恩をパテで返す
大学に入ってすぐ、川上さんと出会った。同じ専攻の、一つ上の先輩だった。年齢も一つ上だが、他の先輩から「こいつ、5浪だよ」と言われて素直に信じてしまうくらい、フレッシュさに欠ける見た目をしていた。
1年生からゼミがある大学で、私は川上さんと同じゼミに所属することになった。あの頃の川上さんは学園祭のステージでブリーフ一丁で司会をするなどしており、学内ではちょっとした有名人だった。総じて言うと「面白い人」なのだが、底抜けに明るいという感じでもなく、他人とどこか一線引いているような、何を考えているか摑みにくいところがあった。学園祭にやってきたお笑い芸人のネタを体育館で見ている時、周囲が大爆笑の中、少し離れたところにいた川上さんをふと見ると、全然笑っていなかった。さすがに尖りすぎでは、と思った。でも、川上さんの家で宅飲みをした日、かろうじて酔い潰れていなかった数名で「すべらない話」を披露する流れになって、ある先輩が「日本ツマ協会」という刺身のツマの国内流通を牛耳る架空の団体の成り立ちとその変遷について小一時間語ったあと、私が自宅を半焼させた祖母の話をすると、川上さんは腹を抱えて笑ってくれた。それが震えるほど嬉しかったのを覚えている。
卒業後、川上さんは水産関係の会社に就職し、札幌で働いていた。一年遅れて卒業した私も実家を出て札幌で働きはじめ、教育大学を卒業したのに教員にならなかった少数派同士ということもあってか、学生時代よりも頻繁に飲みに行くようになった。営業職で接待も多かった川上さんはすすきのを熟知しており、いつもうまい店に連れて行ってくれて、必ず奢ってくれた。薄給の事務員だった私はそれをいいことに、給料日前になると川上さんに連絡し、「お金ないけどラーメン食べたいので奢ってください」などとストレートにたかっていた。
川上さんとすすきので飲み歩いた日々が、私の食い道楽に拍車をかけたのは間違いない。両面を10秒だけ焼いて食べられるジンギスカンや、フローズンマッコリが甕で出てくる焼肉屋など、川上さんに連れられて初めて食べたり飲んだりしたものは数え切れない。夜中の3時までやっているちゃんぽんの店を教えてくれたのも川上さんで、私はそれからすっかり〆ラーメン派から〆ちゃんぽん派に宗旨替えしてしまった。
一方、その独特なグルメ観に困惑することも少なくなかった。
たとえば、「ここのカルビ丼が最高なんよ」と言われてついて行ったら、「メシの温度、絶妙だと思わん? 熱すぎず、冷めすぎず、こう、ガッとかき込むことを考えての温度だと思うわけよ」と、終始カルビ丼のメシ部分を褒めちぎっていた。
とある老舗大衆酒場に行った時は、「この店のすごいところはな、卓上に味の素が置いてあんのよ。普通、隠すだろ。それをこんな堂々と置いて、マジですごすぎる」と熱弁し、だし巻き卵に味の素をアホほど振りかけて、「こんなの、うまいに、決まってんだろ」と爆笑しながら食べていた(ちなみにこの店は日本酒を頼むたびにおつまみがついてくる。そっちの方がすごい)。
「昼飯食いに行こう」とだけ言われ、車で迎えに来てくれたと思ったら、郊外の公園で炭をおこしてバーベキューがはじまったこともあった。「新しい火おこし機を買ったから使ってみたかった」とのことだった。ハンバーグ寿司にハマったと言い出し、市内の回転寿司を食べ歩いていたこともあった。ハンバーグとシャリは分けて食べるのがいいらしい。それは果たして寿司なのか。
ある日、川上さんの仕事が終わるのを立ち飲み屋で待っていると、「出張で来たので、おすすめの店を教えてほしい」と隣の人に話しかけられた。「これから歩く食べログが来るのでその人に聞くといいですよ」と答えたあと、すぐに歩く食べログが到着し、歳が近かったこともあって意気投合した我々3人は近場の居酒屋へ移動して、大いに盛り上がった。
