2021年、愛知県での定着が報告され話題になった寄生虫「エキノコックス」。北海道に生息するキタキツネの感染率は40%以上にも上ります。本来、キツネとネズミの間でライフサイクルが完結するはずのエキノコックス。しかしイレギュラーに人間に寄生してしまった場合、死に至る病を引き起こします。

 日本で本格的に対策が始まったのは戦後復興期。北海道礼文島出身者から相次いでエキノコックス症とみられる患者が発見され、その謎を解明すべく調査団が島に派遣された。河﨑秋子さんの最新小説『清浄島』ではそんな史実をもとに、エキノコックス症と闘った研究者と島民の姿を描きます。 

 今なお新規感染者が発生し続けるエキノコックス症。『清浄島』の刊行を記念して、北海道立衛生研究所で30年以上、エキノコックスの研究に携わってきた八木欣平さん(現北海道大学獣医学部客員研究員)と著者との対談が実現しました。
(取材・文=瀧井朝世)

 

前編はこちら

 

河﨑秋子(以下=河﨑):北海道のエキノコックスは、まだまだ予断を許さない状況ですよね。

 

八木欣平(以下=八木):そうですね。僕は札幌の山のほうに住んでいますが、感染源となるキツネの糞を拾うとエキノコックスの虫卵が簡単に見つかります。

 

河﨑:エキノコックスはまず幼虫としてネズミに寄生して、それを食べたキツネの消化管の中で親虫になって卵を産みますよね。本州で拡大しないのは、キツネが少ないというシンプルな理由なんでしょうか。

 

八木:それはひとつの要因だと考えてよいでしょう。もうひとつ、北海道にはキツネが食べるエゾヤチネズミという、草地で増えるタイプのネズミがいるんです。本州にもそれに相当するネズミはいなくはないけれど数は多くない。そこからいろんな仮説は立てられますね。

 

河﨑:キツネやネズミと人間では感染しやすさは違うのでしょうか。

 

八木:あれだけキツネに感染しているのに人の患者が少ないことを考えると、人に感染しづらいと予測できます。

 また、最近は個人情報の問題もあり、感染した人の情報がなかなか出てこないんですね。それが、身近に感染者がいると認識している人が減ってきていることの理由の一つと思われます。学校の先生とエキノコックスの話をすると「え、まだエキノコックスっているんですか」と驚かれたりすることもあるようです。河﨑さんは、小さい頃に学校で、「キツネを触るのはやめましょう」って教えられたでしょう?

 

河﨑:それはもう。他にも、木の実を採っても絶対生のままで食べるな、と厳命されていました。

 

八木:ところが最近は、そうした危険性を子供に教えるべき先生まで「まだいるんですか」と言うわけです。リスク回避の必要性が認識されづらくなっている。でも、キツネに餌をやらない、外で遊んだら手を洗う、物を食べる時は気を付けるなどといった予防法で、感染率は確実に下がります。

 

河﨑:エキノコックスは人間に寄生しても親虫になれず、卵を産めないですよね。そうした、寄生虫にとっても望ましくないエラーというのは結構あるものなんですか。

 

八木:クジラの回虫のアニサキスなんかもそうですよ。

 

河﨑:ああ、あれは寄生されるとものすごく痛いといいますね。

 

八木:そう。魚にアニサキスの幼虫が寄生し、その魚をクジラが食べると消化管の中で親虫となって卵を産む。でも、寄生された魚をクジラではなく人間が食べると、「ここ違うな」と思うのか、胃壁に潜り込んで幼虫のままでいようとするんですね。で、そのまま死んじゃう。そのような偶発的な感染は、強い病原性を発揮することが多いようです。小説の中でも、エキノコックスが人間の脳に寄生したケースが出てきますよね。

 

河﨑:あれは、根室のほうの郷土資料館の方からお話をうかがいました。

 

八木:好適宿主、つまり望ましい宿主であるネズミなんかは必ず肝臓か、隣接した場所にしか寄生されないんです。でも人の場合、脳や骨に寄生されることがある。アニサキスと同じように人が好適宿主でないことが原因なのかもしれません。ただ、寄生虫が非好適宿主、つまり望ましくない宿主に寄生するのは、もしかすると新しい宿主を獲得するチャンスを狙っている個体がいるのかもしれません。歴史の中で、寄生虫が宿主をスイッチするってことはありましたから。

