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3

 

 朝の散歩から戻ると、隣の別荘のご夫婦が庭にいるのが見えました。植え込み越しに挨拶を交わします。

「あら片岡かたおかさん、お久しぶりね。しばらく見なかったから、おうちを売りに出すのかと思ったわ」

 白髪をふんわりとまとめた奥さまが、品のいい笑顔でおっしゃいます。

「バタついていて、なかなか来られなかったんですよ。それに売ったら父に怒られます。この別荘を手に入れたときに、どれほどの充実感を味わったか、さんざん聞かされてますから」

 夫が答えます。

 その話はわたしもことあるごとに、義父からうかがっていました。いつかは高級車、いつかは別荘。義父は会社を起ちあげてから、そう思って懸命に働いてきたそうです。どちらも成功者としてのステータスなのでしょう。

「そういえばお父さんとはしばらくお会いしてないねえ。お元気かな」

 皺は寄っているものの、腕にしっかりした筋肉を持つご主人は、優しい表情をしています。

 わたしは夫のようすをうかがいました。わたしから話をするわけにはいかないでしょう。

「年相応と言いますか、あちこちにガタがきています。実は去年、骨折で入院してしまって、それもあって来られなかったんですよ」

 あらあ、とおふたりの顔が曇りました。

「僕らより少し若かった気がするんだけど。ねえ」

 ご主人の問いかけに、奥さまが隣でうなずいています。

「睡眠を削って働いてきたこともあって、無理をしたんでしょうね」

 夫はしみじみとした声を出します。隣家のおふたりは、残念そうな表情になりました。

「そうだったのか。僕らと同じように、リタイアしたら別荘住まいをしたいと言っていたんだけれどね」

 とご主人が言います。

「おふたりはご夫婦での移住ですから。でも父はひとりだし、ここで暮らすのは難しいですよ。我々もなにかあっては大変だと止めたでしょう。それを言いだすまえに骨折をして、諦めた形ですが。おふたりもどうぞ、お身体にお気をつけくださいね」

 夫に続けて、わたしも労りの言葉をかけます。

「本当に。わたしたち、今年はしばらくこちらにおりますから、なにかあったらお手伝いいたします。どうぞお声をかけてください」

「ありがとう。若い人にそう言ってもらえると心強いよ」

 ご主人はやっと笑顔になりました。一方で奥さまのほうは、いたずらっぽく笑っています。

「嬉しいわ。でももしかしたら、わたしたちのほうがお世話できるかもしれなくてよ。なにしろ今度、谷川岳に行くんだから」

「岳……山登り、ですか?」

 ぽかんとしているわたしと違って、夫は明らかに驚いています。

「だいじょうぶですか。たしか、魔の山とも呼ばれる険しいところですよね」

「今はロープウェイとリフトを使うハイキングのようなコースもあるの。夏の山は高山植物の宝庫なのよ」

「冬の山もいいんだけどねえ。とはいえ年には勝てない。さすがに冬は安全第一で、整備された場所でのスキーを楽しむくらいだね。昔は僕ら、いろんなところに登っていたんだよ。よかったら写真を見にきませんか」

 奥さまもご主人も楽しそうにしています。

 高山植物ってどういうものなんだろう。そう思ったわたしが口を開くまえに、夫が答えました。

「たしかに我々よりはるかに体力をお持ちのようですね。羨ましいです。でも写真を見てしまうと行ってみたくなって、そうすると怪我をしそうで怖くもありますね。じゃあ、片づけが残ってますので、またということで」

 夫が深々と頭を下げています。

 ていのいい拒絶でしたが、ご夫婦は笑顔のまま、戻っていきました。わたしたちも家のなかへと入ります。

「お義父さんより年上なら、七十代よね。すごいなあ。若いころから登山をなさってきたからなんでしょうね」

「登山をする中高年はけっこう多いよ。そういえば以前も、父が隣のご夫婦から山に誘われたことがあるって聞いたな。父は興味がないから、うまく断ったそうだが」

「山登りのベースにしようと別荘を手に入れて、移住はその総仕上げなのかもしれないわね」

 そういった趣味や生きがいのための移住なら、楽しいだろうと思ってなんの気なく口にした言葉です。けれど夫は、なぜか怖い顔でこちらを見てきます。

「私も父と同じく、登山には興味がない。きみだって興味ないだろ」

「え? ええまあ。でもハイキングぐらいなら」

「あの人たちの言うハイキングと、我々の思うハイキングはまったく違うよ。彼らのは、専用のシューズや装備品を整えて、なんなら泊りがけでいくようなものだ」

 たしかにわたしのイメージするハイキングは、学校の遠足のようなものです。高原か湖にでかけて、シートを広げてサンドイッチと紅茶をたしなむ、そんなピクニックにも似たラグジュアリーな絵を頭に思い浮かべていました。

