序章 西暦一六〇〇年 十月二十一日 関ケ原

 火柱が何本も立つ、紅蓮ぐれんの森を人々が逃げ惑う。

 人々の悲鳴を聞きながら、龍之進りゆうのしんも必死で逃げた。川辺に来て、息も絶え絶えに振り返ると、太刀を持った鬼面の武者が追ってくる。血が流れる川へ入り、もがくように進んだ。十歳の背丈のせいで、すぐに川面は胸まで達し、何度も流されかける。

 武者との距離は徐々に縮まり、すぐそこにまで迫った。

 これは夢だ、夢なんだ! 龍之進は、強く祈った。終われ、早く終わってくれ!

 振り向くと、背後に武者が立っている。

 終わるんだ! 早く!

 無理やり目を開け、龍之進は、やっと目覚めた。大きく息を吐き出す。幽々たる中、耳を澄ませる。無常寺むじようじの本堂に、雑魚寝する村人のいびきや寝息が響く。

 夜半から降り出した雨はいつしか止み、外は静寂に満ちていた。鶏の鳴き声がする。本堂の引き戸を少し開けると、朝ぼらけの境内は濃い霧に包まれていた。

 龍之進は、ようやっと息を整えた。

 お父は、どうしてるだろう?

 母を亡くした龍之進にとって、父は唯一の身内だ。その父は、関ケ原領主・竹中重門たけなかしげかどの一兵となり、ここから三里(約十二キロ)ほど離れた大垣城近くにいるらしい。

 龍之進に戦の実感はない。無常寺に避難する老人、女たちの沈んだ表情を見ると、龍之進は恐ろしいことが起こっているのを感じる。

 龍之進は、引き戸の上にある板絵を見上げた。酷い夢だった。きっとこの絵のせいだ。天井と長押の間に掲げられた大きな地獄絵図。人々が鬼に残虐に扱われ、血塗れになっている。炎と血の鮮明な赤が印象に残る恐ろしい絵で、龍之進は顔をしかめると、目を背けた。

 冷たく湿った風がゆるりと本堂に入り込み、隣で眠る多聞たもんが身を丸めて寝返りを打った。

 龍之進は、そっと引き戸を閉じる。

 多聞は、同年生まれの幼馴染みで、兄弟のように育った。

 村の男たちがそうだったように、いずれ俺も田畑を耕すのだろうと思う。でも、多聞は体を動かすより、賢さを活かせるほうがよいのではないか。

 多聞は、寺で読み書き、算術を学ぶ時が一番楽しいという。今では、村の誰よりも寺に通い、書物を片っ端から読んでは熱心に和尚に質問している。

 引き戸を隔てた廊下から、ひそひそと声がした。

「……ろで、和尚様、戦は長引くのでしょうか」庄屋の声だ。「戦を避けてこの山寺に籠って、はや二か月。あと二か月で雪が降ります。その前に木をり出し、家を建て直したい。みなそう思っとります」

「一から田畑も耕さないとあかんしな」そう言った和尚の短い溜め息が聞こえる。「関ケ原は、徳川方に焼き払われてしまったからの」

「竹中様は、我らを守れなかった。そういうことでございましょう。寺に逃れてくる前、稲を刈りましたが、穂が出たばかりで実はなく……二年続きの凶作で、これでは飢饉となってしまいます。村から逃げ出す者も出てくるでしょう。竹中様の決断は遅かったのです。はじめから徳川方であれば、このようなことには――」

「それはどうかの。石田様のご領地はすぐそこや。徳川方につけば、石田方が関ケ原を放火したかもしれへん。いずれにせよ岐阜城が落ちたからには、石田様の佐和山城も狙わるやろ。その時、軍勢はこの関ケ原を通る。ここでの戦は避けられへんよ。我らは、飢えた兵や野盗に警戒せねば」

「はい。和尚様のご尽力で、徳川方と石田方の双方から禁制を書いていただくことができました。あの文書があれば、ひとまず安堵です。家や田畑を焼かれた上、牛馬まで取られ、人取りに遭ったら、どうやって生きていけばいいのか」

 二十日ほど前、徳川軍は岐阜城を落とすと、石田方の領地である関ケ原に火をかけた。石田軍は、関ケ原の手前、大垣城に籠り、徳川方と対峙。既に寺に避難していた村人たちは、徐々に戦場が近づいていると慄いた。美濃の領主たちは徳川方につき始め、石田方だった竹中重門も今や徳川方である。

 龍之進の脳裏に鮮やかな地獄絵図が浮かんだ。目を固く瞑り、残像が消えるよう願ったが、なかなか霧散してくれなかった。

 