「今、うちの冷蔵庫に仕事関係で手に入れたいくらが大量にあって困ってるんですよ。食べに来てくださいよ!」
そう言って、川上さんがゆきずりの人を週末自宅に招く運びとなり、いくらに釣られた私も参加することになった。
当日、川上さんの家に行くと、本当にいくらが大量にあった。大喜びしたのも束の間、とんでもないことが判明する。あろうことか、米を炊いていないと言うのだ。いくらを食べるのに白米がないなんてこと、あっていいはずがない。たぶん、ゆきずりの人もそう思ったに違いないが、あとから聞いたところによると、それ以上に、壺を買わされるような事態になるのではという恐怖に怯えていたらしい。男女コンビ詐欺師の疑惑。壺もないし米もない。川上さんは文句タラタラな私を「ほら、カレイの刺身もあるから。これで配色同じだから大丈夫」などと意味不明な理論であしらった。いくらとカレイをつまみに3人でちびちびと酒を飲んだ。前回ほどには盛り上がらない。川上さんは、「な? いくらって世の中でかなり持て囃されてるけど、意外とたくさん食えないだろ?」と、なぜか勝ち誇るように言った。
「俺、魚よりお肉が好き。本当はお肉を売りたい」
いつもそうぼやいていた川上さんだったが、私にはとても仕事熱心に見えた。飲んでいる間もしょっちゅう電話がかかってきて、「トキシラズが何トン……」などと大漁の取引をこなしていた。大学時代は古着を好んでいたが、すっかりスーツが馴染んでおり、多少の文句を言いながらも、すでに自分なりの仕事観のようなものが確立されている雰囲気があった。一方、私はというと、今の自分はあくまでも仮で、本当はもっとすごいことがやれるに違いないと思いつつ、口座の残高を気にしながら飲み歩き、現状に満足している顔をして、本当にこのまま満足してしまいそうな自分に焦りを覚えながら、もっと鮮烈な何かが巻き起こることをいつも期待していた。
昔はあまり人を褒めない印象だった川上さんが、歳を重ねるごとに、「おまえは面白い」とか、「ワードセンスがある」などと、逐一褒めてくれるようになった。でも、私はそれがどうもむず痒くて、「川上さん、営業っぽいこと言うようになりましたよね」と可愛げなく返した。学園祭のお笑い芸人にぴくりとも笑っていなかったあの日の川上さんが、どうしてもよぎるのだった。
川上さんとカラオケに行ったら、フラワーカンパニーズの『深夜高速』を一緒に歌うのが恒例だった。何百回と聴いてきたこの曲を、私はいつしか避けるようになっており、シャッフル再生でイントロが流れると慌てて飛ばしていた。聴けば強い衝動に駆られる一方、それでもなお何も変わろうとしない自分に、本気で失望してしまいそうで怖かった。が、川上さんとカラオケで歌うことは不思議と気楽にできた。川上さんだって、飄々と仕事をこなしながら、その裏に割り切れていない何かがあるのではないか。それこそ、同じ夜を探しているのではないか。そんな風に勝手に思って、ほんの少し安心できた。取引先との接待カラオケで絶対にウケるという川上さんオリジナルの『Get Wild』の変な合いの手を一緒にやらされるのは、正直勘弁してほしかったが。
川上さんは毎年、年度末になると、「今年は確実に転勤があるから」と言って、大学の同期や後輩を集めてお別れ会のような飲み会を開いていたが、いつまで経っても転勤にならず、閉店セールが終わらない店みたいになっていた。それでもある年、ついに転勤の辞令が下り、モテたくて買ったらしいエクストレイルも、モテたくて始めたらしいキャンプ用品もすべて売って、東京に行った。
