The world is my oyster.

 

 はじめて文芸誌にエッセイが掲載されることになったとき、「著者プロフィールの最後にちょっとした一言ください」と言われ、小洒落た趣味もないし、おふざけに走る度胸もなかったので、無難に好きな食べ物を書いた。「好物は牡蠣と日本酒」という文言はそのまま書籍のプロフィール欄にも使用され、それに倣ってか、他媒体のプロフィールにもあらかじめ組み込まれるようになり、半ば成り行きで各方面に牡蠣好きをアピールしまくる現状となっている。

 もっとも、身内の間ではとうに知れ渡っていたようで、数年前に東京へ転居する際、送別会を開いてくれた友人たちからデカさの割に軽すぎる包みを渡され開けてみると、現れたのは大きな牡蠣のぬいぐるみだった。黒いひだや貝柱まで表現された絶妙にリアルな作りのそれは、以前ネットで見かけて買うかどうか真剣に悩んだ品だったので、「えっ! これめちゃくちゃ欲しかったやつ!」と思わず声を上げ、柄にもなくぬいぐるみをムギュウと抱いて喜びを露わにしたところ、完全にウケ狙いのつもりだったらしい友人たちはちょっとざわついていた。牡蠣のぬいぐるみがニーズを的確に捉えることなど通常は起こり得ない。

 そういえば、牡蠣によって身バレしたこともある。SNSでも牡蠣を食べたとか食べたいとかよく書いているのだが、新しい職場の飲み会にはじめて参加した日、社員の一人から「僕、長瀬さんのアカウント知ってます。フォローしてます」と言われ、驚いて椅子から転げ落ちそうになった。「もしかして? と思うポイントはいくつかあったんですけど、最後の決め手は牡蠣でした」とのことだった。私は職場のチャットのアイコンも牡蠣にしている。

 

 牡蠣を好きになったのは大学時代である。居酒屋に出入りするようになり、酒を飲ませることを目的とした飲食店ならではの味覚が、私の食文化にビッグバンを巻き起こした。生牡蠣はその象徴的存在である。食べた瞬間、未だかつて味わったことのない凝縮された海が口の中で炸裂した。それからは牡蠣という文字を見ただけで興奮する体質となり、やがて世の中には2種類のお品書きしかないと思うようになった。牡蠣があるお品書きと牡蠣がないお品書きである。

 就職してからもおいしい店を開拓するなどしてますます牡蠣を食べまくっていたが、ある日、ふと危機感を覚えた。私は牡蠣について何も知らない。こんなに牡蠣が好きなのに、うんちくのひとつも語れないのでは格好がつかないではないか。というわけで早速、「牡蠣」という漢字を紙に書いて練習したり、ネットでいろいろ調べてみたりした。そして辿り着いたのが、「オイスターマイスター」という検定のページである。「牡蠣検定に合格して、ジュニアオイスターマイスターになろう!」と書いてあった。どうやらウェブ上で受けられる検定らしいのだが、こう言っちゃなんだが、公式サイトがわりと素朴というか、手作り感のある佇まいだったので、検定と言いつつ、楽しく学べるクイズみたいなものであろうと思い、軽い気持ちでスタートボタンをクリックした。問題は牡蠣の産地や種類、生態、養殖方法、牡蠣に合うお酒のことなど幅広く出題され、何の知識もない私にとっては想像以上に難しい内容だった。8割正解で合格と書いてあったが、まるで届かない。せっかくなら合格してみたくなり、間違った問題を復習しながら繰り返し挑戦すること小一時間。ついに合格点を叩き出したが、無邪気に喜ぶ私の目に飛び込んできたのは、認定料の振込先であった。完全に遊び感覚だったのでたじろいだ。認定料は数千円で、決して高額というわけではないが、当時の私は薄給な上に酒を飲みすぎるせいで毎月口座残高が三桁になるほど金欠だったため、とてもじゃないがジュニアオイスターマイスターに認定されている場合ではなかった。私は潔く画面を閉じ、この件についてすっかり忘れ去ったのであった。

 それから数ヶ月ほど経った頃、知らない番号から電話がかかってきた。

「こちら、オイスターズジャパンと申します」

 まったくピンと来ず、「はあ」と不審な電話に対する応答をしたが、「この度はジュニアオイスターマイスターの検定試験をお受けいただきましてありがとうございます」と言われて、あの牡蠣クイズに熱中した時間が瞬時に蘇った。