 午刻うまのこく過ぎ――。

辰刻たつのこくに、丸山のほうから狼煙が見えたって。戦でも始まったのかな? 山中村に石田方の軍勢がいるんだろう?」

 多聞がやってきた。龍之進は、無常寺のシャラノキの下にある大きな石に腰掛け、火縄を編んでいた。境内には、いく棟もの小屋が建ち、本堂や宿坊に入りきれない村人が住んでいる。

 龍之進は、手を休めず答えた。「俺、様子を見に行ってくるよ」

わしも行く。兵の中におとうがいたら、心配だし。お父は、鉄砲足軽なのにちっとも的に当たらない。龍之進のお父とは大違いだからな」

 龍之進の父は、若い頃、出世を夢見て次々と主人を変え、美濃内外を渡り歩いたという。妻を娶ってからは、足軽頭や手配師の誘引に応じて戦場へ出向き、雜兵の出稼ぎをした。しかし、三年前母が病死して以来、ずっと龍之進のそばにいる。

 田畑を耕しながら、父は時々、兵の戦い方を話す。それが龍之進の楽しみだった。

 ――槍は突くより、上から叩け。このようにな。そして、人は右から攻められると防ぎにくい。

 鍬を手にした父は、いつも実演してみせる。その上、刀や火縄銃の扱い方や戦での心得も教えてくれる。

 ――龍之進、めったに死ぬものではないぞ。討ち死には手柄だといわれるが、命だけ捨てるのは臆病者のすることだ。敵は勢いづき、味方が怖じ気づく。死ぬのなら、敵の一人でも二人でも道連れにせよ。やり切れ。諦めるな。それがお前の大切な人を守ることになる。

 龍之進は、これまでそうだったように父が不意にいなくなるのではないかと時々不安になった。それを多聞の母に漏らすと、父がたびたび村を出たのは母の薬代など、より多く稼ぎを得るためで、今は龍之進のそばにいたいと願っている、だから安心なさいと優しく言ってくれた。

 無常寺の裏山から牛のえと馬のいななきが聞こえ、我に返った龍之進は、シャラノキに立てかけておいた竹刀を手に取った。

 多聞と無常寺の山門を出て、長い石段を下り、遠方に目をやる。雲の晴れ間から明るい光が差し込んでいた。

「丸山のほうへ行ってみよう」

「龍之進、戦の噂を聞きつけて盗み狙いのよそ者がうろついてる。あまり寺から離れないほうがいいぞ」

 山道を歩きながら、龍之進は大きく竹刀を振り回す。「ふた月も山寺に閉じこもってんだぞ。息が詰まるよ。少しくらい遠出したって……それに、和尚様が禁制の札を門前に出してるし、あれがあればどちらの兵も手を出せないだろ。なにかあったら、禁制があるって言えばいいんだ」

「あれが役立つと思ってんの?」

「乱暴狼藉、放火、人や牛馬を取ることを禁ずって書いてある」

「野盗や雑兵に通用するもんか。禁制があっても丸焼けした寺もあるって隣村の爺様が言ってたぞ。それに、寺から離れたら意味ないだろ?」

 龍之進は、足を止めた。

「急に止まるなよ!」多聞は、龍之進の背中にぶつかる。

「あれを見ろ」

 遠くの間道を、笠をかぶった当世具足姿の男たちが手に鎧や刀、槍を抱えて横切っていく。

「盗ったのか?」

「そうだよ、きっと。死んだか、深手の武者から甲冑や武具を奪ったんだ。戦が終わったのかもしれない」

 二人は、男たちが来たほうへと駆け出した。

 山野を抜け、谷まで来ると、龍之進はススキの間から眼下を見下ろす。谷間の街道を塞ぐように、白や赤、黒、紺といった旗や折れた槍が散乱し、馬や人が折り重なって倒れていた。屍の道が続く谷間を、血の臭いが風に乗って流れている。

 龍之進と多聞は、恐怖で足が竦んだ。

「あれは……石田様の旗じゃ?」

 多聞が指差す方角に目をやると、見覚えのある旗が泥に塗れている。

「龍之進、あっちの旗は……もしかして?」

 龍之進は多聞と山を駆け下り、馬が苦しげに嘶き、血塗れの武者が横たわる間を縫うようにして旗に近づいた。

「竹中様の旗だ」龍之進は、周囲を見回す。街道を抜けた先の平野に騎馬武者や足軽がいる。「寺へ戻ろう。まだ戦は終わってないのかもしれない。さっきのやつらみたいに盗みに来たと思われたら殺される」