川上さんが結婚したらしいと人伝に聞いたのは、それからしばらく経ってからのことだ。ほとんど誰にも報告していなかったようだが、その「ほとんど」に自分が入っていなかったことに、おこがましくも、それなりの不満を覚えた。「何か報告することはありませんかねえ?」とLINEしたら、「すまん、恥ずかしくて」というような返答だった。ブリーフ一丁で学園祭の司会をしていた人間が、何が恥ずかしくて、だ。
それからまた数年後、私も夫の転職で東京に引っ越すことになった。川上さんに伝えたら喜ぶに違いない。そう思いながら、なんとなく報告しないまま、東京に越してきた。結婚したのを教えてくれなかった仕返しのつもりが、少しばかりあった。
一ヶ月ほど経った頃、池袋の居酒屋で一人飲みながら、ふと、川上さんに連絡しようと思った。
「都民になりました」
唐突にLINEを送ると、川上さんからすぐに返事がきた。夫が転職したことや、住んでいる場所などを諸々説明した。
「嬉しすぎるんだけど」
ああ、これは本当に嬉しすぎるんだろうなと、営業のアレではないなと、なんとなくわかった。
「最近、公園でワイン飲むのにハマってるから行こう。桜はもう散って、見るのは木だけど」
「いいですね、木を見ましょう」
木見の当日、夫と共に初めて代々木公園を訪れた。川上さんからは、「何も用意はいらない。ワインとパンを買って行くから任せろ」と言われていた。私は、川上さんがパンを買って行くと言ったらそれは本当にパンだけで、他につまみは何もないのであろうと察した。いくらがあると言われて本当にいくらしかなかった経験が活きている。その頃の私はハンドブレンダーを手に入れ、店ではありえない量のレバーパテを自作するというブームがあったので、それを持参することにした。パンにのせればワインのつまみには最適であろう。奥さんと一緒に現れた川上さんは、やっぱりパンしか買っていなかった。
それからは毎年、桜が散った頃に川上さんから木見の誘いがあり、「レバーのやつお願いします」とリクエストされる。前日の夜にレバーパテをせっせとこしらえて持っていくと、川上さんはいつもすごく喜んで、「これマジでうまいわ」と何度も繰り返し、ほとんど一人で食べる。私は何でもないような顔をしながら、「一番簡単なレシピのやつなんですけどね」と、照れ隠しでしかない情報を添える。
数えてみるとびっくりするくらい、月日が流れた。変わったことがたくさんある。すすきののど真ん中には映画館の入ったビルが建ったし、川上さんが齢80近い女将さんのことを「お姉さん」と呼んでいたカツのうまい居酒屋は閉店した。私が川上さんにファーストアルバムを貸したバンド「忘れらんねえよ」はいつのまにかソロプロジェクトになったし、ピロウズは解散した。川上さんは東京の商社に転職し、畜産にかかわる部署に配属され、日本全国の豚に会いにいく日々を送っている。川上さんと同じ代の先輩には、副校長になった人もいる。なんたって川上さんは今、毛利小五郎と同い年である。そして、私もじきに小五郎である。結婚もした。住む場所も変わった。でも、こうして川上さんと酒を飲んでいることは変わっていない。フラカンもまだ『深夜高速』を歌っている。
私がはじめて本を出した時、川上さんは何冊も買って周りに配ってくれた。
「俺、恥ずかしいわ。おまえにワードセンスあるとか言ってたの」
眉間に皺を寄せて、そんなことを言う。
「いやいや、川上さんに鍛えてもらったんですよ。やっぱり、学園祭にきた芸人で一切笑わない人はセンスが違います」
「絶対そんなことないから。普通に笑ってたから」
この件については、頑なに認めようとしない。でも、川上さんがあの夜笑ってくれた自宅を半焼させた祖母の話を、今はたくさんの人が読んで笑ってくれている。
だから、私は今年もせっせとレバーパテを作る。世にも珍しい、恩をパテで返す後輩。
いつまでもあなたの後輩として、青春ごっこを続けさせてほしい。