プロローグ
(……どこだ?)
夢の世界から現実に戻されて、
それでも、自分が
まったく動けないのは、両手両足が椅子のパイプ部分に結束バンドで固定されているからである。それも、肌に喰い込むほどにがっちりと。
どうやら何者かに
暴れても無駄なのはわかっている。むしろ妙な動きを取れば、椅子ごと床にひっくり返る恐れがあった。そうなったら、今以上に屈辱的な状況になることは想像に
(とにかく、誰が俺をこんな目に遭わせたのかってことだな)
眠りに
加えて、闇の中にいるために、
どことも知れぬ暗黒に置かれているために、声を出すこともためらわれた。何かアクションを起こすなり、
とにかく、どうしてこうなったのかを探るため、懸命に記憶をほじくり返す。その結果、初めて訪れたショットバーで、隣に
(てことは、あの女に
そんなふうに考えたのは、思い当たることがあったからだ。頭がぼんやりしているのも、薬物の副作用ではないのか。
とは言え、くだんの女性は、そんな
(じゃあ、あのバーテンダーが?)
しかし、いかにもアルバイトという若い男で、気弱げな
どうやら、まだ思い出せていない部分がありそうだ。そこをさぐろうと意識を集中しかけたところで、バチンと金属的な音が大きく響いた。
「うわっ」
思わず声を上げて目を閉じたのは、強烈な光を真正面から当てられたためである。
瞼を通して明るさが感じられる。かなり強いライトだ。堀江は顔を背け、光のほうを見ないように注意しながら、自分がいる場所を確認した。
床は
印象としては、廃業した工場の内部という感じか。少なくとも、誰かがそこで日常を
つまり、仮に声を上げたところで、助けは望めないということだ。
「さすがに落ち着いていますね」
声がした。男の声だ。だだっ広い空間に反響し、軽くエコーのかかったそれに、聞き覚えはなかった。落ち着いた雰囲気からして、年上のようである。
「誰だ」
問いかけに、男は答えなかった。どうやら光の後ろ側にいるらしい。そのため、姿を
「俺をどうするつもりだ。何が目的なんだ?」
「わからないんですか?」
質問に質問で返されるほど、腹立たしいことはない。こちらの内情を探り、
そっちがその気なら、こっちも質問に答えなければいい。そうすれば、向こうが持ち
黙っていると、男が
「こうして拘束されている理由が、わからないんですね?」
「では、あなたから訊きたいことはありますか?」
「だから、お前は誰で──」
さっきと同じことを質問しそうになり、口をつぐむ。どうせはぐらかされるに決まっている。もっと相手の手掛かりをつかめることを訊ねるべきだ。
「俺をどうやってここへ連れてきたんだ?」
「酔わせて、前後不覚になったところを車に乗せました」
あっさりと、しかも単純な方法を告げられて、拍子抜けする。そうすると記憶がないのは、酔ったせいなのか。
「そのときのことを、何も憶えてないんですね?」
「ああ」
「酔って記憶をなくすのはよくあることです。特に、度数の高い酒を飲んで、血中のアルコール濃度が一気に上がったときには、かなり長い時間の出来事を思い出せなくなるんですよ」
ということは、男とはあのショットバーで出会ったのか。勧められて、強いカクテルでもあおったのかもしれない。
そこまで考えて、堀江は不意に思い出した。隣に坐った女性と意気投合したはずが、さてこれからというところで先に帰られたことを。
(そうすると、あの女はこいつと無関係なのか)
獲物に逃げられてくさっていたものだから、どこの誰とも知らぬ男の
「ですから、堀江さんが口にしたのはアルコールのみです。妙な薬は飲んでいません」
男の言葉に、堀江はドキッとした。名前を知っていたから驚いたのではない。当てつけるみたいに、薬のことを口にされたからである。
(こいつ、何か知っているのか?)
