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『お母さまが、詐欺被害に遭われました。詐取された金額は三百万円です』

 刑事の言葉を聞いた貝瀬賢一は、その場で棒立ちになった。

 後ろを歩いていた男が聞こえよがしに舌打ちをして、追い越してゆく。賢一は、帰宅ラッシュで新宿駅へ雪崩れ込む人混みを抜けて、歩道の端に寄った。震える手で、スマホを耳に当て直す。

『貝瀬さん? 大丈夫ですか。どうぞ落ち着いてください』

「え――ええ、すみません。あの、母は無事なのですか」

『ご無事です。今、調書を作るために深谷署にいらしていただいています。それで貝瀬さん、もしよろしければ、お話を伺いたいのですが……』

「なら、深谷まで参ります。母も心配なので。しかし、なぜ私の話を?」

 電話の向こうで、刑事は躊躇うような間を置いた。

『今回の事件は、いわゆる振り込め詐欺の類でしてね。お母さまは、あなたの代理人を名乗る人物からの電話を受けたのです。それで、事実関係を確認する必要がありまして』

 振り込め詐欺。ニュースではよく聞くその言葉が我がことになったと、すぐには頭が受け入れてくれない。

 二時間ほどで伺います、と言って賢一は電話を切った。呆然としたまま、駅まで歩きだす。なぜだ、どうしてそんなことが――と、意味のない問いかけが頭の中でけたたましく反響していた。

 行き交う人々には、どこか浮ついた雰囲気が漂っている。花の金曜日。賢一も、つい五分前に退社したときには晴れやかな気持ちだった。ビールでも買って帰ろうと思っていたのに、スマホに入っていた一本の留守電で、すべてが吹き飛んだ。深谷署の刑事からの、これを聞き次第折り返してほしいというメッセージ。母が交通事故にでも遭ったか、という最悪の予想は外れてくれたとはいえ、非日常的な犯罪に突如巻き込まれたことに、心が追い付かない。

 湘南新宿ラインで、埼玉県北部の深谷駅まで二時間弱。一か月ぶりに降り立った地元の空気を味わう余裕もなく、ロータリーでタクシーを捕まえた。深谷警察署まで、と告げると、老いた運転手はもの問いたげに眉を上げたが、黙って発車させた。

 署に着いたときには、午後八時を回っていた。日の長い七月だから退社時にはまだ薄明るかったが、とうに太陽は姿を消し、建物は闇の中にうずくまっている。

 受付からの内線で、刑事がロビーに降りてきた。四十歳の賢一よりもほんの少し若いように見える、筋肉質な男だ。

「ご足労おかけいたしました。お電話差し上げた、刑事課の小野里です。さっそく参りましょう。お母さまにもお待ちいただいているので」

 二階の、取調室らしき個室に通された。座っていた母――春子は、賢一が近づくとぱっと顔を上げて、また俯いた。青ざめた顔には、叱られた子供のような表情が浮かんでいる。

 言葉もなく、賢一は母を見下ろす。髪は染めたばかりらしく、一本の白髪も見いだせないが、頬を走る皺が落とす影は鮮明で、賢一の胸を刺した。先月も会ったばかりなのに、母はどこか老け込んだように見える。こんな事態になったゆえの錯覚か、それとも、自分がこれまでろくに母の姿を直視していなかったということなのか、と賢一は自問した。

「さて、ではおかけいただいて。……申し訳ないのですが、春子さんにはしばし、ご退室いただくという形で」

 小野里刑事は、きびきびと場を仕切った。春子は立ちあがって、ドアへと向かう。その背中を見て、こんなに母は小柄だっただろうか、と思いつつ、賢一は椅子にかけた。

「さっそくですが、事件の説明をさせていただきます。これは広義の振り込め詐欺に相当する事例です。お母さまの供述によると――」

 小野里は手帳を開き、淡々と語る。

「今日の午前十時過ぎ、弁護士を名乗る男から、ご自宅の固定電話に電話がかかってきたとのことです。電話の相手はこう言いました。『弁護士のタカハシです。息子さんが今朝早い時間、社用車で交通事故を起こしてしまいました。示談金としてすぐに三百万円が必要なので、指定の口座に振り込んでほしい。息子さんの携帯電話は、事故の際、壊れてしまいました。正午ごろまたお電話します』……」

