プロローグ

 やけに重いまぶたを持ち上げると天井が見えた。真っ白な、吸い込まれてしまいそうなほどに白い天井。

「ここは……?」

 唇の隙間からこぼれた声は、自分のものとは思えないほどかすれていた。口が、そしてのどが乾燥している。乾いた砂を呑み込んでしまったかのように。

 霞がかかって思考がまとまらない頭を振って起き上がろうとする。まるで全身の関節が錆びついているようにきしみ、痛みが走った。

 歯を食いしばった私は、両手を使ってなんとか上体を起こす。体にかかっていた薄い毛布がはらりとはだける。

 重い頭を再び振った瞬間、背筋に冷たい震えが走った。脊髄せきずいに氷水を注がれたような心地。慌てて自分の胸元に触れる。羽織っている薄い生地を通して、コンプレックスである小振りな乳房の感触が伝わってきた。

「あった……」

 安堵の吐息とともに、そんな言葉が漏れる。

 胸に大きな空洞が開いているような気がした。手で触れてそれが錯覚であることを確認したいまも、その感覚は消えない。

 食道、肺、そして心臓。それらの臓器が抜き取られ、胸郭が空っぽになってしまったような心地。重心が安定せず、気を抜けばふわふわと浮き上がってしまいそうだ。

 両手を胸に当てたまま目を閉じ、強風に耐えるかのように体を小さくする。そうしないと体が、心が、『自分』という存在が吹き飛ばされてしまう気がした。

 ふとデジャヴをおぼえた私は、丸めている体を震わせる。

 かつて、私は同じような経験をしている。けれど、いつ……?

 意識を脳の奥、厚く積み重なった記憶の底へと落とし込んでいく。やがて、セピア色に変色した記憶が弾けた。

 狭い部屋の中、ダンゴムシのように体を小さくした子供。二十数年前の私がむせび泣いている光景が。

 両頬が熱くなる。慌てて目を開けた私は目元を拭った。手の甲が透明な液体で濡れた。手を口元に持ってきて舐めてみる。かすかな塩気がふわりと舌を包み込んだ。

 あの日と同じ味。

 ああ、そうか……。また失ったのか。とても大切な物を。

 私は天井を仰ぐ。

 涙ににじんだ蛍光灯の明かりが、七色の光となってきらめいた。

第1章

 光沢をはらむ白くきめ細かい肌。陶器を彷彿ほうふつさせるそれはどこか無機質で、精巧に作られたマネキンを見ているような心地になる。

 ふと不安をおぼえた私はそっと指を伸ばして、彼女の頬に触れた。指先がほんのりと温かくなる。皮膚の下に張り巡らされた毛細血管を流れる血液の温度。

 小さく安堵の息を吐きながら、私は彼女の顔を見つめる。固く閉じられた瞼が細かく震え、その薄い皮の下で眼球がせわしなく動いているのが見て取れた。

 急速眼球運動。レム睡眠と呼ばれる睡眠状態で起こる現象だった。

 レム睡眠中は全身の筋肉が弛緩し、身体は休息状態にあるが、その一方で脳は活動している。記憶の定着や脳機能の回復に重要な睡眠相だ。

 そして、人はその状態のとき、鮮明な夢を見ていることが多い。

 彼女もいま、夢の中にいるのだろうか?

 私は彼女の目元に手を当てる。掌にかすかな振動が伝わってきた。

 浅い眠りであるレム睡眠中の者は、弱い刺激でも目を覚ましてしまいがちだ。けれど、彼女が起きる心配はなかった。いや、それどころか、できれば起きて欲しかった。

 なぜなら、彼女は四十日間も眠り続けているのだから。

 私は視線だけ動かし、ベッドの頭側にかかっている札に視線を送る。そこには『片桐飛鳥かたぎり あすか』という彼女の名前の下に、主治医として『識名香苗しきな かなえ』と私の名が記されていた。

 乾いた笑いが唇の隙間から漏れる。主治医、主に治す医者。けれど、私は彼女の身に襲い掛かった病魔をまったく治すことが出来ていない。

 特発性嗜眠病とくはつせいしみんびよう、それが彼女の患っている病だった。

 夜眠っていただけの者が、朝になっても起きることなく、そのまま長期間のレム睡眠を継続したまま延々と昏睡に陥る奇病。これまで、全世界でもわずか四百例ほどしか報告されていない疾患で、それゆえに未だ治療法すら確立していない難病だ。

「なんで四人も……」

 無意識に零れた独り言が、部屋の空気を揺らす。

 現在、私が勤めるこの国立精神神経研究所附属病院には四人もの特発性嗜眠病の患者が入院していた。

 日本ではこの数年発症例がない疾患の患者が四人。それだけでも異常事態だが、さらに奇妙なのは四人が同じ日に特発性嗜眠病を発症したことだ。

 同じ日に極めて稀な奇病が同時に東京で発生。いったいそれは、なにを意味するのだろう? この四十日間、昼夜を問わず答えを探してきていたが、未だにそのヒントすらつかめずにいた。

