回いらしたときは、えーと、二か月前かな? しんどそうで愚痴をお聞きしたけど」
「愚痴?」ぎくりとする。「息子夫婦の愚痴だったら、伺いたいな。謙虚に受け止めるから」
「あっはっは、警戒しないで。春子さん、そんなこと言ったことないよ、本当に。なんだったかなー。お隣の根岸さんってお宅とゴミの出し方で揉めちゃったとか言ってた。最近ルールが変わって、透明のポリ袋以外は駄目になったんだけど、根岸さんが半透明の袋で出したゴミが、回収車に持っていかれなかったんだって。でも、それを根岸さんの奥さんにお知らせしたら『いま持ってくつもりだったのよ』って逆ギレされたとかなんとか。たまんないよねー。あ、でもね、昨日はそれも解決したって言ってらした。とっても晴れやかな顔で『愚痴を聞かせてごめんなさいね』って言われた」
「晴れやか……」
「うん。春子さん、髪染めは自分でやってらっしゃるからカットだけなんだけど、うきうきした様子で『いつもよりちょっとおしゃれにして頂戴』って頼まれちゃった。金曜のお昼前だから、誰かとランチなのかなって思って訊いたら『ただの気分転換』っておっしゃっていたんだけど、ひょっとしたら――」
「ま、待った」賢一は慌てて割り込んだ。「お昼前って? 母が美容院に行ったのは、十時よりも前だったと思うけど」
「え?」戸ヶ崎は、不審そうに顔をしかめる。「うちの営業がそもそも午前十時からなんだよ。しかも春子さんが来店されたのは、十一時だったし」
この言葉を聞いて、賢一は愕然とした。
明らかに、おかしい。小野里が言ってたところでは、春子は十時三分に、「賢一が事故に遭った」という電話を受けたはずなのだ。通話が終わってしばらく経った十時半ごろに、彼女はネット銀行から入金もおこなった。刑事はそう言っていたではないか。
その春子が、十一時に美容院に行ったときには、どうして「うきうきとした様子」だったのだろう? 自問してみるが、答えは出ない。
そもそも、仮に予約していたとしても、母は美容院どころではなかったはずだ。十一時の時点で詐欺に気づいていたのならもちろん、まだ気づいていなかったとしても、「賢一が事故に遭った」という認識でいたはずではないか。
なのに、彼女はそのことをおくびにも出さず、笑顔で髪を切ってもらっていた。
賢一は突然、不気味な思いに囚われた。母は、なにかを隠している。
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訝しむ戸ヶ崎からさらに話を聞き出すと、母が美容院を出たのは十一時五十分過ぎだったという。美容院は家から徒歩五分の距離だから、正午には家に着く。そして十二時半ごろ、母は賢一に無事を確かめる電話をかけてきた。
春子は美容院、または帰り道で「詐欺を疑い始めた」のだろうか? しかし、そうだとしても賢一の事故の話を聞いて動揺していなかったのはなぜなのか。賢一には意味がわからない。
さすがに賢一の態度を不審に感じたらしく、戸ヶ崎は「なにかトラブル?」と尋ねてきた。
「なんでもないんだ。ただ、昨日の朝電話したら、母はひどく落ち込んでいたようだから、気分屋だなと思っただけでね。ゴミ捨てのトラブルが解決した他に、どんな話題が出た?」
「昨日は春子さん、本当に明るかったよ。落ち込んでたなんて信じられないなあ。おすすめの映画を訊かれたり、市内のお洒落なカフェについて情報交換したり。私もついおしゃべりが楽しくなっちゃってたくらい」
ますますおかしな話だ。
もっと掘り下げたかったが、戸ヶ崎はちらりと腕時計に目を落として「そろそろ出勤しなきゃ」と呟いた。賢一は礼を言って、彼女と別れる。再び家路を辿り始めた賢一の頭の中では、春子への疑念が激しく渦巻いていた。
賢一が帰宅すると、客人が春子に見送られながら玄関を出ていくところだった。黒いワンピースの上に白いカーディガンを羽織っている女性。身に着けているそれらのものは、いずれも品が良く高価そうに見える。賢一も数回は顔を合わせたことのある、隣家の根岸夫人だ。彼女は、賢一に対して気まずそうに会釈して、逃げるように去った。