「そういうものなんでしょうけど……なにを怒っているの?」

「怒ってはいない。写真を見たいなんて言わないよう、釘を刺しているだけだ」

「見たいって、言ってないよ」

「言いそうな顔をしていた。きみの考えていることぐらいわかる」

 わたしは黙るしかありません。夫の言うとおり、見たいと言おうとしていたんですから。

「それに、なにか手伝うと言ったけれど、他人には安易に、手伝うなんて言わないほうがいい。なにを背負わされるかわかったものじゃない」

「お隣さんじゃないの。こちらがお手伝いをしていただくこともあるかもしれないでしょ」

「隣でもだ。気づかなかったのか? あのじいさん、いやらしい目できみを見ていた」

「え?」

「きみが笑顔を見せるのがよくない。色目を使われたと思ったんだ」

 夫はなにを言いだすんでしょう。

「ちょっとハルくん、考えすぎだよ。あの方、奥さまと一緒にいたんだよ。わたしは色目なんて使っていないし、向こうが誤解するはずもないでしょ」

「いいや。きみは相手をうっとりと見る癖がある。あれは人を誤解させる。やめたほうがいい」

 わたし、そんなことをしているでしょうか。子供のころは恥ずかしくて人の顔を見て話せず、なんども親から注意されて、やっと高校も終わるころに、相手の顔を見て話せるようになったのですが。

「そんなつもり、ないし。それに人と話をするときは、基本、笑顔でしょう?」

「別に笑顔にならなくていいだろ。サービス業じゃないんだ。……そうか、そうだ。きみは小売店の店員というサービス業に就いていたから、無意識に笑顔を向けるようになったんだ。例の男にもそうやって接していたんじゃないか? だから誤解させたんだ」

「上司に笑顔以外を向けられるわけないじゃない」

「いや。迷惑だときっぱり言わなきゃいけなかった」

「わたしのせいってこと?」

 涙が溢れてきました。夫が少しだけ、戸惑いの色を見せます。

「そうは言っていない。ただ、誤解させないようにしなさいと、それだけだ」

「……そんなの無理だよ。別に媚びているつもり、ないよ。誤解するのは相手のほうじゃない。それをわたしにコントロールしろなんて言われても」

「笑顔を向けない。それならできるだろ」

「できる……するけど……、ねえ、お隣さんは、別に変な人じゃないじゃない。今まで挨拶ぐらいしかしたことがないけど、響斗が騒いでも、大泣きしてても、文句を言ってきたことは一度もないし」

 小さい子供の行為とはいえ、お店や電車のなかで騒ぐと、険しい目で見てくる人はいるものです。響斗はおとなしいほうだし、小学生ともなった今では、わきまえた行動ができます。けれどさすがに幼稚園以前では、他人からはうるさい怪獣にしか見えなかったでしょう。

「変な人だとは思っていないさ。私は子供のころから見知っているしね。ただ、彼らも現役時代はここに住んでいたわけじゃないし、うちの家族も年に何日か滞在するぐらいだった。つまりその程度しか会っていない相手にすぎない。年齢の近い父とは話をしていたかもしれないが、私は親しくない。彼らの家に招かれたことも一度もない。なのに急に、写真を見にこないかだなんて、下心を感じるじゃないか」

「わたしたちがしばらくいるって言ったから、ご近所づきあいをと考えただけだと思う」

 わたしがそう言うと、夫はため息をつきました。

「だとしてもあまり近づいてほしくない。私がいない日もあるんだ。きみになにかあったとき、すぐにかけつけられない」

 なにもないでしょうし、むしろ怪我や急病のときに頼れるのはお隣さんだと思うのですが。

「心配なんだ、きみが。それだけなんだよ」

 わたしがまだ泣いているせいでしょうか。夫は、すがるような目でこちらを見てきました。

 今日の響斗への定時連絡は、つい沈んだ声になってしまいました。響斗は、「おなかが痛いの?」と案じてきます。響斗は優しい子なのです。

 

4

 

 昨日、図らずも妻を泣かせてしまったので、お詫びの気持ちをこめて温泉にでも連れていこうと思っていた。

 だがそんなときに限って、取引先とのトラブルが起こる。部下に任せたままではいけないので、早朝からハンドルを握り、東京に戻ることにした。

 夜のうちに戻らなかったのは、もちろん妻のことを考えてだ。一緒にいる時間を少しでも多く持ちたかった。

 妻を心配するあまりに、つい感情的になってしまった。あの男から引き離すために別荘へと連れてきたが、本当によかったのだろうか。私とともに行動するほうがずっと安全ではないのか。

 いっそ妻を会社に入れようか。秘書という形なら私に帯同させることができる。妻に惹かれる男性がいくら多かろうとも、私が傍にいれば手を出そうなどと考える不届きな人間はいないはずだ。

