なんの波乱もないはずの殺人事件の公判が、結審直前にひっくり返る。裁判官のたったひとつの質問で逆転する法廷ミステリー小説『不知火判事の比類なき被告人質問』が話題を呼んでいる。はたして現実では本作のような逆転裁判は本当にあり得るのか? 元裁判官で弁護士、テレビコメンテーターとしても活躍する八代英輝氏に本作の面白さや読みどころ、そして司法の現状をお聞きしました!
タイトルにいつわりなしの面白さ。通常の3倍の時間をかけて、慎重に伏線を読み解いた
──まず、本書の率直なご感想をお聞かせください。
八代英輝氏(以下=八代):タイトルにいつわりなしの面白さというのが率直な感想でした。不知火春希判事の被告人質問の切り口については、エピソードそれぞれに驚きがありましたし、法廷シーンのスピーディな展開と謎解きにはすっかり翻弄されました。私は通常、推理小説は1時間80~100頁のペースで読むのですが、本作(245頁)については9時間をかけて挑みました。通常の3倍です。慎重に全ての伏線を咀嚼しながら読み進めたつもりだったのですが、不知火判事の着眼点は私の想像のレベルを超えていました。
──本作は5つの事件を扱う連作ミステリーです。裁判官の経験がある八代さんは、どのエピソードが一番印象に残っていますか?
八代:特に印象が強かったのは第1章『2人分の殺意』です。推理小説のタイトルは、読者にとっては謎解きのヒントであったりしますが、本章のタイトルにはいい意味で裏切られました。ヤングケアラーという比較的新しい社会問題や、児童虐待などを背景に、長女が母親を絞殺した後の「だが、まだやることは残っていた」という伏線が読者にはタイトルと絡んだ大きな伏線となります。
法廷でこのようなことが実際に起きたら、自分は見抜けただろうか……
八代:不知火判事は鋭い洞察力で、被告人が精神になんらかの問題を抱えていることを見抜き、鮮やかにそれを証明してみせました。被告人質問で解き明かすというスタイルもさることながら、質問の切り口もまさに「比類ない」レベルの衝撃でした。私は実際の裁判で解離性同一性障害の鑑定を受けた被告を担当した経験は何回かありましたが、全てのケースで、それは刑の減軽を狙う弁護人側からの主張で、被告の精神の異変を目の当たりにしたこともありませんでした。「法廷で実際に起きたら自分は見抜けただろうか?」と、とても興味深く拝読しました。
──本作の中には、現実の公判ではあり得ない展開もあったと思います。例えばどのような点でしょうか。
八代:「裁判官」はチームを組むことで合議体としての「裁判所」として機能します。そのため、事件について重要な疑問が生じた場合に合議体に諮らず、いわば個人プレーのようなかたちで法廷でそれを披露することはないでしょうね。実際にやったら裁判長に制止されて後でめちゃめちゃ叱られます(笑)。ただ謎解きを事前に合議に諮っていたら読み物としては全然面白くなくなってしまいますよね。法律家の書く推理小説は面白くないと言われる所以です。
裁判官時代、「無罪判決」を言い渡す際に感じたのは “真実は人の数だけある”ということ
──不知火判事は、被告人質問で公判をひっくり返してしまうことが度々ある「異端の裁判官」です。彼についてどう思われましたか?
八代:公判は国家の権威が試される場で、裁判官はルールに従えばこれをひっくり返してしまうことも許されています。私も常に無罪判決を狙って公判に臨んでいました。そういう意味で予定調和を破壊する不知火判事の質問は痛快です。不知火判事の洞察力で興味深かったのは方言への対応です。第2章「生きている理由」の中での「ある言葉」を、自分も気になりながら読み進めていたのですが、すっかりタイトルのヒントを忘れていました。方言だったんですね。文字のマジックでもありますね。
──八代さんが実際に裁判官として被告人質問で心がけていたことはありますか?
