第 1 回

「ナポリタンが二つだ。頼むぜ」

 暁五郎が客の注文を伝えると、厨房の中で佐々木誠が「はいよ」と短い声で応じた。五郎はグラスに氷を入れ、そこにアイスコーヒーを注いだ。ミルクとガムシロップ、ストローを持って客のもとに運んでいく。「はい、先のアイスコーヒー、お待ち」と言いながらテーブルの上に置いた。客はサラリーマン風の二人組だ。神保町という土地柄か、客はサラリーマンから学生まで様々だ。

 ここは喫茶デイブレイクという、五郎が経営する喫茶店だ。神保町の白山通り沿いにあり、開業して二十一年という長い歴史を持つ。従業員は二人いて、ホール担当の柴田幹雄、通称ミッキーと調理担当の佐々木誠、通称マコだ。古いシックな店内には昭和の香りが色濃く残っており、いわゆる純喫茶と呼ばれる類の喫茶店だ。古いのは店だけではなく、そこで働く人間も年季が入っている。五郎ら三人の平均年齢は七十五歳だった。先月、どこかのテレビ局のディレクターが店を訪れ、取材の申し込みがあった。話を聞くと老人ばかりが働く喫茶店というふざけた企画だったので、水をぶっかけて追い払ってやった。まだまだ若い者には負ける気はしない。

「よっこらしょ」

 とはいっても寄る年波には勝てず、昔のように終日立ちっぱなしは正直きつい。カウンター席の一番隅が五郎の指定席だ。隣では幹雄がスポーツ新聞の芸能欄を眺めていた。水着を着たアイドルが自分の写真集を持って宣伝用の笑みを浮かべている。

「いい子だな」

 五郎が言うと、幹雄が応えた。

「悪くねえな。俺があと五歳若かったらな」

「五年前でもどうにもならんだろ」

「なるさ。それに今でも五回に一回はうまくいくことがある」

「何の話だよ」

 幹雄は青いバンダナを頭に巻いている。後退し始めた前頭部を隠すためだった。五郎は現在のところ髪に不安を抱えていないため、赤いバンダナを首に巻いている。

「はい、ナポリタンお待ち」

 厨房から声が聞こえ、誠が二人前のナポリタンを台の上に置いた。誠は黄色いバンダナを首に巻いている。赤、青、黄は三人のイメージカラーでもある。

 無言のまま幹雄と顔を見合わせた。顔ジャンケンという幹雄とだけ通じるゲームだ。幹雄がグーを出したので、チョキを出した五郎が立ち上がり、完成したナポリタンを客のもとに運んだ。

 午後三時という中途半端な時間帯のせいか、店内に客の姿は少ない。しかし平日の昼どきは、四人掛けのテーブルが六卓と、八人座れるカウンターが満席になることもある。名物は誠が作るナポリタンだった。以前はほかにもミートソースやペペロンチーノ、カレーやピラフとメニューも充実していたのだが、数年前に仕入れや調理も面倒臭いのでフードメニューをナポリタンに一本化した。これで少しは楽になるかなと思ったのが間違いで、ナポリタン一本で勝負してる感が逆に強く出てしまい、全国からナポリタン愛好家が訪れ、てんやわんやの大盛況となってしまった。ようやくブームも去ったようで、今はこうして落ち着いた時間が流れている。

「おい、マコ。なに悲しそうな顔してんだよ」

 厨房から出てきた誠に幹雄が声をかけた。カウンター内の椅子に座った誠は目を伏せて言う。

「昨日、定期検診の結果を聞きに医者に行ったんだよ。そしたら糖尿病の予備軍って言われちゃってさ」

 誠は若い頃の暴飲暴食が祟り、今では体重が百キロを超えている。おっとりとした性格で、喧嘩っ早い幹雄とは対照的だった。

「成人病か」幹雄がうなずいた。「成人してから何年たったと思ってんだよ。そろそろ成人病になってもいい頃合いじゃねえか。それに予備軍だろ。早く一軍に入れるようにもっと頑張れ」