 所属する神経内科の部長に「こういう貴重な症例は、未来のある若者が診るべきだ」と押し付けられ、私は四人の特発性嗜眠病患者のうち三人を担当している。

 もし私が治療に成功しなければ、彼らは眠り続けることになるだろう。

 その命が尽きるまで。

 そんなことは絶対にさせない。もう私は、なにもできなかったあの時とは違うのだから。自らに言い聞かせて、再びベッドに横たわる女性を見た瞬間、彼女の顔に他の女性の顔が重なった。

 たおやかな曲線を描く唇に、かすかに笑みを浮かべた優しげな女性の顔。

 激しく顔を振った私は、きびすを返して出口へと向かう。

「絶対に助けるから。……絶対に」

 口の中で言葉を転がしながら、私は勢いよく引き戸を開いた。

 湿度の高い空気がじっとりと肌にまつわりつく。白衣の襟元から覗くうなじをハンカチで拭った私は、ため息とともに窓の外に視線を向けた。

 病室を出てナースステーションに戻ってから、ずっと電子カルテのディスプレイとにらめっこをしていたので、鉛でも詰め込まれたかのように目の奥が重かった。

 目の周りをマッサージしながら、遠くを眺める。

 日本最大規模を誇る神経疾患、精神疾患の専門病院である国立精神神経研究所附属病院、通称、神研病院。十三階建てのコンクリート要塞の九階にあるこの神経内科病棟からは、練馬の住宅地が一望できる。

 特に心が休まるような光景ではないが、周りに背の高い建物が少なく、遠くまで見通すことができるため、眼精疲労の溜まった目を休ませるのにはもってこいだ。

 わずかに首を反らせて視線を上げる。空を覆いつくす黒く厚い雲から、大粒の雨が止めなく落ちていた。

 ここのところ、ずっとこんな天気が続いている。最後に太陽を見たのがいつなのか、すぐには思い出せないくらいだ。どうにも気が滅入ってしまう。

 胸の奥に溜まったおりをため息に溶かして吐き出すと、私はキーボードの隣に積まれている資料の山に手を伸ばした。質の悪いコピー用紙特有の、ざらついた表面を指先でなぞる。

「よっ、香苗ちゃん」

 明るい声とともに、後頭部を軽く叩かれる。頭を押さえながら振り向くと、小柄ながらグラマラスな女性が腰に両手を当てて立っていた。一つ年長の神経内科医である杉野華すぎの はな先輩だ。やや派手目のメイクが施された顔には悪戯っぽい笑みが浮かび、トレードマークである大きな丸眼鏡の奥の目が細められている。

「ああ、どうも、華先輩」

「どうもじゃないよ。なんか色っぽいため息ついちゃってさ、もしかして恋わずらい? お姉さんが相談に乗ってあげようか?」

 華先輩はしなだれかかるように後ろから抱き着いて来た。背中が温かい柔らかさに包まれる。

 出身大学が同じで医学生の頃からの知り合いであり、外見に似合わず姐御肌なところがある華先輩とは、普段から仲良くさせてもらっている。しかし、この過剰なまでのスキンシップには、いささか辟易もしていた。

「離れてくださいよ。ただでさえ、暑苦しいのに」

「そうだねぇ。最近、本当にじめじめしているもんね。梅雨とはいえ、さすがにちょっと降りすぎだよね」

 私に振り払われた華先輩は、横目で窓の外を眺めた。

「それで、新しい恋人でもできそうなの? 香苗ちゃんを悩ましている相手は誰?」

「そんな色っぽい話じゃないですよ。いま私を悩ましていると言えば、この人たちですね」

 電子カルテのディスプレイを指さすと、にやけていた華先輩の顔が引き締まる。

「特発性嗜眠病……か」

「ええ、そうです。しかも三人も。というか、華先輩も一人、担当しているんでしょ。特発性嗜眠病の患者さん」

 私はマウスを動かして、画面に表示されている三人の名前に、順にカーソルを合わせていく。

「まあね。しっかし、本当に訳が分からない病気よね、これ。教科書とかにはよく載っているけど、実際に患者を担当するのはこれがはじめて」

「そりゃそうですよ。これまで、全世界でも四百例ぐらいしか報告がない疾患なんですから」

「だね」

 華先輩は顔をディスプレイに近づけて、眼鏡の位置を直した。

「けどさ、香苗ちゃんが担当している三人は特発性嗜眠病だっていう診断は間違いないの?」

「それに関しては、色々な先生にコンサルトして確認を取りました。すべてのドクターが特発性嗜眠病で間違いないって診断しました。全ての診断基準が当てはまっているんですから」

「診断基準ねえ。一般的な睡眠状態からなんの前触れもなく昏睡に陥り、その状態が一週間以上続く。脳波検査によってレム睡眠状態であると確認される。昏睡状態に陥るような他の神経疾患、内分泌疾患、外傷が否定される。だっけ?」

 華先輩は指折り診断基準の項目を挙げていくと、首筋を掻くいた。

「つまり、なんの前触れもなく昏睡状態に陥って、ひたすら夢を見続けてるってことでしょ。本当によく分からない病気。でも一番分からないのは、そんなに珍しい疾患の患者が、四人もうちに入院していることよね」