 

河﨑:それは進化といっていいんでしょうか。

 

八木:難しいですね。謎が多いんです。でもそここそが、エキノコックスのポイントだと僕は考えています。

 ウイルスや寄生虫は悪いものだから根絶しなければならない、と考えておられる方もたくさんいますが、僕は基本的に、共存していくしかないという考え方なんです。共存しながら感染をどう防ぐかを組み立てるのが自分の仕事だと思っています。小説の主人公・土橋もそういう視点を持っていて、共感する部分がありました。

 

河﨑:共存していくなかで、今後、人間は何ができるでしょうか。

 

八木:大きく分けてふたつあります。ひとつは人側の治療薬。治療薬が開発できれば、それほど恐れなくてすみます。もうひとつは、人への感染がどのような状況で成立するのか、そのメカニズムを明らかにする研究ですね。今のコロナウィルスも同じです。感染のメカニズムがわかれば、感染を回避する有効な方法が見つかるものと考えています。

 

河﨑:日常生活において、手洗いなどの他に気を付けたほうがいいことはありますか。

 

八木:飼い犬は人とのコンタクトが多いですから、僕は犬のリスクについてはもう少し気をつける必要があると思っていますね。

 

河﨑:春の狂犬病ワクチンみたいな形で、定期的に予防接種ができると、だいぶリスクは減りますか。

 

八木:まさにその通りで、作中にも出てくるプラジカンテルという薬を実験的に犬に30日ごとに薬を飲ませると、感染はほとんどゼロなんですね。エキノコックスが寄生してから卵を産むくらい成長するまでに30日くらいかかるので。いわゆるフィラリアの薬もひと月に1回投与するので、その時一緒に薬を飲ませるように指導している獣医さんもいます。

 

河﨑:それは安心ですね。

 

八木:小説のなかで土橋も言っていますが、研究者にはまだまだやることがたくさんある。先ほどの笹の実の話のように、何が駄目なのか分かれば、リスク回避の選択肢は増えますから。

 

河﨑:そうした理系の研究者たちの頑張りを、私は好き勝手に物語で扱わせてもらった形になってしまって……。

 

八木:いやいや、丁寧に書いてくださっていて、とても印象の良いストーリーでした。

 

河﨑:今研究されている方々の存在は本当にありがたいです。得た知識は後の世代にもなくてはならないものになりますし。

 

八木:まあ、マンパワーと研究費の問題はありますが。今はどの研究もそうですが、ある程度業績を残さないと研究費がもらえない。そのなかで、若い人たちをどう育てるのかは僕たちの悩みどころです。でも寄生虫の研究ってマイナーで、何をやっても世界初、みたいなことがあるんですね。そういう意味では恵まれた環境にいるんです。今後、それをどう若い人たちに繋いでいくか、真剣に考えないといけないと思っています。

 

河﨑秋子
1979年北海道別海町生まれ。元羊飼い。2012年「東陬遺事」で第46回北海道新聞文学賞(創作・評論部門)を受賞。14年『颶風の王』で三浦綾子文学賞、16年に同作でJRA賞馬事文化賞、19年『肉弾』で第21回大藪春彦賞、20年『土に贖う』で第39回新田次郎文学賞を受賞。22年『絞め殺しの樹』で第167回直木三十五賞候補に。他書に『鳩護』『鯨の岬』『介護者D』ある。

八木欣平
1956年大阪府生まれ。1978年北海道大学獣医学部卒。1983年から2021年まで北海道立衛生研究所でエキノコックス、アニサキス等の寄生虫の研究に従事。1986年ボリビアで霊長類に関する調査研究、95年ウルグアイエキノコックスコントロールプロジェクトに参加(JICA)。2000年メルボルン大学客員研究員。現北大獣医学部客員研究員。

 

【あらすじ】
風が強く吹きつける日本海最北の離島、礼文島。昭和二十九年初夏、動物学者である土橋義明は単身、ここに赴任する。島の出身者から相次いで発見された「エキノコックス症」を解明するためだった。それは米粒ほどの寄生虫によって、腹が膨れて死に至る謎多き感染症。懸命に生きる島民を苛む病を撲滅すべく土橋は奮闘を続ける。だが、島外への更なる流行拡大を防ぐため、ある苦しい決断を迫られ……。