 誠が顔を上げて反論する。

「他人事だと思ってんだろ、ミッキー。今じゃ成人病じゃなくて生活習慣病っていうんだよ。よく覚えておくんだね」

「何だと、この野郎」

 言い争いが始まる予感がしたので、五郎は二人の間に割って入る。

「やめとけ、二人とも。いい歳なんだから、体のどこかが痛かったり悪くなったりするのは仕方ねえことだろ。要はメンテナンスよ。労りながら生きてくってのが大事なんだよ」

 無理はしない。それが重要だと気づいたのは最近のことだ。若い頃は無理をしても問題なかったが、最近では無理をすると体に響くようになってきた。

「五郎、目の調子はどうだ?」

 誠が訊いてきた。実は二ヵ月前に白内障の手術を受けたのだ。白内障に罹ったこと自体がショックだったし、まさか自分が手術をするとは思ってもいなかった。

「問題ないぜ。主治医の先生も太鼓判押してたしな」

「白内障か」と幹雄が言う。「たく、三人で集まって病気の話をするとは昔は思ってもいなかったな」

「まったくだ」

 幹雄と誠、この二人とはもう六十年近い付き合いになる。性格もばらばらだがなぜか馬が合い、今でも毎日こうして顔を合わせている。

 五郎は几帳面な性格だ。計画第一で、すべての物事――たとえばその一日をどう過ごすかなど、計画を立てないと気が済まない性格だ。自分が立てた計画通りに物事が進まないと苛立ってしまうのが欠点だと自分でもわかっている。

 幹雄は大雑把な性格だった。なるようになる。ゴーイングマイウェイ。アドリブで人生を送っている男だった。計画大好きの五郎とは正反対の性格なのだが、これが意外に合っているというか、うまい具合に中和され、結果オーライだったりする。

 誠は真面目な性格だった。クソがつくのほどの。たとえば喫茶デイブレイクのナポリタンには斜めに切ったソーセージが六片入っている。五片でも七片でもなく、必ず六片だ。太陽が東から昇るのと同じように、誠の作るナポリタンに入っているソーセージは六片なのだった。

「健康という面では」幹雄が腕を組んで言った。「俺が一番だろうな。今年に入って風邪すらひいたことがないからな」

 それは認める。五郎は言った。

「不思議で仕方ないぜ。お前みたいに適当に生きてる奴が、一番健康なんだもんな」

「適当っていうのは、適して当てはまるってことなんだよ」

「おっ、ミッキー、なかなかうまいこと言うじゃないか」

「マコ、馬鹿にしてんのか」

 カランコロンと音が鳴った。表のドアにとりつけてある鐘がなり、客が来たことを知らせたのだ。最初に入ってきたのは若い女――しかも外国人だった。かなりの上玉でミニスカートから褐色の脚がすらりと伸びていた。そのあとからサングラスをかけた若い男が入ってくる。男の姿を見た幹雄が溜め息をついて男に向かって言った。

「金ならないぞ。お前にいくら貸してると思ってんだよ」

「そんな冷たくしないでくれよ、幹雄おじさん」

 サングラスの男は幹雄の隣に座った。その隣に外国人の女も腰を下ろす。男は幹雄の遠縁に当たり、幹雄の弟の孫といった関係らしい。名前は柴田飛露喜という。

「この子、ジャスミン。俺の新しい彼女ね」

「よろしくお願いしまーす」

 少しイントネーションはおかしいが、ジャスミンという子は丁寧に頭を下げた。おそらくフィリピン人だろう。夜の仕事の匂いがするが、悪い子ではなさそうだ。

「アイスコーヒー二つ、それとジャスミンにナポリタンね」

 飛露喜がそう言ったので、カウンターの中にいた誠が二杯のアイスコーヒーを出してからカウンターの中に戻っていった。

 飛露喜が煙草を出して一本くわえた。ライターで火をつけようとしたところを隣に座っていた幹雄が注意する。

「悪いな、飛露喜。この店は禁煙だ」

「えっ? そうだっけ?」

「ああ、もう十六年もたつ。吸うなら裏口に行け」

 五郎が六十歳になったとき、三人全員で禁煙して同時に店も全面禁煙とした。吸いたい客のために裏口に簡素な喫煙場所を設けてある。八十歳まで生きていたらまた煙草を吸おうと三人で誓った。あと四年で八十歳になるのだが、もう正直どうでもよくなっている。