「うちの病院は神経難病の治療に関しては、日本有数の医療施設ですからね。こういう珍しい疾患が集まってくるのは当然じゃないですか?」

「そういうことじゃなくて、なんで歴史上四百人程度しか確認されていないような疾患の患者が、四人も同時に東京に現れたのよ? それって、普通に考えたら天文学的な確率なんじゃないの。しかも、その四人って、同じ日に特発性嗜眠病を発症したんでしょ。こんなの普通じゃないよ」

「でも華先輩、これ見てください」

 私はコピー用紙の山から、数枚を抜き出す。

「これまで、特発性嗜眠病が同時期、同地域に発生したって報告が幾つかあるんですよ。ほら、この論文に載っていますよ」

 華先輩は「え? ほんと?」と目をしばたたかせながら、私が差し出した英字の論文を手に取る。

「一九九〇年代から、イギリス、ブラジル、アメリカ、南アフリカで集団発生が確認されています。特にブラジルではしっかり診断されたのは三人ですけど、他にも同時期に周辺で十人以上の人が似たような症状になったとか」

 素早く論文に目を通した華先輩は、髪を掻くき上げた。

「この疾患がはじめて発表されたのって一九八七年でしょ。もしかしたら、それまでにも特発性嗜眠病にかかった人って結構いたのかもね。たんなる、原因不明の昏睡って診断されてさ。それにしても香苗ちゃん、もしかしてそこに山積みになっているの全部、特発性嗜眠病についての論文だったりする?」

「はい、そうです。徹夜して、図書館で片っ端からコピーしてきました」

 私がコピー用紙の上に手を置くと、伸びてきた華先輩の指先が目元を撫でた。

「一生懸命なのは良いけどさ、あんまり根詰めすぎちゃダメだよ。ほら、目の下。アイシャドーみたいに濃いくまができてる」

「でも、こんな珍しい疾患を三人も担当させてもらっているんですよ。全力を尽くして治してあげないと。そのためにも治療法を……」

「治療法、分かったの?」

 私のセリフをさえぎるように、華先輩は言葉をかぶせてくる。喉の奥から「うっ」と、食べ物を詰まらせたような音が漏れてしまう。

「……分かりません」

「だよね。私も色々調べたけど、有効な治療法は見つけられなかった。ただ、別に予後がめちゃくちゃ悪いってわけじゃないのよね。三分の一の患者は、なんの後遺症もなく昏睡状態から目覚めているし。ただ……」

「ただ、残りの患者は死亡するまで二度と目覚めることはない。そして、昏睡から回復した人たちも、どうして目覚めたのか分からない。原因も治療法もまったく不明」

 私がセリフを引き継ぐと、華先輩は「そういうことだね」と隣の椅子に前後逆で腰掛け、背もたれにあごを載せた。

「四人も同時にこんな珍しい病気になるってことは、なにかきっかけがあると思うんだ。患者さんたちになにか共通点とかないのかな? 例えば、同じレストランで食事してたりとかさ。そういうのがあれば、食中毒が原因かもしれないって想像できるじゃない」

「私の担当する三人に関しては、ご家族から詳しく話を聞きましたけど、いまのところ何も見つかっていません。でも……」

 私が口ごもると、華先輩は「でも、なに?」と顔を突き出してきた。

「三人とも、最近すごく落ち込んでいたらしいんです。生きているのが嫌になるぐらい辛いことがあって、落ち込んで、苦しんで、……もがいていた」

 背中から肩にかけて重くなっていく。砂嚢さのうを両肩に担いでいるような心地になり、私は両肘をデスクについて前のめりになる。

「ちょっと、香苗ちゃん。大丈夫?」

 華先輩が慌てて背中を撫でてくれた。

「……大丈夫です。少し疲れているだけで」

「あのね、香苗ちゃんももう二十八歳でしょ。若いつもりだろうけど、そろそろ私たちも、学生時代みたいには無理が効かなくなってきているんだよ」

「でも!」

 私は顔を跳ね上げる。

「でも、このままじゃあまりにも救いがないじゃないですか! 人生に絶望したまま眠って、そのまま二度と目覚めることがないなんて。そんなの……、そんなの、あんまりです!」

 華先輩を睨みつけながら肩で息をしていた私は、はっと周囲を見回す。少し離れた位置から数人の看護師が、いぶかしげに、それでいて好奇心で満ちた眼差しを向けていた。言い争いをしているとでも思われたのだろう。頬が熱くなってくる。

 俯いた私は、「香苗ちゃん」と柔らかい声をかけられ視線を上げる。見ると、華先輩が慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。普段の女子高生のような態度とは一線を画する、大人の女性の微笑み。思わず「はい」と背中が伸びる。

