人と人の絆をテーマにミステリーを書き続ける小杉健治氏。本作『母子草の記憶』に登場するのは、幼い主人公のために苦悩する母親だ。母親の下した決断が、主人公をはじめ周囲の人々に、思いもよらぬ波紋を広げていく──。ベテランの妙手を存分に楽しんでほしい。
「小説推理」2022年5月号に掲載された書評家・大矢博子さんのレビューと書籍の帯で、『母子草の記憶』の読みどころをご紹介する。
■『母子草の記憶』小杉健治 /大矢博子:評
15年前に両親を殺した犯人は、まだ捕まっていない──過去に向き合うことを決意したノンフィクション作家が出会った、悲しみと慈しみの事実とは。
ここには描かれなかった色んな人の思いや人生が浮かび上がってくる。小杉健治『母子草の記憶』は、そんな「描かれなかった人々」の物語だ。
主人公は30歳のノンフィクション作家、草下彰。15歳のときに両親を殺され、中学卒業と同時に夜間学校に通いながら働き始めたという過去を持つ。その職場で文章を書くことに目覚め、5年前に大きな賞を受賞して身を立てた。だがそれ以来、原稿に編集者からのOKが出ず行き詰まっている状況だ。
編集者や先輩作家からのアドバイスもあり、草下は自らが犯罪被害者遺族となった過去の事件を題材にすることを決意。両親を殺した犯人はまだ捕まっていないのである。
そんなある朝、草下はマンション近くの路地で男が殺されているのを発見し、警察に通報した。仕事柄と、井ノ内というその被害者に見覚えがあるような気がしたのとで、草下は井ノ内のことを調べ始める。すると井ノ内は、草下を訪ねて現場を訪れていた可能性が浮上。それは草下自身の過去につながって……。
15年前の事件の回想と現在の殺人事件、さらには井ノ内の過去と、時制がひんぱんに行き来する構造をとっていながら混乱させることなく読者に一本の筋を追わせる書きぶりは、さすが手練れの技術だ。井ノ内の過去が少しずつ明らかになるにつれ、読者も「もしかしたら、こういうことでは」という予想を抱くに違いない。だが著者は、そんな読者の予想に、途中で一度うっちゃりを食らわせる。このあたりも実に周到。
そして終盤にはすべてが明らかになるのだが、その過程に登場する人々すべてに背景があり、人生があることを窺わせるのがこの物語の魅力である。草下の思い出としてしか語られない死んだ両親。彼のことを心配していた近所の人。具体的には書けないが、草下が調査の途中で出会った関係者たちも、ほんのわずかな出番であっても、誰かを心配したり、誰かの助けになろうとしたり、誰かを懐かしんだりしている。だから、終盤に重要な人物が登場したときも、その来し方に思いを馳せることができるのだ。これはそういった、人はどこかでつながっているのだと、血のつながりだけではなく思いのつながりの中で人は生きているのだと伝える、絆の積み重ねの物語なのである。
見えない思いこそが物語の中核にある。その思いを、どうか受け取っていただきたい。