 飛露喜が席を立ち、裏口の喫煙場所に向かっていった。

「超おいしい。これ、ヤバいね」

 ジャスミンがナポリタンを一口食べて声を上げた。「へへ」とカウンターの中にいる誠が嬉しそうに笑っている。可愛いフィリピーナに作った料理を褒められて悪い気はしないのだろう。

「それより飛露喜」幹雄がやや真面目な顔をして言った。「お前、最近どうしてるんだ? ここに来るのも半年振りじゃないか。例のカーディーラーはまだ続いてるのか?」

「あれはとっくにやめた。今は仕事してない」

「お前な……」

 幹雄は肩を落とす。飛露喜の年齢はたしか二十五歳。彼が十八歳で上京したときからこの店に出入りしているので、もう七年ほどの付き合いになる。

 当初、飛露喜はダンサー志望ということで上京した。故郷の博多ではそれなりに知られたストリートダンサーだったようだ。最初のうちは渋谷や六本木あたりでダンスチームに入っていたらしいが、長続きはしなかった。それ以来、職を転々としているという。

「仕事は探してるんだろうな。いいか、飛露喜。お前はまだ若い。だが……」

 説教じみたことを言い始めた幹雄の言葉を遮るように飛露喜が言った。

「俺、結婚しようと思ってる」

「結婚って、この子とか?」

「ほかに誰がいるんだよ」

 過去にも何度か飛露喜は恋人をこの店に連れてきた。しかし結婚したいと言い出しのは初めてだった。飛露喜が説明を始める。

「ジャスミン、母国に母親を残してきてるんだ。ミンダナオ島っていう島で、バラックみたいな小屋に住んでるみたい。ジャスミン、毎月母親に仕送りしてるんだよ。俺にはもったいないくらいのいい子なんだよ」

 すでにプロポーズもして、彼女は快諾してくれたらしい。国籍目当ての結婚を疑ってしまうが、詳しい話を聞くと彼女は不法滞在者ではなく、きちんと労働ビザをとって来日しているようだ。

 都内で唯一の血縁者である幹雄が、およそ似つかわしくない台詞を口にした。

「結婚っていうのはな、ホレたハレたでするもんじゃねえんだよ。世間知らずのガキじゃあるまいし」

 五郎は苦笑した。幹雄は三回結婚に失敗しており、どの結婚生活も半年も続かなかった。ホレたハレたで結婚した結果だった。ただしそういう無鉄砲というか、無計画なところは幹雄らしくもあり、その血は飛露喜にも流れているようだ。

「ガキじゃねえよ。俺はもう大人だよ。俺は絶対にジャスミンを幸せにするんだ。そう誓ったんだよ」

「まあまあ飛露喜、落ち着けよ」五郎はたまらず割って入った。「ミッキーだって好きで結婚に反対してるわけじゃない。お前のためを思って言ってるんだ。飛露喜、仕事してねえんだろ。どうやってジャスミンを幸せにするつもりだ? その計画、教えてもらおうか」

 飛露喜はすぐには答えなかった。もったいつけるようにアイスコーヒーを半分ほど飲んでから言った。

「一旗揚げようと思ってる」

「一旗って、またダンスでもやろうと思ってんのか?」

「違う。でかい獲物を見つけた。現金輸送車だ。ジャスミンの店の客から情報を仕入れたんだ。本当だ。信じてくれ。嘘じゃない」

 飛露喜は必死の形相だった。椅子から立ち上がり、床に手をついて土下座をした。

「頼む。頼みます。どうか俺に力を貸してくれ。俺には三人の力が必要なんだ」

 困ったもんだ。五郎は幹雄、続いて誠と視線を交わし、溜め息をついた。ジャスミンが「ご馳走様でした」とフォークを置き、土下座している婚約者を不思議そうな目で見ていた。

