「お帰り、ヤッさん」。そんなふうに声をかけたくなる。なにしろ本書は、テレビドラマ化もされた原宏一「ヤッさん」シリーズの、三年ぶりの新刊だ。あの、誇り高き宿無しにして、食の達人に再会できるかと思えば、嬉しくてたまらないのである。
本書には、中篇三作が収録されている。冒頭の「夫婦の触れ太鼓」は、築地の場外市場の『そば処みさき』に危機が訪れる。シリーズの読者ならばお馴染みの、タカオとミサキの夫婦が営んでいる蕎麦屋だ。築地場内市場の移転もあり、商売のスタイルを変えようとするタカオ。美味い蕎麦を打つことだけを考えるミサキ。タカオが独断専行で京都の料理人を雇う一方、仕入れ先の蕎麦農家の跡継ぎにミサキがよろめく。夫婦の亀裂は広がるばかりだ。
そこに築地の様子が気になって帰ってきたヤッさんが介入する。ミサキの視点で進行するストーリーは、タカオの悪い部分が目立つ。しかし、本当に彼だけの問題なのか。ヤッさんに京都まで連れて行かれたミサキも、己の悪い部分を自覚する。夫婦の仲と『そば処みさき』を救う、ヤッさんの言動が気持ちいい。
続く「ニューウェイブの調べ」は、築地場外市場にある卵焼き屋『玉勝屋』の娘・香津子の人生の選択が描かれる。演劇を辞め、家業を継ごうとしている香津子だが、店の伝統がプレッシャーになっていた。そんなとき、ポルトガル料理のテンペイロを広めようとしている片桐礼音と出会う。また元彼で、豊洲で事業を拡大した老舗仲買店の若社長も、よりを戻そうといってくる。ふたりの間で揺れる香津子を、店の手伝いをしていたヤッさんが見守っていた。
香津子の心が揺れるのは、自分に自信がないからだ。それを見抜いたヤッさんが、店の伝統の意味を教える。人間と料理を熟知した、ヤッさんの箴言が胸に響くのだ。
そしてラストの「春とび娘」では、なにかとヤッさんに協力する韓国料理店のオモニがクローズアップされる。店舗兼住居からの立ち退きを迫られているオモニ。それと並行して、ヤッさんが目をかけている女料理人・南里菜を巡る騒動も描かれる。鬼の霍乱か、珍しく風邪をひいたヤッさんを心配して、積極的に行動するオモニが新鮮だ。こういう驚きも、シリーズ物を読む楽しみなのである。
さらに、各話のアクセントとして音楽が使われていることにも留意したい。ひと手間を加えることで、一冊の味わいが、さらに引き立つのだ。