数々の名作ドラマや映画に出演し、女優として確固たる地位を築いている小池栄子。そのキャリアのなかで、はじめて「ドラマで演じた役」をこの度オーディオブックで朗読することになった。11年前と今。どう違い、何を感じたのか──。そして、湊かなえ作品を読んでみて思ったこととは。実力派女優が感じた作品の奥深さを語っていただいた。

(取材・文=立花もも 撮影=金澤正平)

 

──小池さんは、2012年に『贖罪』がWOWOWでドラマ化された際に、第二章の語り手である真紀を演じていらっしゃいました。

 

小池栄子(以下=小池):当時は、正義感に溢れる小学校教師の彼女とリンクする部分が大きかったんですよ。真紀は小学生時代、同級生のエミリちゃんが不審者に連れ去られて殺されてしまう。それを、現場にいながら止められなかった後悔で、頑迷なまでに子どもたちを守ろうとする気持ちが育った彼女の気持ちはよくわかる気がしたし、幼かった真紀たちを責め、贖罪を強いるエミリちゃんの母・麻子さんはなんて勝手なんだろう、とさえ思っていた。でも今、改めて読み返すと、真紀のように正義感を押し付けるのはちょっときついな、と感じてしまって。

 

──なぜそんな変化が起きたのでしょう?

 

小池:シンプルに、私自身が年を重ね、経験を重ねてきたからだと思います。もちろん真紀の言うことは間違っていないんですよ。でも、世の中、正しいことだけを言えばいいというわけじゃない、ということがあの頃よりもずっとわかるようになったんです。逆に麻子さんのように、私も一時の激情で発した自分の言葉が誰かを傷つけたり、呪いのように誰かを縛りつけて人生を狂わせているかもしれない、と思うようになりましたね。

 

──確かに、『贖罪』ではエミリちゃんの死を止められなかった四人が、麻子さんの怒りに触れたのちどのような人生を送ったか、が最初にそれぞれ描かれるので、「麻子さんひどい」という印象を受ける人が多そうですよね。でも麻子さんの章を読んでみると……。

 

小池:意外と彼女はそこまでの気持ちで言っていなかったりする。その章構成による仕掛けがすごい、というのも今回改めて感じたことです。私ももう少し自分の言葉に責任を持って人と接しないと、とくに年下の子たちに対して麻子さんのようになってしまうかもしれない、と思いました。30代までは、相手が後輩であろうと、率直であることがいい人付き合いを導くように感じていたけど、必ずしもそうではないということも私自身、感じる場面は増えてきましたしね。

 

──変化した作品の解釈は、朗読でどのように作用したのでしょう。

 

小池:あ、でも、できるだけ自分の解釈は持ち込まないように意識していました。演じる、という意識もできるだけ捨てて、この章で何が言いたいのか、何が大事なのかという自分の感情もできるだけ封印して。それは、聴いている人が感じとればいいことなので、邪魔したくなかったんですよね。

 

──実際、オーディブルを聴いていても、淡々と抑制のきいた声の下に感情が潜んでいる、という印象を受けました。ただ読んでいるのとも演じているのともまた違うというか。

 

小池:それなら、よかったです。たとえば、語り手のなかには、精神を病んでいるように感じられる女性もいて、映像の演技であればそこを多少は強調することになると思うんですけど、朗読でそれをやると、聴いている人が引いてしまうんじゃないかと思ったんですよね。聴きながら「もしかして……」と感じる程度のほうが、きっといい。そういうことの積み重ねでどの章も成り立っているので、難しかったですね。一日ごとに一話を収録していたんですけど、毎回「明日も頑張らなきゃ……」とぐったりしていましたもん。未知の分野にチャレンジできる喜びとプレッシャーがすごすぎた(笑)。その分、役者としてのアプローチの方法が今後変わっていくだろうなという実感もあります。

 

──どんなふうに?

 

小池:これまでの自分がいかに表情やしぐさに頼って演技していたのか、改めて思い知らされたんですよね。役作り、という根幹は芝居も朗読も同じであるはずなのに、声だけになったとたんこんなにも制約があるように感じられるのは、良くも悪くも「私」という存在に頼っていたからなのだろうな、と。もっと自分の声に向き合って、本質的に役をとらえ、肉付けしていくやり方を構築したほうがいいんじゃないかと思いました。そのうえで「私」を足すことができれば、映像での表現にもっと幅が広がるだろうな、と。

 

 

──今回、真紀については改めてどのような役作りをされましたか。

 