「根岸さんは、なんの用事だったんだ」
玄関の扉を閉めるなり、賢一は尋ねた。
「ああ、菓子折りいただいたの。先日、ちょっとゴミの出しかたで言い合いになっちゃったんだけれど、折り合ったから、そのお詫びっていうことで。百貨店のお高いやつだから、悪いわね」
賢一は、ゴミ出しのトラブルについては初めて聞いたような顔を作って、ふうんと言った。
朝食が簡素だったこともあり、早めの昼食という流れになる。買ってきたパンは間食に回すことにして、賢一は料理を作ろうと申し出た。だが、春子は「私にやらせて頂戴」と主張する。
作ってもらった焼きそばを食べながら、賢一は食卓の向かい側に座る母を見やる。いくらか迷ってから、切り出した。
「母さんは昨日、送金してからしばらくして詐欺の可能性に気づいたっていうけど、それって何時ごろのことだったんだ?」
「……どうして、そんなこと」
母は箸を止めて、目を上げずと言った。
「いや、責めているわけじゃないんだ。ただ、気になって」
「十一時……少し過ぎだったかしら。ここにこうして座っていたら、急にそんな気がしてきたの。ちょっと混乱していて、憶えていないわ。ごめんなさい」
少し不自然な早口で、春子は答えた。美容院に行った事実そのものを隠すつもりらしい。こうなると、戸ヶ崎から聞いた話を持ち出す勇気は、とても出なかった。
なぜ、詐欺電話を受けた後であるはずの十一時、春子は笑顔だったのか?
どうしても知りたい。だが、直接尋ねるのは恐ろしかった。この謎は言い換えれば、「賢一が事故に遭ったと思っていたのに、なぜ楽しそうだったのか」ということだ。息子である自分がどうでもよくなっていた――という結論だけが、この謎を謎でなくする唯一の答えに思える。
一方で、賢一はもっと悪い事態も考えてしまっていた。
この事件に、なんらかの裏があることは間違いない。詐欺グループからの――と春子が言っている――電話が近所からかけられたという事実が、その証拠だ。しかしその裏に、被害を主張している春子自身の作為が含まれている可能性は、絶対にないのか? 問題の時刻の通話が終わったあと、春子は上機嫌だった。なにかを達成して嬉しくなっていたとも考えられる。
母は、三百万円を騙し取られたふりをしているのか?
まさか、そんなはずはない。警察が犯人の口座を調べているのだ。素人の小細工などすぐにばれる。事件が犯罪のプロによるものであることは確かだ。しかしその結論に辿り着くと、母はなぜ――という謎に解を見出しえなくなる。
賢一は、向かいに座って黙々と箸を進める母を、探るように見た。目を伏せて、少し申し訳なさそうな顔をした女性は、まるで賢一の知らない人のようであった。
午後の時間を、賢一は掃除に費やした。風呂場やトイレの換気扇など、春子の手が届きにくい部分を綺麗にしたのだが、日常的に使う他の場所はだいたい、手入れが行き届いていた。賢一が手伝えることはあまり残っていない。
母を散歩にでも誘おうか――と思ったが、母子の間のぎくしゃくとした空気は、今のところ挽回できそうになかった。賢一は、もう母と対話する元気をなくしていたのだ。「ちょっと出てくる」とだけ言って、賢一はまた外をぶらついた。まだ日は高く、アスファルトから立ち上る熱が身体を消耗させていく。
このままさいたま市の自宅に帰ってしまおうか、と半ば本気で思いながら、賢一は深谷駅を目指す。土曜日の夕方、部活帰りらしい学生たちが細い路地を自転車で走り抜けていく。駅向こうの神社にでも行こうと考えていたのだが、歩き疲れてしまって、喫茶店で休もうと決めた。そのとき、懐かしい看板が視界に飛び込んでくる。
駅近くの雑居ビルにある、〈喫茶 あきやま〉。
ビルの細い階段を上って、二階にあるその店のドアを押し開ける。
「いらっしゃい――おや、貝瀬くんじゃないか」
ちょび髭を生やした店主――穐山は、賢一に笑いかけた。
「ご無沙汰しています」