「ぜひジュニアオイスターマイスターに認定させていただきたいのですが、いかがですか? 認定料をお振込いただければ認定証とバッジをお送りいたしますが……」

 なぜかあちらも申し訳なさそうな口調だったが、ろくに説明も読まず安易に牡蠣クイズに合格した私が悪い。認定される気もないのに、なぜか電話番号まで入力していたのだからさらに迂闊である。私は慌てふためき、平謝りして丁重にお断りした。先方からすれば、ジュニアオイスターマイスターを志したわけでもないのに合格水準まで根気強くクイズに挑戦し続けた謎の勉強家である。オイスター界の未来を担う存在として期待されていたとしたら誠に申し訳ない。

 

 さて、牡蠣が好きだと話すと決まって「あたったことある?」と聞かれる。「あるよ」と答えると、「えっ、あたったことあるのによく食べられるね」とぎょっとされがちである。牡蠣にあたるというのはほとんどの場合ノロウィルス感染のことを指し、そのあまりに過酷な症状がトラウマとなって、牡蠣を閉じる者も少なくない(「牡蠣を閉じる」とは「筆を折る」の牡蠣版と思っていただきたい)。

はじめてあたったのは、20代の終わり頃だった。近所の居酒屋で生牡蠣を食べた翌日、今まで感じたことのない急激な腹痛に見舞われ、夜中に目が覚めた。全身から水分という水分が放出され、翌朝には病院で点滴する事態になるなど、わりと重症であった。想像を絶する辛さだったのは確かだが、納得もしていた。私はこれまで常人の数倍は生牡蠣を食べてきたはずなので、今まであたらなかったのがむしろ凄い。ついに順番が回ってきたのだと思った。

 それからまたしばらくあたらない日々を過ごしていたが、今年に入って久しぶりにこれはたぶんそうだなという腹痛に見舞われた。前回と比べれば大したことはなかったが、一応病院に行っておくかと思い、近所の内科に前もってノロかもしれない旨を連絡してみると、ちょうどインフルエンザ大流行の真っ只中で混み合っていたらしく、「来てもらっても薬を出すくらいしかできませんが……」とあんまり来ないで欲しそうな雰囲気を醸し出された。高熱で苦しむ子供たちが殺到しているこの一大事に、私のような自業自得系患者の相手をしている場合ではなかろう。生牡蠣で勝手に腹を下した愚かな大人は自宅で勝手に療養することにしたが、ベッドで丸まり、腹痛に耐えながら抱いていたのがあの日もらった牡蠣のぬいぐるみであったことは、我ながら異常な光景だったと思う。

 ノロを憎んで牡蠣を憎まずの精神ではあるが、生牡蠣のリスキーな一面を身をもって体験してからは、大切な予定の前や仕事が立て込んでいる時期は食べるのを自重するようになった。しかしそれによって、牡蠣という食べ物の格が一段階上がったようにも感じる。条件が揃ったときだけ食べられる好物として、より一層、他の好物とは一線を画す存在になった。会えない日々が愛を育てるというが、食えない日々が牡蠣をさらに特別なものにしている。

 

“The world is my oyster.”という英語の慣用句がある。シェイクスピアの喜劇『ウィンザーの陽気な女房たち』に登場する台詞が由来で、直訳すると「世界は私の牡蠣だ」となるが、牡蠣は殻をこじ開けさえすれば中身を手に入れられることから、「自分の行動次第で望みは叶う。世界は私の思いのままである」というような意味を持つらしい。このフレーズを知ったとき、私は思わず息を呑み、これを座右の銘にしようと決めた。

 牡蠣を目の前にすると、気持ちが昂ると同時に独特の緊張感を覚える。海の生き物の中身そのままの、あの異常なまでのうまみの塊は、その濃厚さの中に静かな不安をはらんでいる。一口食べた次の瞬間には、もしかしたら嫌いになっているのではないか。そう思わせる怖さが微かにある。それはどこか、人生を一歩踏み出すときの怖さに似ている。そして、牡蠣を食べたときにだけ、みなぎる力がある。つるんと頬張ると、世界は私の思いのままだと、確かに思う。だからなのか、私が牡蠣を食べたくなるのは、何かに追われていたり、行き詰まったりしているときが多い気がする。牡蠣をまるごと飲み込むように、自分の世界を支配したい。そんな願望が、私を牡蠣に走らせているのかもしれない。

 今もこれを書きながらとてつもなく牡蠣が食べたくなっているわけだが、今週はとても忙しいので生牡蠣は自重せねばなるまい。時に用心深く、時に欲望に負けながら、私はこれからもきっと牡蠣を閉じることはないであろう。