「俺をどうするつもりなんだ?」
問いかける声が、ここに来て震えを帯びる。それでも、拉致された身としては、まだ
「それは、あなた次第です」
足音が聞こえる。男が前に進んだようだ。残念ながらライトを背にしたため、逆光で顔が見えなかった。
(それほどがたいのいいやつじゃなさそうだな……)
目を細めて男のシルエットを確認し、堀江はいくらか
(そうか。ここまで念入りに拘束したのは、腕っぷしに自信がないからなんだな)
優越感が、堀江に余裕を与える。威張りくさるみたいにからだを背もたれにあずけ、自然と胸を
男が言う。
「まずは、こちらがあなたに関して知っていることをお伝えします。間違っていたら、あとで訂正してください」
「ああ。それで?」
「名前は堀江幸広。三十二歳で独身。広告代理店に勤務しており、クリエイティブ部門に所属。まだ若いのに、けっこう権限がある立場のようですね。
「才能だ。決まってるだろう」
ムッとして言い返すと、男が一歩前に出る。こちらを見おろし、腕組みをした。
「ずいぶんと自信家のようだ。さぞや女性にももてるんでしょうね」
「当たり前だろ」
「だったら、薬や暴力を使って女性を意のままにする必要はないはずだ」
男の言葉遣いが変わった。やはりあのことを知っているのだ。
堀江は奥歯をギリリと
「何の話だ?」
とぼけると、男がいきなり向こう
「ぐっ」
堀江は
「やっぱりな」
男の声に、堀江はとうとう怒りを表に出した。
「やっぱりとはどういう意味だ!」
「普通なら、こんなふうに身動きが取れない状態にさせられたら、逃れようともがくはず。なのに、お前は何もせずにじっとしている。前にも経験があって、ヘタに動いたらかえって
そこまで知っているのかと、堀江は
「もっとも、そのときは拘束されたんじゃなくて、したほうだったんだよな」
男が身を
「そのとき、お前はもがく彼女に言ったはずだ。暴れても無駄だと。そんなことをすれば椅子ごとひっくり返って、かえってまずいことになるとも。だが、恐怖に駆られた女性が、そんな言い分を素直に聞けるはずがない。結果、お前が
いきなり胸を押され、堀江は「うわっ」と声を上げて後ろに転倒した。後頭部をコンクリートの床にぶつけ、目の奥に火花が散る。しばらくは痛みに呻くだけで、声が出せなかった。
「
言い放った男がしゃがみ込む。
「こんなふうに椅子ごと倒れた彼女を、お前は卑劣なやり方で
「──あ、あいつに頼まれたのか!?」
懸命に気を張って訊ねると、男が首をかしげたのがわかった。
「あいつって誰だ?」
「今、お前が言った女だよ」
「名前は?」
質問に、堀江は答えられなかった。すると、男がやれやれという口調で、「ま、そうだろうな」と吐き捨てる。
「お前には、相手の名前なんてどうでもいいわけだ。単なる欲望のはけ口でしかないからな。人間じゃなくて、ただのモノとしか思っていないんだろう」
「うるせえ。そうか。あいつに頼まれたんだな。復讐して、俺を同じ目に遭わせろって」
彼女の名前を、堀江は確かに憶えていなかった。だが、必ず見つけ出して、こんなことを依頼した
「
「え?」
「あいつじゃない。上条敦子という名前がある。ひとりの人間としての尊厳もな」
男の説教など、堀江はまったく聞いていなかった。女を捜し出す手掛かりを与えるなんて、馬鹿なやつだとほくそ笑んだだけであった。
「だいたい、同じ目に遭わせるなんて不可能だ。あいにく私には、
男が立ちあがる。また蹴られるのかと身構えた堀江であったが、そうはならなかった。
「ところで、これから言う名前は憶えているか?
