1

 

 逃げるようにして避暑地の別荘へとやってきました。

「もう心配はいらない。あの男もここまでは追ってこないはずだ」

 荷物を運びながら、夫が言います。

「でも響ひび斗との夏休みが終わったら、東京に戻らなきゃいけないでしょ。上司だから、調べればうちの住所もわかるだろうし」

 わたしは冷蔵庫のなかを拭きあげています。別荘の管理を専門にしている業者に依頼して、定期的に屋内に風を通してもらっているけれど、どうしても細かいところまでは手が回っていません。

「東京に戻っても被害が続くようなら、引越そう。駅に近い便利なマンションでも借りて、今の家は貸せばいい」

「そんな気軽に言わないで。お金も手間もかかるじゃない」

「お金や手間よりも家族が大事だからだよ。きみもだけど、響斗はまだ小さいから、ひょいっとさらわれるかもしれない」

「仕事を持っている社会人が、そんなことしないでしょう」

「まともな社会人は、人妻にストーキングしないよ。だろ?」

 夫に断言されて、わたしはうなずくしかありません。

 わたしの勤めていた雑貨店でのことでした。わたしはパートとして、自宅に近いターミナル駅直結のショッピングビルに入っている店で働いていました。とはいえ響斗が――八歳の息子がいるので長い時間は働けません。そういう人はほかにもいて、みんな助け合いながらです。幸い響斗は健康で、急に仕事を休まざるをえなくなることはなく、わたしは逆に同僚たちのフォローに回っていました。そんなわたしを店長が褒めてくださり、地域統括に良い情報として伝わりました。表彰制度があればいいけれどうちの会社にはないから代わりにと、地域統括から食事に誘われました。子供のいるわたしにそんな時間はないのでお断りすると、お菓子をくださいました。次にお会いしたときにお礼を言うと、これも美味しいよと、またお菓子をくださいます。そうなんどもいただくのはおかしいし、地域統括が担当しているお店はいくつもあるのに、うちの店にいらっしゃる回数は格段に多くて、どうすればいいのかと思っていました。とはいえ相手は上司に当たるわけで、店長もぺこぺこしています。もう結構ですとは言えず、笑顔で接するしかないのです。

 そんな統括が、わたしの退店時間にいらしたことがあり、駅までふたりで歩きました。駅につくと、次の立ち寄り先までと言って一緒の電車に乗り、先に降りたわたしについて彼も降りてきます。近くにコンビニはないですか、急に買うものを思いだして、と言われましたが、コンビニなんてどこにでもあります。なにも同じ駅で降りる必要などありません。これは変だ、と思いながらも逃げることはできず、内心ひきつりながらもコンビニの場所を教えたところ、背後から夫が現れたんです。どうやら夫も同じ電車に乗っていたようです。夫がわたしに声をかけると、統括は「じゃあ」と言ってコンビニへと歩いていきました。

 しきりと訝っている夫に、わたしはそういった説明をしました。

 夫は、ストーカーじゃないか、店に連絡すると怒りましたが、お世話になっている店長に迷惑がかかると言って、なんとか止めました。

 店を辞めると申し出たわたしに、店長も同僚たちも驚いていました。理由は話せず、家庭の事情を口実にしたけれど、みんなには申し訳ないことです。

 お店の入っているショッピングビルにも立ち寄りづらくなりました。偶然出会う気まずさもありますが、みんなが働いているのに、手伝えない自分に嫌悪感を持ってしまって。

 そんなとき夫が、別荘への避難を提案してきました。気分転換を兼ねて、学校が夏休みの間いっぱい、向こうで暮らさないかと言うのです。

 義父が若いころに手に入れた避暑地の別荘です。夫も子供のころは、毎年のように家族で滞在していたそうです。わたしたち家族もなんどか利用しています。

 ただ、響斗はあまりこの別荘が好きではありません。怖い、林のなかになにかがいる、とよく言っていました。東京ではひとりで入れるようになったお風呂にも、わたしと一緒に入りたがります。都会と違い、夜になると外が暗いので、ちょっとした小動物でも不気味に感じるのでしょう。駅の近くにはお洒落なお店も美味しいごはんやさんもあるけれど、小さい男の子が楽しいかと言われれば首をひねります。アクティビティ施設に毎日連れていけるわけでもなく、せいぜい一週間の滞在が限界でしょう。