 龍之進と多聞は、山のほうへ戻りかけた。

「待って」多聞が龍之進の腕を掴んだ。「動いた……生きてる!」

 二人は、恐る恐る武者に近寄る。顔に血飛沫をこびりつけた武者は、ゆっくり目を開ける。

「お父!」多聞が叫んだ。「お父、大丈夫か!」

「……多聞。ほんとうにお前か?」多聞の父は、安堵したのか微かに笑った。息が荒い。「どっちが勝った?」

「わからないよ」

 多聞の父は、息をするのも難儀そうに目を瞑る。脇腹を押さえているが、下半身は血塗れだ。「……逃げろ。だめだ……ここにいては……」

「お父も一緒に――」

「みな息災か……」

「うん、お母もお兄も、お姉もーー」

「そうか。龍之し……伝えてくれ」

 龍之進は、多聞の反対側から声をかける。「ここにいるよ」

「龍……すまな……父は……死んだ」多聞の父は、目も開けずに龍之進の声がするほうに手を伸ばす。「立派だった……わしを守り……最期まで敵を……」

 多聞の父は大きく息を吐き出し、宙に伸ばした手がふいに落ちる。それからいくら呼びかけても、多聞の父は応えることはなかった。

 多聞は、じっと俯き、両手の拳を固く握りしめている。

 龍之進は、なにも感じなかった。多聞の父が目の前で息絶え、自分の父の死も知らされたのに、現実味はなく、涙も出ない。ただ目の前に広がる光景が無常寺にある地獄絵図のように見える、それだけだった。

 具足の擦れる音がした。はっとして龍之進がそちらへ顔を向けると、刀と大袋を手にした二人の足軽が近づいてくる。

「多聞! 逃げるぞ! 早く!」

 龍之進は、竹刀を握り締めると、父との別れを惜しむ多聞の腕を引っ張って立たせ、「今は逃げるんだ!」

 龍之進は、多聞の腕を掴んだまま、山へ向かって駆け出した。草木を掻き分け、山腹を上る。

 途中で追いつかれ、龍之進は「多聞、先に行け!」と彼を押し、竹刀を振り回した。男一人が足を滑らせ、山腹から落ちていく。別の男にも竹刀を振ったが、刀で竹刀を半分に斬り落とされ、男に竹刀を投げつけて山を駆け上がる。

 獣道に上がった龍之進と多聞は、男らの姿が見えないのを確認した。

「ここで別れよう」多聞は言った。

「え? なんで?」

「二人で逃げるより、二手に別れたほうがあいつらの目をごまかせる。お前はあっちへ。私はこっちへ行く。寺で会おう!」

 多聞は、背丈以上のススキの原野へ分け入っていく。龍之進も多聞とは別の方角のススキの原へ入った。

 どれくらい歩いただろう。

 龍之進の耳に、自分の荒い息遣いだけが聞こえている。警戒しながら周囲を見回す。視界を阻むススキが、時折強く吹く風に音を立てて激しく揺れる。

 多聞は、無事だろうか?

 その時、いきなり頭からなにかで覆われ、龍之進の視界は奪われた。

 男の声がする。「よし! 足を縛れ。さっさと袋の口を閉じろ!」

 何人いるのか。龍之進は、必死に暴れた。麻袋の上から上半身を何かで縛られ、もがくたびあちこち殴られ、蹴られた。

「おい、そのくれえにしろ。売れるもんも売れのうなる」

 麻袋に入れられた龍之進は、男に担がれるのを感じた。

 売る? こいつら人取りか!

「おい、小童こわつぱ」どすの効いた男の声。「次暴れたら、このまんま池に沈めるで」

第一章

 龍之進が連れてこられたのは、大きな港町だった。

 男らは、あの足軽たちではなかった。村々や戦場を渡り歩く野盗なのだろう。盗んだ武具や馬具を職人に売り、港で人商人に龍之進を渡して銭を受け取ると、さっさと消えた。

 龍之進は、廻船の船底へ入れられ、壁に繋がれた鉄の輪を片足首に嵌められた。他にも三十人くらいの女と童男どうなん童女どうじよたちがいた。筵や紙に包まれた木綿や古着の束、米俵の他に、昆布などの海産物の俵物も積まれており、自分はこの積み荷と同じなんだと龍之進は悟った。

 人商人は筆と帳面を持ち、一人一人、名前と年、読み書きはできるか、なにをしていたか等を聞き取って書いていく。

「ええか。侍、百姓、男、女は関係あらへん。死刑人の妻子、借金の質流れ、親が子を、子が親を売り、妻を売る。戦があれば、妻子は捕らえられ、売り飛ばされる。これが世の習いやで。飢饉で死ぬ、処刑や戦で殺されるよりましや。死ぬ命を助けるんやから、これも立派な人助けや」

 人商人がいなくなると、誰も口を開かず、重苦しい空気が流れた。泣き出す者もいる。

 廻船は、出港した。船底には、海産物と埃と饐えた臭気が混じり合って漂い、時々鼠が走り回る。

 しばらくすると、隣の若い女が話しかけてきた。女は河内の百姓で親に売られたが、醜女しこめなので塩田にでも売られ、死ぬまで酷使されるのだろうと悲しそうに言う。

 女は、他の何人かと次の港で下ろされた。空いた場所に、大量の塩俵が運び込まれた。

 誰も口を開かない静かな船底に、時々、鎖が床に擦れる音や船に当たる大波が轟く。

 龍之進は、寝付けなかった。

 どこへ連れて行かれるのだろう?

