皆さんは、YouTubeで話題沸騰中のホラーチャンネル「フェイクドキュメンタリーQ」(以下、Q)をご存知だろうか。登録者数30万人、動画再生数26万~100万を誇る人気チャンネルであり、ここから誕生した新刊書『フェイクドキュメンタリーQ』(双葉社)は、情報解禁日にAmazonの予約1位を獲得、発行から数日で増刷が決定し、累計発行部数6万部を突破するなど、ホラー界で大きな注目を集めている。

 今回は、テレビ東京でフェイクドキュメンタリー番組を幾つも手がける新進気鋭の若きプロデューサー大森時生氏をゲストに招き、Qのメンバーである寺内康太郎氏と対談を実施。「フェイクドキュメンタリー」の魅力とモノづくりのこだわりを語ってもらった。

 

40万人が同時に観るなんて、それだけで禍々しさがある

 

──お二人の関わりといえば、今年の春、テレビ東京のフェイクドキュメンタリー番組『TXQ FICTION』として放映された『イシナガキクエを探しています』になるわけですが、まずはお二人が知り合って仕事を始めることになった経緯からお聞かせください。

 

大森時生(以下=大森):最初のきっかけは、Qのメンバーである皆口大地さんと某雑誌の対談でお会いした時ですね。Qの方たちと「何かやりたい」と思ったので、寺内さんも交えてすぐに話が進みました。

 

寺内康太郎(以下=寺内):すぐに企画書を書いてくださったみたいですね。

 

大森:もちろんQは一ファンとして観ていました。私もテレビ東京で『Aマッソのがんばれ奥様ッソ』『このテープもってないですか?』といったフェイクドキュメント要素もある番組を制作していたので、Qの方たちとは、「テレビでしかできない何か」を一緒にやりたいとは思っていたんです。『TXQ FICTION』という新レーベルを作ったのも、Qとはまた違った「テレビならでは」の番組にしたいという思いがあったからです。

 

──テレビならでは、というのはどういうところでしょう?

 

大森:YouTubeと違うところは、「同時性」というところでしょうか。たとえば『イシナガキクエを探しています』では、視聴率から割り出した概算になりますが、おそらく40万人が同時に観ていたんですよね。ひとつのフェイクドキュメンタリーを40万人の視聴者が同時に観るなんて、それだけで禍々しさがあると思います。この同時性というのは、テレビならではかと思います。

 

寺内:Qとの決定的な違いは、まず制作にかけられる費用と人数があります。普段とは別のものが作れます。

 それに、普段はQを好きな人が観てくれるわけですが、テレビの場合は「何となく観てしまった」という人もたくさんいるわけです。そこにテレビ局のプロが入ることで、内容も、やることも大きく違いましたね。

 

大森:面白かったのが、調べてみると視聴層が決してQとはイコールでなかったことですね。フェイクドキュメンタリーという言葉も知らないし、ホラーファンですらない人にも観てもらえている実感はありました。

 ここがテレビの同時性なんですけど、同時に観ている人が多いから、SNSなんかで話題として一気に浮上しやすいんです。そうすると、「なんか話題だから観てみよう」という人たちが増えるんです。

 子どもの頃にたまたま観て、すごく面白かった番組のおかげでひとつのジャンルが好きになった、という話はよくあるじゃないですか。この番組が、そうした原体験としての出逢いになってくれたらいいなとは思いますね。

 ただそのぶん、(ジャンルのコアなファン向けに)突き詰めた内容にし過ぎてしまうと、せっかく観てくれた視聴者が離れてしまう、ということも起きてしまうかもしれないです。たとえばQの『マインドシーカー』とか、いわゆる「通好み」な作風は、TXQ FICTIONではまだ通じないかもしれません。

 

アウトプットはホラー、でもベースは理解不能の恐怖

 

──原体験のお話がありましたが、お二人はホラーを作ることになった原体験、きっかけなどは何かあるんでしょうか。

 

大森:10代の頃からホラーを観ていたわけではありません。大学生になって観た『放送禁止』や黒沢清監督の『CURE』なんかに結構影響を受けてますね。「これぞホラー」みたいな作品は、あまり原体験として通ってきていないんです。どちらかというと「不可解な怖さ」「論理性が見えない怖さ」に惹かれてフェイクドキュメンタリーを作っているのかもしれません。

 

寺内:僕は子どもの頃からホラー的なものは好きで、もちろんお化けとかも好きでしたが、どちらかというとミステリアスなもの、実際にあった未解決事件とか、そういうのが特に好きでした。

 ですから私の場合、アウトプットはホラー作品なんですが、ベースとなっているのは、理解不能の恐怖だったりするんですよね。あとは、人智を超えた存在、神とか悪魔とか、もしそれが存在するならどんなロジックなのかとか、そういうことも好きですね。

 