 アカツキ強盗団。五郎らはそう名乗っていたこともある。かれこれ二十年以上も昔の話だ。

 五郎は一九四二年に東京都葛飾区で生まれた。本名は山田五郎。同じ年生まれの有名人に俳優の松方弘樹とプロゴルファーの青木功などがいる。特に青木功とは誕生日も一緒なので、昔から他人という気がしなかった。

 物心ついたときには、戦後の混乱期の真っ只中だった。母は亡くなっており、父と子の二人暮らしだった。父は闇市に出入りする商人で、アルコール度数も定かではない怪しい酒を屋台で売り歩いていた。当然、五郎も父を手伝う形で闇市に出入りした。スリや窃盗が当たり前という日常で育った五郎は、いつしかそういった技術を身につけていった。

 闇市が姿を消して以降、五郎の父親は暁一家という的屋を生業とする組織に身を投じた。縁日や祭りで露店を出し、全国各地を回るのだ。戦後復興の機運も相まって、そういった行事をおこなう地区も増えてくる一方だった。

 そこで出会ったのが柴田幹雄と佐々木誠だった。三人とも親が暁一家に属しており、自然と仲良くなった。年は全員が一歳違いで、上から順に五郎、幹雄、誠と続く。三人はよく一緒につるむようになった。十代の頃だった。

 五郎が二十歳のときに暁一家は愚連隊系の組織との抗争に破れ、壊滅状態に陥った。その混乱の中で五郎の父親も消息を絶っていた。五郎はひとりぼっちになってしまったが、誠と幹雄と一緒だったので淋しくはなかった。以来、五郎は暁という偽名を使うようになった。暁という名前を残したかったからだ。

 自然と悪事に手を染めるようになった。三人の中でいつしか役割というか、特技のようなものも出てきて、最年長の五郎の役割は計画を練ることだった。闇市で大人たちが騙し合う姿を子供の頃から目の当たりにしてきた五郎にとって、犯罪というのは計画がすべてだった。勝負というのは戦う前から決まっている。その言葉をモットーに、五郎は細心の注意を払い、そしてときには敵も驚くような大胆な計画を立てた。

 幹雄の特技は変装だった。端整な顔立ちをしているので女性に化けるのも難しいことではなかった。浮浪者に化けて周囲に溶け込むのも難なくこなした。

 誠は幼い頃から手先が器用で、モノを作ったり直したりするのが抜群に上手かった。アメリカ製のトランジスタラジオを独学で直したのが十歳のときだった。当然、鍵の開け閉めにも秀でていた。

 当初、仕事の多くは空き巣だった。盛り場で羽振りのよさそうな男を見つけ、住所を調べ上げる。偵察は幹雄の仕事だ。変装してターゲットとなる邸宅の周辺を徹底的に調べあげるのだ。それを元に五郎が完璧な計画を立て、いざ決行となる。鍵を開けるのは誠の仕事だ。侵入して金庫から金を盗むだけの簡単な仕事だった。

 とはいっても荒稼ぎをしていたので当然同業者にも目をつけられるし、中には警察に密告する輩もいたので、仕事がしづらくなってきた。そこで目をつけたのが銀行だった。危険を冒して細かい金を稼ぐよりも、どうせなら一攫千金を狙った方がいいんじゃないか。そう思った五郎たちは現金輸送車の強奪を計画した。当時はまだ警備体制も緩く、特に地方銀行はその傾向が顕著だった。五郎らは全国各地で立て続けに五台の輸送車を襲い、しめて一億五千万円の大金を手に入れた。

 使った方法は警察官や役場の人間を装って輸送車に接近し、適当な理由で警備員を下ろして、隙を狙って乗り去るという手口だった。五郎たちの犯行方法に影響を受けたのか、全国で似たような事件が多発した。そこで五郎たちは警視庁に手紙を出した。要するに犯行声明というものだったが、警察は信憑性がないと判断したのか、公表されずに闇に葬り去られた。そのときに五郎たちが名乗った組織名がアカツキ強盗団で、以降、五郎らは自分たちをそう呼ぶようになった。

