このたび『「わきまえない女」だった北条政子』(双葉社)を上梓した歴史作家の跡部蛮氏。同氏いわく、2022年のNHK大河ドラマで注目される鎌倉時代において、女性の地位は、その後の室町時代から戦国、江戸、そして現代とは違い、独特だったという。

 その象徴的な存在が北条政子。”尼将軍“と呼ばれ、権勢を欲しいままにした女傑であり、”悪女“の代表格として現代まで語られる存在だ。

 なぜ、北条政子が「わきまえない女」といえるのか。跡部氏のその理由を訊いた。

 

──まず、大河ドラマの舞台となる鎌倉時代について教えてください。

 ありきたりな表現でいうと、幕末動乱期まで続く“武士の世の中”が始まる時代……ですかね。

 ただ、 “武士のトップ=将軍”という常識は頼朝の代には確立しておらず、そのルールは三代将軍実朝の時代から始まります。

──ではやはり、頼朝が将軍になって幕府が誕生したという“1192(いい国)説”は誤りだと?

 はい。そもそも、鎌倉幕府とは何かという基本に立ち返って考えねばならない課題が多く、著書では、その点についても詳しく書いたつもりです。

──その幕府は、平清盛を頂点とする政権を倒して成立しています。

 ええ。まず清盛が史上初めて福原(神戸)で武士政権を誕生させ、頼朝が平氏を倒して鎌倉に幕府を開きます。その後、武士政権は幕末まで源氏と平氏が交互に担い、これを源平交代思想と呼んでいます。紙に書くとこうなります。

 平氏(清盛)→源氏(頼朝)→平氏(?)→源氏(足利尊氏)→平氏(織田信長)→源氏(明智光秀)→平氏(豊臣秀吉)→源氏(徳川家康)。

 信長以降は極めて怪しいですが、本人たちが主張しているので許してください。鎌倉幕府でいうと、源氏は三代で滅び、四代目以降の鎌倉殿は摂関家や皇族出身者となります。その間、執権として幕府の政治を担ったのが、清盛と同じ桓武平氏一族の北条氏です。

──頼朝のあとの(?)に入るのは北条氏の誰かなんでしょうか。

 そうです。一般的に初代執権は北条時政だとされていますが、彼の息子、大河ドラマの主人公北条義時こそが執権政治を確立させた事実上の初代だと考えています。では空欄に義時と入れてみてください。

──ウ~ン、なんだか……。

 なんだか、ですよね。日本史上のビッグネームばかり揃う中、1人だけ地味な印象です。もし彼らが一斉に記念撮影したら、義時が“えっ? ボクも一緒でいいですか?”と小さくなってしまいそうです。

 肖像画すら残っていません。ようやく『承久記』という絵巻が80年ぶりに見つかり、そこに義時の姿が描かれていたので、ちょっとした騒ぎになったほどです。義時は、そもそもでいうなら、北条氏ですらありません。どういうことなのかは著書をお読みください。

──だけど、やってることは凄まじいですよね。

 そう。彼が権力を掌握していく過程で、多くの政治抗争が勃発し、ほぼすべてに絡んでいるといってもいいでしょう。しかし、そんな義時もただ1人、頭の上がらない人がいました。

──いよいよ、義時の姉北条政子の登場ですね。

 幕府の制度上、義時は執権として、尼将軍である政子の“仰せ”に従い、その命令を執行する立場。どちらが上かというと、政子と答えるしかありません。

 そんな政子はややもすると、実家である北条一族の権力掌握のために尽力したと見られがちです。ところが彼女は父時政を失脚させ、実家の意に反した方向を目指そうとします。そういう意味では(?)に入るのは北条政子だと考えたほうがいいかもしれません。

──元総理のIOC(東京オリンピック委員会)前会長が政子に会ったら、まさしく「わきまえない女だなー」と言ったかもしれせんね。

 そうですね。ただ、彼女だけが特別かというとそうではありません。当時の妻たちは家の財産を管理し、次の世代に譲り渡す権利と義務を持ち、女性にも相続権がありました。たとえば地頭職を持つ“女領主”もさほど珍しい時代ではなかったのです。

 そういう社会の情勢を考えないと、政子という政治家の本質は見えてきません。つまり、現代とは違う視点で政子という政治家を見直すのが著書の目的です。

 あまり知られていませんが、彼女は源氏将軍が絶えたのち、源氏の四代将軍を立てようとし、それが失敗すると、孫娘を自分の後継者に据えて、“鎌倉殿は源氏の血筋”という原則を次の世代に引き継ごうとします。

 その彼女の企ては成功するのでしょうか。続きは著書でお楽しみ下さい。