『性差別の医学史 医療はいかに女性たちを見捨ててきたか』(マリーケ・ビッグ著・片桐恵理子訳)は、男性中心に発達してきた医学が家父長制的なジェンダーバイアスを内在化し、女性やその他の非男性身体の「患者本人の声」を無視してきた結果としてさまざまな誤診や健康被害を引き起こしていることを示す画期的な一冊です。

 先天性の心疾患とともに生きてきた翻訳家・エッセイストの村井理子さんが本書を読み、ご自身の体験も含めた書評エッセイを寄せてくれました。前後編の後編。

 

心臓肥大に「でも、もう出産も済んじゃったしね」と言った医師

 

 27歳で出産を経験した。出産後、なかなか回復できない私に、入院していた大学病院の産婦人科医が「もしかして心臓に異常があるのではないか」と言い、循環器科の診察を受けられるよう手はずを整えてくれた。循環器科の医師は私の肥大した心臓のレントゲンを診て、「でも、もう出産も済んじゃったしね」と言った。私はこのときもまだ、冷静な人間を演じ続けていた。手足が浮腫み、心臓が肥大しているというのに、もう出産は済んだから、別にいいんじゃないかという医師の言葉に素直に従ったのだ。疑問にも感じなかったはずだ。

 今にして思えば、私の心臓は早い段階から、あちこちにほころびが出始めていた。心雑音は、47歳で手術をすることになる僧帽弁閉鎖不全症(弁膜症の一種)の始まりを示唆していたのかもしれない。出産後の不調は、もしかしたら心不全ぎりぎりの状態だったのかもしれない。その時は心臓のエコー検査も行われなければ、血液検査も行われなかった。27歳の時点で、どれだけ私の心臓がくたびれていたのか、今になってはわからない。しかしはっきりわかっているのは、あそこが転機だったはずだ。そして私は転機を逃した。

 47歳で僧帽弁閉鎖不全症が原因の心不全になり、手術のため再入院した大学病院では、私の医療に対する考え方が刷新される経験をした。痛みを訴えることは恥ずかしいことでも負けることでもないと、医師らに時間をかけて教えてもらった。「子どものときの入院経験が、よっぽど酷いトラウマになってしまったんだね。でも、そんな時代は終わったよ」と、医師はあっさり言ってくれた。「思ったことは、なんでも話して下さい」 そう言われ、私はようやく優等生を演じるのを辞めた。

 今、長い心臓との戦いに、ようやく休戦宣言を出すことが出来る体になり、考えることは多々ある。我慢などしなければよかった。疑問に思ったことは、口にすればよかった。違うと否定されても、自分の身体からのサインを信じればよかった。

 本書を読み、女性に生まれたというだけで、私が我慢しなければならなかったこと、訴えを聞いてもらえなかった苦しい経験への思いが、次々と心の傷口から流れ出してくる。私だけではない。子どものころ、一緒の病棟に入院していた小さな女の子たちも、出産時に入院していた女性たちも、痛みを見過ごされ、我慢を強いられ、耐えてきたのではないだろうか。

 昨今、ようやく、女性の身体は生殖のためだけに存在するものではないと声を上げられる時代になってきた。女性は、自分の身体を自分のものとして、取り戻す機会をようやく得た。この時代の流れを、男性の身体だけを基準としてきた医療界も受け入れ、女性たちの声を受けとめる努力をしてほしい。

 本書は、社会がいかに女性を医療現場において脆弱な存在にしてきたかを、様々な例を挙げて、詳細に紐解いている。女性が自身の身体を守り、声を上げ続けるために、必読の一冊ではないだろうか。

 

村井理子(むらい・りこ)プロフィール
翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。著書に『兄の終い』『全員悪人』(CCCメディアハウス)、『村井さんちの生活』(新潮社)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』(亜紀書房)、『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)ほか。訳書に『メイドの手帖』(ステファニー・ランド著、小社刊)、『射精責任』(ガブリエル・ブレア著、太田出版)、『エデュケーション』(タラ・ウェストーバ一著、早川書房)、『黄金州の殺人鬼』(ミシェル・マクナマラ著、亜紀書房)、『捕食者』(モーリーン・キャラハン著、亜紀書房)ほか多数。