──通常のホラー作品では、「ジャンプスケア」と呼ばれるような、観客を驚かせて怖がらせるシーンを多く入れますが、お二人が作るものはそうしたシーンをまったく入れず、「フェイク」と言いながらも、まるで現実に起きたかのようなリアルさが特長です。そのあたりで共通する部分も多いと思いますので、お二人のこだわりなどをお聞かせください。

 

寺内:僕と出会ったことで大森さんの中に何か良い変化があればいいなと思うんですが、僕は大森さんとお仕事をして影響を受けた部分は結構あるんです。

 たとえば大森さんって、出演者に喋らせないように撮るんですよ。これは正論なんです。観ている側になるべく想像させるようにする。でも僕は、ひと言でも多く出演者に喋らせたい。喋ってもなおリアルというのが一番いいわけです。編集の時は、ここが大森さんとの闘いでした(笑)

 

大森:ははは(笑)。僕はちょっとそこが病的にこだわるかもしれません。寺内さんはリアルに見せたいわけですが、僕はまた違って、リスクヘッジ的な考えなんです。リアルに見せようとするよりも、嘘っぽく見えないようにする。そのために、少しでも嘘っぽくなる要素を消したいんですよね。Qのメンバーとしては、そうした要素も含めてひとつのショーとして考えるんですが、僕は安心、安全を目指すので、その部分でせめぎ合いはあったかもしれませんね。

 

寺内:本当にちょっとしたことだったりするんです。出演者が「えっ」と言った言葉を、カットするかしないか。そこもカットしたら、その場面では何も言っていないことになる。僕としては出演者への責務として、少しでも台詞を残してあげたい。でも大森さんの言うことも、すごくわかったりするんですよね。

 

「嘘っぽい」という1%のオーラでも悪影響が出てしまう

 

大森:僕は編集の方法とか、すべてテレビのやり方を身に付け、テレビで学んできた人間なんです。編集でうまく作ろうとするので、ある意味で「素材へのリスペクト」の意識が薄かったかもしれません。ここは寺内さんをはじめQの方たちと仕事をしたおかげで、一番「意識改革」が起こった部分ですね。

 本当は、いい素材でいいシーンを撮れば、それが一番いいものになるんです。でもテレビ的な手法が抜けなくて、「編集であのシーンとそのシーンをくっつけて、このシーンを削れば嘘っぽさが極限まで削れる」と、つい現場でも考えてしまうんです。でも寺内さんはそう考えないんですよね。

 イシナガキクエの撮影でも、とある出演者の演技が、どうしても嘘っぽくなってしまったことがある。僕からすれば7台もカメラがあるので、後でどうにでも編集できると思ったんです。撮影のスケジュールもあるので、いったんこのシーンは置いておこうと思ったんですが、寺内さんは「この立場でこの台詞は言わない」とか「この状況で何を話すのか」ということをその場でしっかり話し合って、素材の時点で完璧に撮る、本物を作ろうとするんですよ。その部分は、本番の撮影中ながら、とても感銘を受けましたね。

 

寺内:「この人の演技が嘘っぽい」という1%のオーラでも、一緒の場面に居るほかの出演者に悪い影響が出るんです。そして撮影する側にも、「何か嘘っぽいな」という意識が、フレームのどこかに出てしまうと思うんです。だったらその嘘っぽさをどうにかすれば、全員にいい影響が出るわけです。実際に見比べたらほぼ変わらないかもしれないですけどね。

 これは目に見えない努力で、しんどいですし面倒くさいし、現場でも「なんだアイツは」「もっと効率よくやれよ」と思われたりするかも知れないんですけど、こういうことを誰もやっていないからやる、みんなの出来ないことをやる、という意識はありますね。そこまでしたら「やっぱり違うでしょ」と言えるし、クオリティの信頼度にもなります。これってマニュアルにはしづらいんですけど、自分の大事にしているところ、誇りにしているところかもしれないですね。

 

大森:僕はこの前ドラマ撮影の仕事があったんですけど、フェイクドキュメンタリーと違って、ドラマって明確にOKテイクがあるんですよ。ドラマでは段取りがあって、その段取りに沿ったカット割りがある。役者の演技以上に、どれだけ段取りを完璧にするかが大事だったりするんです。

 

寺内:ドラマは、演技もカメラも、スタッフ全員が完璧に段取り通りの動きをして、はじめてOKになりますからね。

 

大森:でもフェイクドキュメンタリーの撮影は、まったくそうじゃないのが面白いんですよ。たとえば寺内さんが3テイク撮っても、結局、1テイク目が良かったのでそれを採用したりするんです。全員が手探りで、段取りも最小限で、本当にドキュメンタリーの撮り方に近い手法なんです。だからこそ「フェイクドキュメンタリー」と言っているのかもしれませんが、これはまだまだ表現手法として奥行きがあると感じています。

 

(後編につづく)