「社用車、最近は運転してませんね」

 賢一は思わず口を挟んだ。勤め先はおもに中学・高校向けの教科書を取り扱う出版社で、総務部の賢一は外回りする機会も稀にあるが、ここ五年ほどは部下にハンドルを任せている。

「まあ、詐欺犯はそこまでの事情を把握してはいなかったでしょう。お母さまがご存じないのも、同様に無理のないことです。さて、電話を受けたお母さまは、ネット銀行を使って、ただちに指定の口座に三百万円を入金しました。これが、十時半のことでした。ですがしばらくして、もしかしたらこれは詐欺だったのではないかという疑念が膨らんだとのことです。ただ、勤務中のあなたに電話をかけるわけにもいかない」

 やりきれない思いで、賢一は頷いた。業務中はプライベート用のスマホは電源を落としているから、かけられても出られない、と身内には伝えている。

「その『弁護士』からは、正午になっても電話がかかってきませんでした。そこでお母さまはしばらく迷ったあと、あなたが今なら昼休み中ではないかと思って電話をかけられたそうですが、間違いありませんか?」

 もちろん、賢一もそのときのことを憶えている。今日の昼――十二時半ごろ、突然母から電話がかかってきて、「あなた、何事もなく過ごしてるわよね。大丈夫なのね?」と訊かれたのである。ここまで来る電車で、そのときのことを思い出していた。

「そのとおりです。私はなにも変わりなかったので、『問題ない』と答えました。なにか話があるのかと思いましたが、母は本題めいたものは切り出さず……。私もお昼を食べる時間がなくなりそうでしたので、すぐに切ってしまいました」

 小野里は、賢一の供述を書き留めながら「無理もありません」と呟く。

「言いにくいものですからね。ともあれお母さまはあなたとの通話のあと、いろいろな可能性を考えてみたそうです。そしていくら考えても、自分は詐欺に巻き込まれたという結論しか出てこない。十四時過ぎ、意を決して我々に電話をかけてこられて、捜査が始まったという次第です」

 それから、小野里は数秒だけ考えるような間を置いてから顔を上げた。

「お母さまが遭われた詐欺被害には、いくつか奇妙な点があります」

「奇妙な、と言いますと」

「少々、専門的な話になりますが」

 小野里は、予備校の優秀な講師のように歯切れよく喋る。

「この手の詐欺の場合、口座情報から足がつかないようにするため、受け子と呼ばれるメンバーが現金を受け取りに来る場合が多いのですよ。ですから、口座に送金させるというケースは珍しいです」

「では、口座情報から犯人の身元を突き止めていただけるのでは?」

「金融機関には照会済みですが、入金後まもなく複数の海外口座にお金が逃がされてしまっていました。おまけに、折悪しくなのか意図的なのか、今日は金曜日ですからね。口座の主についてのより詳しい調査は、銀行が開く週明けを待つことになります。もっとも、組織的犯罪ではよくある、偽装身分で作られた使い捨て口座の可能性が高いですが……」

 がっくりとうなだれる賢一の頭に「さらに」という刑事の声が降ってくる。

「不自然な点が他にもありましてね。問題の電話がかかってきたころの通話履歴を調べたところ――十時三分から十時十分の七分間でしたが、そのときお母さまのお宅にかかってきた電話は、近所の公衆電話から発信されたものだとわかったのです」