ここ〈喫茶 あきやま〉は、賢一が大学時代にアルバイトしていた店である。店主の穐山は商社勤務を経て喫茶店経営に転じた変わり者で、賢一の学生時代には、学業や就活などについて良き相談相手となってくれた。
他の客は、窓際のテーブル席で話し込んでいる女性二人組と、同じくテーブル席で新聞に読みふけっている老紳士だけ。賢一はカウンター席でコーヒーを飲みながら、穐山と小声で旧交を温めた。一時間ほど経つと、日が傾いてきて、他の客たちは帰っていく。
「いま、帰ってきているのは『ちょっとわけがあって』ってことだけど」穐山はあらたまって切り出した。「他のお客さまも帰られたし、そのわけをよければ聞かせてくれないかい。なにか、ひどく困っていそうな顔だ」
一人で悩み続けることに耐えられなくなっていた賢一は、母が巻き込まれた事件について打ち明けた。そしていくらか迷った末、自分をもっとも悩ませている点――母がなぜ、昨日の午前十一時に笑顔だったのか? という謎も話してみた。
「春子さんがねえ」
穐山は口髭を捻りながら呟いた。賢一のバイト時代に、春子は何度か来店しているので、穐山とは顔見知りなのだ。
「じつは、最近二度ほど見えられたんだよ」
「母がこちらに?」
「うん。二か月ほど前に、本当に久しぶりにいらしてね。そのときは、ちょっと人恋しそうで、話し相手を探している感じだった。お勤めを辞められたと言っていたから、無理もないかもしれない。私は、なにか新しいことにチャレンジしてみてはいかがでしょう、と言わせていただいたよ。自分が脱サラしたときの経験も話してね」
新しいことか、と賢一は考えてみる。まさか、母が挑戦した新しいことが犯罪であるはずもない。あってほしくない。
「それで、次に見えられたのは先週だったかな。ずいぶんと雰囲気が明るくなったので、なにか楽しみが見つかりましたか、と尋ねたら『まだ私の人生も、違う組み立てがあるかもしれないと思って』なんて言っていたね」
違う組み立て――やはり、息子夫婦との同居で生活が変わることを期待していたと解釈できる。賢一は今後のことを考えて、胸を引き絞られるような気分になった。
そんな賢一をカウンター越しに見下ろしていた穐山は、少し考えてから口を開いた。
「私が知っているのはそんなことだけだ。君のお悩みを、私は解決してあげられない。だが、そんなにお困りなら探偵さんを紹介しよう」
賢一は、穐山の言葉に面食らった。
「探偵ですか? 警察が捜査してくれているのですから、そういう人は必要ないですよ。組織的犯罪に対して、民間人が警察よりも優れた調査ができるとは思えません」
「いやいや。君が気にしているのは、詐欺事件よりも春子さんの奇妙な振る舞いのことなんだろう? 私も、春子さんが良からぬことに手を染めるなんて思えない。だけど、君の話を聞くと放ってもおけない気がする。犯人グループの一味が身近に潜んでいるかもしれない、というのも恐ろしい話だし」
まだ難色を示す賢一を、穐山は熱心に説得する。
「探偵という言葉には語弊があるかもしれないね。本人は、なんと言ったかな――そう、『よろず謎解き屋』を名乗ってるんだ。警察が人員を割いて調査してくれない窃盗事件や、犯罪未満の不思議な出来事について答えを出してくれるんだよ。とてもそうは見えないが、きわめて優秀な人物なんだ」
「というと、穐山さんもなにかご依頼されたわけですね」
「そこの棚に並べている銀器が全部消えちゃった謎を、解いてくれたんだよ。被害者である私以外は犯行をおこなえなかったはずの不思議な状況で、警察も手を焼いた事件だったんだがね。その『謎解き屋』さんは、話を聞いただけで意外なトリックを解き明かしてくれた。結局、雇ったばかりのバイトが犯人だったんだけど。私自身、その『謎解き屋』を常連さんから紹介されたときは胡散臭く思っていたんだが、間違いなく信頼できる男だよ」
「しかし……。お恥ずかしい話ですが私もなにかと物入りで、探偵さんを雇う余裕があるかどうか」