 たまに小さな仕事をこなしながら、遊んで暮らした。しかしいい時代も長くは続かなかった。三人仲良く同時期に金を使い果たし、集まって相談した。とにかくでかいヤマをやりたい。それが三人の共通した思いだった。

「アメリカ行くか」

 思わず五郎はそう言っていた。テレビのブラウン管の中では日焼けした青木功がバーディーショットを決めていた。全米オープンの予選を通過したというニュース映像だった。一九八〇年、五郎と青木功が三十八歳のときだった。

 青木功が全米オープン二位の大健闘を見せる中、三人はアメリカの地を踏んだ。かつて闇市に出入りしていた頃に米兵を相手にしていたこともあり片言の英語は話せたので問題なかった。計画第一。来る日も来る日も五郎は偵察を重ね、渡米して一年後にマサチューセッツ州ボストン郊外にあるカジノの金庫から現金六万ドルを強奪する。輝かしい歴史の始まりだった。

 以来、全米各地を転々としながら強盗を繰り返した。ハイライトとなったのは一九九七年、ニューヨークのマンハッタンを走行中の現金輸送車を襲い、現金三百万ドルを強奪した仕事だろうか。最年長の五郎が五十五歳、最年少の誠が五十三歳のときのことだった。その仕事を機に足を洗って三人は帰国し、神保町のビルを買って一階に喫茶店をオープンさせた。

 二十一年間、五郎は悪事らしき悪事には手を染めることなく、喫茶店の店長を第二の人生と決め込み、のんびりとした日々をそれなりに楽しく過ごしている。

「おい、顔上げな。土下座なんてされても困っちまうぜ。それに今は営業中だ。ほかの客に聞かれたらどうすんだよ」

 五郎は立ち上がり、飛露喜の脇に手を入れて立たせる。幸いなことに客たちは話に夢中でこちらに気づいている様子はない。五郎は座りながら言う。

「ちょっと待ってろ」

 今、店内には二組の客がいる。サラリーマン風の二人組がレジの前までやってきた。代金を受けとり、「ありがとさん」と彼らを見送る。残る客は老人の二人組だ。奥の席に座っているのでこちらの会話を聞かれることはないだろう。五郎は小声で言った。

「いいか、飛露喜。俺たちはとっくに足を洗ったんだ。今更危ない橋を渡る気はさらさらない。諦めな」

「でも……」

「そうだぞ、飛露喜」幹雄が厳しい顔つきで言った。「お前は簡単に言うが、現金輸送車を襲うっていうのは立派な犯罪だ。いったん足を踏み入れちまったら抜け出すことは難しいんだ」

 飛露喜は唇を噛んでいる。おそらく結婚を前に焦っているのだろう。花嫁を幸せにしなければならず、そのためにはでかい稼ぎが必要だと。まあ気持ちはわからなくもない。

 カランコロンと鐘が鳴り、二人の客が入ってきた。初老の学者然とした二人組で、それぞれ本を抱えている。古本屋が多い神保町という土地柄、この手の客は多い。二人はメニューも見ずにホットコーヒーを注文したので、カップにコーヒーを注いで水と一緒に運んだ。戻ってくると幹雄が飛露喜に語りかけている。

「……何でもいいから仕事を見つけろ。きちんと毎月給料をもらえるような仕事だぞ。別に今すぐ結婚する必要もないじゃねえか。ジャスミンちゃんだってきっとわかってくれると思うぞ。なあ、ジャスミンちゃん」

 初対面だというのに馴れ馴れしく話しかけることができるのは年の功だ。いや、幹雄の場合は十代の頃からそうだったような気もするが。

「私、ヒロ君のことが大好きです。一番好きです。この前、フィリピンに住むママにもヒロ君の写真送りました。ママもヒロ君のことを好きになりました」

 そう言ってジャスミンは飛露喜の頭を優しく撫でた。これは駄目だな、と五郎は溜め息をつく。いわゆるラブラブってやつだろう。今、二人の間には誰も割って入る余地はなさそうだ。結婚というゴールを目指してひた走っている。