八代:私は常に検察側の立証を疑う姿勢を心がけていました。自分の短いキャリアで無罪判決を言い渡す機会が数回ありましたが、いずれのケースでも検察側は無罪という事態に強い衝撃を受けていることを感じました。立場が違えばものの見方は変わる、事実は一つだが真実は人の数だけあるということを肌で感じました。
もう一つ私が注視していたのは被告人の家族でした。例えば、被告人の母親であったり、妻であったりという人たちです。この人たちは傍聴席右端最後尾の席にひっそりと座っていることが多く、後に情状証人として証言する場合もあります。判決により裁判官と被告人の接点は終わりますが、被告人の更生を支える人物との関係性については注視するようにしていました。
マスコミから大ブーイングの嵐! ある「強盗殺人事件」の判決文
──現在も弁護士として活躍中の八代さんですが、裁判官時代からいまに至るまで、記憶に残っている裁判や、裁判官の説諭などがあれば教えてください。
八代:沢山あるのですが、私の比類なき「裁判長」経験をご紹介します。ある被害者2名の強盗殺人事件で、私が主任の左陪席として判決起案を行いました。複数被害者の強殺事件として極刑(死刑)が想定されましたが、私たちの合議体では無期懲役とすることに決め、それに沿った起案を裁判長に提出しました。ところが、判決当日、裁判長は主文後回しで理由の朗読を始めたのです。通常、死刑判決の場合は主文を後回しにするので、当然、報道席からは記者たちが飛び出して行きました。私は裁判長を凝視してしまいました。「まさか検討中の極刑の原稿を渡してしまったのか?」などと狼狽しきりの数時間後に裁判長は無期の主文を朗読しました。説諭で極刑ぎりぎりの事案ということを被告人自身に理解させるためにあえて主文を後回しにしたと説明しましたが、事前に一言もなく、私にとっては本当に「比類なき」裁判長でした。当然マスコミからも大ブーイングの嵐でした。
──近年の裁判で、判決が不可解だと感じたり、自分はこう思う、など疑義を抱かれたものはありますか?
八代:いわゆるJR東海認知症事故事件の1審判決ですね。愛知県大府市で2007年、認知症で徘徊中の男性(当時91歳)が列車にはねられて死亡した事故をめぐって、JR東海が家族に約720万円の損害賠償を求めた訴訟の名古屋地裁判決です。この事件の裁判長は私の初任地の部の後輩でしたが、介護負担が社会問題化する中、なぜ彼が高齢の認知症患者を抱える家族にあのような冷たい判決を下したのか不可解ですし、憤りも感じました。
なお、この事件は上告審まで争われ、最高裁第3法廷は、介護する家族に賠償責任があるかは生活状況などを総合的に考慮して決めるべきだとする初めての判断を示し、JR東海の請求を棄却しました。当たり前の真っ当な判決です。
読むと「2倍」法律に詳しくなり、「意外な結末」を楽しめるミステリー!
──最後に、本書はリーガル・ミステリーですが、法律の世界を舞台にした作品は難しいという印象を持たれることもあります。そんな読者の方にも手に取っていただけるような、本作のオススメポイントを教えて下さい。
八代:不知火判事の質問によって新たな事実が判明し、起訴された罪名では裁かれないから、1冊で2倍法律が詳しくなります! さらに言うと、全エピソードを通して読んでみて、どうも著者はこの作品を読者に推理してもらうことよりも、意外な結末を楽しんでほしいと思っているようなので、いい意味で予備知識ゼロで臨めるのではないでしょうか。
あとは表紙の装丁ですね。とても裁判所らしいイメージをもたれていますが、日本の裁判所に登場しないものが描かれています。さてそれは何でしょう? そんな楽しみ方もありかもしれません。
【あらすじ】
フリーライターの湯川和花は殺人事件のルポを書くために裁判を傍聴することになった。30代無職の娘がシングルマザーの母親を絞殺。娘は犯行を認め何事もなく結審すると思われたが、被告人の供述は時折「曖昧」なところがあるのが不可解だった。そして、左陪席の不知火春希裁判官が最後の質問で、被告本人しか知りえない事実を指摘する――。公判資料と被告人の証言だけで、隠された真相を白日のもとにさらす不知火判事の質問は「他に類を見ない質問」と法曹関係者の間で囁かれていた。
八代英輝(やしろ・ひでき)プロフィール
1964年生まれ、東京都出身。八代国際法律事務所代表。慶應義塾大学法学部卒業後、93年に裁判官に任官。97年に退官。その後米国でも弁護士資格を取得し、国際弁護士として活動を始める。そのかたわら、テレビコメンテーターとして様々な番組に出演。TBS系『ひるおび』にレギュラー出演中。