 多聞は、寺へ戻っただろうか?

 多聞が羨ましかった。多聞には母と兄、姉、弟がいて、帰る家がある。

 龍之進は、父を思い出した。父とのなにげない日常。気づかなかったが、幸せだったと思う。父に褒められたくて気張ってきた。それなのに、父は……いない。村に戻っても、会いたくても、もう会えない。

 膝を抱えて、潤む目を手の甲で拭う。

 早くここから出たい。逃げ出したい。でも、それからどうする? どこへ行く? 村へ戻るのか? 多聞のように帰る家もない、一人ぼっちなのに。行くところがないなら、抗っても無駄じゃないか……。

 その時、人肌で温められた空気が流れてきて、一瞬、父がそばにいるような、父にやさしく包みこまれているような気がした。

 微笑む父を思い出すと、耳に父の声が蘇った。「龍之進、諦めるのか? ほんとうに……お前はそれでいいのか?」

 いや……こんなのはいやだ。このままで終わりたくない。諦めない。とにかくこの境遇から抜け出すんだ。

 お父を前にした時、「俺はやった、やり切った。挫けなかったよ」と誇れるように。

 

 数日後、小さな港の沖に廻船は停まり、船底にいる全員が甲板に引き出された。龍之進らはそれぞれ小舟に乗せられて陸に上がると、腰縄に繋がれ、手首を結ばれたまま、列になって歩くよう命じられた。

 ここはどこ? 船内にいる間、僅かな干し飯と干しキノコ、木の実が渡されたが、腹は満たされなかった。空腹で倒れそうだったが、前に合わせてただ足を動かした。

 ゆっくり辺りを見回すと、裸同然の格好で畑を耕し、種を蒔く人たちがいる。彼らの髪はぼさぼさで、全身は泥や垢で汚れ、まるで骨と皮のように痩せ細っていた。そんな彼らを、刀を腰に差し、鞭を手にした男二人が監視している。

 それまで緩慢な動きで鍬を振り下ろしていた男が突然倒れると、監視人の一人が男を鞭打ち、蹴飛ばした。男はなんの反応も見せない。その隙に一人の女が足首に結ばれた縄を解いてよろけながらも走り出した。もう一人の監視人が抜刀して追い、逃げた女を躊躇うことなく背後からなで斬りにした。

 龍之進は息を呑み、全身から冷や汗が吹き出た。

「ええか!」人商人が声を張り上げる。「逃げ出そうなんて考えるな。同じ目に遭うぞ。わかったな」

 龍之進の体は、小刻みに震えた。あんなふうにこれから扱われるのか?

 葉が色づくクスノキに囲まれた小さな神社の境内に、牢のような小屋があった。中には既に物乞いのような八人の男女がいる。龍之進たちは、錠前の付いたその小屋に押し込められた。

 早速、人商人は、帳面を開いて仲間と小屋にいる人々の品定めを始めた。

 龍之進の番になった。「こいつはどないする?」人商人が帳面を人差し指で小突く。

「小さいし、腕も細か。黒船に乗せたら、すぐ潰るるんやなかか? よか値はつかん」

「これから背は伸びるし、働くうちに肉もつくと思うがな。よし。こいつは読み書きができる。相手を選んだら、ええ値がつくで」

 全員の値踏みをし終えると、人商人たちは去っていった。

「南蛮人に売らるるんやなぁ」

 龍之進のそばにいた汚い身なりの男がぼそっと言い、龍之進を見た。

「俺が? 南蛮人って?」

「黒船て言うとったかろう? きっとポルトガル人や。異国から来た、牛を喰うという蛮人や。気ぃつけれ。ポルトガル人は、童子さろうては、童女ば手籠めにし、童男ばこき使う。それば苦にして死んだ子ばよう知っとう。ばってん、人市で野獣のように引き回されて、四十人束で田畑に売られ、牛馬のように扱わるるほうがよかか、すべて運ばい」

 人商人の仲間といい、男は耳にしたこともない話し方をする。

 龍之進は訊いた。「ここは……どこですか?」

「長崎たい」

(第2回へつづく)