小池:正義感の強さよりも、他者のまなざしを敏感に察知する人なんだな、ということは考えましたね。彼女はエミリちゃんの事件で何もできなかった後悔から、しっかりしていると言われる行動を積み重ねるようになっていった。そうして初めて、自分の存在意義を肯定できるようになった。そんな人が結果的に小学校の先生になっている、というのも根深いものを感じるけれど、だからといって保身にばかり走る人かといえば、そうではない。教師として自分の起こした行動を冷静に分析し、同僚に対しても寄り添う姿勢を見せる。四人のなかでは、実はいちばん成熟した人でもあるんだろうなと思いましたね。その確固たる姿勢が、今の私には強すぎると感じる部分はあったにしても。

 

──いちばん自分から遠いな、と感じた語り手は誰でしょうか。

 

小池:第一話の紗英ちゃんかな。エミリちゃん事件のトラウマで、肉体が未成熟のまま大人になってしまった彼女は、そんな自分でもいいと愛してくれる男性と結婚することができた。でも……というのが一話のオチなわけですが、彼女は夫である孝博さんを愛していなかったのだろうか、と疑問に思ってしまったんですよね。孝博さんの愛のかたちは確かに歪んでいたけれど、それを受け止めることはできなかったんだろうか、と。

 

──確かに、それがいいか悪いかは別として、受け止めるという選択があれば悲劇は起きなかったかもしれない。

 

小池:もちろん、紗英ちゃんなりに彼の孤独を受けいれようと葛藤する場面も描かれてはいたけれど……。私自身が、受け止めるのが愛だと思っている人間なので、いろいろ考えてしまいました。大人になるってどういうことなんだろう、人を愛するってどういうことなんだろう、って。どうにかしてうまくいく道はなかったのか、と考えるといちばん切ない気持ちにさせられる話でもありますね。

 

──愛するとはどういうことなのか、というのは、言われてみれば本作に通底するテーマの一つだった気もします。

 

小池:そうですね。3話の晶子は事件後引きこもるようになっていて、それゆえに家族との歪んだ関係が浮き彫りになっていくんだけれど、あれもまたつらい話だったな。それこそ子どもは親を愛しているがゆえにその言動をまるごと受け止めてしまうわけだから。親のほうも愛していないわけじゃないけれど、エゴが先立ってしまうと子どもの心を、人生を、壊してしまいかねない。第四話の由佳は、姉との関係に歪んだものを抱えていたけれど、その根幹には親から注がれる愛情の差みたいなものが見え隠れしていて、夫婦や恋人とはまた違う愛の在り方も考えさせられましたね。

 

──誰に感情移入するかで、また作品全体の解釈も変わってくる小説ですよね。

 

小池:余白を与えてくれるのが湊さんの小説の魅力なんだなというのは改めて感じました。読む人によっても解釈が異なるのはそうなんですけど、演じるための余白がものすごく広いんです。そういう意味では、このあいだまで『鎌倉殿の13人』でご一緒していた三谷幸喜さんとか、舞台の脚本を書く人に近い感性を感じます。遊びがあるっていうのかな、演じる人によって真逆の個性を表現しても矛盾しない懐の深さがある。逆に、作者が何かを押し付けようという意図を持っていない分、演者のこだわりや価値観が出すぎてしまいかねないから、慎重に演じなくてはいけない難しさもあるんだけれど。

 

──その塩梅も、演じる人に委ねられているわけですね。

 

小池:でもだからこそ、湊さんの作品は映像の監督やプロデューサーに求められるんじゃないかと思います。個人的には「絶対にこの人じゃないだろ」って役者ばかりをキャスティングした湊かなえ作品の映像化も観てみたい。それでも完成してみたら意外とハマるんじゃないのかな。私、テレビドラマでも、年に一回でいいから「このクールは無名有名関係なく全部くじ引きでキャスティングしました」って企画をやってほしいと思っているんですよ。そうすると「この人、こんな役もできるんだ」って可能性の発掘にも繋がるし、ふだん日の目を浴びない人にもチャンスが与えられるし、いいことずくめなんじゃないかな、って。

 

──それはめちゃくちゃ観てみたいですね。

 

小池:でしょう。役者も切磋琢磨して、ものすごく盛り上がるんじゃないかな。もし実現するとしたら、そのときは湊さんの作品でやってほしい。誰がどんな解釈をしても、どんな演じ方をしても、絶対におもしろくなるし、観る人に伝わる“何か”は決して損なわれない。そんな魅力のある作品を書かれる方だと思うから。

 

小池栄子(コイケ・エイコ)プロフィール
1980年11月20日生まれ、東京都出身。
1998年に『美少女H』でドラマデビュー。以後、TV、映画、舞台、CMで幅広く活躍。
主演映画『接吻』では第63回毎日映画コンクール女優主演賞、『八日目の蟬』では第85回キネマ旬報ベスト・テン助演女優賞、第35回日本アカデミー賞優秀助演女優賞など数多くの賞を受賞。主演舞台『グッドバイ』では第23回読売演劇大賞・最優秀女優賞を受賞した。