考えなくてもいいのです。迷わなくてもいいのです。ただ、毎日、革命政府の理念に反しているように見える人間を探し、捕縛させて形骸化しつつある裁判にかけ、有罪判決が下されたら、死刑執行令状に署名をする。それだけです。
公訴官の職務に処刑への立ち会いは規定されておりませんでしたから、私は処刑を見学することさえ滅多にしませんでした。
迷いを捨てた私にとって、ギロチンとは、住居の使用人に乞われて買い与えた、使いやすい箒と変わりのない存在でした。たまに所用で街中に馬車を向けると、広場に人だかりができており、ああ、今日はこの場所で処刑だったなと思い出す程度の関心しか払っていませんでした。
ある日のこと、私は久しぶりにギロチンと出くわしました。街外れの冴えない広場です。その日の首斬り装置は、地面に直接置いてありました。
ギロチンの本場であるパリにおいては、基本的に十段ほどの階段が用意されている処刑台を設け、その上にギロチンを建てる慣例になっているようですが、地方では処刑台を省略する場合もありました。
広場にはまだ、死刑囚も処刑人も姿を見せないのに、ギロチンの足元にある土は、赤黒く変色しておりました。
「あれは、前回の血だまりだな」
人だかりの中で、常連の見物人らしき男が、それらしい理屈を語っています。
「若ければ若いほど、血の赤は鮮やかなんだ。歳を取ると、脂肪や老廃物が混ざって、黄色い汁が混ざってくる……酒や肉の仕業だな。当然、同じ年代でも、暮らしぶりや食生活で血の色は変わる。だから同じ場所で処刑を繰り返したら、大体何度目なのか、血だまりを見たらわかる。うっすらとな、血だまりの中に、年輪みたいな模様ができているんだよ」
「知ってる? 水色の汁の話」
少し離れたところで、別の声が囁きました。
「人間の脊椎の中にはさ、血液とはちがう液体も流れているらしいよ。頸動脈のすぐ隣にある管には、青空みたいな鮮やかな水色の汁が通ってるんだって。これはさ、血液に混ざると溶けてしまうから、処刑場の血だまりを眺めても見つからない。でもね、あるとき、最前列で見物していた男の顔が、水色に染まっていたそうだよ。そいつはその日のうちに、熱病で死んだってさ」
「首が斬られるとき、たまーに変な音がするって話もあるよなあ」
さらに別の声が、脳天気に叫びます。
「よく聞こえる音は、どざっ、とか、ざあっ、とか、鈍い響きだ。ペラペラの刃で切り裂くんじゃなく、錘を付けた刃で『斬り砕く』のだから、そういう音がするのは当然だ。でも、ごくごく希に、『きゅうっ』って、カエルが潰れるような音が鳴るんだってよ。それは何かっていうと、首筋にできものがある場合らしい。できものの中が空洞だったら、そこを切り裂かれたとき、革袋が破れるみたいな音色になるんだとよ」
血の色、水色の汁。斬首の音。
私はすぐに自宅へ戻り、嘔吐しました。
ただの噂なのか、真実なのか。真偽は問題ではなかった。見物人達の口から語られる生々しい言葉が、気づかない振りをしていた血の香りを甦らせ、私の中へ吹き込んできたからです。
もはや、偽ることは難しかった。私が罪人を「発見」しなければ、彼らの血は年輪を作らず、水色の汁も飛び散らず、首が「きゅうっ」と鳴きはしなかった。
それからの私は、悪夢にうなされるようになりました。夢の中の私は、血だまりの中で、死刑執行令状への署名を繰り返しています。周囲には数え切れないほどのギロチンが立ち並び、死刑執行人が操作をする前から、何度も刃が落ち、首が落ち、刃が上がり、新しい死刑囚が連れてこられます。首が落ち、刃が上がり、新しい首がやってきて、刃が落ち、首も落ちる。
たまりたまった血だまりは、ぬるぬるとひとりでに動き出し、巨大な蛇のようにのたくり回り、側に居た私を弾き飛ばします。
吹き飛んだ私はギロチンの下へすっぽりと収まり、頭上に光る刃を見て恐怖しました。刃はひとりでにゆっくり下降を始め、次の瞬間、私は脂汗と一緒に目覚めるのでした。