 なにが不自然かわからず、賢一は出来の悪い生徒の気分になった。

「よろしいですか。使い捨ての口座に入金させる手口の場合、すべてリモートで完結しますから、犯人は被害者の近くまで来る必要がないのですよ。つまり今回も、犯人が深谷市内に来なければならない理由はなかったはずです。この手の事件では大抵、リストを片手に片っ端から電話をかけていくものですから」

「……なのに、犯人は母の家のすぐ近くから電話をかけた」

「ええ。もしかしたら犯人グループは、お宅の付近に潜伏して、家庭事情をよく調べたうえで犯行に及んだのかもしれません。とくに、春子さんにご子息がいて、以前にはよく社用車に乗っていたということも知っていたからには、事前調査をおこなったということも考えられます」

 賢一は息が詰まるような感覚を覚えた。

「犯人が事前に、母の身辺にいて接触した可能性もあると?」

「否定はできません。問題の公衆電話は、三丁目の小さな公園の敷地内の、人通りが少なくカメラにも映らない位置にあります。周辺のコンビニや路上カメラも調べているものの、明確な不審者は見つかっていません。これも、犯人グループの中に、近所の地理に精通した者がいる証拠だと思うのです。……そこで伺いますが」

 小野里は、心持ち声を抑えた。

「心当たりはありませんか。ここ数か月のうちに、お母さまの私生活を探ってきたような人物に。たとえば、なにかのセールスパーソンに扮していた可能性もあります」

「いえ……、とくには。なにぶん、実家暮らしではありませんので」

 さらに二、三の質問がなされたが、賢一は有益な情報をなんら提供することができなかった。小野里の表情は次第に険しさを増していく。

「ご協力ありがとうございました」刑事は手帳を閉じた。「ところで今日は……」

「深谷に泊まろうかと思います。母も心配ですから」

 そうは言ったが、実際に取調室の外で母と会うと、かけるべき言葉がわからなかった。母子揃って小野里に何度も頭を下げて深谷署を辞去して、暗い道を歩き始めたとき、ようやく二人の間に会話が生まれた。

「ごめんなさい」口を切ったのは春子だった。「馬鹿なことをしてしまったわ。本当に、馬鹿なこと……」

「いや。俺のためにお金を出そうとしてくれたわけだから。……ただ、まあ、」

 こんな典型的な手口には警戒してほしかった――という言葉が喉まで出かかる。それは打ち消しようのない本音だったが、言うわけにはいかなかった。賢一は拳を握りしめる。

 春子が口をつぐんだので、賢一も黙ってひたすら歩く。

 次第に賢一の中に、自分自身に対する苛立ちが募ってきた。あの忌々しいネット銀行は、半年ほど前、自分が母に開設させたものである。月二回までは振込手数料無料だから、とデジタル音痴の春子を説き伏せたのだ。そんなことをしなければよかった、と賢一は舌打ちしたくなる。振り込みを銀行の窓口で行おうとすれば、行員が声かけをしてきたり、啓発ポスターを見た母が自ら気づいたりする可能性もあったかもしれない。

 賢一がそんなことを考えているうち、二人はひときわ暗い通りに差し掛かっていた。小野里が話していた三丁目の公園が目に入る。錆びついたブランコとジャングルジムだけがあり、監視カメラのひとつもない公園。近所の母親たちの間では、子供たちをここで遊ばせないようにしよう、という了解がなされていると聞いたことがある。

 近所、という連想で、賢一は小野里刑事の言葉を思い出す。犯人グループの中に、近所の地理に精通した者がいた……。それは本当に、自分や母が知っている人間なのだろうか?