 そこで夫が頼ったのが、わたしの実家でした。わたしも響斗とともに行ってもいいのだけど、事情を知らせれば両親を心配させてしまいます。表向き、響斗の自立のためにしばらく離れて暮らしてみる、夏休みの後半は別荘で過ごす、ということになりました。わたしや夫よりわたしの両親、つまり祖父母のほうがはるかに甘いと思うけれど、たしかにそれもまた経験でしょう。響斗自身も、この提案に冒険心を刺激されたようです。実家の近所に住むいとこたちと会えるのも楽しみなのでしょう。両親とともに兄夫婦にはめんどうをかけることになります。別荘に行くまえに響斗を実家に連れていって、とっておきのウィスキーやワインをお土産に渡しました。夫はそういった品物を輸入する会社を経営しています。元々は義父が興した商社でしたが、扱うものを嗜好品に絞って安定化を図り、ますます売り上げを伸ばしています。

「きみが怖がるといけないから言えなかったけど、実は駅からの帰り道に、誰かにつけられているんじゃないかと思ったことがあったんだ」

 冷蔵庫に食材を入れながら、夫がそう言います。

「つけられてる? ハルくんが?」

「きみが外に出なくなったから、顔を覚えた私をつけたんじゃないかな。正体を突きとめてやるとばかりにこっちから向かっていったら逃げたけれど。それがあの男、統括ってのに似ていた気がする。家をつきとめるつもりだったんじゃないか」

「本当に? さっきも言ったけど、わたしのデータなんて人事で調べられるよ」

「そういうのは個人情報だから、下手に探ると処分の対象になる。だからじゃないか」

「他人を尾行するほうが、警察に通報されたりしてリスクがあると思うけど……。でもありがとう。いろいろ気遣ってくれて」

 そう言うと、夫は満足そうにうなずきました。

「ハルくんの仕事はだいじょうぶ? 社長がリモートワークなんて、あまり聞かないけど」

「そんなこともないよ。リモートワークをして、その経験を本にしてた社長もいるぐらいだ。業種は違うけれどね。社員たちも羽を伸ばせていいんじゃないかな。重要な案件のときは東京に戻るから、心配しないで」

 お盆の休みもあるので、その前後と考えれば、案外短いのでしょう。わたしはもう一度、ありがとう、と頭を下げました。

「わたしも仕事を手伝うから、遠慮なく言ってね」

「なに言ってるんだ。気分転換に来たんだから、のんびりしていればいいんだよ」

「響斗もいないし、なにもしないなんてつまらない。知ってるでしょ、これでも結婚前は秘書だったんだから。忙しいのには慣れてるし、パソコン関係は大得意。エクセルもパワポも」

「そう言ってパートをはじめたせいで、変な男に目をつけられたんじゃないか。だいたい、きみは働く必要なんてないんだよ。最初から言ってただろ」

 これは厄介な方向に話がいきそうです。秘書の仕事はもちろんのこと、事務の仕事も働ける時間が短いせいで、適当な募集がありませんでした。候補にできたのは販売か飲食で、そのどちらも夫にはいい顔をされず、女性客がメインの雑貨店にするからと言って、なんとか認めてもらったのです。

 たしかに夫の言うように、働く必要はないのでしょう。

 でもなにかをしたいのです。わずかであっても自分の手で、自由にできるお金を得たいのです。残業までして働いていたころの充足感が忘れられません。生活のために働いている人からは、甘えた考えかもしれないけれど、母親として妻としてのみの暮らしでは、自分のなかになにも残らないような気がするのです。