私は孤独でした。同じ思いを抱いているだろう同輩は、生首の数を競う敵でもあるため、心を許せません。部下も私を恐れて、必要な報告をする際を除いて近寄ってきません。
次第に、私は大衆を軽蔑するようになりました。私は誰かがやらなければならない仕事を引き受けてやっているはずなのに、彼らときたら、街中で私を見かけるとそそくさと立ち去ってしまうからです。
同時に、自分自身を過大評価するようになりました。世のため革命のために、心を鬼にして、したくもない署名を死刑執行令状にし続けているこの私は、後世において賞賛を浴びることは間違いないはずで、世界的な偉人の一人と定義しても差し支えありません。
それなのに、偉人たる私は罪の意識に苛まれ、処刑の悪夢に苦しんでいる。
あまりにもかわいそうではないか。誰か、私に褒美を与えるべきだ。
誰からも褒美が届かないのなら――自分で与えるしかない。しかし、私は何を求めていたのだろう? 何が手に入ったら、心安らかでいられるのだろうか。
思い悩む私の脳裏に浮かび上がったのは、青春の日々に恋い焦がれた、ある美しい娘の姿でした。
先にお伝えしたように、私の父親は愛書家でしたが蔵書を独占することはなく、知識欲が旺盛な人々に気前よく貸し与え、また書庫自体の使用も許しておりました。彼らに知識をわかりやすい形で伝えるため、書庫の一角に展示室を作る準備もしていたくらいです。
我が家には貧しくも学習意欲に満ちあふれた人々が頻繁に顔を出すようになり、私は、その中の、とある学者の娘に恋心を抱くようになりました。
ショセというその娘は、華奢な肩の上を流れ落ちる亜麻色の髪が大変美しく、少年時代の私の胸中は、あの髪に触れることができたら死んでも構わないと思うほどにかき乱されておりました。
初恋というものは、空しく砕け散るものです。
ショセをかっさらっていったのは、彼女と同い年、私より一つ年下の、作家の息子でした。この少年は、私の父親のお気に入りでもありました。信じられないくらいの速読家で、書庫の書物を、通い始めてから半年足らずで読み終えてしまったくらいです。愛書家にとって、読了済みの本について語り合える相手の存在は嬉しいものらしく、父はすっかりこの少年に惚れ込みました。ショセも少年ほどではないにしても読む速度が速く、やはり父に気に入られていました。
そのためショセと少年の間に、双方の家から婚姻の話が持ち出されたとき、父親は大喜びして、高価な記念品を買い与えたくらいでした。
私にとっては歓迎できるはずがない展開でした。なんとか両家を説得して婚約を取り消してもらえないかと父親に懇願したのですが、返ってきた答えは、冷淡なものでした。
「お前じゃ、あの娘には釣り合わんだろう」
その言葉は、少年時代の私を深く傷付けました。私はショセや少年に比べると勉強熱心ではなく、読書といっても最低限読めと言われていた書物にいやいや目を通す程度で、父親の書庫にもあまり近づきませんでした。父親にとっては、かわいくない息子であり、もしかしたら少年やショセのような子供こそ望ましかったのかもしれません。
「それにな、あの二人は、今でこそ裕福とは言えない暮らしぶりのようだが、家は貴族の流れをくむ名家なんだよ。そういう意味でも、お前は釣り合わない」
私は涙を呑んで彼女を諦め、その後、父が急逝したことから書庫も閉鎖してしまったため、二人とは疎遠になりました。その後も独身生活を続けていたのはショセを意識していいたわけではなく、ただ、家庭生活に夢を持てなかっただけの話です。共通の知人から、数年前にショセの夫が病死したと聞いても、会いたいなどとは考えませんでした。
しかし、今だったら……
私はこの地方の誰であろうと書類一枚でギロチン送りにできる、王のような存在に上り詰めたのです。
「ショセを私の妻に迎えよう」
なぜ今の今に至るまで、こんな簡単な発想が浮かんでこなかったのだろう? 私は己の迂闊さに、苦笑を禁じ得ませんでした。