「そうやって、患者さんに親身になって治療に当たる姿勢は素晴らしいと思うよ。けれど、それも行き過ぎると欠点になる。いつも言っているでしょ」

 私は無言であごを引くことしかできなかった。

「いまの香苗ちゃんは親身になっているというか、患者と自分を同一視しかけている。そうなると、冷静に診療することはできなくなって、患者にとっても香苗ちゃん自身にとっても不幸なことになる。分かる?」

「……はい、分かります」

「そりゃ、特発性嗜眠病なんていう、超レアな患者を三人も担当して入れ込むのは、神経内科医として分からないでもないけど、ちょっと今回は力が入りすぎじゃない? なんかあったの?」

 華先輩は首を傾けると、下から覗き込むように私の顔を見てくる。脳裏に過去の記憶が弾けた。

 ベッドに横たわる、若く美しい女性。私は彼女に向かって手を伸ばす。もみじ饅頭のように小さな手を。

 きめ細かく、滑らかな、彼女の黒髪を私の指先がいていく。

 毎朝そうすれば、彼女はくすぐったそうに身をよじって、微笑みながら目を開けてくれた。

 けれど彼女の瞼は降りたままだ。

 いつもと同じように眠っているだけにしか見えないのに……。

 胸の奥底から湧いてきた、包み込むような懐かしさが、唐突に冷たく硬い鉄の鎖となって心を締めつけてくる。それと同時に、『あの時』の光景がフラッシュバックした。

 響き渡る悲鳴と怒号。逆光のなか私を見下ろす大きなシルエット。その足元に倒れつつ私に手を伸ばす女性。そして彼女の手が触れた頬に感じる、ぬるりとした生温かい感触。

 私は軋むほどに固く歯を食いしばり、こぼれそうになった悲鳴を飲み下す。

 ここ数年、ほとんど発作は起こっていなかった。もう乗り越えたと思っていた。それなのに、数日前から再び、『あの時』の記憶が私をむしばみはじめていた。

 三人の特発性嗜眠病の患者を担当するようになってから。

 トラウマを克服したわけではなかった。ただ、それから目を逸らす術を身につけたに過ぎなかった。まざまざと見せつけられたその事実に、私はここ数日、さいなまれ続けている。

 けれど、三人の担当患者たちを治すことができたら、あのときの彼女と同じように眠り続けている人々を、深い闇の底から救い出すことができたなら、本当にあの悪夢を乗り越えることが出来るかもしれない。そんな予感が私を駆り立てていた。

「まあさ、力を抜くこともおぼえなってことだよ。緊急性の高い疾患ってわけじゃないんだから、どっしり腰を据えて治療方針を立てていけばいいんだよ。お互い情報共有しながら、治療法を探っていこ」

 私の様子を見てなにか察知したのか、華先輩は早口で取り繕うように言う。

「ええ、そうですね」

 笑おうとした。しかし、顔の筋肉がこわばって動かず、自分でもおかしな表情になっているのが分かる。

「情報共有と言えば、華先輩が担当している患者さんってどんな人なんですか?」

「私の患者さん? 私たちと同年代の女の人よ」

「もしかしてその人にも、最近なにかつらいことがあったりしていませんか?」

 訊ねると、華先輩の顔に暗い影が落ちた。

「ええ、たしかにつらい経験をしてるね。すごくつらい経験を……」

 言葉を切って唇を舐めた華先輩は、声をひそめる。

「実はその患者さんね、最近たった一人のご家族を亡くしているのよ。しかも、たんに亡くしただけじゃない。……殺されたの」

「殺された……」

 舌がこわばって、言葉が震える。

「そう。近頃話題になっているでしょ。都内で起こっている連続殺人事件。深夜に人気のない路上で、通行人が殺されるってやつ。それの被害者だったんだって」

「家族が……殺される……」

 足が細かく震えだす。その震えはやがて、腰、胸、そして顔へと這い上がってきた。

 家族を殺される。なによりも大切なものが、理不尽な暴力によって永遠に奪い去られる。一瞬で『世界』が音を立てて崩れ去る。

 底なし沼のような絶望に呑み込まれていくその感覚を、私は知っている。

 氷点下の世界に裸で放り出されたかのような寒気におそわれた私は、瞼を固く閉じると、両肩を抱いて体を小さくした。

 顔がふわりと、温かいものに包まれた。我に返って目を開けると、いつの間にか華先輩が私の頭を抱きしめてくれていた。白衣の薄い生地を通して、沈み込んでいくような柔らかさ、そしてその奥から響く心臓の鼓動が伝わってくる。

「大丈夫だよ、香苗ちゃん。大丈夫だから……」

 私の過去についてすべて知っている華先輩は、転んで泣く我が子をあやすように、優しく髪を撫でてくれる。

 ああ、これでまたナースにおかしな噂を立てられるかもな。

 そんなことを思いながら、私は胸に吹き荒れる嵐が凪(な)ぐまで、華先輩の豊満な胸に顔をうずめ続けた。

「もう大丈夫です。ありがとうございました」

 二、三分経っていくらか落ち着いた私は、気恥ずかしくなって身を離す。

「あれ、もういいの? 私の胸なんかでよければいつでも貸すから、飛び込んできていいよ」

 華先輩は芝居じみたしぐさで両手を広げた。

「あの……、本当にありがとうございました」

 華先輩の突き抜けて陽性の性格は、うじうじと思い悩みがちな私の支えになってくれる。

 私は深呼吸をくり返しながら、意識を自分の内側に落とし込んでいく。華先輩のおかげで、いくらか落ち着くことができた。しかし、再び燃え上がってしまったトラウマは残り火のようにくすぶっていた。きっかけがあれば、また火柱を噴き上げ、心を焼き尽くしてしまうと確信できるほどに。