「俺はやるから。あんたらに反対されても絶対にやる」

 そう断言した飛露喜に対し、幹雄がすかさず口を挟む。

「無理だね、お前には」

「できるさ、俺にだって。見損なったよ、幹雄おじさん。まさか尻込みするとはな。年はとりたくないね。もう頼まないよ、あんたらには」

 飛露喜は残りのアイスコーヒーを飲み干し、立ち上がって店から出ていってしまう。ジャスミンは恋人を追おうとはせず、のんびりとストローでアイスコーヒーを啜っていた。五郎は幹雄に言った。

「いいのか? 放っておいて」

「仕方ないだろ。今は頭に血が昇っているだろうしな」

 飛露喜の言葉が心の隅に引っかかっていた。年はとりたくないね、という一言だ。たしかに俺たちは年をとった。それは認める。現役から退いて二十年以上の歳月がたっている。俺たちは本当になまくらになってしまったのか。そうじゃないという反発心がある一方、今や残りの余生を過ごしているという思いがあるのも事実だった。

「ヒロ君、ナポリタンのお店をやりたいって言ってます」ジャスミンが語り出した。「ヒロ君、ここのナポリタンが大好きで、そのお店を開きたいって言ってます。そのための資金が必要なんです。誰かが残さないといけないって張り切ってます」

 要するに開業資金だろう。飛露喜は喫茶デイブレイクのナポリタンをメインにした飲食店を開こうとしており、そのための開業資金が欲しいというわけだ。飛露喜はお調子者だが、あの性格は飲食業に向いているかもしれない。

 洟を啜る音が聞こえた。見るとカウンターの中で誠がうっすらと涙を浮かべている。

「嬉しいこと言ってくれるな、飛露喜の奴」

 誠は最近めっきり涙もろくなった。ドラマやドキュメンタリーだけではなく、スポーツ中継を見て涙ぐんでいるから始末が悪い。選手のこれまでの努力を想像するだけで泣けてくるという。来月から夏の高校野球の予選が始まると、ほぼ一日中泣いているだろう。

「ご馳走様でした。おいくらですか?」

 そう言って立ち上がったジャスミンに対して幹雄が言った。

「金はいい。あんたから金を受けとるわけにはいかねえよ」

「そうですか……」

「早く行ってやんな。外であいつが待ってるぜ」

「ありがとうございます。うちのお店にも来てください」

 ジャスミンは五郎ら三人に名刺を配り、それから出入口に向かう。彼女はドアから出る直前で振り返り、「バイバイ」とにっこり笑ってから店を出ていった。

「やはり飛露喜に教えるべきじゃなかったな」

 幹雄がそう言って唇を噛んでいた。五年ほど前だろうか。飛露喜の父、幹雄にとって甥に当たる男が事業で失敗して借金を作って困っていたとき、五郎たちがその借金を肩代わりしたことがあった。そのとき飛露喜は金の出所に興味が湧いたらしく、しつこく質問してきた。あまりにしつこかったので根負けしてしまい、幹雄はかつての裏稼業のことを飛露喜に教えてしまったのだ。

「悔やんでも仕方ないだろ」

 そう言って五郎はジャスミンから渡された名刺を見る。店は御徒町にあるらしく、ここからなら自転車でも行ける距離だ。ジャスミンの名刺はいい匂いがした。ジャスミンの香りかもしれなかった。

「はい、どんどん泡立てていきましょうね。そうです、いい感じです。だまを潰す感じで泡立てていきましょう」

 小栗忠正はボールの中に入った液体を泡立て器でかき混ぜている。ちょうど隣を通りかかった四十代くらいの女の先生が忠正のボールの中身を見て言った。

「小栗さん、いい感じです。美味しいプリンができそうですね」

 近所の公民館でおこなわれている教室だった。材料費のみの負担で受けることができるスイーツ教室で、期間は半年間だった。先週はクッキーを焼き、今週はプリンを作っている。

 プリンなど作りたくて作っているわけではない。そもそもスイーツなど興味はなく、甘いものを食べるとしたら今川焼きくらいだ。そんな忠正がスイーツ教室に通っているのには理由がある。

