『性差別の医学史 医療はいかに女性たちを見捨ててきたか』(マリーケ・ビッグ著・片桐恵理子訳)は、男性中心に発達してきた医学が家父長制的なジェンダーバイアスを内在化し、女性やその他の非男性身体の「患者本人の声」を無視してきた結果としてさまざまな誤診や健康被害を引き起こしていることを示す画期的な一冊です。
先天性の心疾患とともに生きてきた翻訳家・エッセイストの村井理子さんが本書を読み、ご自身の体験も含めた書評エッセイを寄せてくれました。前後編の前編。
「従順で我慢強い患者=いい患者」であろうとしていた自分
本書『性差別の医学史 医療はいかに女性たちを見捨ててきたか』は、これまで長年にわたって女性の身体が無視され、誤解されてきた経緯、男性の身体があくまでも基準とされ、研究、治療が進められてきた医学界の歴史について詳細に記した一冊だ。
私の人生は、医療と切っても切れない関係にある。誰の人生もそうかもしれない。しかし私の人生の場合、そのスタートから今現在に至るまで、常に身近にあるものであり、その存在なくしては命の維持が出来ないほど、必要不可欠な存在だ。そういった関係性のなかで、医療や医療従事者に対する私の気持ちは、感謝に満ちたものとなり、まるで教祖と信徒のような、絶対的信頼関係によって支えられたものだった。
私は先天性の心疾患を持ってこの世に生をうけたこともあり、物心ついたときはすでに入院生活に慣れた状態だった。幼稚園に入園した後は、学期が終わるたびに入院が待っていた。心臓手術に耐えられる年齢になるまで、入院をしての検査が続くためだ。私が入院していたのは子ども病棟で、同室の子どもたちは全員女の子だった。
私は病棟内でも有名な我慢強い子で、決して泣かない子だった。医師や看護師は私を褒め称えた。どれだけ注射を打っても、点滴の針を刺しても、ウンともスンとも言わない私は、医師や看護師らからすれば、安心できる子、あるいは楽な子だったのかもしれない。なにせ、同じ病棟に入院している子どもたちのなかには、痛みというよりは、医療行為に対する恐怖心が強いタイプの子が多く、そこらで悲鳴が上がり、病棟中にひびき渡っていたからだ。
そんな環境下で長期間にわたって入院し、「決して泣かないスーパーキッズ」のような称号を得てしまった私が、とうとう、腹の底から声を出すようにして大声でわめき散らしたのは、退院の日、主治医がおまじない程度に聴診器を私の胸に当てたときだ。一体なにが起きたのかわからず、大人たちは狼狽えた。私は、狼狽える大人たちの顔を見ながら、それでも声を限りに泣きわめいた。そしてすっきりとした気持ちで退院したのである。
しかし、この幼少期の入院以来、私のなかには少し妙な癖のようなものが残ってしまった。医療機関で必要以上に冷静な人間を演じるようになったのである。絶対に取り乱してはいけないという独自ルールを作り上げてしまった。なぜなら、泣けば負けだと幼少期に刷り込まれたからだ。泣けば、「医師に褒めてはもらえない」。それは私にとっては危機的なことだった。子どもが泣くとき、当時の医療関係者は子どもの本当の訴えを見過ごした。私はその光景を目撃しすぎていた。泣かないことは、自分を守る手段だったのだ。
医療機関で絶対に取り乱さないという妙な癖は、結局、大人になってからも私から消えることはなかった。23歳で健康診断を受けたときのことだ。「心音に雑音が混じっていますね」と、心配そうに医師が言った。翌年の健康診断でも、「雑音が聞こえますね」と言われた。その時はさすがに不安になり、「どうすればいいでしょうか」と医師に尋ねたが、「まあ、様子を見ましょう」との答えが返ってきた。本書を読んだ今、私が男性だったら、もしかしたら精密検査を指示されていたのではと疑う。その後も私は心雑音を指摘され続けた。しかし精密検査を指示されることはなかった。
(後編)につづく
村井理子(むらい・りこ)プロフィール
翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。著書に『兄の終い』『全員悪人』(CCCメディアハウス)、『村井さんちの生活』(新潮社)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』(亜紀書房)、『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)ほか。訳書に『メイドの手帖』(ステファニー・ランド著、小社刊)、『射精責任』(ガブリエル・ブレア著、太田出版)、『エデュケーション』(タラ・ウェストーバ一著、早川書房)、『黄金州の殺人鬼』(ミシェル・マクナマラ著、亜紀書房)、『捕食者』(モーリーン・キャラハン著、亜紀書房)ほか多数。