「ねえ、香苗ちゃん、院長に会ってきたら」

 華先輩に不意に言われ、私は目をしばたたかせる。

「え、院長? 袴田はかまだ先生に?」

「そう。うちの院長ってPTSDとかの専門科でしょ。四人の患者全員が精神状態不安定だったっていうなら、そのことと特発性嗜眠病の発症になにか関連があるかも。なら、院長に相談してみるのもいいんじゃない?」

「でも、袴田先生も忙しいだろうから、いきなり押し掛けるのは……。それに、私も病棟業務が残っていますし」

「大丈夫、大丈夫」

 華先輩はパタパタと手を振る。

「交通事故で大けがしてから、あのおっさん仕事をほとんど副院長に押し付けているから。どうせ、院長室で暇を持て余しているよ。だから、アドバイスもらってきなよ。いろいろとね。病棟業務の方は、私がやっておくからさ」

 つやっぽくウインクをする華先輩の意図に気付き、私は深々と頭を下げる。

「ありがとうございます!」

「気にしない気にしない。困っているときはお互い様だからね。でもね……」

 華先輩の顔に、からかうような笑みが広がる。

「憧れるだけならいいけど、恋愛対象にするなら注意しなよ。あんなダンディーなのに四十半ばまで独身ってことは、絶対あのおっさん、なにか人には見せられない裏の顔をもっているんだよ。実はやばい性癖持っていたりさ」

「そういうんじゃないです!」

 頬を紅潮させて叫ぶと、華先輩は「なはは」と快活に笑った。

 胸に手を当てて息を吐いた私は、『院長室』と表札のかけられた扉をノックする。すぐに、精密な細工が施された重厚な扉越しに、「どうぞ」という声が聞こえてきた。

「失礼します」

 扉を開いて中に入ると、十畳ほどの部屋が広がっていた。高級感を醸し出している応接セットの奥にあるアンティーク調の木製デスク、その向こう側で壮年の男性が新聞を広げていた。

 シックなスーツを着こなした細身の体。白髪が混じり、グレーにも見える髪を短く切り込んだ頭。すっと通った鼻筋と、強い意志がたどった切れ長の目。久しぶりに会う彼の枯れた魅力に、心臓が一度大きく鼓動を打つ。

「ああ、識名君か。なにか用かな?」

 新聞を折りたたむと、精神科医にしてこの病院の院長でもある袴田聡史さとし先生は軽く口角を上げた。

「あの……、ちょっとご相談がありまして……」

 どう切り出せばいいのか分からず口ごもっていると、袴田先生が滑るように移動する。デスクの陰から車椅子が姿を現した。口元に力がこもってしまう。

「なかなかうまくなっただろ。おかげで事故に遭う前より、腕が太くなったよ」

 ホイールを器用に操作して近づいてきた袴田先生は、冗談めかして力こぶを作る。

「お加減はいかがですか?」

「絶好調だよ、腰から上はね」

 袴田先生は自分の膝を軽く叩いた。

 彼は数週間前、交通事故に遭った。小型トラックに跳ね飛ばされて全身を強く打ち、意識不明の重体となったのだ。緊急手術を受けて幸い一命を取り留めることができたが、事故の爪痕はその体に深く刻まれている。

「歩けるようには……?」

 首をすくめながら訊ねるが、袴田先生は哀愁の漂う笑みを浮かべるだけだった。

 重い沈黙を振り払うように、袴田先生は両手を合わせる。パンっという小気味いい音が響いた。

「さて、それじゃあ特発性嗜眠病の患者について、話を聞こうか」

 私は「え?」とまばたきをする。

「おや、違ったかな? 特発性嗜眠病の治療について悩んでいるから、相談しに来たんだと思ったんだが」

「は、はい、そうです。でも、なんで分かったんですか?」

「君があの病気の患者を三人も担当すると聞いたとき、こういうことになるんじゃないかと予想していたんだよ。あの疾患の症状は、きっと君に過去のトラウマを思い出させるだろうからね。だから、止めようかとも思った」

「……なら、なんで止めなかったんですか?」

 声に非難の色が混じってしまう。たしかに、世界的にも珍しい疾患の患者を担当することは、臨床医として喜ぶべきことだ。けれど、もし彼らの主治医にならなければ、心の傷口を覆っていたかさぶたが剥がされ、そこから止め処なく出血することもなかったはずだ。