「母さん」

 声をかけると、春子は条件反射のように「ごめんね」と言った。そのしおらしさが、賢一には耐え難かった。

「なにも言ってないじゃないか」

 母は目を伏せて、ふたたび「ごめん」と呟いた。

「送ってくれるだけでいいわ。美和さんと翔ちゃんのところに帰ってやりなさいよ」

「いや……」賢一は、あらゆる種類の疲労を込めたため息を吐き出した。「悪かったよ。もう電車に乗る元気もないから、泊まらせてくれ」

 その夜、親子の間には切れ切れの会話しかなかった。なるべく穏やかな言葉遣いを心がけながら母に探りを入れて、とりあえず当面の生活に支障はないという言葉が引き出せた時点で、賢一はコミュニケーションのための体力を使い果たした。

 実家の湯船に浸かりながら、賢一は深い自己嫌悪に襲われた。顔の見えない犯人グループよりも、母に苛立ちを覚えていることに気づいたのだ。そして、そんな自分がさらに呪わしかった。

 

 

 寝床で輾転としながら、賢一は自らと母との関係について顧みた。

 そりが合わないわけでも、揉めているわけでもない。介護の問題も、今のところ立ち現れていない。だが、どこか心の距離が開いていることはここ数年感じていて、その小さなひび割れが今日、大きな裂け目となってしまったように賢一には思えた。

 母の春子は、賢一にとって唯一の肉親である。深谷市内で食品加工会社を経営していた父は、賢一が中学二年生のとき病で急逝した。

 今にして思えば、父は古いタイプの人間であった。不機嫌なときには怒鳴りつけられたことを憶えている。母に対しては「メシ出してくれ」などと乱暴な口の利き方をして、礼も言わない。賢一は、父のそんな部分は明確に嫌いだった。それでも社員に対しては面倒見がよく、事業も成功していたようだ。父の死後、その会社は人手に渡って、名前を変えたあと、別の大手企業に吸収合併されたと聞く。

 保険金のおかげで持ち家を手放すには至らなかったものの、父の存命中は専業主婦だった母は、パートで働くようになった。賢一にとって母は唯一の庇護者となり、齢を重ねるほどに、自分が母の支えにならなければという気持ちもいや増した。賢一はもとより無口な性質で、笑いが絶えない賑やかな母子というわけでもなかったが、自分と母のあいだには確かな絆があると感じていた。

 忘れがたいできごとがある。賢一が高校一年だった冬、母は当時働いていた和菓子店の店長と親密な関係になったらしく、何度か家に連れてきていた。落ち着いたら再婚するつもりなのかもな、と賢一も少年なりに察したが、思春期の潔癖さゆえ、賢一の心はその未来を拒んだ。しばらくしたら店長は来なくなり、母も転職したのだが、賢一が察するに、それは春子の決断だったはずだ。賢一が「新しい家族」を拒否したことを、母は察したのだろう。

 そんな負い目もあり、賢一は高二になると新聞配達のバイトを始めた。母と子二人だけでやっていけるんだ、と母に安心してもらいたいという思いがあった。酒もたばこもその他の遊びもやらず、ただこつこつと働き続ける母。彼女を喜ばせるためにできることは、生活費をわずかなりとも稼ぎつつ、早く身を立てることしか思いつかなかった。

 地元の高校から埼玉県内の国立大学に進学した賢一は、卒業後、今も勤めている出版社に就職した。そして、最初に配属されたさいたま営業所時代に、今の妻である美和と知り合ったのだ。彼女は当時、さいたま市内の病院に勤務する看護師だった。ひとつ年下ではあるが、負けん気が強く賢一を引っ張っていくような美和が、当時の賢一には頼もしかった。その関係は、今でもおおむね変わらない。

 就職後も実家から通勤していた賢一であったが、結婚後は美和と二人で、さいたま市内のマンションに暮らし始めた。深谷の実家に住む案も出るには出たが、やはり美和は、より東京に近い県庁所在地での生活を望んだ。それに、美和と春子との関係はとくに悪くない――ように賢一からは見える――とはいえ、義母の干渉というのはなければないほうがよいものなのだろう。賢一としても、親元を離れた自立を経験したいと思っていた。