「いやいや。その謎解き屋さんは、破格の報酬で引き受けてくれるんだ。往復の交通費と、成功報酬の一万円だけでいいと。うちに来てくれたときは、彼、サービスで出した特製パンケーキをいたく気に入ってくれて『お代はこのパンケーキだけでいいです』とまで言い出した。こちらが慌てて一万円を押しつけたほどだよ」
話を聞けば聞くほど胡散臭く思えたが、穐山はすっかりその気になって、カウンターの下から名刺を出してきた。
「そう、これこれ。今すぐにでもメールしてはどうかな。君は明日には、さいたま市に帰るんだろう」
世話になった穐山の提案だから、無下にもできない。とりあえず賢一は名刺を受け取った。名刺に記されている名前は「竹花尋」。肩書きは「よろず謎解き業者」。
メールを出すと、返事はすぐにきた。先方は「明日の朝にでも伺います」と言ってきたので、賢一は流されるまま「お願いします」と返す。すべてを見守っていた穐山は、これですべてが解決したと言わんばかりににっこりと笑った。
帰宅すると、母が夕食を作ってくれていた。麻婆茄子をメインに、オクラとトマトの和え物やみょうがの味噌汁など、多彩なメニューが並んでいる。
「ありがとう、母さん。こんなに遅くならなければ、外食にでも誘いたかったんだけど」
「いいのよ。いつもは一人だから、いろんなものを食卓にたっぷり並べることができないでしょ。材料を買い込んでも使い切れないし。だから便乗しているだけ」
食事中は、賢一の仕事のことや春子が最近観たテレビドラマの話など、毒にも薬にもならない話をした。事件の後ふたりの間にあった氷がわずかに解けたような気もしたが、賢一は心の底では寛げなかった。昨日の母の態度に、まだ結論が出ていないせいだ。
夕食後、順番に風呂に入る。賢一が上がると、母はもう寝室に引っ込んでいた。賢一はリビングダイニングで、美和に電話をかけた。
『ごめんなさい』彼女はすぐに詫びた。『今朝の電話、私、配慮が足りなかった』
「いや――俺も気が立っていた。随分なことを言ってしまったな。翔馬の送迎も、任せてしまってすまない」
電話の向こうで美和が沈黙した。彼女は、あらたまった調子で切り出す。
『いつもアイス買ってあげてるんですってね。土曜の翔馬の塾帰り』
息子に密告されてしまったらしい。賢一は唇を曲げた。
「勝手にすまん。あまりに毎回、ぐったりしてつらそうな顔で塾を出てくるものだから」
『私も、久しぶりに土曜日のお迎えに行ってびっくりした。翔馬が病気みたいな顔で塾を出てくるから。平日はまだ一コマなんだけど、土曜は三コマ連続だもんね』
まだ十歳なのに、土曜の夕方に六十分授業を三コマも受けさせられる息子を、賢一は正直気の毒に思っていた。だが、息子の受験は美和の領域であり、不用意に口出しすべきではないと自分に言い聞かせていたのだ。
「いいとこ取りをしてすまないな」
『ううん。私も、あんまり可哀想になっちゃって、今日はドーナツ買ってあげた。パパもいないから贅沢しちゃおうって』
笑い声で言ってから、美和はしばし押し黙る。
『翔馬、勉強、好きじゃないんだよね』
「好きな子供のほうが珍しいさ」
『あと二年以上、耐えるんだよね。私も翔馬も』
あなたも、とは言われなかった。賢一はそのことについて考えてみる。
「親にとっての最善が、子供にとっての最善とは限らない。逆も然りだ」
『あなたは国立大出たんだから、勉強得意だったんでしょう。秘訣はなんなの』
いつも心に温めている座右の銘を、少し迷ったふりをしてから語る。
「苦労には見返りが伴う、という当たり前の事実を知ることだけだ」そして、今度は実際に迷ってから付け加えた。「もっとも、それを知る時期は人によるだろうが。モチベーションがなにもないところに火を点けるのは難しいし」
自分のために生活を組み立ててくれている母に報いたい、という思いが、受験に対する賢一の原動力だった。しかし、自分の進学が母にとってどうプラスになったんだろう、と賢一はふと考える。
美和は黙り込んでしまった。賢一の言葉に対する感想はなく、明日の帰宅時間を尋ねてきた。夕方には戻る、と言って、賢一は電話を切った。