「いまの君なら乗り越えられると思ったからだよ」

「乗り越えられる?」

 聞き返すと、袴田先生は薄い唇の両端を上げた。

「長年、君をカウンセリングしてきて気づいていた。君のトラウマは完全に消え去ったわけじゃない。ただ、それを心の奥底にある抽斗ひきだしに閉じ込める方法を身につけただけだってね。なにかのきっかけがあれば抽斗が開き、再び君はPTSDによる発作に苦しむはずだと」

「……そして、特発性嗜眠病の患者を診察することが、そのきっかけになった」

 喉の奥から声を絞り出すと、袴田先生は重々しく頷いた。

「その通りだ。あの病気の症状は、君を苦しめる原風景に極めて似ている。責任を感じていたんだよ。トラウマを抽斗の中に隠す手伝いをしたのは僕だからね。僕の能力では、残念ながらそれしかできなかった。申し訳ない」

 袴田先生が頭を下げる。私は慌てて胸の前で両手を振った。

「そんな。先生には感謝しています。私は先生のおかげで立ち直れたんですから」

 もし袴田先生がいなければ私は完全に壊れてしまっていただろう。そう確信していた。

 約十年前、医大に合格し、実家を出たことで私は壊れはじめた。家族と離れての初めての一人暮らし、慣れない都心での生活、医学部のきつい勉強のスケジュール、それらのストレスを契機にPTSDが一気に悪化した。

 頻繁に『あの時』のフラッシュバックが起こるようになり、PTSDによるパニック障害と診断され、過呼吸で何度も救急受診した。発作が起きるのが怖くて外出を避けるようになり、授業も休みがちになった。

 精神科外来を受診し、安定薬や軽い抗うつ薬などを処方されたが、効果はほとんどなかった。その頃、私を担当していた精神科医は、大学生活に対する適応障害が根本の原因なので、一度休学して実家に戻ることを勧めてきた。

 医師になるという夢のため、必死に勉強して入った医学部をやめなくてはいけないかもしれないという不安。それがさらに、症状を悪化させ、私の精神、私の世界はじわじわと腐っていった。そんなときに出逢ったのが、その頃、私が通っていた医大の附属病院で、精神科の准教授をしていた袴田先生だった。

 PTSDの専門家だった袴田先生は、私の噂を聞いて自ら主治医をかって出てくれたらしい。

 准教授の外来を受診するということで、緊張しながら初めて診察室に入ったとき、「はじめまして、識名香苗君だね」と微笑んでくれた袴田先生の姿は、いまでも昨日のことのように思い出すことが出来る。

 袴田先生はカウンセリングを中心に、じっくりと時間をかけて治療を行ってくれた。彼は私に心の奥に潜んでいる怪物と向き合わせ、それを飼いならす術を教え込んでくれた。

 袴田先生のカウンセリングを受けるうちに、次第にPTSDの症状は改善していき、大学一年が終わるころには内服薬を飲まなくても、問題なく学生生活を送れるようになっていた。

 その後も私は定期的に袴田先生のカウンセリングを受け、それは彼が大学附属病院を退職して、院長として神研病院に赴任しても続いた。

 そして六年前、医師国家試験に合格した私は、研修医としてこの神研病院へやってきた。神経疾患の治療に関して日本最高の病院で学びたい。そんな表向きの志望動機の裏に、医師として袴田先生と一緒に働きたいという想いがあったことは間違いない。あれから四年、私は望んだとおりに、この病院で神経内科医として勤務している。

 ふと、袴田先生と目が合い、私は視線を落とす。

「憧れるだけならいいけど、恋愛対象にするときは注意しなよ」

 ついさっき、華先輩にかけられたセリフが耳に蘇る。

 そういうんじゃない。私は一人の医師として袴田先生のことを尊敬しているだけで……。心の中でくり返すが、なぜかじわじわと体温が上がっていく。 

「たしかに立ち直れた。そして君は、一人前の医師になった。だからこそ僕は、いい機会だと思ったんだよ。本当の意味で、トラウマを克服するための」

 袴田先生の声で我に返った私は、顔を上げる。

「克服……ですか?」

「そうだ。僕とはじめて会ってから今日までの十年間で、君はとても強くなった。もうトラウマと真正面から対峙し、それを呑み込むことが出来るはずだ。そして、君のトラウマの光景と極めて似た症状の特発性嗜眠病患者を担当することは、そのきっかけになると思う」

 私は背筋を伸ばして袴田先生の説明に耳を傾ける。

「もちろん、それは痛みを伴うものだ。けれど、それに耐えて乗り越えたとき、本当の意味で解放されるはずだ。ずっと君を縛っていた、過去の鎖からね。だから全力で、彼らの治療に当たりなさい」

