朝日放送創立60周年記念ドラマ『境遇』で主人公の一人、陽子を演じた松雪泰子さん。あれから12年、湊かなえさんがドラマのための書き下ろした小説版『境遇』のオーディオブックをAmazonオーディブルのために松雪さんが朗読した。陽子だけではなく全登場人物を表現する難しさ、そして今再び『境遇』の世界に触れたあとの思いを語っていただく。

(取材・文=立花もも 撮影=金澤正平)

 

──『境遇』はもともと朝日放送の創立60周年を記念したドラマのために書き下ろされたもので、松雪さんは放送時に主人公の一人である陽子を演じていらっしゃいました。

 

松雪泰子(以下=松雪):作品のことはもちろん覚えていましたけれど、もう12年が経つので、どんなふうに役に向き合ったのかまでは、さすがに記憶が薄れていて。ただ、印象としてはサスペンスの要素が強く、事件の真相が明らかになるにつれて、物語がセンセーショナルに展開していった気がするんですよね。もちろん、陽子の息子が誘拐されて、親友のはるちゃん(晴美)とともに行方を追う物語の構造自体はサスペンスなんですけれど……。

 

──今回の印象は違った?

 

松雪:違いました。ともに児童養護施設育ちで、親の顔を知らない二人の女性が、幼少期の傷を癒して互いに“赦し”を得る物語なのだと思いました。当時は、陽子の視点でしか物語をとらえていなかったし、今よりも若かったので、一面的にしか情景が見えていなかったのでしょうね。りょうさんの演じたはるちゃんとも、かなり激しくぶつかりあった記憶がありますし……。ドラマとして表現する場合にはそれでよかったのだと思いますが、全編を朗読しなければならない今回は、より客観的に全体像を見る必要があった。というよりも、見えてきてしまうものがあったのだと思います。

 

──ドラマ用に書き下ろした本作は、通常の小説とは異なる演出がされていて、ト書きのような文章や、インタビュー記事の抜粋など、テイストの異なる言葉が入り交じっています。朗読するのは、かなり難しかったのでは……。

 

松雪:登場人物が多く、一つの場所に何人も密集している場面も多々ありますしね。陽子と晴美、交互の視点で物語が展開していくのですが、どちらも三人称ではなく語りの文体なので、陽子視点で書かれるはるちゃんのセリフ、はるちゃん視点で書かれる陽子のセリフ、というだけでもなかなか表現するのは難しかったです。

 

──収録されたものを少しだけ聞かせていただきました。それぞれのセリフに細かなニュアンスやトーンの違いがあり、かといって全キャラを演じているわけではなく、あくまで朗読としての淡々とした空気を壊さない、そのバランスが凄まじくて鳥肌が立ちました。

 

松雪:役を表現するときはいつも、最初に、その人物がどんな声をしているのかを考えるんです。声、というよりは、音色かな。人物によってしゃべりのスピードや言葉の並べ方が変わってくるので、その役にちょうどいいところを探る作業が好きなんです。

 

 

──陽子と晴美はどんな音だったんですか。

 

松雪:陽子は、絵本作家としてデビューするまで専業主婦で、議員の夫を支え、夫の家族や支援者に絶えず気を遣わねばならないという状況もあって、対外的には常に一歩控えたところのある女性。はるちゃんに対しても依存するような気持ちがありますよね。だから、誰かに頼ろうとするところのある人のしゃべりかた、みたいなのは意識していました。とはいえ、実ははるちゃんよりも芯が強くて、こうと決めたらぶれないものがある人だという印象もあったので、あまり弱くなりすぎないように。一方のはるちゃんは、新聞記者という仕事柄もあって、意思が強くてはっきりした人のように見えるけど、実はすごく弱くて脆い。強くあろうと虚勢を張りながら生きている人だなと思ったので、わりと低めのトーンで淡々と読むようにしていました。

 

──先ほどもおっしゃっていたように、同じ人物でも、おそらく陽子と晴美で視点が変われば、声の響き方も少し変わりますよね。そんなにもたくさんの声を内包しながら朗読するのは、混乱しないのかなと思ってしまうのですが……。

 

