第 1 回
プロローグ
袖と裾が裂けたシャツ、贅肉が削ぎ落とされた腹筋、デニムの短パン、無造作に後ろで束ねられた髪……風上の木陰に前屈みの姿勢で身を潜めた少女は手製の槍を構え、息を殺していた。
少女は、ネコ科の動物を彷彿とさせる切れ上がった眼で野ウサギを注視した。
正面――約二メートル先で野ウサギは、長い耳を後ろに倒し顔を上向きにしていた。
人間と違い眼が側頭にあるので、ウサギの視界は三百度の範囲を捉えることができる。
顔を少し上げているのは、真後ろを見るためだった。
だが、側頭に眼がついているウサギは正面が死角になっていた。
二メートル以内の正面の視界は、ほとんど捉えることができない。
同じ姿勢で少女は、十分近くじっとしていた。
物音を立ててはいけない。
ウサギの聴覚はレーダーの役割があり、三百六十度の音を聞き分けることができる。
天敵が多いため、微かな物音にも敏感に反応する。
十分くらいは、どうということはなかった。
その気になれば、一時間でも二時間でも同じ姿勢で待つことができる。
野ウサギが、しきりに鼻をヒクつかせていた。
嗅覚も犬並みに鋭いので、少女は全身にシダの葉の汁を塗りつけて体臭を抑えていた。
ウサギが警戒するのは、自らを捕食しようとする動物の匂いだ。
彼らにとって、食事や排泄は命がけだ。
少女はいきなり、木陰から飛び出した。
異変に気付いた野ウサギが俊敏に身を翻し、全速力で跳ねた。
五メートル、十メートル……野ウサギとの距離があっという間に開いた。
野ウサギの最高速度は時速八十キロで、ライオンやオオカミよりも速い。
人間が、敵うはずはなかった。
だが、それは障害物のない平坦な草原を走った場合だ。
ここは樹々が生い茂り足場の悪い山道だ。
野ウサギのスピードも三分の一ほどに落ちるので、少女もなんとかついてゆくことができた。
むしろ、足場の悪さは少女にとって有利に働く。
ウサギは肺が小さいので、全速力で走れる時間が短い。
最初の三十秒を凌ぎ切れるかどうかで、すべてが決まる。
山道を走る少女の足取りは、カモシカのように軽快だった。
しなやかで強靭な脚が大地を力強く蹴り上げるたびに、少女の引き締まったふくらはぎの筋肉が彫刻のように浮き出た。
野ウサギのスピードが落ちてきた。
十メートル、九メートル、八メートル、七メートル……。
野ウサギとの間隔が詰まってきた。
五メートルを切ったあたりで、少女は走る速度を落とさず槍を持つ右腕を振り抜いた。
一直線に風を切る槍――尖頭器でできた槍先が、野ウサギの腰椎に突き刺さった。
脚力を奪われた野ウサギが横転した。
追いついた少女は素早く槍を抜き、野ウサギの後頭部に手刀を叩き込み失神させた。
すぐに殺さないのは、肉を新鮮に保つためだ。
少女は野ウサギの耳を掴み、肩に担いだ。
しばらく歩くと、少女は無数の穴が開いた倒木の前で足を止めた。
少女は槍先で、穴の周囲の樹皮を抉った。
朽木は呆気なく崩れ、三センチほどのクリーム色の幼虫が地面に落ちた。
カミキリムシの幼虫は蛋白質が豊富なので、大切な食材だ。
少女は腰に括りつけていたジュースの空き缶に幼虫を入れると、別の穴の周囲の樹皮を槍先で抉った。
一匹目より一回り大きな幼虫が転げ落ちた。
三匹、四匹……倒木から、五匹の幼虫を採集したところで少女は歩を踏み出した。
三十分ほど歩くと、雑木林を抜けて雑草の生い茂る平地になった。
平地には、十数軒の家が点在していた。
どの家も蔦が絡まり苔に覆われ、倒壊寸前だった。
少女が生まれた年――十八年前までは、一条島には百人ほどの住民がいたらしいが、火山が噴火し地震が起きたことで離島して無人島になったという。