 あのおぞましい経験から、本当の意味で解放される。緊張のせいか、両腕に鳥肌が立ち、背筋に震えが走った。

「さて」

 一転して明るい声で袴田先生は言う。

「それで、僕になにが聞きたいのかな? 神経疾患は専門じゃないから大したアドバイスはできないとは思うけど、精神科医としてならなんでもこたえるよ」

「はい、実は……」

 私はごくりと喉を鳴らしてつばを呑み込むと、ゆっくりと口を開いた。

「……というわけなんです」

 私が説明を終えると、袴田先生は「なるほど」と険しい表情で頷いた。

「特発性嗜眠病の原因に精神的な要因が関係しているかもしれない、か。なかなか斬新なアイデアだね」

「けれど、論文を読み込んでみると、特発性嗜眠病患者の既往歴に、うつ病が含まれていることが少なくないんです」

 私が付け足すと、袴田先生はあごを撫でた。

「特発性嗜眠病の患者は、レム睡眠状態のまま昏睡になっているという明らかに身体的な異常が起きている。それが精神的な影響で引き起こされるということは、常識的には考えにくいんじゃないかな」

「でも、これまで常識的な診断方法では、特発性嗜眠病の原因は特定できませんでした。だから……」

「だから、根本的な発想の転換が必要ということか」

 腕を組んでうつむいた袴田先生は、数十秒黙り込んだあと、ぼそりとつぶやいた。

「……感応精神病」

「え? なんですか?」

「感応精神病。一人の精神疾患を抱えた患者が周囲の人間に影響を及ぼし、その人たちにも精神疾患の症状が出るものだ。よくあるのが、精神疾患により妄想に囚われた患者の家族などが、その妄想に取り込まれて、自らも精神疾患を発症したとしか思えない行動を取るケースだね。それに似ている気がしたんだよ」

「似ているって、特発性嗜眠病がですか?」

 私は軽く首を傾ける。

「そうだよ。極めて稀な疾患の患者が、同時に四人もうちの病院に入院したんだろ。もしかしたら、一人の患者が他の患者に影響を与えたのかも」

「けれど、患者同士は完全な他人なんですよ」

「それは、あくまで患者の家族の話を聞いた限りでは、ということだろ。家族も知らない所で、四人に何らかの接点があったとしても不思議じゃない。いや、四人もの患者が同じ日にこれほど珍しい疾患を発症したんだ。そう考える方が自然だよ」

 袴田先生の口調に興奮が混じっていく。

「でも、四人とも発症した場所は全然違って……」

 首をすくめながら指摘すると、袴田先生は人差し指を立てて額に当てる。

「たしか、全員自宅で発見されたんだったね。朝になっても起きてこないことに気づいた家族や、出勤してこないことを不審に思った同僚に」

 私は「はい、そうです」と頷く。

「識名君、こうは考えられないかな? 患者たちは昏睡で発見される前日、全員がある場所で特発性嗜眠病の原因となる出来事に遭遇した。しかし、彼らはその場で昏睡に陥ることなく、それどころか自分たちの身に何かが起きていることにさえ気づかずに帰宅して、そして眠りにつく。そして、レム睡眠に入ったところでようやく特発性嗜眠病が発症し、そのまま昏睡状態に陥った」

「それってつまり……」

 私は袴田先生の説明を頭の中で咀嚼そしやくする。

「特発性嗜眠病は『原因』となるきっかけを受けてもすぐに発症するわけじゃなく、睡眠に入ってはじめて症状がでるということですか?」

「あくまで仮説だけれど、そう考えるのが合理的な気がするね」

 袴田先生は大きく頷いた。

「その原因が、感応精神病みたいに精神的なものである可能性もあると?」

「それは分からないよ。ただ、どれだけ患者たちを検査しても、薬物などが検出されないことを見ると、その可能性は否定できないかもね」

「そうだとしたら、どうやって証明を……?」

 私は口元に手を当てて思考を巡らせる。

「一番簡単なのは、昏睡状態で発見される前日までの患者の行動を調べることだろうが、さすがにそれは医師の領域を超えているな。警察、または探偵の仕事だ」

 袴田先生は軽く肩をすくめた。

 病院から出て患者の行動を洗う。たしかにそれは医師の仕事ではない。けれど、特発性嗜眠病を治すためなら……。

「識名君、あまり先走らないようにな」

 私の思考を読んだかのように、袴田先生が釘を刺してくる。

「ずっと苦しめられてきたトラウマと向き合っていることで、君はいま、少し冷静さを失っている。視野狭窄を起こさないためにも、リラックスすることを心掛けるべきだよ。これは院長としてではなく、君の主治医としてのアドバイスだ」

「リラックスと言われましても……」

 一刻も早く、特発性嗜眠病の治療法を知るための、自らのトラウマを乗り越えるための手がかりが欲しい。その渇望が私を駆り立てていた。

「実家に顔を出すっていうのはどうかな?」

「え、実家にですか?」

 予想外の言葉に声が高くなる。

「無理をすれば帰ることはできるんじゃないかい? 君にとって、ご家族はどんな薬よりも精神を安定させてくれるはずだよ。最近、会っていないんだろ?」

「はい、たしかに……」

 最後に実家に行ったのはいつだろう。すぐには思い出せないほど期間が空いていた。

 唐突に郷愁の情が体の奥底から湧き上がってくる。なぜか胸を締めつけるような痛みとともに。無性に家族に会いたくなってきた。

「……それじゃあ、父に連絡を取ってみます」

 私が答えると、袴田先生は満足そうに微笑んだ。それだけで、胸の奥が温かくなった気がする。

「それがいい。一息つくことで視野が広くなって、それまで見逃していたヒントに気づくかもしれない。私の方も、精神疾患による昏睡について調べてみるよ。なにか発見があるかもしれないから」