 クラクションが鳴った。

 目の前の信号が青になっていたのだ。バックミラー越しに、不愉快そうな男性の顔が見える。私は、慌ててアクセルを踏んだ。

 少し冷静になった。今のアイディアはナシだ。さすがに下の者への示しがつかない。

 しかしどうすればいいのだろう、と私はまた考える。答えがみつからない。

 

 担当者とともに善後策を講じて、取引先へと赴いた。

「社長の片岡義治よしはるでございます。この度は申し訳ありませんでした」

 私は平身低頭して謝罪した。請われれば土下座もいとわぬ覚悟だった。

 話し合いの結果、社長みずから出向いたというこちらの誠意が伝わったのか、トラブルは無事に収めてもらうことができた。

 さあ帰ろう、という段になって、取引先は宴席を設けると提案してきた。断りたい。一度は遠慮した。しかし二度誘われては固辞できない。相手の顔を潰すことになる。

 結局、担当者とともに行くことになった。

 妻にはなんて謝ろう。今日のうちに帰ると言い置いてでかけたのだ。車で移動しているので、酒席とあらば今日じゅうには帰れないだろう。

 電話をしかけたところで、思い直して止めた。

 今、夜の六時だ。もしも妻が私に語った説明が嘘で、男と通じていたのなら、妻は私のいない間に男を呼ぶかもしれない。男は別荘で一晩を過ごし、私が帰るまえに立ち去ることができる。

 ギリギリまで待ったほうがいい。仕事が忙しくて連絡できなかったと、遅くなってからそう伝えよう。

 取引先からも急遽社長が参加をして、料亭での食事がはじまった。私は滑らかに会話を繰り広げながらも、頭の隅で妻のことを考えていた。

 いまごろ妻は、連絡がないと心配しているだろう。その心配が私への苛立ちに変わっていくのはいつごろか。男の来訪を阻止できて、妻が怒らないギリギリの線はどのくらいの時刻なのか。いや、妻も仕事をしていた人間だ。仕事に奔走していてとても電話ができない、そんな経験はあるだろうし、想像もつくはずだ。それよりも、妻本人はだいじょうぶだろうか。戸締りは心がけていると思うが、観光シーズンの浮つきから、不審な輩が徘徊している心配もなくはない。不安がっていないといいのだが。

 取引先の社長から二軒目を誘われたが、翌日の仕事を理由になんとか断った。これ以上、仕事のことと妻のこと、ふたつを同時に考えていては精神的にもこたえる。それに、酔って口が回らなくなってはいけない。妻に怪しまれてしまう。

 自宅に戻った私は、十時になってから妻に電話をかけた。

「連絡が遅くなって申し訳ない。どうにも仕事が片づかなくてね。今日はそちらに戻れないんだ。ひとりにさせて悪いね」

「……そう。ごはんはちゃんと食べたの?」

 妻の労りの言葉を聞いて、はたと私は気がついた。もしかしたら夕食を用意してくれていたのだろうか。食事の時刻には帰ると約束したおぼえまではないのだが。

「適当にね。彩子は食べたのか? もしかして……ふたりぶん作っていたか?」

 一瞬の間が空いた。ためらいのようなものを感じる。用意してくれていたのかと、申し訳なさが押し寄せてくる。言葉を継ぐ。

「すまない。待っていてくれたんだね。本当にごめん」

「そんなことないわよ。心配ご無用です」

 妻の明るい声が受話口から聞こえる。

 そうだ。妻はそういう人間だった。気を遣わせてしまった。なのに私ときたら、ギリギリまで時間をはかるようなまねをして。あまつさえ男を引き込んでいるのではなどと考え――

 私のその思考は、次に受話口に流れてきた笑い声で止まった。

 誰かいるのか?

 声は高かった。女性のようにも思える。誰だ? 隣の別荘の人か?

「彩子。そっちに誰か……」

「え? ああ、テレビ。小さくしたつもりだったんだけど」

「いや! いや大きくして」

 私はつい叫んでしまった。本当にテレビの音だったのかたしかめたい。

 妻の返事の代わりに、複数の声が流れこんできた。たしかにテレビ番組のようだ。

「ありがとう、もういいよ。……いやその、なんの番組を見ているのかなと思ってさ。ほら彩子の好きな俳優のドラマ、今日だったっけって」

「……ただのバラエティ番組。たまたまつけてただけ」

「そうか。帰れなくてごめん」

 きっと時間つぶしに見ていたのだろう。明日の午後には帰ると言って、電話を切った。

 私の言い訳は、妻にどう映っただろうか。私が妻を疑ったことに、気づいただろうか。

 明日、朝一番でデパートに寄ろう。妻になにかプレゼントを買って帰らなくては。

 ごきげんを取るわけではない。せめてものお詫びの品だ。

 なにがいいだろうと思いながら、眠りについた。

 

(つづく)