この平地より低い土地に建っていたほかの家は、地震が引き起こした津波に呑み込まれて全壊したとジイジに聞かされていた。
少女は、ススキの葉のような雑草を数十本引き抜いた。
葉を磨り潰すとレモンの香りがすることからレモングラスと呼ばれ、シトラールという成分が虫除けに効果を発揮する。
平地をしばらく歩くと、視界に砂浜が広がった。
朝の陽光が、海を鮮やかな青に染めていた。
新雪のような白砂を歩きながら、少女は適当な長さの木の枝を拾い集めた。
薪、物干し竿、肉や魚の焼き串、罠の材料……木の枝は、万能の道具だ。
砂浜から岩場に足を向けた。
十数メートル歩いた少女は立ち止まり、腰を屈めた。
岩場の裂け目に仕掛けたバケツには、魚の内臓に釣られた甲羅の幅三センチくらいのイソガニが七匹落ちていた。
少女はバケツを裂け目から引き上げ、岩場を奥へと進みふたたび雑木林へと足を踏み入れた。
二、三十メートル進むと、丸太を組み合わせ広葉樹の落ち葉の上に樹皮を重ねて屋根にした少女の家が姿を現した。
外壁は支柱の丸太に細い竹を何百本も編み込み、その上から練った土を塗り込んで固め、蛇やアリの侵入を避けるために地上から二メートルの床上げ式にしていた。
去年まで住んでいた家が台風で倒壊したので、少女とジイジで二週間かけて造り上げたのだ。
少女は枝とレモングラスの束、イソガニの入ったバケツと失神した野ウサギを地面に置くと、調理場と呼んでいる家の前のスペースに移動した。
調理場には、海水を蒸発させて採取した塩や、木の実を磨り潰して作った調味料の類を備蓄してある竹筒が並べてあった。
少女は、火床の前に屈んだ。
火床は、直径二十センチ、深さ五センチほどの円形の穴を掘り周囲に小石を積んだものだ。
穴には空気の隙間ができるように枯れ葉が敷かれ、その上に火が燃え広がりやすいように数十本の小枝を格子状に交差させて積み重ねていた。
少女は海水の入ったペットボトルを火床の上で太陽に翳した。
ペットボトルを通して集まった陽光を、色の濃い枯れ葉に当てた。
一、 二分すると、枯れ葉から煙が立ち上った。
少女は口を近づけ、枯れ葉に息を吹きかけた。
火種が起きると、魚の脂を落とした。
小枝に燃え移った火種がパチパチと音を立てながら、あっという間に炎となった。
海水を入れた大き目の空き缶を火床の上に吊るし、少女は野ウサギを調理場に運びまな板代わりの切り株に載せた。
野ウサギの首に当てたナイフの背に、反対側の手に持った拳サイズの石を叩きつけると頭が地面に転げ落ちた。
次に、ナイフを喉もとからまっすぐに腹まで走らせて開き、服を脱がすように皮を剥ぎ取ると、腹腔を裂いて内臓を取り出した。
肝臓は空き缶に溜めた海水に、ほかの内臓は罠や釣りの餌用の空き缶に放り込んだ。
少女は、剥ぎ取った皮に付着した血と脂をペットボトルに溜めた雨水で洗い流し、解体に使うのとは別の切り株に伸ばして置いた。
俯せにした毛皮を開き、前肢と後肢の四ヶ所に石で釘を打ちつけた。
二、 三日の間天日干しして、冬に首巻や手袋として使うまでしまっておくのだ。
少女はまな板の切り株に戻り、野ウサギの全身を、胴、背中、肩、腿と筋肉の繊維に沿って手際よく切り分けた。
最初に切断した頭部の皮を剥ぎ火床に移動した少女は、空き缶の沸騰した湯の中に放り込んだ。
ウサギ汁は、ジイジの好物だった。
少女は解体した肉と海水に漬けていた肝臓を、竹で作った串に刺すと火床の周囲の地面に立てた。
野ウサギが焼ける間、カミキリムシの幼虫が入った空き缶を火床のそばに置いた――炎の余熱で、幼虫が缶の中で身悶えた。
少女は、竹製の箸でウサギ汁をゆっくりと混ぜた。
小さな竹筒で、表面に浮いた灰汁を掬い取った。
「戻っとったのか?」