夫の死後、ショセは娘と共に実家に身を寄せていました。その実家を私が訪ねると、ショセは中庭で、イスに腰掛けて本を読んでいました。
「相変わらず、読書家なんだな」
少年に戻った錯覚を感じながら、私は四十近い寡婦に話しかけました。生活苦のためか、夫の死が胸を痛めたのか、かつての美少女の頬はこけ、美しい亜麻色の髪は色あせ傷んでおりましたが、私が愛したショセを形作っていた土台のようなものは失われていないように見受けられました。
しかし本から目を離し、私に向けられたその眼差しは、敵意と怒りに満ちたものでした。
「私が、何かしただろうか」
気圧されながら訊くと、初恋の人は唇の端を歪ませました。
「何もしていないと思っているの? あなたは、私たちの故郷を破壊している。あなたの作り出した死刑囚たちが、それまでこの街で、何の役割も持っていなかったとでも思っているの? 彼らはパン屋であり、洗濯婦であり、宿屋の主人だった……あの人達が消えて、この街は営みを失いつつある。あなたのせいよ。あなたは、恐ろしい人だわ」
「君の言うとおり、私のせいだろうね」
ショセの意向に逆らわないよう、私はなるべく慎重に言葉を探します。
「しかし、こうとも考えられるんじゃないか? その恐ろしい男が身内になったら、君も、周りの人たちも安泰だと」
目を見開くショセに、私は膝を折って結婚を申し込みました。
ショセが心の底から私の好意を受け入れてくれたわけではなく、明らかに私の権力を恐れて応じてくれたらしいという推測は、私の心を少なからず不快にさせました。それでも、思い直します。世の婚姻とは、基本的にそういうもので、夫婦の双方が乗り気になれる組み合わせなど、たいへん珍しいものです。
革命の完全な成就を目指して邁進する私の高潔さをショセが理解してくれたなら、ぬくもりに満ちた家庭が築かれるまでに、さほど時間は要しないことでしょう。
しかし婚姻の準備は、二日目で中断されました。
ショセやその親族と打ち合わせをするためにショセの実家を訪れた際、私ははじめて彼女の娘に会ったのです。
歳は、十六だと言いました。美しい亜麻色の髪を肩に垂らし、折れそうな肩は余りに儚げで、私は少年時代に恋い焦がれていたショセの姿を思い出しました。ショセを妻に迎えることは、少年時代に果たせなかった宝物を、多少形が変わったものであっても、手元に置いておきたいという発想から来る行為でした。
けれども今、目の前に現れた少女は、失った恋の幻想と全く同じ形をしていたのです。
誠実、という言葉の定義を何度も思い浮かべ、私は悩みました。悩んだ末に、自分が何のために伴侶を求めていたのかという問題に立ち返り、苦渋の決断を下します。私は、公訴官として人々をギロチン送りにしているという苦痛を和らげるため、褒美が欲しかったのです。ならば、それは調達できる限り、最も優良な品であるべきでした。
「ショセとの婚約を解消して、その娘を妻に迎えたい」
ショセの実家でそのように申し入れたとき、ショセは彫像のように動きを止め、娘の方はぶるぶると震え出しました。その場に居合わせた親族の面々は、皆、引きつった笑顔を浮かべています。無理もありません。私がショセや娘の家族なら、そんなふざけた申し出をした男を殴り飛ばしているでしょう。
しかしショセの一族からすれば、実際のところ、花嫁をショセにするか、娘にするかに大した違いはないのです。重要なのは、死刑執行令状に署名できる私を身内に引き入れる利点であり、その意味では、より若く、私を愉しませる機会が多いであろう娘の方が、花嫁として差し出すにはふさわしいとも言えましょう。ようするに、誰も今回の変更に異を唱えなかったのでした。
ショセの娘も、ショセも同じでした。申し出から数分程度で、ショセは強ばった表情を元に戻し、娘もけなげに震えを止めて、「承知いたしました」と言いました。