松雪:あ、それはもちろん、しました(笑)。とくに陽子視点で、義理の母や後援会の人たち、夫の秘書など全部で6~7人が集まってしゃべる場面なんかは、途中で誰のセリフを読んでいるのかわからなくなって、やり直したこともありますし。監督やスタッフのみなさんの導きがなかったら、とうてい、やりとげられなかったと思います。あとやっぱり、男性のセリフを言うのは難しかったですね。自分の声のレンジで低いところを使いながら、つくりこみすぎても不自然になってしまうので、バランスを探るのがなかなか大変でした。声の抑揚だけで表現しようとするのではなく、その人物の性格が乗っているような声を出したかったので、人物ごとにちょっとした差が出ていればいいんですけれど。

 

──逆に、つくりやすかった声や、朗読していて楽しかった場面はありますか。

 

松雪:誘拐に関係しているのかもしれない、謎の老女が出てくるんですけれど、名前も分からないその人はおとぎ話の魔法使いみたいな感じにしてみましょうか、とご提案したんです。そういう、とらえどころのない不思議な感じのする人の役を演じることは多いし、個人的にも好きなんですよね。だからけっこう、楽しかった。あとはやっぱり、後半の真相が明らかになっていく過程ですね。陽子が「ミツコの部屋」というトーク番組に出演して、誘拐犯から要求された“真実”を公表しようとするあたりとか。

 

──「ミツコの部屋」の場面は、ちょうど湊さんが収録をお聞きになって、その表現力にとても感銘を受けていらっしゃったと聞きました。

 

松雪:先ほども言ったように、ドラマで陽子を演じたときは、その後のはるちゃんとぶつかりあうシーンも含めて、ダイナミックに表現した気がするんです。でも、朗読で重ねる二人の会話の印象はまるで違いました。二人とも傷つきながら感情を発露しているんだけれど、決して互いを攻撃しているわけじゃない、不思議な関係性が生まれているように感じたんですよね。とくに、はるちゃんの秘めていた心情が明かされるにしたがって、劇的に展開していくものはありましたし、その過程を読むのは一読者としてもおもしろかったんですが……ああ、こんなふうに二人は互いを受けいれ、相手を、そして自分を赦していくんだなあ、と思わされた。秘密の暴露によってもたらされるのは衝突ではなく解放なのだとわかったとき、読んでいる私自身もまた、ともに癒されていく感じがしました。

 

──湊さんの小説は、設定の残酷さやセンセーショナルな描写が注目されることも多いですが、人の心の機微を丁寧に救いあげて、いつもその先の希望を見せてくれますよね。

 

松雪:それは、朗読をしていても感じました。相手を追い詰めるストロークやきつい局面を描かれるときにも、というかむしろそういうときほど、湊先生は丁寧に言葉を重ねていくんですよね。書かれていることは残酷なのに、言葉そのものは決して鋭利ではない。きっと、湊先生はものすごくお優しい方なのだと思います。だからこそ物語の先に私たちは救いを見出すことができるのでしょうね。今回、全編を声に出して読みあげることで、そしてドラマでは関与していなかったはるちゃんの心情に深く触れることで、物語で湊先生が描こうとしていたものをより濃く理解することができたのは、得がたい経験だったなと思います。

 

──考えてみれば、赦し、というのはデビュー作の『告白』のときから、湊さんがくりかえし描いているテーマの一つであるような気がします。

 

松雪:そうですね。『告白』は私もとても印象深い小説です。最近、不思議と「赦し」がテーマの作品に関わることが多いんですよ。少し前に出た舞台は、作家さんが「今回はあえて赦すことを描くんだ」とおっしゃっていたもので。いったいどういうきっかけで世界が反転したのだろうと興味深くもあったのですが、きっと誰もが解消しきれない何かを抱えながら生きていて、陽子やはるちゃんとは違って親の顔を知ってはいても、その関係になんらかのわだかまりを感じている人は少なくない。私自身、親と仲はいいですが、ふとした瞬間にこみあげてくるものはありますからね。それでも、親だけでなく自分自身のことも赦しながら受け止めて生きていく。その過程を描いた本作を音で聴いていただくことで、みなさまに何か伝わるものがあればいいなと思います。

 

松雪泰子(まつゆき・やすこ)プロフィール
1972年11月28日、佐賀県出身。91年、女優としてデビュー。2006年、映画『フラガール』で第30回日本アカデミー賞優秀主演女優賞、第19回日刊スポーツ映画大賞主演女優賞を受賞した。08年には『デトロイト・メタル・シティ』、『容疑者Xの献身』で第32回日本アカデミー賞優秀助演女優賞を受賞している。