いちいち数えていなかったが、二十名以上の名前が挙げられたようだ。もちろん、誰ひとりとして記憶に残っていない。ぼんやりと、聞き覚えがあるものはあったけれど。
「全員、お前がレイプした女性たちだ。ときには拘束し、ときには薬で意識を
断罪しながらも、男の口調は落ち着いていた。丁寧な言葉遣いだったときと、それは少しも変わっていなかった。
それゆえに、不気味だったのも事実である。
(じゃあ、あいつに頼まれたわけじゃないんだな)
何人の女性を
セックスをさせるだけの女なら、いくらでもいる。地位と金をちらつかせれば、女たちは喜んで
それに満足せず、強制的に交わることを好んだのは、より快感が大きかったからだ。肉体的なものばかりでなく、精神的な部分でも。
女を支配し、
椅子に拘束して辱めた女の名前を、堀江は憶えていなかった。けれど、行為そのものは容易に思い出せる。最も直近の獲物だったからだ。
強姦を始めた当初は、俗にレイプドラッグと呼ばれる薬物を使い、正常な判断力を奪った上で女を犯していた。しかし、薬の効き具合によっては、最後まで相手の意識が朦朧としたままで終わることもある。それでは
薬物から物理的な縛めへと変化したのは、抵抗の激しかった女を殴り、手足を縛ったことがきっかけだった。自由を奪われて悲嘆にくれる彼女を、堀江は何度も責め苛んだ。薬の影響で抵抗もままならぬ女を抱くのより、何十倍も
以来、薬は獲物を捕らえるためのみに用いることにした。その上で拘束し、正常な意識を取り戻したところで、彼女たちを凌辱したのである。嫌悪と
女を殴ったのは、最初に縛ったひとりだけである。暴力で言いなりにさせても面白みがない。あくまでもセックスで支配したかったのだ。
ベッドに縛りつけるのに飽きて、椅子を使うことを思いついたのが、その上条とかいう女のときである。そのままでは交わることができず、動けない女を少しずつ
長時間、恐怖に
女たちの名前を憶えていなかったように、彼女たちにもこちらの
だいたい、レイプ被害者のほとんどは泣き寝入りなのだ。用意周到に進めた自分が捕まるわけがない。堀江は自信を持っていた。
仮に参考人として呼ばれ、取り調べを受けたところで、何もしていないとしらばっくれるだけだ。裁判になったら有能な弁護士を雇って、女の落ち度を責め立てればいい。すぐに耐えられなくなって、訴えを取り下げるだろう。いくらレイプが非親告罪になったところで、結局は証拠がものを言う。被害者の協力がなければ、裁判所は何もできない。
しかしながら、まさかこんな方法で逆襲されるとは、思ってもみなかった。
「あいつじゃないってことは、他の女に頼まれたのか?」
問いかけに、男は「いや」と短く答えた。
「だったら、誰に頼まれた。女どもの家族か。それとも恋人か?」
「私は、誰からも依頼されていませんよ」
再び丁寧な言葉遣いになった男が、その場を離れる。遠くへ行ったわけではなく、すぐに戻ってきた。彼の手には、三脚に取りつけられたビデオカメラがあった。
「これから、あなたがしたことをすべて白状していただきます。女性たちの名前は憶えていなくても、どこでどんなことをしたのかぐらいは思い出せるでしょう」
どうやら自白ビデオを撮影するつもりらしい。犯罪の証拠にするために。
「お前、刑事なのか?」
「違います」
男が即座に否定する。確かに、こんな方法で自白を取ったところで、証拠になるはずがない。むしろ、非道な捜査方法を
堀江は椅子ごと起こされ、最初の体勢に戻った。すぐ前に、ビデオカメラがセットされる。
「では、話してください」
カメラの赤いランプが点灯する。録画が始まったのだ。
「話すことはない」
堀江は唇を引き結んだ。こんなことでべらべら喋るような、間抜けでも腰抜けでもない。
すると、男がまた事実を突きつけてくる。
「あなたは、女性たちにこう言って脅したそうですね。お前の恥ずかしい姿は、すべて撮影した。妙な
「どうしてそれを──」
言いかけて、慌てて口をつぐむ。そんなことまで知っているということは、やはりレイプした女たちに頼まれたのではないのか。
「だけど、実際には撮影なんかしていなかった。犯罪の証拠を残すような真似を、あなたがするはずありませんから。口先だけの脅しだったわけです」
事実その通りであったが、もちろん認めるわけにはいかない。堀江は無言を
「けれど、女性たちはそこまで疑いません。本当にあれが撮影されたのかと、レイプされたあとも長らく苦しんだのです。つまり、あなたがすべてを白状しない限り、彼女たちは死ぬまでレイプされ続けるのです」
などと言われても、堀江が心が動かされることはなかった。次の言葉を聞くまでは。
「上条敦子が死にました。自殺です」
「え?」
レイプした女がどうなったのかなんて、少しも気にしていなかった。だが、自殺したと聞いて、堀江はさすがに動揺した。