張りのある声のするほうに、首を巡らせた。
少女よりもさらに褐色に灼けた肌、縮れた白髪、唇から零れる白い歯、七十代とは思えない伸びた背筋と筋肉質の身体……肩に魚網袋を担いだジイジが、力強い足取りで歩み寄ってきた。
「お帰り!」
少女は、跳ねるように駆け寄りジイジに飛びついた。
「おいおいおい、いつまで幼子のつもりだ」
ジイジが少女を抱きとめ、眼尻に深い皺を刻んだ。
少女は、ジイジの胸もとに鼻を押しつけた。
深く、包容力のある海の匂いが好きだった。
力強く、無骨で素朴な優しさのある山の匂いが好きだった。
「今朝はあまり獲れなかったな」
ジイジが言いながら魚網袋を逆さにすると、二匹のカサゴと一匹のアオダイが地面に落ちた。
すかさずジイジは、平らな岩の上でカサゴとアオダイを三枚に下ろし始めた。
切り株だと生臭い匂いが染みついてしまうので、魚を調理するときは岩のまな板を使っていた。
下ろした身の表裏に塩を擦り込み、ジイジはふたたび魚網袋に入れた。
「干しておいてくれ」
ジイジから受け取った魚網袋を少女は、八十センチを超える垂直ジャンプで木の枝に引っかけた。
魚網袋の魚は天日干しして干物にするのだが、木に吊るすのはアリやムカデの侵入を防ぐためだった。
網の中に入っているので、鳥に横取りされることもない。
獲物が取れないときのために、肉や魚を保存する必要があった。
台風シーズンや大雨のときは、昆虫しか獲れない日が何日も続くときがあるからだ。
「ジイジの好物、作ったぞ」
少女は、ジイジの手を引き火床に連れて行った。
「おおっ、ウサギ汁か!」
ジイジの陽灼け顔が、パッと輝いた。
「嬉しいか?」
少女は、ジイジの顔を覗き込んだ。
「ああ、もちろんだとも」
眼尻に刻まれる皺をみているだけで、少女の胸は弾んだ。
いつも太陽のように温かく、ときには台風のように厳しく……小さな頃から少女にとってのジイジは、大自然そのものだった。
「いま、用意する」
少女はウサギ汁の空き缶を火床から外し、木の器に取り分けた。
頭部を入れた器を、ジイジに渡した。
「ありがとう、うまそうだ」
「これも、食べろ」
背中の肉を刺した竹串を、ジイジに差し出した。
ふたりは、火床のそばにある椅子代わりの切り株に向き合う格好で座った。
椅子として使っている切り株は、まな板代わりのものより高さがあった。
「背肉は、お前が食べればいい」
野ウサギの肉は身が引き締まっており、鶏肉よりも淡泊だ。
その中でも背肉は味が繊細で量が少ないので、一番のご馳走だった。
「だから、ジイジが食べろ」
「じゃあ、こうしよう」
ジイジが二切れ刺さっているうちの一切れを竹串から外し、少女の口に入れた。
「ありがとう」
咀嚼しながら、少女は頭を下げた。
「これも焼けたぞ」
少女は腿肉の串を二本手にし、一本をジイジに渡した。
キック力が必要な後肢なので、背肉よりも筋肉が発達しており身が固かった。
ジイジは七十歳を超えても歯が丈夫なので、あっという間に腿肉を平らげた。
「最近、狩りも料理も腕が上がったな」
ウサギ汁を飲みながら、嬉しそうにジイジが言った。
「ジイジが教えてくれたからだ。これも、うまいぞ」
少女は、こんがりと焼けて飴色になった幼虫が入った缶をジイジの前に置いた。
「おっ、カミキリムシか。ごちそうだな」
ジイジが顔を綻ばせた。
腐葉土を食べて育つ種類の幼虫は生臭くて味が悪いが、カミキリムシの幼虫は朽木が主食なのであっさりとして食べやすいのだ。
「うまいか?」
少女は、ジイジの顔を覗き込んだ。
「ああ、うまい。お前も食え」
ジイジが指で幼虫を摘まみ、少女の口に放り込んだ。
「ありがとう」
少女は頭を下げた。
二人は、ウサギ汁と肉と幼虫をきれいに平らげた。