 そうね、とだけ返事をします。そのあと実家に電話をして、響斗と少し話をしました。夕食は響斗の好きなカツカレーの予定だそうで、楽しそうにしています。ほっとしました。

 わたしも夕食の用意に取り掛かることにしました。今日は手軽に、買ってきたサラダとパン、それに肉を焼けばいいでしょう。

 エプロンのポケットに入れたスマートフォンが震えます。友人からのLINEが入っていました。

 

――あーちゃん、店長からお店辞めたって聞いた。暇してるなら遊ぼ。

 

 同じ店に勤めていた「まみりん」でした。一番、仲の良かった同僚です。彼女は去年、引越しをして、店まで遠くなったせいで辞めました。お店は好きだからと、たまにお客としてやってきます。

 

――ごめんね、今、東京にいないの。響斗の夏休みが終わったら帰るから。

 

 そう返事をすると、「もしかして以前言ってた別荘? 行きたい!」と戻ってきました。

 

2

 

 妻は、美しい。

 派手な美しさを求めるものには、やや物足りないかもしれない。しかしたおやかで、清楚な華やかさがある。流行に左右されない、普遍的な美しさだ。小柄なところも、保護欲をかきたてられる。

 取引先の会社で見かけて、ひとめぼれをした。妻と結婚することができたと喜んだ反面、同じ好みを持つ男性は少なくないはずだと不安も持っている。誰かに盗られたらどうしよう。妻の気持ちが変わったらどうしよう。できれば妻を閉じ込めておきたい。誰も妻を見ないように。しかしそれは現実的な考えではない。妻には妻の自由がある。

 だから私は仕事に邁進した。自信があると私に言えるのは、仕事だけだったからだ。妻を、家族を守るために。妻が私に魅力を感じ続けるように。ありがたいことに、会社は順調に成長している。子供は素直で、妻も変わることなく美しい。美味しいものを食べさせ、きれいな服を着せることのできる自分に満足している。

 

 怪しい男が妻に接近している。

 それに気づいた私が心当たりを訊ねたら、パート先の人につきまとわれていると妻は言った。

 妻を即、辞めさせて、夏いっぱい避難させることにした。警察に訴えるという方法もなくはなかったが、確たる証拠が必要だと放っておかれ、残念な結果に終わるというニュースは過去にままあった。我が妻においては、決してあってはならない。

 息子を実家に預け、その足で別荘への道をドライブする。林道に入ったころに、都会ではまず開け放つことのない窓を開けた。涼しい風が吹き抜ける。車のエアコンを切った。

 木々が道の左右から枝を伸ばし、緑のトンネルができていた。

「きれいね」

 と妻がつぶやく。その声が昨日より明るくなっていた。

「来てよかっただろう。こっちは気温も低いし、夜もよく眠れると思うよ」

 ハンドルを握る私は、前方へと目を向けながらも妻のようすをうかがう。

「わたしの眠りが浅いこと、気づいてたの? ということは、起こしちゃったのね。ごめんなさい」

「だいじょうぶだよ。きみは不安なことがあると眠れなくなるから、心配だったんだ」

 隣のベッドでなんども寝返りを打ち、こっそりとため息をつく妻が、不眠のために倒れてしまうのではないかと思った。睡眠導入剤が飲めればいいのだが、一度試したものの妻の体質に合わないのか異様に長く眠ってしまい、翌日に差しさわりがでた。

 ここならゆっくりできるだろう。妻にはこころの回復が必要だ。久しぶりにワインでも飲んで、余計なことを考えず、酔いに誘われるまま眠りにつけばよい。朝は小鳥たちが目覚めさせてくれるはずだ。

 