 忠正は十五年前、六十歳のときに警視庁を定年退職した。長年刑事をしていたという経験を活かして民間の警備会社に就職したが、そこも六十五歳になったのを機に退職した。趣味らしい趣味もなく、老後に何をして過ごそうかと思っていた忠正の目に留まったのが近所の公民館の市民教室だった。

 これはいい暇潰しになりそうだ。そう思って比較的興味のある英会話や郷土史研究、ヨガなどから始めてみた。大抵の教室は一年か半年で終わり、次のクールも同じことの繰り返しだった。要するに飽きてしまうのだ。仕方ないので違う教室に入ってみるが、そこも一年か半年で終わりを迎える。そんなことを繰り返しているうちに、通ってみたいと思える教室がなくなってしまうという事態を迎えた。

 それでも通わないわけにはいかない。最近では変な義務感が芽生えてしまい、半ばヤケクソになって興味のない教室にもエントリーをするようになった。今はスイーツ教室とパッチワーク教室と生け花教室を受講している。それでも週の半分も埋まらないのだから老後とは長いものだ。

「しっかり混ぜ合わせたら濾過していきましょう。今日は茶こしを用意しましたが、なければ細かい目のザルとかでも構いませんよ」

 忠正は茶こしを使って液体を濾過した。隣の男に「茶こしってどれだ?」と訊かれたので、「それだよ」と教えてやる。忠正の周りには同じような境遇の男たちが集まっている。公民館フレンドだ。たまに公民館フレンドと飲みにいくことがあり、それはそれで意外に楽しい。

「では型に注いでいきますよ。ここでの注意点は泡を作らないことです。滑らかに仕上げるためです。静かに注いでいきましょうね」

 忠正は盗犯を主に扱う部署に長く在籍していた。若かった交番勤務時代にひったくり犯や空き巣を立て続けに捕まえたことが評価され、二十代半ばで警視庁に引っ張られて捜査第三課という主に盗犯を扱う部署に配属された。家宅侵入や窃盗の手口を調べ、犯行に関与していると思われる前科者を洗い出すのが仕事だった。勘と経験と知識がなければ務まらない仕事だったので、忠正は必死で勉強した。

 もともと才能があったのか、忠正は次々と窃盗犯や空き巣を捕まえた。いつしか三課の小栗といえば名を知らぬ者はいないほどの名刑事へと成長した。

 そんな忠正には忘れられない事件がある。一九七〇年代初頭、全国五ヵ所で現金輸送車が襲われ、合計一億五千万円が奪われた事件だ。昭和の未解決事件の一つだった。

 犯行場所となったのは東京の八王子、山形、岐阜、鳥取、愛媛の五ヵ所で、いずれも白昼堂々と現金輸送車が襲われた。同一犯の可能性が高いとされ、もっとも被害額の大きい東京都の警視庁に特別合同捜査本部が設置され、被害のあった県警からも捜査員が派遣されて、大所帯で捜査が進められた。

 事件の解明は困難を極めた。犯行に関与している者は三人程度。おそらくそのうちの一人は変装の名人であると推測された。彼らの手口を真似た事件も発生していたがその多くが未遂に終わっており、最初に起きた五件の犯行はまさにプロの手口と言えた。

 忠正も捜査本部に派遣された捜査員の一人だった。年齢は二十代後半、血気盛んな頃だった。寝る間も惜しんで捜査に明け暮れたが、ついぞ犯人を検挙することはできなかった。今、思い出しても熱い時代だった。ちょうど今の女房と出会って交際を始めたのもその頃だったので、忠正にとって苦い事件であると同時に、青春の一ページにもなっている。

「では蒸し焼きにするプリンを作る工程に入ります。まずは鍋を用意します。鍋に水を張りましょう。プリンの型の八分くらいの高さまで水を入れてください」

 先生に言われた通り、忠正は鍋に水を注ぎ入れた。おそらく出来上がったプリンを一口も食べることはないだろう。スイーツ教室は今日も犯罪とは無縁の平和な時間が流れていた。

(第2回へつづく)