「カニもあるぞ」
「いや、夜でいい」
「そうか」
少女は腰を上げ、井戸からバケツに汲み置きしている真水を竹筒に入れてジイジに渡した。
ジイジが水を飲んでいる間に、レモングラスの束を運び切り株に置いた。
小石で叩き、磨り潰した。
その名の通りレモンによく似た、甘く爽やかな柑橘類特有の香りが鼻孔の粘膜を刺激する。
少女は、磨り潰してペースト状になったレモングラスを竹筒に入れてジイジの前に屈んだ。
「足を出せ」
少女は言いながら、ジイジの短パンから出ている右足の太腿からふくらはぎにかけて、磨り潰したレモングラスの葉液を塗った。
「それはスースーするから、好かんって言っとるだろ」
「だめだ。蚊に刺されるだろ」
足を引こうとするジイジの太腿を叩いた少女は、今度は左足に葉液を塗った。
島には、ウイルスや原虫などといった病原体を持つ蚊がいるので血を吸われないようにしなければならない。
蚊だけではなく、アブやムカデもいるので気を抜けない。
島で怖いのは、蛇よりも感染症を媒介する虫のほうだ。
とくに蚊は、数も多く小さいので一番厄介だ。
「年寄りのまずい血なんぞ、蚊も吸わんだろ」
「いいから、大人しくしろ。ジイジが死ぬのは嫌だ」
少女はジイジの後ろに回り、シャツから露出している首筋と腕、そして最後に顔に葉液を塗った。
「安心せい。わしは内臓が丈夫だから、百歳までは死なん」
ジイジが、分厚い胸を叩き豪快に笑った。
「百五十歳まで生きろ」
「百五十は、ちょっときついのう」
少女が言うと、ジイジがふたたび豪快に笑った。
「腹一杯になったか?」
「ああ、もう満腹だ。ちょっと、こっちにおいで」
忙しなく後片付けに動き回る少女に、ジイジが自分の隣の切り株を掌で叩いて座るように促した。
「なんだ?」
少女は駆け戻り、切り株に胡坐をかいた。
「ほれ、お土産だ」
ジイジが、卵形をした紫の果実……パッションフルーツを放った。
「ありがとう」
少女は頭を下げ、パッションフルーツに齧りついた。
濃い甘みと酸味が入り混じったトロみのある果肉が、口の中に溢れ出た。
「ひまわり、幸せか?」
ジイジが、訊ねてきた。
「うまいから、幸せだ」
パッションフルーツを頬張り、少女は頷いた。
「そうじゃなくて、いまの暮らしで幸せかって訊いとるんだ」
「ジイジがいるから幸せだ」
少女は、両手に持ったパッションフルーツの果肉を貪った。
「寂しくないか?」
「ジイジがいるから寂しくない」
少女は果汁のついた指を舐めながら言った。
「友達とか、ほしくはないのか?」
「ジイジがいるからほしくない」
ジイジが、哀しみの色が宿る瞳で少女をみつめた。
最近、ジイジのこの瞳を見ることが多いような気がした。
なぜだろう?
少女は、不安になることがあった。
なにか、ジイジを哀しませるようなことをしたのだろうか……と。
「どうした? なんでそんなこと訊く?」
「本当なら、お前は高校を卒業する年だ。学校にも行かせてやれずに、悪いと思っとるよ」
ジイジの眼に、光るものが見えた。
「ガッコー? なにするところだ?」
少女は、首を傾げた。
「いろんなことを教わるところだよ」
「狩り、釣り、罠……ジイジにいろんなことを教わったぞ。ジイジがひまわりのガッコーだな」
少女は、白い歯を剥き出して笑った。
「ひまわり……」
ジイジの哀しい顔を見ると、少女も泣き出したくなる。
「火山が爆発した。みんな避難した。ひまわりのチチ、ハハは死んだ。ジイジが育ててくれた。ジイジは、なにも悪くない。元気出せ」
少女は、ジイジの背中を叩き励ました。
「ありがとうな。お前は、優しい子だ」
ジイジが柔和に細めた眼でみつめ、ごつごつした無骨な手で少女の手を握った。