 結婚後まもなく、賢一には東京本社異動の辞令が出た。そして賢一が三十歳のときに息子の翔馬が生まれ、看護師の仕事を続けていた美和は主婦業に専念する。そこからは怒濤の日々で、賢一は同じ県内にある実家から足が遠のくようになった。基本的にカレンダー通りの勤務だから、盆と暮れは顔を出せるものの、実家への滞在は二泊から一泊に減り、ついに盆には泊まらなくなった。これも明確な原因があったわけではない。ただ、人生の時間を未完成のパズルに見立てたとき、賢一はいつしか家庭や職場で次々と振ってくるピースをはめていくことに追われるようになったというだけだ。

 春子はずっと、スーパーやクリーニング店などでパートをして生計を立てていた。今年六十五歳を迎える彼女は、老齢年金の受給が始まるにあたって、昨年の暮れに仕事をやめた。これに伴って今年の年始から、賢一夫婦の間で深谷市の春子宅で同居することが議題に上るようになった。この案を持ち出したのは、他ならぬ美和である。

 当然、美和には美和なりの意図があった。高齢になり、健康や移動に不安が生じるかもしれない春子と暮らすかわりに、翔馬の中学受験にかかる今後の塾代と、私立中学の入学金を出してもらうというプランがそれだ。美和が翔馬を入学させたがっているのは、埼玉県北部にある中高一貫の全寮制男子校である。ここは深谷市からも近いから、連休に翔馬が帰省するのが楽だという利点も生じる。

 春先に、賢一はそれとなくこのアイディアを、電話で春子に持ちかけてみた。どうやら彼女はこの考えを歓迎してくれたようで、予算面についても賢一と協議し始めていた。先月、賢一はじつに久々に、盆でも正月でもない時期に実家を訪れていた。貝瀬家の経済状況について正直なところを打ち明け――当然、美和の了承も得て――通帳を突き合わせて率直に話し合った。春子の口座には一千万円程度の貯金があり、年金と合わせれば十分に生活していけるはずだが、彼女は「老後には二千万円貯めておけって、国が言ってるものね」と不安そうに口にしていた。

 賢一もこのまま勤めれば二、三年以内に課長になることはほぼ内定しており、したがって昇給も近いはずだ。翔馬が全寮制の学校に入るのなら、美和も仕事に戻れる。だから、春子にいったん塾代を出してもらうというのは三方よしの考え方であるはずだった。

 中学受験の話が持ち上がったときには、自らの所得を思い不安に駆られた賢一だったが、これならなんとかなると安堵しかけていた。

 そんな矢先に起きた、今回の事件だったのである。

 

 翌朝、賢一は憂鬱な気分で目を覚ました。ろくに眠れなかったことは言うまでもない。

 顔を洗って自室に戻り、防虫剤臭い布団に座り込んで、スマートフォンを手に取る。美和には、昨夜は「トラブルがあったから実家に泊まる」とだけ伝えて、メッセージアプリでの問い合わせには既読をつけなかった。しかし、いつまでも沈黙を貫くことは不可能だ。

 電話をかけると、美和はすぐに出た。賢一は「落ち着いて聞いてほしい」と前置きして、なるべく淡々と、起きた出来事を伝える。言うべきことを伝え終えたあと、二人の間には耐え難い沈黙が訪れた。絶句していた美和が口を切るまでに、十秒ほどかかった。

『そう……、そんなことが……。お義母さん、大丈夫なの』

 なにを持って「大丈夫」なのかはさっぱりわからないが、「ああ」と答えるしかなかった。

「すまないな、連絡が遅れて」

『そんなことはいいけど、今日は帰れそうなの』

「どんな手続きをすべきかまだ把握してないが、塾には間に合うように帰るよ」

 土曜日は、夕方からの翔馬の塾の送迎を賢一がやることになっている。

 その連想で、賢一は何気なく「翔馬は元気か」と尋ねた。

『元気にたっくんちに出かけてったわよ。新しいゲーム機の抽選、当たったんだって。四年生の夏なんだから、受験見据えるならもうゲームで遊んでる場合じゃないんだけど、翔馬もなんでわかんないかなあ』