 私の思っていたとおり、妻は満足げな表情で起きてきた。

 食卓でコーヒーを飲んでいる私を見て「あ」と言い、冷蔵庫に目を走らせる。

「おはよう、彩あや子こ。そんなに慌てなくてもいいよ。肉もサラダも残っているから、パンを焼いてサンドイッチにしよう。コーヒー、飲む?」

「ええ。食べながら飲みます。胃が空のまま飲むと、身体に悪いわよ」

「そうだね、でもミルクを入れたから」

 私はマグカップを掲げてみせる。

 一緒に朝食を作った。ふだんは妻に任せきりなので、私の手際は悪い。レタスを洗い、もたもたとトマトを切っている間に、妻はトーストを焼いて昨夜ローストした肉を薄く切っていた。サニーサイドアップのおまけつきだ。

 ふたり、ゆっくりと向かいあって食べていると、新婚のころに戻ったような気分になった。息子はもちろんかわいいが、生まれてからはずっと彼が生活の中心にいるので、本当に久しぶりだ。

 食事のあと、ふたりで散歩にでかける。

 このあたりは古くからの別荘地で、林のなかに、それぞれに意匠を凝らした家が点在している。以前の持ち主が建てた古いものをそのまま使っている家もあれば、自分たちの手で少しずつ改装している――改装そのものを楽しんでいるかのような家もあった。もちろん新たに建てられたものもある。それらの建物を眺めてはあれこれ言って会話を楽しみ、足元から立ちのぼる土と草のにおいを味わう。

 木漏れ日が、妻の身体に複雑な模様を作っていた。妻は腕を伸ばして、風によって変わっていくその光の揺らぎを楽しんでいる。

「秋に来る機会は少なかったけど、このあたりは紅葉が見事だったね」

 私の言葉に妻がうなずく。

「たしか錦秋っていうんでしょ。イチョウにカエデに、色とりどりだった」

「緑の葉から、徐々に変化していくようすを見るのもおもしろいと思うよ」

「それには二週間ぐらいかかるんじゃないの?」

「おそらくね。そのあと葉が落ちて、枯れ木のようになって、雪の化粧がほどこされたら、また別の美しさがある」

 妻がくすくすと笑った。

「どうしたの? ずいぶんとロマンチックなことを言って」

「いや……いっそずっとこっちで暮らすのはどうかなと思って。駅まで出ればなんでも揃うし、のんびりしているから気持ちも安定するんじゃないかな」

「無理よ。駅に出るには車が必要じゃない。仕事で使ってるんでしょ」

「彩子専用の車を買えばいい。そのぐらいはたやすいさ。このあたりで使うなら四駆だね。いっそジープなんてどうかな。かっこいいよ。雪道の運転は、最初は大変かもしれないけれど、慣れればだいじょうぶ。おじいちゃんやおばあちゃんでも運転してるよ」

「でも仕事が」

 さっきは笑っていた妻が、まじめな顔になって否定する。

「もちろん東京の家は残す。会社を移転するんじゃないよ。二ヶ所で暮らすというわけだ」

「学校はどうするの。せっかく私立に――」

「こちらだと公立かな。レベルを調べなくてはね。でもあいつは優秀だ。大学からでもトップの学校に行けるさ」

 そう言うと、妻が睨んできた。少し、無責任だっただろうか。しかし我が息子だ。幼稚園に入ってすぐに山手線の全駅名を唱え、小学一年生ではひとりで新幹線に乗るという大冒険を成し遂げた。内弁慶なところもあるが、利発な子だ。

「……まあ、そういう方法もあるということだ。柔軟に考えればいいんだよ」

 これ以上主張して、下手に抵抗されるとめんどうだ。こちらで暮らすという選択肢を、頭の片隅に置いておいてほしい、それだけだ。

 できれば妻を閉じ込めておきたい。

 私は少し、疑っている。

 妻は男が一方的に近づいてきたと語っていたが、本当だろうか。

 

(つづく)