「なにからなにまですみません。お忙しいのに」

 私が深々と一礼すると、袴田先生はニヒルに唇の端を上げた。

「いやいや、楽しかったよ。こんな体になってからというもの、私の仕事の大半を副院長が肩代わりしてくれているから、暇を持て余していたんだよ。気を使ってくれているのは、ありがたいんだがね。まあ、こうやってゆっくりと新聞を読むのも悪くない」

 ふと、袴田先生の膝の上に置かれた新聞に視線を落とす。そこには『男性の遺体発見 連続殺人か?』という煽情的な見出しが躍っていた。

「それって……」

「ああ、これか。君も知っているだろ、最近頻発している殺人事件だよ。手口からして、同一犯による連続殺人で間違いないだろうね」

 袴田先生は新聞を手に取る。

「深夜、人通りがない場所で襲われ、惨殺される。被害者は老若男女さまざまで、遺体は原形をとどめないほどに蹂躙じゆうりんされている」

「原形をとどめない……」

 言葉を失ってしまう。特発性嗜眠病患者の治療にかかりきりで、事件の詳細までは知らなかった。

「すさまじい暴力だ。人間業じゃない。まるで野生の獣だよ。しかも、そこまでの事件をいくつも起こしながら、目撃者が誰もいない。煙のように忽然と現場から消えている。あまりにも異常な犯行に、犯人は逃げ出した猛獣じゃないかなんて、まことしやかに噂されているほどだ」

「先生も、人間の犯行じゃないと?」

 袴田先生はゆっくりと口角を上げた。

「いや、人間さ。これは間違いなく人間の犯行だ」

「どうしてそう思われるんですか?」

「この事件に興味があって詳しく調べてみたんだ。メディアでは遺体が『原形をとどめていないほど破壊されている』とだけ報道しているが、私はそこで一つだけ気になることがあった。なんだと思う?」

 生徒に質問する教師のような口調。医学生時代、精神科の授業で袴田先生の講義を受けたときのことを思い出す。たしかあの授業のテーマは、『精神疾患と犯罪について』だった。

 精神科医として多くの犯罪者の精神鑑定を行ってきた袴田先生の授業は、生々しく、グロテスクであったが、誰もが前のめりになるほど引き込まれる妖しい魅力があった。

 どこまでも深い闇の底でうごめく、異形のむしを覗き込むような、背筋がざわつく危険な魅力。そのときのことを思い出しつつ、私は頭を絞る。

「えっと、躊躇ちゆうちよしたあとがあるか……とかですか?」

「いや、ちがうよ……」

 袴田先生はあごを引くと、上目遣いに視線を送ってくる。

「遺体が喰われていたかどうかだ」

「喰われて……」

 喉元がこわばり、声が震える。部屋の気温が急に下がった気がした。

「そうだ。野生動物が相手を殺すのは、身を守るため、もしくは喰うためだ。前者なら相手を殺した時点で目的を果たしているので、それ以上の攻撃は加えない。後者なら、仕留めた獲物をむさぼり喰うから遺体は大きく損傷することになる。野生動物に襲われて、『遺体が原形をとどめていない』という場合は、このケースだ。だから私は、ツテを使って遺体の状況について情報を集めた。主に、遺体の司法解剖の結果についてね」

「遺体は……喰われていたんですか」

「いや、喰われてはいなかったよ」

 袴田先生は緩慢に首を横に振る。

「遺体はただ破壊されていたんだ。破壊のための破壊。遺体を蹂躙することこそが目的だった。そんなことをする生物は、私の知る限りこの地球上にたった一種しかいない。……人間だよ」

 私は立ち尽くして、袴田先生の話に耳を傾け続ける。

「この犯行から伝わってくるのは『怒り』だ。燃え上がる激しい怒り。世界を焼き尽くすほどの怒り」

 言葉を切った袴田先生は、あごを引いたまま唇を舐めた。

「しかも、それほどの『怒り』を内包しているにもかかわらず、この犯人は破綻していない。遺留品を残さず、姿を見せることなく犯行を重ねている。……たしかにこの犯人は、人間ではないのかもしれないな」

「え、どういうことですか? さっき犯人は人間だって」

「自らを焼き尽くしそうなほどの『怒り』と、全く姿を見せない『冷静さ』。そんな矛盾したものを呑み込んでいる存在は、もはや『人間』という範疇はんちゆうを逸脱しているということだ。それはもはや『怪物』まで進化していると言っても過言ではない」

「怪物……」

 私は呆然とその言葉を口にする。

「専門家として、ぜひその『怪物』に会って、その本質に触れてみたいものだねぇ」

 袴田先生は、捕まえた昆虫を眺める小学生のような、残酷な、それでいて無邪気な笑みを浮かべた。

(第2回につづく)