 受験という言葉が呼び水になり、話題は賢一が避けたかったほうに向かう。

『三百万円、だっけ? ひどいね本当に。翔馬の一年間の塾代と入学金合わせたのと、ちょうど同じくらいの金額だ』

 妻の言葉は、ただでさえざらついていた賢一の心をひどく逆撫でした。

「べつに俺たちの財布に手を突っ込まれたわけじゃない」

『それは……そうだけど。ちょっと話が変わってくるじゃない。こうなると、塾代をお義母さんに出してもらう話も難しくなるし。ご負担おかけできない状況になったでしょ、ってこと』

 はああ――という深いため息が、電話の向こうから聞こえてきた。

『三百万円、だもんねえ』

 美和の苛立ちは、わからないではなかった。メディアでさんざん取り沙汰されている典型的な詐欺の手口をなぜ見抜けなかったのだ、という思いは消せない。だが、妻になじられると、母を庇いたい気持ちも頭をもたげてくる。

「受験にかかる金については、また後で考えよう。美和のご両親に頼るってわけにもいかないんだから」

 美和の実家は新潟にあり、両親は健在だが疎遠だ。美和には兄が二人いて、実家では長男夫婦とその子供二人が、両親と同居している。大学進学に伴って東京に出てきた美和は首都圏に留まったが、彼女が地元に戻ることを希望していた両親とはいまだに蟠りがある。

 その話題をいま出す必要はなかった、と賢一はすぐに悔やんだ。電話の向こうから、美和の短い吐息が聞こえた。傷ついたのではなく、腹を立てたらしい。

『そうだね。お義母さんはもう少ししっかりした人だと思ってたから驚いてる。おひとりじゃ大変だろうから、もう一泊して面倒見てあげたら? 翔馬の送り迎え、今日だけは私がしてあげるから』

 ぎくしゃくしたまま、通話は終わった。

 

 一階のリビングダイニングに下りると、母はもう起きていた。

 おはよう、と挨拶を交わした後、賢一は言葉の接ぎ穂を探したがなにも思いつかない。そのとき母が「ごめんなさいね」と口走った。もう謝罪はやめてくれ、と賢一は遮ろうとしたが、

「朝ごはん、なんにもないの」と母は言った。「いつも私、井田さんちのパン屋さんで朝食を買うんだけれど、今日はなんだか、億劫になっちゃって」

「俺は、普段から朝はコーヒーだけだからいいよ。母さんの食べるものがなにもないなら、買ってこようか」

 母は顔を曇らせた。「朝食は抜いちゃだめよ」

 賢一はその言葉には直接応えず「買ってくるなら、なにがいい?」と訊いた。

 結局、二人は台所の戸棚から引っ張り出したコーンフレークを食べることにした。少し湿気ていたので、牛乳をかけて食感をごまかす。それを無言で喉に流し込みながら、賢一は部屋の角にある電話を横目で見た。小卓の上に置かれている白い固定電話。賢一が大学生のころに買ったもののはずで、もう二十年物になるのではないか。電話すらも、今の賢一にとっては事件の元凶のように思えて、恨めしかった。

「もう、固定電話も解約するか? 契約料もかかるわけだし。スマホでじゅうぶんだろ」

「でも……。この番号しか知らないかたもいるわけだし。昔の友達とか。それに、昨日も小野里さんから名刺をいただいて、番号を登録したばかりなのよ」

 こんな忌まわしいできごとがあっても、母は固定電話に固執するのか。急に彼女が頑迷に思えてきて、賢一にはそれが悲しい。

「昔の繋がりは年賀状でなんとかなるだろ。電話はスマホだけでいいって」

「スマホも、安全とは限らないでしょう」

 母がぼそりと呟いた。正論ではあるが、賢一は素直にうんと言うことができなかった。

 それ以降、ろくな会話もないまま朝食は終わった。

 

(つづく)